新橋通商店街は古くは映画館もあったり
寄席もあったりして、
心斎橋より栄えた商店街だったそうです。
いまはそんな面影もありませんが、
こんな古い豆腐屋さんなら
昔の話も語ってくれそうですし、
こんな本屋の親父も
店の奥からはたきで埃を払いながら
古い写真集なんかを出してきそうな、
そんな感じでした。
今里筋に出てなおも住宅街に入っていくと
古い赤レンガ倉庫がありました。
以前、この地域にはセルロイド工場が並んでいたそうで、
その名残です。
昔はセルロイドの精製に失敗して
爆発することが多かったため、
この煉瓦の建物も
爆風で飛びやすいように簡易な屋根で
作られていたそうです。
そんな事故が頻繁に起こったせいか、
この地域の人達の防火意識は高く、
防火バケツがいたるところに転がっておりました。
そして、さあいよいよ目的だった
「暗越奈良街道」に合流です。
この道は大阪から奈良を越え
伊勢まで続く道として、
主に江戸時代以降多くの人の往来で賑わったそうです。
多い時には一日7,8万人が往来したとか。
先日開催された大阪マラソンが
3万人のランナーでしたので、
あれの倍以上の人で賑わったとなると、
恐ろしい数ですね。
マラソンは応援していただけでも
人の波に酔うほどでしたが、
狭い街道をそれだけの人が歩くというのは、
途切れなく人の波が
押し寄せていたんでしょうねえ。
都市計画に沿って作られた道ではなく、
昔からの街道となると
道が微妙にくねっています。
長堀通に出ると道の向こうに続いている街道が見え、
その脇にある地下鉄の空気抜きの施設の横に
建っている道標が見えました。
これが有名な火袋式の道標です。
「左 なら いせ道」
「右 きしのだう くわんぜおん しぎさん 八尾 久宝寺 道」とあります。
もともとこの道標はすぐ近くを通る
北八尾街道との交差点にあったそうです。
左は奈良街道であることをあらわし、
右の「きしのだう」は今の喜志のことでしょう。
信貴山や久宝寺への道も案内しています。
当時は燈明も灯されて
旅人の安全を見守っていたのでしょう。
このあたりから道には「導き石」
(大阪市内は「しるべ石」と呼んでいるそうです)
が埋められています。
それを伝っていくと熊野大神宮を通ります。
伊勢詣での道ですが、
信仰深い人々の往来の脇には
ちゃんと「熊野」も鎮座しているんですね。
その熊野大神宮横の
聖徳太子が建立したといわれる
妙法寺の前には、
立派な石が二本立っていました。
ひとつは「聖観世音菩薩」と刻まれた石で
もう一つは
「ほうたがえふどう」と「おやこあんざん観音」と
刻まれています。
ここんとこ石に目の肥えた
doironが見ても立派な石でした。
またこのお寺には万葉集を現代語訳した
僧「契沖」の供養塔もあります。
そして、おお~、ついに姿を見せました。
「暗越奈良街道」の道標です。
「高麗橋から四.七キロメートル」とあります。
高麗橋といえば、
そうあの里程元標があるところです。
もともとこの街道は高麗橋が始点ではなく、
内安堂寺町なんですが、
距離感がわかりやすいように、
当時の道路表示の起点である
里程元標からの距離を刻んでいるようです。
これが、この街道名の入った道標との初対面でした。
そしてそのすぐ先の今里筋との交差点のところにある銀行の周りに、
各種説明板が建てられています。
この街道を奈良に向かって行った先には
「高井田」や「菱江」といった地名があります。
いずれも産土神を祀る延喜式内社がある地です。
そして暗峠を過ぎ、矢田丘陵の追分で、
土をなめた鑑真和上が「甘い」
といったことからつけられた「尼ヶ辻」という地名もあります。
遠い国から海を越え奈良に向かったこの道は、
そうあの「シルクロード」の最後の部分であったのです。
そのことが書かれた大きなパネルもそこにありました。
続く
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