ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野街道 紀ノ川を越えて4

2014年04月09日 21時27分36秒 | ウォーキング

そこは紀ノ川の流れのすぐ際のところで、
大きな石組で整備されたところでした。



川にはたくさんの水鳥がたわむれています。

見回しても他に河原にいる人影は見えません。
したがって紀ノ川を独り占めです。

こういうところでのアウトドアな食事は得意技です。
メニューは持参したおにぎりと
途中のコンビニで買ったカップそば。



残念ながら、ビールはありません。

聞こえてくるのは川の流れの音と
鳥たちの鳴き声のみ。
河原の林にはキジもいるようです。

紀ノ川の流れに心が洗われます。

こんな河原でBBQは最高です。
ずっと以前に岩出橋の下で
友達とやったBBQが思い出されます。

またそんな機会があればいいのになあ、
などと考えたりしながらここでしばし休憩をして街道に戻りました。

さあ歩行はあと3キロほどです。

堤防上の県道14号を少し東進すると、
先ほど渡った川辺橋が後ろに見えています。



コースは毎日牛乳の工場の横から
下に降りてゆくことになります。



そういえば、大阪の熊野街道を歩いている時、
忠岡町の辺りでも
毎日牛乳の工場が街道の横にありました。

その昔街道をゆく牛馬の王子跡?
まさかそんなことはありません。

左手にスーパーの食品工場が見えてきました。
その工場の外に、
「布施屋の渡し場」の案内板が立っています。



川辺橋などなかった昔、
街道をゆく人は渡し船で紀ノ川を渡っていたそうです。

そりゃそうでしょうねえ。

これだけ大きいと歩いて渡ることはできなかったでしょう。

昭和30年代まで渡しはあったそうです。

そういえばこのあたりの街道は、
左右が低くなっており
道はその稜線を歩くようになっています。





想像するに、流路を変えて流れる暴れ川の紀ノ川のこと、
かつてはこの道が川の堤防だったのかもしれません。

JR和歌山線の吐前踏切のところで



道しるべに従って右折し踏切を渡ると、



そこが吐前(はんざき)王子跡です。



おお~、熊野ブルーの看板に再会です。
ところでこの「吐前」って変わった名前ですね。

「吐」とは埴(はに)に由来します。
埴は粘っこい赤土などのことを言い、
埴輪もそこからついた名前だと思います。

そんな名前から
このあたりでは、土で堤防を築いていたことが伺われます。
紀ノ川沿いの王子らしい由来です。

そして地元の人がこのあたりを
「御幸堂」や「御幸の森」と伝えており、
昔、熊野に詣でたやんごとなき人たちの旅を
熊野御幸といわれていることもあって
それを根拠に吐前王子跡がこの地に比定されたそうです。

街道を整備する際に
多くの人の労力と調査があったことをうかがわせる話ですね。

旧家が並ぶ道を表示通りゆっくりとすすみ、



導き石に沿って歩いていきますと・・・



おっ消防団の器具置場の壁にもさりげなく道案内が付けられています。



その先に布施屋の観音堂がありました。



由緒書によりますとこの地が火事に襲われた時に
一体だけ焼け残った十一面観音を、
前回紹介した豪華な屋根瓦の門屋を持つ
正念寺に移したところ、
牛馬の病死が相次ぎ、祟りと恐れた地元の人が
ここにお堂を建てて観音様を戻したら、
村に平穏が戻ったと書いてありました。

ああ、あのお寺にはそういう過去もあったのかと、
感心してしまいました。
街道を行き来する時の流れや
人々の思いを垣間見たような気がします。

今回歩き始めた時に見た高積山が間近に迫ってきました。



あの山のてっぺんには高積神社と城跡があるそうです。

そしていよいよ今回の最終地点、
布施屋自治会館の道しるべに到着です。



ここから先はまた近いうちに歩こうと思います。
布施屋の駅に向かいました。
ところで「布施屋」(ほしや)とは変わった名前ですね。

調べたら、熊野詣の人達にここの村人たちが
お布施(ほどこし)をしたり
接待をしたのでこの地名になったそうです。
人情の厚い地だったんですね。

駅は無人駅で





駅前には熊野関連の案内板が所狭しと立てられてありました。





ここからはICOCAは使えません。
切符を買わないといけないそうです。



切符を買って単線電車に揺られ、和歌山経由で
帰路に着いたdoironでした。

このシリーズ終わり。