ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道紀之國人情編 5

2014年04月20日 21時11分19秒 | ウォーキング

古道をゆくdoironの目の前を横切った一筋の黒い物体とは・・・

それはツバメでした。

4、5日前から夕方になると
大量の蚊柱が立ちはじめていました。
自然とは本当にうまくできているもので、
その蚊柱を捕食するツバメが
遠い国から今年も絶妙のタイミングで渡ってきていて
ここ紀州にも飛び始めていました。

歩きながら古道沿いの家々の玄関先にも
たくさんの巣を見つけました。



熊野古道を離れて
伊太祁曽神社へ向かう道との分岐点には
「六地蔵」があります。



柳生街道には結構多く見かけましたが、
これまでの熊野古道では
あまりなかった地蔵です。

中を覗いて挨拶をしましたが、
扉があったのと
ほとんど赤または白の布でくるまれていましたので、
よく見えませんでした。



扉に鍵はかかっていないのですが、
こんな場合はやはり扉を開けてまで確認するのは
ちょっと憚られます。
自分とこの村の地蔵のことを思えば、
旅人に親しみを持って対面していただくのは
全く構わないんですがね。
よその地蔵だとやはり抵抗がありますので、
軽く挨拶で済ませておきました。

さて、今回の熊野古道歩きはこの地点で終了です。
六地蔵から先は次回となります。
それでは今回の旅の締めくくりに、
伊太祁曽神社に詣でて帰ることにしましょう。

車の多い道を注意して歩きながら東へ500mほど行くと、
大きな木の鳥居が見えてきました。



形式は普通の明神鳥居なんですが、
ここはさすがに木の国、
木製の鳥居になっていました。

この神社は五十猛命を主祭神とし、
妹神として「大屋津比売命」と「都麻津比売命」を祀る神社です。

五十猛命は日本全国に木の種をまき、
日本を青山と化した神様で
別名「大屋彦」とも呼ばれています。

妹神の大屋津比売命にも含まれる
「大屋」は大規模建築物を表す言葉ですし、
都麻津比売も大屋根の妻面を表す言葉を含んでいるから、
三神とも建築物または建築材料としての木にちなんだ祭神なわけですね。

そのことからもこの神社が
紀の国(木の国)の一の宮として
重要な神社として祀られていたことが伺えます。

しかし、実際は順番が逆で、
大和に天皇の宮殿を建てるために
この地の木が使われたことから、
五十猛命の樹木起源説が誕生した
のだともいわれています。

いずれにしてもこの地に産する
豊かな材木資源があったからこその
神社であったことには間違いないようです。

また、例えば後鳥羽上皇の熊野参詣の頃は、
日前宮に重きが置かれ
伊太祁曽神社はまるで忘却されたかのような
扱いであったことようです。
時代の思惑に応じて、
日前宮、伊太祁曽神社の関係は、
そこに高積神社も加わって
三社間で微妙に変遷していったことが、
熊野古道の記録や
古事記や続日本記や数々の伝承から
読み取れるそうです。
これからどんどん紀州の中へ
入っていくにあたって
大切なことを学んだような気がします。

その伊太祁曽神社。
一の鳥居から二の鳥居にいたる参道は、
木の神社にふさわしく、
鬱蒼とした木陰道が延々と続いているように見えます。

これが主祭神の本殿。



そして二柱の妹神の社です。





これは桜の花びらが数多く浮かんだ
池の真ん中から水が湧いているのを
再現しているようです。



桜色の池面に今にも神様が浮上してきそうでした。

境内にはもちろん熊野社も合祀されています。



また、こんな猿の頭部とよく似た霊石
「おさる石」もあります。



昔、熊野詣でしていた人がこれに触れて
心を静めたそうです。

もちろんdoironも、
暖かい紀州の人柄に触れたおかげで
楽しい旅ができたことのお礼と
今後の旅の無事を祈願して触れてまいりました。
え?自分の頭を触っとけ?
ごもっともです。

