こんな風に広く整備された王子跡は
これまでありませんでした。
現代の王子跡にふさわしい整備だと思います。
ベンチに座ってご飯を食べて、
昼寝でもしながら
遠い昔の夢でもみてみたいような気になります。
きっと楽しい夢を見るでしょう。
昼食は持参したお稲荷さんとカップうどん。
ビールはありません。
近くに自販機を探しましたが見かけませんでした。
う~ん、残念。
食事を済ませたら昼寝もせずに出発です。
天気は上々。
暖かい日差しが降り注いでおりました。
街道に戻る前に、
近くにあるという和佐大八郎の墓を訪ねてみました。
和佐大八郎は京都の三十三間堂の
“通し矢”で8133本の日本記録を持っている人です。
その記録はまだ破られておらず、
いまもその偉業をたたえた奉納額が
三十三間堂にあるそうです。
こんな表示に導かれて山に入っていきますと、
それらしい墓がいくつか並んでおります。
でもどれだかさっぱりわかりません。
まわりを大量の虫が飛び交うのを恐れて、
写真だけ撮って帰ってきたつもりだったのですが、
どうも資料と様子が違うので調べてみたら、
お墓はもっと奥にあるようです。
写真をネットからパクリました。
著作権侵害です。
しーっ!
黙ってればわかりません。
通し矢は夕方の暮れ六つ(午後6時)から始めて
翌日の日暮れまでに
通した矢の数で競うんだそうです。
今で言う鉄人だったんですねえ。
計算してみると1分間に5本以上の矢を通したことになります。
以前、生國魂神社に行ったときに書いたように、
一昼夜で4000句もの俳句を詠んだのは井原西鶴でしたが、
ここでは一昼夜で通し矢ときましたか。
そういう持久系の記録というのには
目がないdoironです。
とまあ、そんな鉄人話はおいといて、
ふたたび和佐王子跡を通って
熊野古道に戻りましょう。
ここから街道は、
今回のコースの最難所である
「矢田峠」に向かいます。
気になる自動車屋さんの看板を横目に見ながら、
突然登りが始まります。
チャリンコじゃ上がれないだろう坂を越えると、
さらに道は分岐していきます。
ここでも地元の歴史研究会の看板が導いてくれます。
ていうか、左のトンネルがとても気になるのですが・・・
時間がありません。先を急ぎましょう。
涙を飲んでスルーしました。
おお~、この坂も傾斜が驚くほど急です。
急なのにもほどがあります。
雨が降ったら滑って危なっかしくて
登れないんじゃないかというほどの傾斜でした。
そんな急坂をクリアーするとすぐに
「役行者」の祠に出ます。
この人の名前を聞くことはよくあるのですが、
お姿を拝見するのは初めてです。
フムフムなるほどこういうお姿でしたか。
役行者のことを調べるにつけ、
その人の常識を超えた法力には驚かされるばかりです。
あの、陰陽師がいくつものドラマの題材になったことを考えれば、
「役行者」をえがいた物語も
もっとあってしかるべきだと思うのですが、
意外に少ないのはなぜでしょう。
NHKの大河ドラマで
一度取り上げていただけないものでしょうかねえ。
矢田峠に向かう山道には、
こんな花もたくさん咲いていました。
「タチツボスミレ」です。
スミレの種類の数は驚くほどありますが、
花や葉の根元にある小葉
(“托葉”といいます)に
いくつもの切れ込みがあるので
これは同定しやすい種のスミレです。
峠のてっぺん付近には、
徳本上人の名号碑があります。
筆舌に尽くしがたい難行苦行の末、
諸国行脚に出向いたこの上人の名号碑は
各地に数えきれないほどあると言います。
このあとの熊野古道にも
必ず登場するはずですので、
お見知りおきを。
ということで、
ここはあっさりと通り過ぎておきましょう。
熊野古道はこちらと矢印の
案内が貼られてありましたが、
手持ちの地図によれば、
それに従うと車の交通量の多い県道を
しばらく歩くことになるので、
街道マップの地図に沿って
ミカン畑の中を行く道をとりました。
竹林や
気持ちのいいミカン畑を下っていくと、
向こうに今回のゴールである
伊太祁曽の街が見えてきました。
次回に続く。
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