天王寺七坂、オジチャリ、長尾街道ときて
やっと熊野街道の話も一旦終わりました。
今回は仕事であった事件の話を少し。
先日、某出版社より
取材と記事作成の依頼がありました。
一面の記事なんですが、
ネタが少なすぎて困っているので
取材して記事を書いてもらえないか
というものでした。
願ったりかなったりの仕事です。
こんな仕事を受けずして
フリーライターは名乗れません。
喜んで取材先の連絡先を訊き、
さっそく取材の日程調整をさせていただきました。
こんな話は早い方が良いので、
取材を翌日に設定し即、下準備にかかりました。
電話の雰囲気とネットで
取材先のことなんかを調べながら、
記事構成を3通りほど組み立てました。
これで取材時にはどれかに当てはまるように
話を聞き出せばよいわけです。
当日、時間に余裕を持って出発しました。
近頃はこんな風に知らないところへ出かけることが多く、
ナビが大活躍です。
電話番号で検索できるしね。
ピンポイントで目的地に連れて行ってくれます。
その日も約束10分前という絶妙な時間に到着し、
時間通りに取材を始めることができました。
ところが・・・
取材先の人が思いのほか無口なんです。
あまり多くを語らない人だったものですから
非常に難儀をしました。
それでもあらかじめ用意した記事にあわせた内容で
強引に話を進めていきました。
ここは腕の見せ所です。
そして取材は40分ほどで終了。
ようやくこれで記事にできるかな
というところで引き上げてきました。
帰ってからパソコンに向かってゴニョゴニョし、
一面を埋める記事もなんとか出来上がりました。
それは無事に掲載していただくことになりました。
これでようやくひと仕事終わり。
と、普通はこれで一件落着なんですが、
事件はこの後起こったのです。
doironが難儀をし、
ようやく仕上げたその記事が
無断でパクられたのです。
つまり、別の出版物にそのまま同じ記事が
掲載されたのです。
話の内容もさることながら、
こちらが撮影した写真まで使うという図々しさ。
doironが記事を提供した出版社からも連絡がありました。
そりゃそうですよね、
まるでこちらが二社に同じ記事を
提供したように思われても仕方がありません。
さっそく事実調査をしてみると、
取材先が別の出版社に
ゲラを提供したことがわかりました。
クライアントさんが絡んでいるのであれば
こちらもトーンが下がりますが、
相手の出版社はあまりに非常識です。
ここは黙っていてはいけません。
事情を確認したうえで、
採用していただいた依頼のあった出版社に報告するとともに、
向こうの出版社には
「依拠性、類似性から見てもこれは私の著作権を
犯していると判断せざるを得ない。
お宅も出版社を名乗っている以上、
記事の出どころにもっと過敏にならんとアカンよ。プンプン!」
とご注意差し上げました。
それにしても著作権を主張するなんて
doironもそういう身分になったんやあ、
ちょっと生意気じゃんと思ってしまったぜ。
そして
「今回はお互いクライアントさんが絡んでいるから、
これ以上は言いませんが、
今後同じことがまたあった場合は
こちらとしても法に照らして
対策を考えないといけないから」
と釘も刺しておきました。
うんうん、やっぱり生意気ですね。
記事をパクられるというのは、
ある意味フリーライターとしては
ハクがつくてなもんですが、
実務的には悔しく腹立たしい事件ではありました。
大した仕事量もこなしていないにもかかわらず、
こういう事件に遭遇するなんて、
この業界も思ったよりややこしい所のようです。
そこは紀ノ川の流れのすぐ際のところで、
大きな石組で整備されたところでした。
川にはたくさんの水鳥がたわむれています。
見回しても他に河原にいる人影は見えません。
したがって紀ノ川を独り占めです。
こういうところでのアウトドアな食事は得意技です。
メニューは持参したおにぎりと
途中のコンビニで買ったカップそば。
残念ながら、ビールはありません。
聞こえてくるのは川の流れの音と
鳥たちの鳴き声のみ。
河原の林にはキジもいるようです。
紀ノ川の流れに心が洗われます。
こんな河原でBBQは最高です。
ずっと以前に岩出橋の下で
友達とやったBBQが思い出されます。
またそんな機会があればいいのになあ、
などと考えたりしながらここでしばし休憩をして街道に戻りました。
さあ歩行はあと3キロほどです。
堤防上の県道14号を少し東進すると、
先ほど渡った川辺橋が後ろに見えています。
コースは毎日牛乳の工場の横から
下に降りてゆくことになります。
そういえば、大阪の熊野街道を歩いている時、
忠岡町の辺りでも
毎日牛乳の工場が街道の横にありました。
その昔街道をゆく牛馬の王子跡?