このおさる石、今日では首より上の病に
霊験著しいといわれています。

旅の最後にゆっくりとした時間を境内で過ごしてきました。



このシリーズ、もう一話だけあります。


熊野古道紀之國人情編 4

2014年04月19日 21時56分52秒 | ウォーキング

それにしても
伊太祁曽(いだきそ)とは奇妙な名前ですねえ。

調べてみますと、
「伊太」とはやはり「板」に由来するそうです。
そして「祁曽」は社(やしろ)の古称
「こそ」からきているというのがもっともな説です。

そもそも「紀之國」は「木の国」ですから、
木の神様「五十猛命」を祭神とする神社ならではの名前です。
そんな伊太祁曽神社のある街が近づいてきました。

ここまで来ると導き石は極端に少なくなります。
手持ちの地図とにらめっこしながら、
山里の集落を下っていきます。



田んぼのところでは
道はまるで蛇のようにうねっています。



田畑にとって水は命、
昔は水の確保のために命を賭けた
水騒動が起こったくらいですからね。

その水が流れる水路の形最優先で、
道がつけられています。

紀伊から布施屋の間の田園地帯でも
そんな光景をいくつも見かけました。

県道を横切り、
伊太祁曽に向かう道には、
よほどわかりにくい所には
小さな案内があります。



それに沿って、生け垣などに挟まれた
狭い道をてくてくと進みます。

おっと、この家のエリカは
目が覚めるような立派な紫です。



そして道端にはこんな石の道標がありました。



見ると「左 山東道」と書かれてあります。

手持ちの資料には、
その道標のことは書かれてありませんでした。

で、調べてみると、
どうやら「山東道」とは、
桃山町辺りから安楽川沿いに南下し、
貴志川から今の貴志川線に沿って
山東を通過し
伊太祁曽神社に詣でる道だったようです。

ちなみに貴志川電鉄の貴志川に向かって
最初の駅が「山東」駅です。

その先を右に折れてすぐのところ、
平尾自治会館の前にあるのが

平緒王子跡です。



熊野御幸の際に付き添って
日記をしたためていた藤原定家らは、
一行を離れてもう少し西にある日前宮を参拝するために
ここをスルーしたそうで
その頃の記述には出てこない王子だそうです。

しかも秀吉の紀州攻めで
ここにあった王子社は衰退していき、
その後貴志川電鉄のひとつ西の駅
「吉礼」の駅近くにある都麻津比売神社に合祀された旨が
案内板には書かれています。

今回最後の王子跡でした。



王子を出てしばらく行きますと、
橋に出ます。



資料によりますとこれがまさしく三番目の
「小栗橋」でした。

ところが、橋のどこにもその表示がありません。

せっかくの「小栗」橋なんですから、
doironが表示しといてあげました。



古道はほどなく県道を横断するのですが、

「おや~?」その県道の橋のガードレールに
銘板がついています。
「小栗橋」と書かれてあります。



それはおかしい。
資料では確かに、先ほどの橋が
小栗橋のはずなんですが・・・。

同じ資料で歩いている人がいたら、
doironの書いた表示を見つけて
喜んでいただけるかもしれませんので
そのままにしておきましょう。

それにしても、寺の名前や
坂の名前、樹木の名前などではなく橋の名前に
よくその「小栗」の名前が残っているのはなぜでしょう。

それはたぶん、
照手姫は小栗を土車に乗せて運んでいたから、
小さな溝や小川でさえ超えるのは大変だったはず。
もしかしたらそのために、
地元の人や小栗一行が渡した木などが
橋として残り、名前が受け継がれたのかもしれません。



根拠はありませんが・・・。

奇妙な建売住宅をチラ見しながら



その先で熊野古道は踏切を越えていきます。
「たま電車」、
「いちご電車」、
「おもちゃ電車」が運航していることでおなじみの
和歌山電鐡貴志川線です。



そうそう三毛猫の「たま」が駅長をしていることでも
お馴染みのあの鉄道です。


2008年10月のブログから

と、その時でした。

目の前をすっと横切る一筋の黒い物体が・・・。

それはあの和佐大八郎の射た矢なのか、
はたまた役行者の気の塊なのか、
あるいは小栗の執念なのか。

果たしてその正体は・・・次号に続く。


熊野古道紀之國人情編 3

2014年04月18日 21時28分35秒 | ウォーキング

こんな風に広く整備された王子跡は
これまでありませんでした。



現代の王子跡にふさわしい整備だと思います。

ベンチに座ってご飯を食べて、
昼寝でもしながら
遠い昔の夢でもみてみたいような気になります。
きっと楽しい夢を見るでしょう。

昼食は持参したお稲荷さんとカップうどん。





ビールはありません。
近くに自販機を探しましたが見かけませんでした。

う~ん、残念。

食事を済ませたら昼寝もせずに出発です。
天気は上々。
暖かい日差しが降り注いでおりました。

街道に戻る前に、
近くにあるという和佐大八郎の墓を訪ねてみました。

和佐大八郎は京都の三十三間堂の
“通し矢”で8133本の日本記録を持っている人です。
その記録はまだ破られておらず、
いまもその偉業をたたえた奉納額が
三十三間堂にあるそうです。

こんな表示に導かれて山に入っていきますと、



それらしい墓がいくつか並んでおります。



でもどれだかさっぱりわかりません。
まわりを大量の虫が飛び交うのを恐れて、
写真だけ撮って帰ってきたつもりだったのですが、
どうも資料と様子が違うので調べてみたら、
お墓はもっと奥にあるようです。

