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いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道紀之國人情編 4

2014年04月19日 21時56分52秒 | ウォーキング

それにしても
伊太祁曽(いだきそ)とは奇妙な名前ですねえ。

調べてみますと、
「伊太」とはやはり「板」に由来するそうです。
そして「祁曽」は社(やしろ)の古称
「こそ」からきているというのがもっともな説です。

そもそも「紀之國」は「木の国」ですから、
木の神様「五十猛命」を祭神とする神社ならではの名前です。
そんな伊太祁曽神社のある街が近づいてきました。

ここまで来ると導き石は極端に少なくなります。
手持ちの地図とにらめっこしながら、
山里の集落を下っていきます。



田んぼのところでは
道はまるで蛇のようにうねっています。



田畑にとって水は命、
昔は水の確保のために命を賭けた
水騒動が起こったくらいですからね。

その水が流れる水路の形最優先で、
道がつけられています。

紀伊から布施屋の間の田園地帯でも
そんな光景をいくつも見かけました。

県道を横切り、
伊太祁曽に向かう道には、
よほどわかりにくい所には
小さな案内があります。



それに沿って、生け垣などに挟まれた
狭い道をてくてくと進みます。

おっと、この家のエリカは
目が覚めるような立派な紫です。



そして道端にはこんな石の道標がありました。



見ると「左 山東道」と書かれてあります。

手持ちの資料には、
その道標のことは書かれてありませんでした。

で、調べてみると、
どうやら「山東道」とは、
桃山町辺りから安楽川沿いに南下し、
貴志川から今の貴志川線に沿って
山東を通過し
伊太祁曽神社に詣でる道だったようです。

ちなみに貴志川電鉄の貴志川に向かって
最初の駅が「山東」駅です。

その先を右に折れてすぐのところ、
平尾自治会館の前にあるのが

平緒王子跡です。



熊野御幸の際に付き添って
日記をしたためていた藤原定家らは、
一行を離れてもう少し西にある日前宮を参拝するために
ここをスルーしたそうで
その頃の記述には出てこない王子だそうです。

しかも秀吉の紀州攻めで
ここにあった王子社は衰退していき、
その後貴志川電鉄のひとつ西の駅
「吉礼」の駅近くにある都麻津比売神社に合祀された旨が
案内板には書かれています。

今回最後の王子跡でした。



王子を出てしばらく行きますと、
橋に出ます。



資料によりますとこれがまさしく三番目の
「小栗橋」でした。

ところが、橋のどこにもその表示がありません。

せっかくの「小栗」橋なんですから、
doironが表示しといてあげました。



古道はほどなく県道を横断するのですが、

「おや~?」その県道の橋のガードレールに
銘板がついています。
「小栗橋」と書かれてあります。



それはおかしい。
資料では確かに、先ほどの橋が
小栗橋のはずなんですが・・・。

同じ資料で歩いている人がいたら、
doironの書いた表示を見つけて
喜んでいただけるかもしれませんので
そのままにしておきましょう。

それにしても、寺の名前や
坂の名前、樹木の名前などではなく橋の名前に
よくその「小栗」の名前が残っているのはなぜでしょう。

それはたぶん、
照手姫は小栗を土車に乗せて運んでいたから、
小さな溝や小川でさえ超えるのは大変だったはず。
もしかしたらそのために、
地元の人や小栗一行が渡した木などが
橋として残り、名前が受け継がれたのかもしれません。



根拠はありませんが・・・。

奇妙な建売住宅をチラ見しながら



その先で熊野古道は踏切を越えていきます。
「たま電車」、
「いちご電車」、
「おもちゃ電車」が運航していることでおなじみの
和歌山電鐡貴志川線です。



そうそう三毛猫の「たま」が駅長をしていることでも
お馴染みのあの鉄道です。


2008年10月のブログから

と、その時でした。

目の前をすっと横切る一筋の黒い物体が・・・。

それはあの和佐大八郎の射た矢なのか、
はたまた役行者の気の塊なのか、
あるいは小栗の執念なのか。

果たしてその正体は・・・次号に続く。


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