もうここまで来たら残りすべての丁石を確認しておきましょう。
と、その前にこのあたりの石の道は
かなり割れていることに気がつきました。
これはあの阪神淡路大震災の痕跡なんでしょうかね。
いろんな方向にクラックが走っていましたから。
単なる自然崩壊ではないような気がします。
上から見下ろす神戸の街は、
あの時の地震の痕跡など
みじんも感じさせないほど復興していましたが、
やはり当時の爪痕は
よく見れば各地に残っているのかもしれません。
この砂防ダムには、まだ柔らかそうな
土砂がたまっていて底なし沼状態になっているようです。
看板にも、思い切ったルビがふられていました。
七丁石を過ぎたところで、
川に転がる大石に梵字が刻まれていました。
これは「サ」を表すそうです。
いわゆる観音様の化身であります。
おお、この区間では結構標高を稼ぎました。
こちらもちょっと面白い標識ですね。
「標高石」と名付けてあげましょう。
ここの丁石は順番からいけば
「六丁」のはずなんですが、
ほとんど下の部分が埋もれています。
掘り起こそうと思っても、
固い岩と共に埋まっていて見ることができません。
でも刻まれた数字の上だけ見ても
「六」とは思えません。
もしかしたらこれが「五丁」で
「六丁」を見逃したかもしれません。
おお~、やはり次に現れたのが「四丁」ですから、
見落としたということなんでしょう。
では次は三丁のはず・・・あれ?
また四丁です。
う~ん、どういうこっちゃねん。
と突っ込んでしまいました。
色々と事情がおありなんでしょう。
その四丁石の立っていたのが池のふちでした。
猩々池です。
水不足に悩む村人たちが
苦難の末にここに貯水池を作り、
完成時に猩猩の謡曲で
代官を迎えたことからその名がついたとのことです。
ちなみに「猩々」とは中国の想像上の妖精で、
顔は人、体は猿、声は小児のごとく、
赤ら顔で酒を好むとされています。
と書けば、「doironじゃん!」
と言う声が聞こえてきそうですが・・・。
ここで歩き始めてほぼ2時間。
池のほとりにベンチとテーブルが
ありましたのでちょうどお昼にしましょう。
今日の昼食はこれ。
この日の同行者のジム友さんは
お箸を忘れたので、
こんなお箸で食べていました。
ワイルドだろ~。
それにしても、外でいただくこういう食事は
何よりのごちそうじゃな。
食事を摂っていても、
高齢者や山ガールや山ジイサン達が
平日にもかかわらず次々と歩いてこられ、
さすがに毎日登山発祥の地
といわれるだけの賑わいを見せていました。
小一時間休憩をして、
あともう少しの再度山を目指します。
猩々池を右に見ながら緩やかに登って行きますと、
池の上流あたりにこんな石碑が立っていました。
この池を造成した事業をたたえる
「荒井公鹿」という人の詩文を刻んであるそうです。
まったく読めませんでした。
その先で、計画では右折して
山に入っていく予定だったのですが、
ここまで丁石を数えながら歩いてきたのですから
せっかくなのですべてを数えてみようと
コースを変更して歩きました。
おっ、こんなところにカフェがあります。
その名も「はなれ家」。
う~ん、確かに離れています。
そして無事に三丁石も発見。
残る丁石はあと二つです。
ここから再度公園までは石段が続きます。
その途中に二丁石が立ち、
公園の広場にでる直前に
最後の一丁石がありました。
登り始めには全く思っていなかった
丁石めぐりでしたが、無事に終了です。
六甲全山縦走のコースとはここで交わります。
doironが全山縦走を最初に行ったのは、
高校生の頃でした。
まだ山登りのなんたるかもよくわからないまま
親父に何度も連れられて行った六甲を、
自分一人で征服してやろうという
気合があったのをうっすら覚えています。
もう今から40年以上前ですね。
そして直近でも、ある大会で走っています。
でもそれでももう10年は経っているでしょう。
その時もここを走っているはずなんですが、
残念ながら記憶はないですねえ。
よほど周りを見ずに走っていたということですな。
でも最近の山登りは
こうして記録もつけているので、
しっかり記憶に残るでしょう。
大竜寺の山門で一礼をして
さあ、ここから次は新神戸を目指して下山です。
続く