写真をネットからパクリました。
著作権侵害です。



しーっ!
黙ってればわかりません。

通し矢は夕方の暮れ六つ(午後6時)から始めて
翌日の日暮れまでに
通した矢の数で競うんだそうです。

今で言う鉄人だったんですねえ。
計算してみると1分間に5本以上の矢を通したことになります。

以前、生國魂神社に行ったときに書いたように、
一昼夜で4000句もの俳句を詠んだのは井原西鶴でしたが、
ここでは一昼夜で通し矢ときましたか。
そういう持久系の記録というのには
目がない
doironです。

とまあ、そんな鉄人話はおいといて、

ふたたび和佐王子跡を通って
熊野古道に戻りましょう。

ここから街道は、
今回のコースの最難所である
「矢田峠」に向かいます。

気になる自動車屋さんの看板を横目に見ながら、



突然登りが始まります。



チャリンコじゃ上がれないだろう坂を越えると、
さらに道は分岐していきます。



ここでも地元の歴史研究会の看板が導いてくれます。
ていうか、左のトンネルがとても気になるのですが・・・
時間がありません。先を急ぎましょう。
涙を飲んでスルーしました。

おお~、この坂も傾斜が驚くほど急です。



急なのにもほどがあります。
雨が降ったら滑って危なっかしくて
登れないんじゃないかというほどの傾斜でした。

そんな急坂をクリアーするとすぐに
「役行者」の祠に出ます。



この人の名前を聞くことはよくあるのですが、
お姿を拝見するのは初めてです。



フムフムなるほどこういうお姿でしたか。

役行者のことを調べるにつけ、
その人の常識を超えた法力には驚かされるばかりです。
あの、陰陽師がいくつものドラマの題材になったことを考えれば、
「役行者」をえがいた物語も
もっとあってしかるべきだと思うのですが、
意外に少ないのはなぜでしょう。

NHKの大河ドラマで
一度取り上げていただけないものでしょうかねえ。

矢田峠に向かう山道には、
こんな花もたくさん咲いていました。



「タチツボスミレ」です。
スミレの種類の数は驚くほどありますが、
花や葉の根元にある小葉
(“托葉”といいます)に
いくつもの切れ込みがあるので
これは同定しやすい種のスミレです。

峠のてっぺん付近には、
徳本上人の名号碑があります。



筆舌に尽くしがたい難行苦行の末、
諸国行脚に出向いたこの上人の名号碑は
各地に数えきれないほどあると言います。

このあとの熊野古道にも
必ず登場するはずですので、
お見知りおきを。
ということで、
ここはあっさりと通り過ぎておきましょう。

熊野古道はこちらと矢印の
案内が貼られてありましたが、



手持ちの地図によれば、
それに従うと車の交通量の多い県道を
しばらく歩くことになるので、
街道マップの地図に沿って
ミカン畑の中を行く道をとりました。

竹林や



気持ちのいいミカン畑を下っていくと、





向こうに今回のゴールである
伊太祁曽の街が見えてきました。



次回に続く。


熊野古道紀之國人情編 2

2014年04月17日 20時23分17秒 | ウォーキング

導き石と歴史研究会の案内板に導かれて、



のどかな道を進んでいきますと、

「おや」?案内が左右に分かれています。



左が熊野古道となっています。
大阪では「熊野街道」と称されていましたが
紀州に入った頃からは
一貫して「熊野古道」と表示されているようですので、
ここからは熊野古道と記すことにしましょう。
タイトルも替えました。

そして分岐を右にとると何があるのかというと・・・

驚きました。

「小栗橋」と書かれています。

和泉市と忠岡町の境界あたりにあった
橋の名前と同じです。



紀州にも、あの小栗判官と照手姫の伝説は息づいているんですね。

「小栗」の名前がなんだか懐かしい気がしました。

看板の表示によりますと
橋まで70mと近いので行ってみました。

そしたら、そこに踏切がありました。

先ほど電車に乗って通過したはずの踏切です。

じゃーん、



踏切の名称は、その名も「小栗踏切」となっていました。

で、橋は?と見渡してみますと
踏切の先に小さな橋が架かっていました。
これが熊野街道(古道)2番目の
「小栗橋」です。



案内板もありましたが、



線路の整備、水路の改修などで
若干位置が変わってるようです。
手持ちの資料によりますと、
いまはそこにかかる小さな橋を
小栗橋と呼んでいるようです。

いにしえを感じさせる名称が、
さり気なく残っているとうれしいものです。

先ほどの分岐に戻り、熊野古道を進んでいきます。

水路にそって区画整理された田畑の間の道を歩いていきますと、



左に赤十字関連の建物越しに、
高積山が見えていました。



あとでわかったのですが
この高積山にある神社は
紀州において相当重要な位置づけになっているようです。
道理でこの山は街道沿いにとっても目立っているはずです。
この神社のことはまた後ほど。