まさかそんなことはありません。
左手にスーパーの食品工場が見えてきました。
その工場の外に、
「布施屋の渡し場」の案内板が立っています。
川辺橋などなかった昔、
街道をゆく人は渡し船で紀ノ川を渡っていたそうです。
そりゃそうでしょうねえ。
これだけ大きいと歩いて渡ることはできなかったでしょう。
昭和30年代まで渡しはあったそうです。
そういえばこのあたりの街道は、
左右が低くなっており
道はその稜線を歩くようになっています。
想像するに、流路を変えて流れる暴れ川の紀ノ川のこと、
かつてはこの道が川の堤防だったのかもしれません。
JR和歌山線の吐前踏切のところで
道しるべに従って右折し踏切を渡ると、
そこが吐前(はんざき)王子跡です。
おお~、熊野ブルーの看板に再会です。
ところでこの「吐前」って変わった名前ですね。
「吐」とは埴(はに)に由来します。
埴は粘っこい赤土などのことを言い、
埴輪もそこからついた名前だと思います。
そんな名前から
このあたりでは、土で堤防を築いていたことが伺われます。
紀ノ川沿いの王子らしい由来です。
そして地元の人がこのあたりを
「御幸堂」や「御幸の森」と伝えており、
昔、熊野に詣でたやんごとなき人たちの旅を
熊野御幸といわれていることもあって
それを根拠に吐前王子跡がこの地に比定されたそうです。
街道を整備する際に
多くの人の労力と調査があったことをうかがわせる話ですね。
旧家が並ぶ道を表示通りゆっくりとすすみ、
導き石に沿って歩いていきますと・・・
おっ消防団の器具置場の壁にもさりげなく道案内が付けられています。
その先に布施屋の観音堂がありました。
由緒書によりますとこの地が火事に襲われた時に
一体だけ焼け残った十一面観音を、
前回紹介した豪華な屋根瓦の門屋を持つ
正念寺に移したところ、
牛馬の病死が相次ぎ、祟りと恐れた地元の人が
ここにお堂を建てて観音様を戻したら、
村に平穏が戻ったと書いてありました。
ああ、あのお寺にはそういう過去もあったのかと、
感心してしまいました。
街道を行き来する時の流れや
人々の思いを垣間見たような気がします。
今回歩き始めた時に見た高積山が間近に迫ってきました。
あの山のてっぺんには高積神社と城跡があるそうです。
そしていよいよ今回の最終地点、
布施屋自治会館の道しるべに到着です。
ここから先はまた近いうちに歩こうと思います。
布施屋の駅に向かいました。
ところで「布施屋」(ほしや)とは変わった名前ですね。
調べたら、熊野詣の人達にここの村人たちが
お布施(ほどこし)をしたり
接待をしたのでこの地名になったそうです。
人情の厚い地だったんですね。
駅は無人駅で
駅前には熊野関連の案内板が所狭しと立てられてありました。
ここからはICOCAは使えません。
切符を買わないといけないそうです。
切符を買って単線電車に揺られ、和歌山経由で
帰路に着いたdoironでした。
このシリーズ終わり。
えーっと、短い桜の季節の
花見の話題が済んだところで
ブログは街道へと戻ってまいります。
力侍神社から相変わらずの田んぼ道を歩くと、
すぐに交通量の非常に多い国道24号に出ます。
そこを横切って道はまっすぐ続いています。
導き石を頼りに進んでいきますと
地蔵堂がありました。
中を見ると、まさに地蔵がひしめき合うような状態。
なんだかいつもワイワイと楽しそうにやってる雰囲気でした。
きっと今頃、
「この前わしらの写真を撮っていった変な奴がいたなあ」
「そうや、あいつわしらと同じような頭しとったで~」
と盛り上がっているかもしれません。
そこには波切不動尊が祀られています。
名前からしてここで「波」といえばやはり紀ノ川でしょう。
暴れ川の紀ノ川の、
ここが波打ち際だったときもあったのかもしれません。
そしてその先で、こういう道と、
こういう道が
交差するところに立派な道標がありました。
これ。
北大坂みちと刻まれてありますが、
こういう道は初めて目にしました。
「北へ行くと大坂への道」という意味でしょうねきっと。
別の面に「三国一錐纉不動尊」と刻まれ
そしてその上にはどうやら「根来寺」と刻まれているようです。
山口王子近くにも
この寺の名前が刻まれた道標がありました。
当時のお寺の勢力が
いかに大きかったかということを窺わせます。
このあたりは昔の街道の風情が残っているところですが、
道はややこしくくねくねしています。
ここでも、導き石を頼りに進みましょう。
街道沿いに正念寺というお寺がありました。
後にまたこのお寺のことが登場しますので
覚えておいてください。
門構えの上に「鬼瓦」、「こま犬」、「しゃちほこ」が
置かれたやたら豪華な瓦屋根でした。
しかも狛犬が逆立ちをしています。
と、そうこうしているうちに
