ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

ふたたび再度山へ 3

2014年11月17日 21時38分10秒 | ウォーキング

もうここまで来たら残りすべての丁石を確認しておきましょう。

と、その前にこのあたりの石の道は
かなり割れていることに気がつきました。



これはあの阪神淡路大震災の痕跡なんでしょうかね。
いろんな方向にクラックが走っていましたから。
単なる自然崩壊ではないような気がします。

上から見下ろす神戸の街は、
あの時の地震の痕跡など
みじんも感じさせないほど復興していましたが、
やはり当時の爪痕は
よく見れば各地に残っているのかもしれません。

この砂防ダムには、まだ柔らかそうな
土砂がたまっていて底なし沼状態になっているようです。



看板にも、思い切ったルビがふられていました。



七丁石を過ぎたところで、



川に転がる大石に梵字が刻まれていました。



これは「サ」を表すそうです。
いわゆる観音様の化身であります。

おお、この区間では結構標高を稼ぎました。



こちらもちょっと面白い標識ですね。
「標高石」と名付けてあげましょう。

ここの丁石は順番からいけば
「六丁」のはずなんですが、



ほとんど下の部分が埋もれています。
掘り起こそうと思っても、
固い岩と共に埋まっていて見ることができません。

でも刻まれた数字の上だけ見ても
「六」とは思えません。
もしかしたらこれが「五丁」で
「六丁」を見逃したかもしれません。

おお~、やはり次に現れたのが「四丁」ですから、



見落としたということなんでしょう。

では次は三丁のはず・・・あれ?
また四丁です。



う~ん、どういうこっちゃねん。
と突っ込んでしまいました。
色々と事情がおありなんでしょう。

その四丁石の立っていたのが池のふちでした。



猩々池です。

水不足に悩む村人たちが
苦難の末にここに貯水池を作り、
完成時に猩猩の謡曲で
代官を迎えたことからその名がついたとのことです。

ちなみに「猩々」とは中国の想像上の妖精で、
顔は人、体は猿、声は小児のごとく、
赤ら顔で酒を好むとされています。

と書けば、「doironじゃん!」

と言う声が聞こえてきそうですが・・・。

ここで歩き始めてほぼ2時間。
池のほとりにベンチとテーブルが
ありましたのでちょうどお昼にしましょう。

今日の昼食はこれ。



この日の同行者のジム友さんは
お箸を忘れたので、
こんなお箸で食べていました。



ワイルドだろ~。

それにしても、外でいただくこういう食事は
何よりのごちそうじゃな。

食事を摂っていても、
高齢者や山ガールや山ジイサン達が
平日にもかかわらず次々と歩いてこられ、
さすがに毎日登山発祥の地
といわれるだけの賑わいを見せていました。

小一時間休憩をして、
あともう少しの再度山を目指します。

猩々池を右に見ながら緩やかに登って行きますと、
池の上流あたりにこんな石碑が立っていました。



この池を造成した事業をたたえる
「荒井公鹿」という人の詩文を刻んであるそうです。

まったく読めませんでした。

その先で、計画では右折して
山に入っていく予定だったのですが、
ここまで丁石を数えながら歩いてきたのですから
せっかくなのですべてを数えてみようと
コースを変更して歩きました。

おっ、こんなところにカフェがあります。



その名も「はなれ家」。
う~ん、確かに離れています。

そして無事に三丁石も発見。



残る丁石はあと二つです。

ここから再度公園までは石段が続きます。
その途中に二丁石が立ち、



公園の広場にでる直前に
最後の一丁石がありました。



登り始めには全く思っていなかった
丁石めぐりでしたが、無事に終了です。

六甲全山縦走のコースとはここで交わります。



doironが全山縦走を最初に行ったのは、
高校生の頃でした。
まだ山登りのなんたるかもよくわからないまま
親父に何度も連れられて行った六甲を、
自分一人で征服してやろうという
気合があったのをうっすら覚えています。

もう今から40年以上前ですね。

そして直近でも、ある大会で走っています。

でもそれでももう10年は経っているでしょう。

その時もここを走っているはずなんですが、
残念ながら記憶はないですねえ。
よほど周りを見ずに走っていたということですな。

でも最近の山登りは
こうして記録もつけているので、
しっかり記憶に残るでしょう。

大竜寺の山門で一礼をして



さあ、ここから次は新神戸を目指して下山です。

続く