古道をゆくdoironの目の前を横切った一筋の黒い物体とは・・・
それはツバメでした。
4、5日前から夕方になると
大量の蚊柱が立ちはじめていました。
自然とは本当にうまくできているもので、
その蚊柱を捕食するツバメが
遠い国から今年も絶妙のタイミングで渡ってきていて
ここ紀州にも飛び始めていました。
歩きながら古道沿いの家々の玄関先にも
たくさんの巣を見つけました。
熊野古道を離れて
伊太祁曽神社へ向かう道との分岐点には
「六地蔵」があります。
柳生街道には結構多く見かけましたが、
これまでの熊野古道では
あまりなかった地蔵です。
中を覗いて挨拶をしましたが、
扉があったのと
ほとんど赤または白の布でくるまれていましたので、
よく見えませんでした。
扉に鍵はかかっていないのですが、
こんな場合はやはり扉を開けてまで確認するのは
ちょっと憚られます。
自分とこの村の地蔵のことを思えば、
旅人に親しみを持って対面していただくのは
全く構わないんですがね。
よその地蔵だとやはり抵抗がありますので、
軽く挨拶で済ませておきました。
さて、今回の熊野古道歩きはこの地点で終了です。
六地蔵から先は次回となります。
それでは今回の旅の締めくくりに、
伊太祁曽神社に詣でて帰ることにしましょう。
車の多い道を注意して歩きながら東へ500mほど行くと、
大きな木の鳥居が見えてきました。
形式は普通の明神鳥居なんですが、
ここはさすがに木の国、
木製の鳥居になっていました。
この神社は五十猛命を主祭神とし、
妹神として「大屋津比売命」と「都麻津比売命」を祀る神社です。
五十猛命は日本全国に木の種をまき、
日本を青山と化した神様で
別名「大屋彦」とも呼ばれています。
妹神の大屋津比売命にも含まれる
「大屋」は大規模建築物を表す言葉ですし、
都麻津比売も大屋根の妻面を表す言葉を含んでいるから、
三神とも建築物または建築材料としての木にちなんだ祭神なわけですね。
そのことからもこの神社が
紀の国(木の国)の一の宮として
重要な神社として祀られていたことが伺えます。
しかし、実際は順番が逆で、
大和に天皇の宮殿を建てるために
この地の木が使われたことから、
五十猛命の樹木起源説が誕生した
のだともいわれています。
いずれにしてもこの地に産する
豊かな材木資源があったからこその
神社であったことには間違いないようです。
また、例えば後鳥羽上皇の熊野参詣の頃は、
日前宮に重きが置かれ
伊太祁曽神社はまるで忘却されたかのような
扱いであったことようです。
時代の思惑に応じて、
日前宮、伊太祁曽神社の関係は、
そこに高積神社も加わって
三社間で微妙に変遷していったことが、
熊野古道の記録や
古事記や続日本記や数々の伝承から
読み取れるそうです。
これからどんどん紀州の中へ
入っていくにあたって
大切なことを学んだような気がします。
その伊太祁曽神社。
一の鳥居から二の鳥居にいたる参道は、
木の神社にふさわしく、
鬱蒼とした木陰道が延々と続いているように見えます。
これが主祭神の本殿。
そして二柱の妹神の社です。
これは桜の花びらが数多く浮かんだ
池の真ん中から水が湧いているのを
再現しているようです。
桜色の池面に今にも神様が浮上してきそうでした。
境内にはもちろん熊野社も合祀されています。
また、こんな猿の頭部とよく似た霊石
「おさる石」もあります。
昔、熊野詣でしていた人がこれに触れて
心を静めたそうです。
もちろんdoironも、
暖かい紀州の人柄に触れたおかげで
楽しい旅ができたことのお礼と
今後の旅の無事を祈願して触れてまいりました。
え?自分の頭を触っとけ?
ごもっともです。
このおさる石、今日では首より上の病に
霊験著しいといわれています。
旅の最後にゆっくりとした時間を境内で過ごしてきました。
このシリーズ、もう一話だけあります。