前方に紀ノ川の堤防が見えてきました。
堤防にポツンと案内板が立っています。
そこから少し下流の川辺橋まで
堤防の下の道なきところを歩いていきますと、
ちょっとした広場の奥に、
地蔵さんがずらっと並んでいるところに出ます。
全部で10体ありました。
なぜここにあるのかは不明です。
大阪を歩いている時と違って、
どうも資料や知見が少なくて
追求していくとわからないことが多いですね。
そこから堤防に上がっていくところに
道しるべが立てられてありました。
それに沿っていくと、
紀ノ川を渡る橋「川辺橋」にさしかかります。
春先の川の堤防は賑やかです。
いっとき一世を風靡したセイヨウカラシナや
クサフジといった河原に多い植物が
堤防で風に揺れていました。
それにしても紀ノ川は大きい。
有吉佐和子の小説「紀ノ川」の中で、
主人公の「花」は九度山から
嫁入り道具を積んだ船を5艙も連ねて
この川を下ったことになっています。
また2005年の8月にはdoironはこの川で
生まれて初めてのカヌーを経験しています。
このブログの2000話以上昔で
記念すべき第2話でそのことを書きましたっけ。
その頃カヌーでくぐった橋を
今こうして歩いて渡ることは
想像もできなかったことです。
この川辺橋は全長775.5m。
歩いて渡るのに、途中写真撮影をしたり
下流を眺めたりしながら
ちょうど10分を要しました。
結構長い橋やなと思ったら、
なんと和歌山県下で最も長い橋なんだそうです。
渡りきったところの橋柱がこれ。
街道はこの後左に曲がって布施屋を目指しますが、
一旦右折して河原に降ります。
時間も正午を少し回りましたので、
ここらで昼食です。
おりた河原にはこんな立札が・・・
散弾銃でカワウや
アオサギといった
有害な生き物を捕獲しているとか。
カワウやアオサギが有害獣とは知りませんでした。
調べてみたら、両者とも魚の捕食で
水産資源を犯す鳥で、
特にカワウは大量の真っ白なふんで環境汚染を招くので
平成19年に狩猟対象に加えられたんだそうです。
看板に書かれていた狩猟実施日を見たら
その日は大丈夫なようなので安心して入っていきました。
川べりに陣取って、さあ昼食です。
熊野街道の途中ですが
ちょっと休憩。
今年は桜の時期が短いようで
ここらでひとつ、花見の話をば。
先日少し寒かったけど、
以前のエイメンバーと
いつもの公園で花見をした。
20年以上毎年開催しているこの花見だが、
昨年は予定日に大雨が降ったし、
メンバーの一人が怪我をしていたので
やむなく中止になっていたから、
2年ぶりである。
このメンバーは山歩きも一緒にするメンバーなので、
アウトドアには恐ろしくなれている。
手際よくBBQの火を用意し、
山道具で沸かした湯で、
お湯割り何かもお茶のこサイサイである。
食材もスーパーで買ってきたものでも、
牛乳パックを広げて作ったまな板の上で
チョチョイとBBQ用に下ごしらえをする。
ロケーションはというと
今年は寒かったということもあって、
会場の助松公園はいつも満杯なのに、
その日は結構空いていて、
見上げたら桜、見上げなくても桜の
静かな一等地に陣取ることができた。
しかも毛布屋さんもいるので、
花見席も桜色の毛布が
何枚も敷き詰められた豪華席である。
そう「中高年の花見 入門講座」の
講師になれるような人ばかりなのである。
実は、今回はいつも段取りをしてくれる
メンバーの一人が入院中で、
いつもその人が段取りをしてくれていたこともあって
またもや開催を延期しようかと相談したが、
昨年も雨で中止になっていたから、
まだまだ毎年続けていくためにも、
今年は絶対やりたいという声が強かった。
そこでその人のこれまでの役割を
みんなで分担してなんとか開催にこぎつけた、
というわけである。
近頃は、みなさんエイに集まることもなくなったので、
積もる話は山ほどあるから話は尽きない。
山の思い出も、それこそ山ほどある。
退職されてから海外旅行に
頻繁に行っているメンバーの一人からは、
先日トルコ旅行から帰ってきたばかり
という楽しい話も聞かせていただいた。
また時事ネタでもみんな物事に
一家言を持つ人ばかりなので、
STAP細胞にまつわる話しは
とても盛り上がった。
ブログには書けないけど・・・。
肴は焼き肉、タコ焼き、カツオのたたき作り、
ごはん系はお手製ちらしずし。
そしてアルコールはビール、
ワイン、日本酒、焼酎の飲み放題。
これで盛り上がらないわけがない。
花びら1枚が数枚になって
一輪の花。
一輪の花が数輪集まって枝の先につき、
枝が集まって桜の木になる。
そして桜の木が集まって、桜並木になる。
人は一輪の花にすぎなくても、
その一輪が集まって作る世界は
こんなにも華やかに輝くのだ。
