ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 湯浅のおもてなし 1

2014年11月20日 21時13分57秒 | ウォーキング

前回の歩行の終着点、湯浅の駅まで車で来ました。
ここから次の終着点である「紀伊内原」までは、
途中に電車への逃げ場がありません。
距離は約18キロあります。

普通なら十分歩ける距離なのですが、
紀伊路屈指の難所である鹿ヶ瀬峠を越えることと、
途中の見所の多さを考えたら
そんなに急ぎたくはありません。

さてどうしようかと、いろんな地図を見ていると、
7キロほど歩いたところにある
バス停のマークが目に入りました。



そこからバスで引き返したら、
残り11キロの区間と分割することができます。

そこで前回ちょっと歩いてみたかった
湯浅の街歩きを含めて
今回の歩行としてみようと思い立ったわけです。

まず、湯浅の駅前多目的広場で情報を仕入れます。



親切な係の女性が応対をしてくれました。

そこで、ダメもとで

「湯浅をあちこち回ろうと思ってるのですが、
車を停めておいていいですか?」
と聞いてみると
「ああ、夕方ここが閉まるまでに
帰ってこられるのならいいですよ」
とうれしいお言葉をいただきました。

素敵な湯浅の「お・も・て・な・し」ですねえ。

お言葉に甘え、そこから湯浅界隈の歩行を後にして、
一番の目的の熊野古道歩行にまず出発しました。

線路に沿って南下していきますと、
民家の軒下に道標が立っています。



そこを左に折れ、線路の下をくぐると、



右に昭和の匂いのする長屋が目に入ります。



時代が一気に昭和に戻ったような感じです。

そして左には「満願寺」。



なかなか御利益のありそうな名前ですねえ。



もう導き石はありませんが、
道の至る所に案内があります。





そしてこの道標には「すぐ勝楽寺」とあります。



この場合の「すぐ」は
すぐそこのすぐなんでしょう。

おお~こんなところにも温泉が・・・。



あちこちに温泉がありますね。
それはもしかして
「湯浅」の名前と関連があるのかな
とその時に思いました。
しかし帰って調べてみると
「湯浅」の名前の由来は温泉ではなく、
昔海がもっと内陸部まで入り込んでいて、
浅い海が広がる地形の状況を
「ゆあさ」といったそうです。

浅いと水温が高いからでしょうか。

いずれにしても、浅瀬に湯が湧く
といった意味ではなさそうです。

歩いていると、巨大なクスノキに出会いました。



さすがに古道沿いのお寺には
立派なクスノキがあるんやなあと見上げると・・・



寸詰まりでした。

あまり高いと住宅地の中にあって
落ち葉処理が大変なんでしょうかね。

そんなクスノキの先にあったのがこれ。



「紀伊国屋文左衛門の碑」です。
一代で財を築いた豪商として有名な文左衛門は、
ここ湯浅の出身でした。

前々回、橘本土橋から出ていた船便が、
海にそそぐところに
「船出の地」といわれるところがあると書きました。

あれこそが、紀伊国屋文左衛門が
豪商にのし上がるために
嵐の中に船出をした地だったのですね。

みかんが大阪で安く、
江戸で高いことに目をつけ、
嵐の海に漕ぎ出し大儲けをしたという伝説があります。

そんな彼の功績をたたえて
建てられたこの立派な石碑の建立に
尽力したのが、
和歌山市出身の
「松下幸之助」で、
この史跡の燈籠にも
しっかりと名前が刻まれていました。

と、ここで、先日の暗越奈良街道歩行の際に見た
「松下幸之助起業の地」の石碑を
思い出した方もおられるでしょう。

裸一貫から始め
改良ソケットを売りだし、
そこから財を成した彼もまた
商売の神様でした。

おお~、その横には石仏48です。



センターは小柄な五輪塔さんでした。

道は「止まれ」のところで



国道42号に一旦出ますが、
すぐさま対面の道に入っていきます。



そこが今回最初に訪ねた

「久米崎王子」に到着です。



続く