道端にはコンクリートの隙間にスミレも咲いています。



県道を渡り、案内を見ながら
村の中をくねくね歩いていくと、
川の流れる昔ながらの村の風景に出合います。

「ここで遊ぶな」と言われてもねえ。



民家の裏には川面に降りていく石段もあり、



かつてはこの川で洗濯したり
大根を洗ったりとかしてたんでしょうね。
昭和な雰囲気です。
このあたりの光景の写真は
この区間を紹介するときに
象徴的によく使われているようです。

川のそばに地蔵堂がありましたので、
立ち寄ってみますと、



ここの地蔵堂にも石仏が何体か置かれてありました。

思えば紀州に入ってからというもの、
地蔵堂の中の石仏密度が高い。

ほとんどの地蔵堂が石仏で犇めき合っているような状態でした。





紀州の地蔵は賑やかなのがお好きなようで・・・
ではなく、きっとあちこちにあったものが、
開発や区画整理、圃場整備に伴って
集められてきたんでしょうねえ。
まさか地蔵さんまでが紀州気質にのっとって、
さみしかろうと親切に集められたんではないでしょう。

このあたりでも道を歩いていると、
道行く地元の人によく「こんにちは~」と声をかけられます。

「熊野古道を歩いている人には声をかけて、
地域の発展につなげましょう」と、
まるでそんな運動でもしてるのかなと
勘ぐってしまうほどです。

菜の花畑がむせるような香りを放つなか、



紀州の人々の人情もほのかに香り立っていました。

見えてきたのが国の重要指定文化財である
「旧中筋家住宅」です。



江戸時代末期の庄屋屋敷とのこと。



そんな庄屋屋敷だけでなく、
このあたりには大きな家がたくさんありました。



街道をそれて少し中に入っていくと、
歓喜寺があります。



そこは昔街道を行く人たちの
接待所にもなっていたそうです。

布施屋を出たばかりで
またここでも接待とは、
昔の旅人は恵まれていたんですねえ。

元の道に戻る途中、
畑で作業中の男性から、
「今日は海南まで行くんかあ?」と声をかけられました。

「まあビールでも飲んでけや」
と接待してくれるんではないんですか。
とは、よう言いません。

「伊太祁曽までです~」と返しておきました。

静かな古道を歩き続けていくと、
やがて道は県道を横切ります。

その交差点近くに、
「和佐王子跡」があります。



公園のように整備されています。



ネットでは殺風景な公園だと
あまり評判はよくないようですが、
ベンチもあってdoiron的には
好感度の高い公園でした。

ちょうどそろそろお昼でしたので、
ここで食事をすることにしました。

王子跡でお弁当を広げるのは初めてです。
休憩所でもあった王子本来の
役目を味わいつついただきましょう。

次回に続く


熊野古道紀之國人情編 1

2014年04月16日 21時43分10秒 | ウォーキング

熊野詣の人達を
お布施(ほどこし)や接待でもてなした人が多かったことから、
布施屋(ほしや)と名付けられた
紀北の集落が前回の到着地でした。

したがって、今回はその布施屋から歩き始めることになります。

天気のいい平日にリュックを背負い
JR阪和線に揺られて和歌山駅で
単線ローカルの和歌山線で乗り換えます。

この線、駅はほとんど無人駅。

ICOCAも使えないので
切符を買わないといけません。

和歌山までICOCAで行って、
切符を買うとなると合計金額が高くなってしまいますので、
乗車駅から通しで切符を買いました。
その方がかなり安くつきます。
それにしても阪和線に切符で乗るのは久しぶりです。

和歌山駅で改札を出ずに
そのまま2両編成の和歌山線に乗り替えますと、
電車の乗降の仕方が車内に掲示されていました。



要するに、線路を走るワンマンバスと思えばいいわけですね。

この線の運転手は、
ワンマン運転なのでドアを開けたり閉めたり、
電車を動かしたり、切符を回収したり
と大変忙しそうでした。

車内は平日の昼とあって、
余裕で座ることができました。

キョロキョロと車内を眺めたり、
外の景色を眺めながら
最初に乗車してから1時間20分で
ようやく布施屋に到着しました。
これからはもっと時間がかかるように
なってくるんでしょうねえ。