桜を見ながらそんなことを考えていた2014の花見でした。
ちょっと街道には見えない道が、
田んぼと田んぼの間の水路に沿って
クネクネと続いていきます。
おっ、道端にはノビルもたくさん生えています。
そして溝の中にはタガラシが・・・
昔に家の近所でよく見かけた景色です。
ところどころに集落がある
典型的な農村風景の中
神波(こうなみ)の集落に入っていきます。
やはりこの地名も紀ノ川に関連しているんでしょうね。
きっとこの集会所にも
地元の人が集まって
doironの村のように
ワイワイとやっているんでしょう。
村中を抜けていくと・・・
おや?通行止めです。
なんと村はずれの橋ごと落としています。
都会じゃ考えられないですねえ。
先ず仮橋をかけて、
そこにつながる道もつけてから
橋を撤去という手順を
豪快に無視した工事でした。
下の橋まで遠く、それこそほんとのあぜ道へと
大きく迂回をします。
すると道の先に畑仕事の手を休めて
座っている女性がいます。
近づいてみると・・・よくできた案山子でした。
超リアルでした。
通行止めの橋を迂回しましたが、
街道はその先にもまっすぐ続いています。
おお~、この街道に交わる川沿いの道には
桜がたくさん植わっています。
満開になればさぞや見事でしょう。
おりしも村の人たちが出てきて、
ぼんぼりをつけたり花見の準備に余念がありません。
この道を歩いたのは3月25日。
残念、一週間あとだったら
壮観な景色が見れたかもしれません。
先を急ぎましょう。
この家の庭の背の高いシュロを目印に進んできました。
そのシュロのところで道は左折。
もちろん導き石も埋められています。
しばらく行くと左に
「中村王子跡」
の立て看板がありました。
例の熊野ブルーの案内板ではありませんし、
前に車が止めてあったので
危うく見逃してしまうところでした。
それにしても、このあたりの道沿いには
大きな倉があったり、
超立派な門構えのある
「中村」の表札をあげている旧家が目につきました。
中村王子と少なからず関係があるんでしょうかね。
このあたりは田園地帯ののどかな道ですが、
ところどころに大きな樹があります。
その樹の向こうに見えている山、高積山の麓が、
本日の目的地である布施屋のあるところです。
まだ距離はありますので、まだまだ楽しめそうです。
やがて前方に鳥居の姿が見えてきました。
「力侍神社」です。
鳥居は貫が角材で
柱を貫通しておらず
くさびが入り、額束もなく
鳥木も角材の典型的な伊勢鳥居です。
なぜ伊勢鳥居なのかは、
境内の由来の中には書かれておりませんでした。
鳥居の根元には
「川辺王子跡」の石碑も建っています。
川辺王子といえば
この日歩き始めたばかりの
上野の集落にありました。
神社形態が変遷しているのと、
このあたりが紀ノ川の流れで
たびたび地形が変わったので、
王子も変遷したようです。
長い参道を歩いていくと
一番奥に八王子神社と力侍神社の本殿が並んで鎮座しておりました。
いずれも極彩色の飾りで彩られた社を構えておりました。
力侍神社は力持ちの神様である
「天手力男命」を主祭神としています。
境内では多分この神社の宮座の人達でしょう。
たき火をしながら談笑をしておりました。
社務所に立ち寄っていると、
そのうちの一人が
「スタンプもらって行ってや。
帳面まだあるかいな」と声をかけてくれました。
これが押印帳。
そういえば雄の山峠を下ったところにある山口王子に、
スタンプの押印台があったのを思い出しました。
これからはこれを持って歩くことにしましょう。
桜が少し咲き始めていた境内から
再び街道に戻り、紀ノ川へと進んでいきます。
前回初めて和歌山県に入った熊野街道歩き。
熊野までまだまだ先は長いので
頑張って歩きましょう。
今回歩いたのは前回の続き、
紀伊から紀ノ川を越えて布施屋までです。
では出発します。
紀伊駅に着いたのは10時20分頃。
天気はうすーく雲の出ている
絶好の歩き日和です。
駅を出て、
前回熊野街道から別れて
駅に向かった県道7号を
こんな看板に突っ込みを入れながら
前回とは逆に東に向かいます。
歩道がないので歩きにくい道です。
途中の田んぼには
一面紫になるほどの
ホトケノザが満開でした。
一面レンゲとかの田んぼはよく見ますが
こんな田んぼは初めて見ました。
ホトケノザにも肥料効果はあるのでしょうか。
10分ほどで分岐点に到着します。
ここでは分岐の反対側から
熊野に向かう旅人を見送るように
地蔵さんが座っておられます。
そんな地蔵さんに見送られて
さていよいよ街道部分に入っていきます。
これが地蔵さんから見える景色。
今回の旅の手引きとなったのは、
和歌山県などが出している街道マップと
和歌山絵本の会が発行している
