ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

友を訪ねて3.3里 長尾街道2

2014年04月02日 21時06分18秒 | ウォーキング

さあ、またKさんを訪ねての
街道歩きに戻ってきました。

それにしてもKさんとの思い出は尽きません。

家を新築された時に殻つきのカキをお届けしたのですが、



新調なったばかりの台所で
それを焼いたら、
バチバチはじけてキッチンの壁を
汚しまくってしまったってこともあったっけなあ。

初めてサロマ100kmに一緒に行ったとき、
完走後Kさんの部屋で一杯飲んでいる時に、
Kさんがピスタチオを殻ごと



バリバリ食べていたのに驚かされたこともありました。

そして何より、ランニング仲間の会報作りを
doironに引き継いでくれたおかげで、
今のライター仕事の下地を作ってくれたことには、感謝感謝です。

脱帽するくらいでは足りません。
脱毛しないといけません。

というギャグもKさんに教えていただきました。

そんなKさんが住んでいる藤井寺まで
堺市駅を過ぎたらあと9キロ。
頑張って目指しました。

街道らしい道をくねくねテクテクと歩いて、



堺の蔵前町の辺りまで来ました。



ここにはマンションの横に
こんな立派な道標がありました。



「右 たき谷 金剛山 道」とあります。

地蔵堂の後ろにひっそりとたたずんでおりました。



そしてそのあとに電柱の横に
ポツンと置かれた道標も見つけました。



こちらには「右 勝手大明神」と刻まれてあります。

この記載はこれまで何度も見ました。

「勝手大明神」とは、勝手に祀り上げた大明神
というわけではなく
吉野八社明神のひとつです。

「勝手」は入り口、下手を意味しますが、
その字面から勝負事の神様として信仰されたそうです。

道標の他の面には
あの泉佐野市町の熊野街道にあった道標のように、
指をさしている浮彫の手の下に
「葛井寺 道明寺」と刻まれていました。



そんな味のある道標をあとにして、
しばらく行くといよいよ堺市から
松原市へと入っていきます。



松原市はかつてdoironが働いていた職場のあるところです。

Kさんともその職場で知り合いました。

広報担当の先輩で、
当時別の部署にいたdoironが、
Kさんの作った社内報の名前を
考案したことがあります。

その名も「ねっとWORK」で、
Kさんがとても喜んでくれたのを憶えています。

仕事でいつも走り回っていた松原市ですから
土地勘はあります。

道を歩いていると、
ああこの店にも仕事できたことがあるなあとか、
狭くてすれ違いの難しかったこの道が
広くなったんやあみたいな
思い出とも驚きともつかぬ光景が
ゴロゴロ転がっていました。

西除川が近くなってくると、
そこに「惣井戸」があります。

これ。



寛政8年(1796)に貞子の
ちゃうちゃう、村人の共同井戸として
長尾街道沿いに掘られた井戸だそうです。

長尾街道沿いのこの井戸は
行き交う人や馬や牛の喉を潤してきたのでしょう。

道標、ため池、橋に加えて
井戸もまた歴史の証人であったりするのですね。

その惣井戸のある先で
長尾街道は下高野街道と交差します。

そこがこの交差点。



画面の左から右に走る道が下高野街道です。

その先で一歩通行を逆行して
近鉄南大阪線の踏切を渡り
さらに進んでいきますと
松原市の官庁街へと入っていきます。



左が市民体育館、右が図書館です。



このスーパーがあったところには、
数年前まで市民病院がありました。
その病院の閉鎖の際は
広報担当をしておりましたので、
それはそれは大変でした。
新聞、テレビ、ラジオあわせて
21社のマスコミを相手に
大立ち回りをしたのを思い出します。

国道309号線を渡ってすぐのところに、
長尾街道の名を刻んだ古い道標があります。





その一面に刻まれているのが

「ちちかみはし」の文字です。



これは遠い昔、
京から来た高貴な身分の母親が
愛児に乳房を含ませている時に
急にむずかり、乳房を歯でかみきってしまったため、
母親は愛児を抱いたまま絶命した
という伝説の残る場所だそうです。

死んでも子供を抱いて話さなかった
母親の愛を感じさせますね。

松原市には数多くの伝説や民話が残っており、
それを伝える熱心な語り部の方もおられます。

ホームページを一度チェックしてみてください。

当時の今井戸川の流れを模した水路がしばらく続くと、
おや?その突き当たりに大きな石が建っています。

果たしてその正体は?

次回に続きます。