おっと、ここで用を足しておきましょう。

でないと、このあとトイレはしばらくありません。

これが駅のトイレ。



も、持ち帰るのは勘弁してほしいものです。

GPSをセットして、
カメラと地図をリュックから出して、さあ出発です。

駅から少し歩くと、
前回の街道最終地点の布施屋自治会館に到着します。



そう、ここが昔旅人に
親切だった人々の子孫が集う場所です。

ここから新たに次の旅が始まります。

そうそう駅前のインフォメーションにもありましたが、
このコースには地元の歴史研究会である
「和佐歴史研究会」の案内が親切に
数多くあって助かります。

その案内と導き石に沿って歩を進めていきます。

この看板のところで写真を撮っていたら、



シルバーカーを押してる高齢の女性から
「熊野古道歩いてはるんやなあ。王子はすぐそこやで。」
と話しかけられました。
さすがに「布施屋」の伝統を継ぐ
旅人への細やかな心遣いを感じました。

言葉通りにすぐに熊野ブルーの看板が目につく
王子が見えてきました。



なんか地元の人たちの大切なスポットって感じです。

そこが「川端王子」。



案内板によると、
王子社そのものはこのあたりを見下ろす
高積山の頂上にある高積神社に合祀されたそうですが、
地元の人たちの手によってこの地に祠が建てられ、
街道沿いに鎮座しているそうです。

その経緯は高積神社の祝詞の中にも
記されているそうです。

残念ながら時間の都合上、
高積神社への参拝はかないませんでしたが、
その遙拝所であるこの川端王子跡で
お祈りをしておきました。

熊野ブルーの案内板には、
よく「紀伊国名所図會」が書かれてありますが、
ここにあったのは紀ノ川の渡しの絵でした。



紀ノ川の流れがこのあたりまで見られたのか、
それとも「川端」という王子名ゆえに
ここに書いたのかそれはわかりません。

またこの川端王子は、
熊野御幸記や藤原定家の日記「明月記」
にも登場しないことから、
熊野詣が盛んだった平安の頃にはなく、
江戸時代に入ってから
設けられた王子だというのが定説だそうです。

そんな王子跡でも、地元の人に、
「こんにちは」と声をかけられました。

そんな挨拶は大阪府内を歩いている時には
ほとんどありませんでしたので、
親しげに話しかけてくる姿に
紀州気質とでも言うべき、
南国の厚い人情を感じたものです。

もう少し近づいてみるとこんな感じ。



八咫烏の案内石もありますし、



ここはスタンプスポットでした。
さっそく押しておきました。



そこを出ますと、
道は複雑に入り組んでいました。
分岐が色々とある割に、
導き石があまり多くありません。
そこで先の歴史研究会の案内が
ずいぶん旅人を助けてくれることになるわけです。



季節はおりしも桜の花びらが
風が吹くたびにザーッと舞い散る春盛りの頃。

野の花も今が盛りの紀州の田舎の空には
早くも鯉のぼりが泳いでおりました。



今回計画しているのは
貴志川線の伊太祁曽までの歩き旅。

春の気配に浮れながら、
まだまだ旅は始まったばかりです。

次回に続く。


職質に備えて

2014年04月15日 21時06分06秒 | 生活

特番シーズンによくやる警察もののテレビをよく見る。
中でも番組改編時期に2時間モノとかでよくやる番組で、
なぜか

列島警察24時



などというタイトルがついている番組をよく見る。
警察官は夜もしっかり働いているということを表現したいのだったら、
「24時間」となるところだが、
それだとコンビニみたいな感じなので
「24時」と区切ることで
緊迫感を出そうとしているのだろう。

番組の中では、パトカーで流しながら、
「おや?」と思った人間を職質したら
覚せい剤を持っていたり、
泥棒の道具を持っていたりするシーンがよく出てくる。

本当に不審な挙動でわかるのかなあ
と半ば疑いながら見ている。

でも、こんな番組でやらせは禁物だから
前もって情報を仕入れて置いて、
目星をつけてパトカーを流しているのかもしれない
と思ったりもする。

先日の番組でも、
不審な車を職質したら
車内から銃刀法違反のナイフが出てきて、
警察に連れて行くシーンが流れていた。

その時にふと思った。

doironは最近山を歩くときは
根掘りを持ち歩いている。

先日ノビル採集の時に活躍したこれ。



これを持参しているのは
山菜などの採集のためでもあるし、
行く手を遮る植物なんかがあれば
自分と後続の人のためにも
ばっさばっさ伐採できるからね。

もし山からヘトヘトになって下りてきたときに、
職質でもされて
「リュックの中身を見せなさい」
といわれてこの根掘りが見つかったら
どうなるのだろうと考えた。

銃刀法では刃渡り6cm以上の刃物を
正当な理由なく持ち歩くことは
禁止されている。

刃渡り6cm、それは十分越えている。

山の中ならいざ知らず、
街で指摘された時に
正当な理由は主張しにくいものだから、
「とりあえず署まで来てもらおう」
となったりしないのだろうか。

バス停もない田舎の街で、
パトカーに乗せてもらえるのなら
それはそれでありがたい話ではある。
しかし、都会の真ん中で
そんな面倒なことにはあまり巻き込まれたくないものだ。