「いっしょに歩こう熊野古道」という冊子です。
街道マップは和歌山県庁から取り寄せました。
冊子は和泉市の図書館で見つけたものです。
和歌山まで行って図書館とかで
資料を探そうと思っていたのですが、
熊野街道つながりということで
和泉市にも結構いろんな資料がありました。
一番手に入れたかったのは、
「熊野参詣道王子社及び関連文化財学術調査報告書」。
2012年に和歌山県の教育委員会が作成した
137ページにも及ぶ報告書です。
それもネットで探してプリントアウトすることができました。
おいおい読んでいこうと思ってます。
さてここから街道は
しばらく紀ノ川が運んだ
豊かな土壌が堆積してできた
平坦地を進みます。
田んぼのあぜ道や村中を
くねくね曲がった道を行きますが、
でもちゃんと分岐ごとに
導き石が埋められているので大丈夫です。
これが、導き石。
歩きだして10分もしないうちに、
熊野ブルーで彩色された案内板が現れます。
ここが川辺王子です。
前回歩いた大阪と和歌山の境界に架かっていた
「境橋」から数えて4番目の橋付近にあったことから
「四橋王子」と呼ばれたこともあったようです。
石にはちゃんと八咫烏が刻まれていました。
ここにはdoironでさえくぐるときには
頭を下げないといけないほどの
小さな鳥居があります。
形式はおなじみの明神鳥居です。
ふたつの鳥居をくぐって参拝をすると、
そこには石燈籠と数基の小さな五輪塔が祀られていました。
王子を出ると田んぼの中の細い道を進みます。
と、ふと左を見ますと、
大きな樹木とその根元に
ちょっと珍しい土の地蔵堂が見えましたので行ってみました。
樹木はクロガネモチでした。
紀伊の駅の近くにあった巨木と同じです。
そして土の地蔵堂の中を覗いて見ますと、
中におられたのは
そのお姿からして「阿弥陀如来」。
しかも立ち姿であることから
浄土真宗の影響を受けていると推察されます。
浄土真宗は「末法思想」に立脚するもので、
その末法思想こそが
多くの人々を厭世的に熊野へ駆り立てた
要因の一つであるといわれてます。
街道から少し離れていますが、
そんな熊野へ通じる流れを組む
土の祠なんだろうと思ったdoironなのでした。
木陰でしばしいにしえの空気に触れた後、
再び街道に戻って歩きはじめます。
田んぼの縁には、
ホトケノザ、オオイヌノフグリ、
ハコベ、タネツケバナなどが競って咲いていました。
春ですねえ~
そうそう、そういえばこのあたりは
「ニホンタンポポ」が多い所
冊子に書かれてありました。
確認すると、確かに外来種の
西洋タンポポのように
矢印部分の総苞外片が反り返っておりません。
きっと在来種のカンサイタンポポでしょうね。
野の花と話をしながら歩く
のどかな春の田んぼ道はまだまだ続きます。
いつも記事を寄せている出版社主催で
「中高年 初めての山歩き講座」
という催しがあったので参加してきました。
登山歴ン十年のdoironにとっては
初めての・・・ではありませんが
まあ、これからはガシガシ登るようなことはせず
中高年にふさわしい山登りを楽しむべく
仕事半分で参加してきました。
講師は、山歩き旅ばかりを企画している
メンバー6人の小さな旅行社の代表の方でした。
昨秋、出版社主催でこの旅行社の方と
丹後の山に出かけたことがあります。
メンバーは月のうち20日くらいは山に入っているそうです。
で、「たまの休みは何をしているんですか」と尋ねたら
「休みの日には山に登っている」とおっしゃってました。
それくらい山が好きな人の集まりなんですね。
参加者は20数人と
少しさびしい感じでした。
申し込みはもう少し寂しかったのですが
当日参加でこられた人も数人おられて
それは全然ウエルカムでした。
参加された人にはお土産がつきます。
主催の出版社の了解を得て
こんなしおりを配らせていただきました。
開催に先立ち、doironが挨拶をしました。
「このようにいいお天気の日に
インドアで講習会に参加しているより
アウトドアで動き回りたい皆さんばかりでしょうが
この講座を受けると10回以上山に登ったのと
同じ効果がある。そんなお話を聞かせていただけると
思いますので最後までよろしくお願いします」
みたいな感じでした。
講座は2時間ありました。
先ず最初は基本的な山の楽しみ方から入りました。
山の楽しみ方は
山頂に行くのが目的ではなく
その行程に楽しみがあるのだと
モニターで実例の写真を紹介しながら
熱く語ってくれました。
確かにそれは共感するところです。
いつも仲間とワイワイ歩き
自然を愛でて歩くことを楽しんでますし
街道歩きも熊野や高野山に何かがあるから
行くのではなくて、
途中の過程を思いっきり楽しんでますからね。
さらに講義は
