ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 湯浅のおもてなし 2

2014年11月21日 21時40分05秒 | ウォーキング

熊野詣でを28回も行った後鳥羽上皇が、
鎌倉幕府に対し討幕の兵を挙げ、
破れたのが1221年。

いわゆる「承久の乱」です。

破れた後鳥羽上皇は
隠岐の島に配流されたと歴史は伝えています。
それ以後、各地にあった王子は
荒廃の一途をたどり、
この久米崎王子も例外ではなく
鎌倉幕府が再興を指示したのですが
それもかなわず、江戸時代まで荒廃していた王子のひとつでした。

説明書きによりますと
いっときは跡形もなくなっていたそうですが、
紀州藩に再興され、
結局今は跡地だけが残っている
というのがこの場所だと書かれてありました。

しかし、はたとここで考えてしまいました。

上皇たちが熊野御幸を行わなくなっても、
権力の外にいた庶民の熊野詣は続いていたはずです。
でなければ、熊野そのものも
荒廃したはずですからね。

ということは庶民にとって、
この「王子社」はあまり重要ではなかった
といえるということなんですね。

そんな王子ですが、
今は歴史の証人として、
立派な石碑も建てられてあります。





道を少し戻って42号線を少し歩くと、
「新広橋」に出て左折し、

ここからしばらく川沿いに歩いていくことになります。



おお~ここにも石仏48があります。



いやいややはりここは「モーニング石仏」というべきか。
横には三界万霊と刻まれた石も立っているので
無縁仏の石たちなんでしょう。
とにかく熊野古道を旅ゆく人に
供養をしてもらおうということで、
古道沿いに置かれているんでしょう。
罰が当たらないように
合掌して通りましょう。

この分岐では旧道に入っていきます。
果樹園の間を通るのどかな道です。

これは、多分「ゆず」の仲間でしょう。





傷がつくと保管時に腐れやすいので、
一つひとつ布がかぶせられています。

名島橋は渡らずにさらに川沿いを進んでいきます。





川沿いとはいえ、
山の地形に合わせて道は登ったり、
下ったりを繰り返します。



これはなかなかいい景色です。



あまり展望スポットのない今回の区間ですから、
今回はこれをベストシーンに認定しておきましょう。

山の稜線にずらっと風力発電のある
この景色も捨てがいたのですが、
これは前回ずっと眺めていた景色です。

と、ここで道標発見。



「左不動弘法大師道」と刻まれていますが、
左にそんな不動さんはありません。

もしかして、高野山への参詣道?
それはわざわざ山越えで無理がありますねえ。
よくわかりませんでした。

頬にあたる風にはもう
あのまとわりつくような
夏の暑さはまったくありません。

それどころか広川に沿って流れる風の中には
冬の気配さえ感じるような気候になっています。

道端に咲く花々や、
山々の景色が移り変わるさまを
今年はまざまざと見てきました。

その先の新柳瀬橋にさしかかると、



ここに釣り人が竿を出していました。



「何が釣れるんですか?」
と聞くと「鮎やな」と答えてくれました。

クーラーボックスを覗かせてもらうと、



おお~立派な飴色の鮎です。
まだピチピチとはねていました。

このままここで塩焼きをしたいほどです。



「落ち鮎なんで色は悪いけどなあ」
と説明してくれました。
見ると、鮎はたいてい友鮎釣りが多いのですが、
この人の竿の先に何もついてません。

「ひっかけ釣り」やで~

と言ってました。
「欲しいだけ持っていき」といわれたら
即座にここで歩行をやめて
もらって帰るところでしたが、
さすがにそんな
「お・も・て・な・し」のお言葉はいただけませんでした。

で、歩き始めてふと思ったのですが、
入漁権はどうなっているのでしょうか。
これをネタに口止め料代わりに、アユを・・・
ま、ここは深く追及しないでおきましょう。

さあ、次のかなり珍しいところにあるという
津兼王子を目指しましょう。

続く。