そこで、根掘りと銃刀法の関係について調べてみた。

そしたら、根掘りの場合、
販売時にすでに「銃刀法適合商品」
などという触れ込みで売られていることがわかった。

じゃ、どこが「適合」なのかと調べてみたら、
ドンピシャの資料が警察庁のホームページにあった。

こう書かれている。

「本物件(レジャーナイフ、山菜ナイフ、山菜掘り等の

名称で販売されているもの)は、
一見、剣のような外観を呈していますが、
刃体の片側が凹んでおり、
刃体を切先方向から見た場合に
弧状を呈しているのが特徴です。
社会通念上、剣というためには
刃体が両面とも盛り上がっているか、
あるいは少なくとも平面的であることが
必要であると解され、
本物件のように、刃体の片側が凹んでいるものは、
社会通念上、剣としての形態
及び実質を備えているとまではいえない
と判断されます。」

そうか、ちょっと苦しい言い訳のような
気がしないでもないが、
警察庁の資料なんですから、
とりあえずこれさえ押さえておけば、
知識の乏しい警察官に職質されても
きちんと反論できますねえ。
doironの根掘りの裏面がこれ。



そして葉の断面が弧を描いているのも
確認できた。



山菜マニアの人はしっかり頭に入れておきましょう。

これでもう、職質されても、大丈夫。
モノがモノだけに
いらんことまで“根掘り”葉堀り聞かれることはないだろう。


2014春バイク

2014年04月14日 20時56分16秒 | トライアスロン

先週末の午後は実に久しぶりにバイクに乗りました。

あ、室内バイクはほぼ毎日ジムで乗っておりますが、
この時は外を走るロードレーサバイクのことです。
この愛車に乗ってね。



しかし、こうして見ると
我が愛車も少々時代遅れになってきましたなあ。
最近はフレームの加工技術も発達して、
こんなリニアーなデザインはもうあまり見かけません。
最新のディレーラーが何段になっているのか
それすらわかりません。

ペダルも
SPD→SPD-R
→SPD-SLと変遷してきましたが、
今は何が主流なんでしょうか。

そもそもブルホーンハンドルに
PROFILEのエアロバーという組み合わせは
絶滅しかかっているんじゃないかと思うほどです。

しかあし、それでもいいんです。

doironはこのバイクでずっと闘ってきましたから。

何千キロも一緒に走りましたから。

溝に突入したけど、軽傷でしたし、
命を共にしてきた愛着があります。

今さら新しいバイクを買うのも
気力、体力、財力がありません。

丁寧に整備をして、動作確認をし、
しっかり空気を入れてさあ出発です。

今回はこんないでたちです。



ミセスに、「恰好、変なことない?」て聞いたら、
「別にバイクに乗る普通の恰好やと思うけど、
あんなひどい目に逢っておきながら、
まだ乗ろうとするあんたの頭が変やと思う」
と言われてしまいました。
ま、これはdoironの性(さが)ともいうべき行動やから、
無理やり理解していただくほかありません。

近所を少し流して変速の加減などを確認して、
最初に向かったのは和泉中央でした。

調子はというと、脚の方は全く問題なしでした。

ていうか、驚くほど快調なのは
日頃のジムトレのたまものでしょう。

ただ、ジムのエアロバイクと実車との違いが
顕著に表れる身体の部位があります。
それは首です。

ロードでは常に前を向いて
危険を予測しつつ走らねばなりませんが、
ジムトレは下を向いて本を読んでいますから
首にかかる負担が全く違います。

5キロもいけば首筋がだるくなってきました。

それと背筋の使い方も違います。
要するに体の背面がすぐに疲れてくるのでした。

これもトレーニングですから耐えなければならないと、
自分に言い聞かし
なんとか観音寺の坂を越えて
和泉中央に来てから、
ふと思い立って、現在工事中の
コストコの様子を見に行ってみようと
そちらに向かいました。

その日の新聞にチラシが入っていて、
1000円引きで会員登録が始まっている
とのことなので様子伺いです。

すると、普段は田舎の静かな道路に
今日は車がどんどん走っていて、
しかもみなさんキョロキョロしながら走っているから、
危ないことこの上ない。
早々に退散しました。

それからは、和泉の山麓を漕ぎ漕ぎしつつ、
途中で会ったサロマトレーニング中のジム友に
写真を撮ってもらったりしながら、



夕方自宅に帰ってまいりました。

レースに目標を絞って、
あごから汗をしたたらせながら
この峠を何分で登るんだ、
みたいなバイク乗りもそれなりに楽しかったけど、
全身運動の割に心拍数の上がらないゆるゆるバイクも、
なかなか楽しくて健康にもよいにちがいないでしょう。