ハイキングと登山の違い。
木の階段道の歩き方。
「ミニマムインパクト」という自然に
出来るだけ負担をかけない考え方。
中高年にふさわしい行程のとりかた。
山歩きに大切な保険の種類。
等々の話から
登山靴とアウトドアシューズの違い。
リュックのリッター表示のこと。
雨具などのウエアのこと。
など知りたかったことや
持ち物編では
実際のモノを見せながら
替え下着の重要性
トイレットペーパーの有用性
持参すべき水の量
便利なジプロックの使い方
から雨具のたたみ方
荷物を収納する際の
パッキングの方法に至るまで
大変役に立つ内容だったと思います。
プロならではの細部のこだわりは
登山歴の長いdoironでも
「あ、今度はこうしてみよう」と
思うような目からうろこの情報もありました。
そしてdoironが最も「ふ~ん」と感心したのが
アンダーウエアの進化の話でした。
あるメーカーの肌着が
水分の発散性が抜群で
いくら汗をかいても水分を速やかに
外に発散させるので
外を触るといつも濡れた状態になっている
にもかかわらず内側はさらさらなんだそうです。
講師の方はこういってました。
蒸れない濡れないのゴアテックスの発明
LEDヘッドランプの発明
そしてこのアンダーウエアの発明が
山のプロの人間としては
三大発明、いまや三種の神器となっているとのこと。
さっそくそのアンダーウェアを
購入しようと思いました。
山のみでなくチャリンコやフニャランにも
役に立ちそうです。
最後に参加者からの質問に答えて
水分の摂り方、水分の種類
思わぬ雪山の対処方法
荷物の重さの目安などについて
話をされた後
doironのシメで講座は無事終了。
たしかに最初の挨拶通り
10回の山では取得できないほどの
ノウハウを伝授いただきました。
しおり作成、受付、挨拶、写真撮影、片付け
そして今回の講座の結果についての
原稿作成もしないといけませんが
こんなお仕事なら大歓迎ですわ
Kさんはこの長尾街道を
30数年間雨の日も風の日も
チャリンコで通勤していました。
飲んで帰るときは
たいていフラフラになるので、
きっと電車で帰ったと思いますが・・・。
年間250日として30年で7500回、
往復で15000回。
多分有史以来最も多く
長尾街道を行き来した人だったのではないでしょうか。
松原市内の官庁街を抜けたところに
大きなモニュメントが立っています。
それはこの街道沿いを流れていた
今井戸川の流れを管理する
中門の記念碑だと思われます。
その横には東と西に分岐する
水流の堰高を定める享和元年(1801)7月の
分量石が残されています。
こんな風に川に置かれていたようです。
その先で長尾街道は
中高野街道と交わります。
その交差点がここ。
画面右から左に通るみちが
中高野街道です。
この交差点は二つの街道が交わる要衝で
休憩所としてお茶屋が並んでいたそうです。
なので今もこの交差点は
「阿保茶屋」(あおんちゃや)と言われています。
「阿保」はここの町名になっています。
なぜ「阿保」なのか、
そしてその名前に秘められた話は・・・
それはちょっと寄り道しすぎで、
長くなりますのでまた別の機会に書きましょう。
それにしても、この交差点は
近鉄河内松原駅に近いこともあって
人も車も頻繁に往来しております。
今も昔も交通の要衝ということですねえ。
そこを過ぎると街道は、
ため池を眺めながら、
あるいは畑に沿って
一気にのどかな雰囲気になります。
中央環状線の高架下をくぐり
しばらく歩くと松原市を出て
羽曳野市に入っていきます。
このあたりでようやく10キロ。
途中給水をしながら歩いていますが、
そろそろ生ビールが
ちらちらと頭に浮かんできました。
今日はKさんが通っている
スイミングプールの仲間が
串カツ屋をしているというので
そこで一杯やるとのことでした。
楽しみ~。
先を急ぎましょう。
ところで、「大阪の街道と道標」という本があります。
もう既に絶版になっており
新しくは手に入らないのですが、
図書館で見つけたので
その内容を参照にして歩いています。
それによりますと
この先にも道標が3つほどあったらしいのですが、
地図に記載されているところを
キョロキョロしましたが、
見つかりませんでした。
街道は羽曳野市の北っぺりをかすめて
いよいよ藤井寺市に突入です。
うう~待ってろよ生ビール。
雄略陵には
こんな立派な石碑が立っていました。
そしてついに本日の
街道最終地点に到達です。
そこにはこんな道標がありました。
「右 いせ 道明寺 藤井寺」
と書かれた道標です。
道の突き当たりにあるので
Kさんも毎日眺めていたそうです。
そこを右に折れ伊勢に向かう・・・のではなく
待ち合わせの藤井寺駅に到着したのが、