古臭いバイクに乗って、
親父ライダーを決め込むのも悪くないかな。


サロマの思い出3

2014年04月13日 21時33分45秒 | マラソン

それでは、前回のサロマ湖完走から
ちょうど10年目に走った
2回目のサロマを振り返ってみましょう。 

第16回 サロマ湖100kmウルトラマラソン
2001年6月24日午前5時スタート

この時は、地元ランニングチームの4人
doironの職場のランニング仲間4人
応援二人
doironを入れて合計11人の
大所帯で北海道に乗り込んだのでありました。

10km52分17秒
 

キロ5分は越えないで行こうと
友達と談笑しながら走り始めた。
天気は晴れ。熱くなりそうな気配まんまん。

20km52分38秒 

一緒に参加したメンバー全員とすれ違う。
前回は4人だったけど今回は8人。
玉砕覚悟のM君とdoironは並走。

30km53分28秒 

同じペースで走っているつもりでも、
1分ずつくらいペースが下がっていく。
ルネのS君と並走。

40km53分08秒 

S君と走りながらこのまま落ちても
キロ6分でいけるやろ、と話していると、
周りのランナーから
「80キロすぎてキロ6分やったらごぼう抜きですよ」
と言われた。そうかなあと思いながらペースを維持。

50km54分23秒 

暑い。エイドとエイドの間に無人でポリバケツの水も
かなり減っているので後続が心配だ。
フルの地点を3時間42分で通過。

60km60分28秒 

あまりの暑さでコーラの自販機でもないかと
キョロキョロ探すも見当たらず。
並走しているS君に「コーラの自販機探しているでしょ」
と図星当てられた。
原野に自販機はさすがにない。
脱水状態になり始める。

70km 64分04秒 

脱水のためついに足が止まった。
S君に先に行っててと声をかけるも
リタイアか?と弱気が心をかすめる。
が、なんとその直後の木陰道で復活。
一時300mほど離れたS君に
70キロ地点で追いついた。

80km 61分23秒 

徐々に調子が上がり始める。
ここからはあと20キロ。
全身の筋肉のまだ動く部分を
前進のために総動員。
キロ6分ペースに戻ってきた。

90km 59分52秒 

原生花園を快調に走った。
前半で聞いたように、
このあたりでキロ6分を維持すると、
たしかに先行の選手をどんどん抜いていく。

100km 60分03秒 

90の折り返し後、職場の仲間2人とすれ違い
声をかけあう。
原生花園を出たところで
玉砕したM君が出迎えてくれた
「あと2キロですよ」
脱水の危機を乗り越え、
念願のサブ10でのゴールだった。
ゴール後はまだまだ走れるなあ
というほど元気を取り戻していた。

結果  9時間30分46秒(ネット)
総合69位 年代別19位



この時の気象条件は、
これまでのサロマの中でも
最高ともいえる暑さだったそうです。
そのため完走率は初めて5割を切ったとのこと。
doironもトライアスロンで暑さになれていたはずなのに、
一時、脱水になってしまいました。
あの70キロ手前の木陰がなかったら
完走できていたかどうかわかりません。

10年という歳月の中で
鍛えられたんやなあと実感しました。

1回目は、少し気温が低い状態で、
ハーフタイツで走りましたが、
2回目はランパンランシャツといったいでたちでした。

行かれる方は、そんな気温差を念頭に
周到な用意をされていくことをおすすめします。

doironはこのあとどんどんエスカレートして
トライアスロンのみならず、
高野山110キロや
萩往還250キロにも挑戦していくことになるのですが、

その話はまたいずれ。


サロマの思い出2

2014年04月12日 21時15分18秒 | マラソン

どうせ何をしても
故障している膝の痛みがなくならないのなら、
このあとレストステーションで休憩できることだし、
走れるうちに走って
貯金を作っておこうとやけっぱちで頑張ってみることにしました。