約束の時間の20分前でした。
なかなか絶妙なペース配分でしょ。
歩行距離は13.4キロ。3.3里。
時間で2時間40分の
長尾街道歩行これで終了。
そのあと串カツ屋に行くつもりでしたが、
何とその日は定休日。
「片隅でも開けといて」とKさんはお願いしたそうですが
却下されたそうです。
でも居酒屋でみっちり3時間半
積もる話を語り合い、
めちゃ楽しい時間を過ごし
遠路はるばる電車で帰宅した
doironなのでした。
このシリーズ終わり。
さあ、またKさんを訪ねての
街道歩きに戻ってきました。
それにしてもKさんとの思い出は尽きません。
家を新築された時に殻つきのカキをお届けしたのですが、
新調なったばかりの台所で
それを焼いたら、
バチバチはじけてキッチンの壁を
汚しまくってしまったってこともあったっけなあ。
初めてサロマ100kmに一緒に行ったとき、
完走後Kさんの部屋で一杯飲んでいる時に、
Kさんがピスタチオを殻ごと
バリバリ食べていたのに驚かされたこともありました。
そして何より、ランニング仲間の会報作りを
doironに引き継いでくれたおかげで、
今のライター仕事の下地を作ってくれたことには、感謝感謝です。
脱帽するくらいでは足りません。
脱毛しないといけません。
というギャグもKさんに教えていただきました。
そんなKさんが住んでいる藤井寺まで
堺市駅を過ぎたらあと9キロ。
頑張って目指しました。
街道らしい道をくねくねテクテクと歩いて、
堺の蔵前町の辺りまで来ました。
ここにはマンションの横に
こんな立派な道標がありました。
「右 たき谷 金剛山 道」とあります。
地蔵堂の後ろにひっそりとたたずんでおりました。
そしてそのあとに電柱の横に
ポツンと置かれた道標も見つけました。
こちらには「右 勝手大明神」と刻まれてあります。
この記載はこれまで何度も見ました。
「勝手大明神」とは、勝手に祀り上げた大明神
というわけではなく
吉野八社明神のひとつです。
「勝手」は入り口、下手を意味しますが、
その字面から勝負事の神様として信仰されたそうです。
道標の他の面には
あの泉佐野市町の熊野街道にあった道標のように、
指をさしている浮彫の手の下に
「葛井寺 道明寺」と刻まれていました。
そんな味のある道標をあとにして、
しばらく行くといよいよ堺市から
松原市へと入っていきます。
松原市はかつてdoironが働いていた職場のあるところです。
Kさんともその職場で知り合いました。
広報担当の先輩で、
当時別の部署にいたdoironが、
Kさんの作った社内報の名前を
考案したことがあります。
その名も「ねっとWORK」で、
Kさんがとても喜んでくれたのを憶えています。
仕事でいつも走り回っていた松原市ですから
土地勘はあります。
道を歩いていると、
ああこの店にも仕事できたことがあるなあとか、
狭くてすれ違いの難しかったこの道が
広くなったんやあみたいな
思い出とも驚きともつかぬ光景が
ゴロゴロ転がっていました。
西除川が近くなってくると、
そこに「惣井戸」があります。
これ。
寛政8年(1796)に貞子の
ちゃうちゃう、村人の共同井戸として
長尾街道沿いに掘られた井戸だそうです。
長尾街道沿いのこの井戸は
行き交う人や馬や牛の喉を潤してきたのでしょう。
道標、ため池、橋に加えて
井戸もまた歴史の証人であったりするのですね。
その惣井戸のある先で
長尾街道は下高野街道と交差します。
そこがこの交差点。
画面の左から右に走る道が下高野街道です。
その先で一歩通行を逆行して
近鉄南大阪線の踏切を渡り
さらに進んでいきますと
松原市の官庁街へと入っていきます。
左が市民体育館、右が図書館です。
このスーパーがあったところには、
数年前まで市民病院がありました。
その病院の閉鎖の際は
広報担当をしておりましたので、
それはそれは大変でした。
新聞、テレビ、ラジオあわせて
21社のマスコミを相手に
大立ち回りをしたのを思い出します。
国道309号線を渡ってすぐのところに、
長尾街道の名を刻んだ古い道標があります。
その一面に刻まれているのが
「ちちかみはし」の文字です。
これは遠い昔、
京から来た高貴な身分の母親が
愛児に乳房を含ませている時に
急にむずかり、乳房を歯でかみきってしまったため、
母親は愛児を抱いたまま絶命した
という伝説の残る場所だそうです。
死んでも子供を抱いて話さなかった
母親の愛を感じさせますね。
松原市には数多くの伝説や民話が残っており、
それを伝える熱心な語り部の方もおられます。
ホームページを一度チェックしてみてください。
当時の今井戸川の流れを模した水路がしばらく続くと、
おや?その突き当たりに大きな石が建っています。
果たしてその正体は?
次回に続きます。
長尾街道を書き始めたばかりなのに
ちょっと中断です。
今日から4月。
公務員生活をしていた頃は
この4月1日というのは特別な日でした。
新しい年度に入って
新しい仲間と新しい仕事
仕事のお財布も切り替わるしね。
ところがそんな公務員も卒業して2年が過ぎ
民間人、しかも自営ともなると
4月1日という日にも
さほどの感慨も浮かんでは来ないものだ。
ああ今日から4月かという程度。
しいて感慨と言うなら
消費税が5%から8%に引き上げられたことでしょうか。
稼ぎの少ない身としては
3%の差は大きいもんね。
そんな4月1日に定期検診に行ってきたので
書いておくことにする。
今なら間に合う消費税対策なんて
記事を書いておきながら
よりによって増税したその日に
医療機関にかかる予約日を入れてたなんて
ほんまに口だけ人間ですわあ。
ま、この日の予約をとったのが昨年の12月だったので
無理もないと言えばそうかもしれない。
3月31日以前に検診の予約していれば
医療費も薬代も5%の消費税で済んだのに
返すがえすも残念ではある。
今日はまたエイプリルフールの日でもある。
そんな日に検診なので医者に「調子はどうですか」と聞かれたら
「最近あまり眠れなくて・・・」といってやろうかなと
ミセスに言ったら
「そんな大嘘はないで。あんたなんか
瞬間に寝てるで。
春眠暁を覚えずというけど
あんたの場合は『瞬眠』や」とあきれられてしまったぜ。
確かに寝たと思ったら、次の瞬間に
朝になっている「瞬眠」でもあるしね。
そこまで医者をだますのはよそうと思ったよ。
今日の検診は血液検査と診察だ。
まず朝早く8時前に絶食で病院に到着した。
検査の場所に行くと
まだ開始10分前だというのにもう
順番はすでに50番。
あ~、待合室にあふれている皆さんも
消費税を念頭に入れてなかったのね。
待合で話をしているのを聞いたら
「トイレットペーパーを買いだめしたけど
ここの予約を3月中にしておけばよかった」
などと話をしているおば様達もたしかにおられました。
順番が回ってきて、さあ採血というときに
doironの腕に針を刺す看護師さんに
「今日は3%分多く血を取られるのかな」
といったら、マスクの下でチラッと笑ってくれました。
診察は、その血液検査の結果を踏まえて
行われるので結果の出る2時間後である。
病院を抜け出して
カインズカフェで遅い朝食を摂った。
ランコさん、いつもお・も・て・な・しをありがとう。
さて今回の血液検査の目玉は
尿酸値と心筋の数値であった。
尿酸値は前回高くて、
痛風と疑われる症状もあったので
生まれて初めて尿酸値を下げる薬を処方された過去を持っている。
しかし、ものの本によると
その薬を飲んだ直後に結晶が暴れて
痛風の症状が出ることもある。と書かれていたし、
その時は症状もおさまっていたので
実は処方された薬をまったく飲んでいなかったのだ。
これで数値が高ければ医者には
「実は飲んでないんです」と告白しなければならない。
数値が低ければ黙っておこうと
心に固く誓って診察に臨んだのだ。
結果、今回の尿酸値は
見事に一気に標準値に下がりました。
前夜友達と飲みに行ったにもかかわらず、です。
結局薬も飲まず今日の日を無事に
迎えることができたのも
ひとえにdoironの努力のたまものというものでしょう。
医者も「処方した薬がよかったんやな」みたいな感じで
これですべて丸く収まった。
しめしめである。
これこそエイプリルフールというものである。
もうひとつの心筋の数値だが、
これは前回の検査の時に一気に好転していて
医者に心臓もよくなってると言われていた。
それもまあ、人間の体の不思議なところで
たまたまとかまぐれとかということもあるかもしれないと
本日再度測ってもらうことになっていた。
そしたらそれはやはりたまたまでもまぐれでもなく
数値はさらに改善されていたのである。
まことに喜ばしいことである。
まさかエイプリルフールではないと思うのだが・・・。
こうして日に日に血液検査の結果も
どんどん改善されていってるところを見ると
今の生活のリズムが
doironにはちょうどいいということなんだろうと思っている。
介護とフリーライター生活の中で
月間600キロほどのエアロバイクと
100キロほどのランそして街道歩き
週に一度のエイ
また、家にいるときは昼食後の軽い昼寝。
今年度も「規則正しく、美しく」
(清く、正しく、美しく、ではありません。念のため)
これをモットーに頑張ろうと思う。