55km 56分01秒 

54kmのレストステーションで
シャツとパンツと靴下を着替え、
おにぎりを食べてのんびりした。

60km 32分37秒 

スピードを上げたのが良かったのか、
膝の感覚がなくなり、痛みもマヒして軽くなる。
一時、前のランナーが見えなくなるほどまばらになる。

65km 35分21秒 

同じペース、同じ歩幅、同じ姿勢を維持。
ここが正念場と大事に大事に走る。
遠雷の音が聞こえ、小雨ぱらつくも、寒気はなし。

70km 36分25秒 

手は?動いているぞ。
脚は?よしよし動いているぞ。
あと30km、完走の灯がすこしともった。
サロマ湖が左に大きく開ける。天気回復。

75km 38分52秒 

椅子に座ってお汁粉を食べ、
ボランティアの人とホンのひと時の談笑。
背に受けた声援が前へ押してくれているようだった。

80km 36分05秒 

サロマ最大の山場、原生花園に突入。
メンバーとすれ違い、
もう一人はすでに8時間台でゴールしているだろうと聞く。
ゴールという響きがうれしい。

85km 35分49秒
 
コース横の草むらに二匹のキタキツネの子どもを発見。
花も咲き乱れている。
この光景は一生忘れないだろうと思った。

90km 35分54秒 

折り返しでスイカを種ごと食べる。
種を出す力が惜しい。
そして間もなく最後のメンバーとすれ違い、
お互い「全員完走」を確信した。

95km 38分06秒 

辛さを越えて、苦しさを越えて、
喜びの感情がじわじわ顔を見せ始める。
体力はすでにゼロ。
あとは気力と自分に言い聞かせる。

ゴール 39分50秒 

夢にまで見たゴール。
今までで一番長かった一日の終わり。
派手なガッツポーズをしようと思っていたのに、
手はあまり上がらなかった。

結果 11時間44分27秒。
総合396位 種目別351位でした。 

これが完走証



以上が当時書いて残してあった記録からです。
ウルトラの完走のためには
あきらめないことが大切です。
人間の限界は自分が思っているより
ずっと先にあることを肝に銘じて、
走り続ければ必ずや夢はかなうでしょう。

このあとdoironは、
トライアスロンにのめりこんでいき、
10時間を超える大会をいくつも経験した後、
10年後に再びサロマのスタート地点に立ちました。

その時の記録は10kmごとのラップでしたが、
書きためた感想も残っているので
次回はそれを紹介しましょう。


サロマの思い出1

2014年04月11日 20時52分09秒 | マラソン

ランニングをする人にとって
「サロマ湖」といえば100kmマラソン。

1986年に始まったこの大会に、
今まで2回出場をした。
そろそろ3回目をと思っているうちに、
身体を壊し今に至っている。

そんな大会に、今年ジム友が参加をするので
ジムではその話で盛り上がっている。

で、その友達にdoironのその二回の経験を活かして
いろいろとアドバイスをしているうちに、
当時の光景がよみがえってきて、
最近とても懐かしい思いをしているのである。

そういえば、このブログにも
サロマのことはあまり書いていない。

幸い走った当時に記した自分の手記があるので、
それを参考にここに記録しておくことにした。

これからウルトラを目指す人の参考に少しでもなれば幸いです。


第6回 サロマ湖100kmマラソン
1991年7月7日午前5時スタート

この大会に職場の仲間総勢4人で参加した。
大会に出場するにあたって、
練習した最長距離は45キロくらい。

その頃の月間走行距離は200kmぐらいだったと思う。
当時のフルマラソンの自己ベスト記録は
3時間10分13秒でした。

以下は大会での5キロごとのラップと
その時の感想が残っているので記しておく。

 5km 30分29秒

 「気負うでもなくなく、先を争うでもなく淡々とスタート。
朝もやの牧場が幻想的なほど美しい。」

10km 28分46秒

 「横を走っていく応援バスに両手を振って応える。
スピードの誘惑に駆られるが、
完走、完走と自分に言い聞かせキロ6分を維持。」

15km 32分07秒

一緒に参加したメンバーとすれ違う。
トップメンバーは「キロ4分半でもしんどいわ」、
次は「ここから砂利道ですよ」とアドバイスをくれる。
最後のメンバーとは軽く挨拶を交わすだけ。
おたがいに余計な体力は使いたくないと見た。

20km 28分59秒 

五分の一を走り終え、
集団が少しずつばらけはじめる。
いよいよ孤独の旅が始まったぞという感じ。
お楽しみはこれからだ。

25km 30分05秒 

スタートして初めての疲れを感じる。
前を行く女性がしきりに脚にエアーサロンパスを
スプレーするためミストが目に染みた。

30km 30分03秒 

周りを見回すといろんなランナーがいる。
ウォークマン、カメラは当たり前。
中には血圧計を持って測りながら走っている人も、驚いた。

35km 30分56秒

地元の人と並走。
子どもたちが一斗缶をガンガン叩き、
大人は大声で村人総出の応援。
「目指せOO村、初の完走」という声もあり大笑い

40km 33分54秒 

右ひざに痛みが出始める。
意識的にスピードを落としたり、
歩きも入れたりしながら様子を見るも
残り60kmの距離が不安になる。

45km 34分09秒 

フルマラソン通過が4時間22分24秒。
膝がますます痛み始める。
キロ7分を維持しつつ、
歩きも入れストレッチを入念に行うが効果なし。

50km 31分59秒 

ウルトラへの入り口50kmを目指してひた走る。
どうせ何をしても痛みが取れないので、
それならばとリタイア覚悟で力走した。


さて、やけっぱちのスピードアップが
吉と出るか凶と出るか。続きは次回。