いにしえの街道を歩くというのは
普段何気なく歩く道とは
明らかに何かが違う。
それは、何なのかよくわからない。
街並みの景色であったり、
道が持つ見えない力だったり
流れる風の色だったり
沁みついた人々の祈りだったりする
からなのかもしれない。
人々の暮らしはたしかに
この街道の上に成っていた。
そして今も成っている。
どことなく風情のある街道(府中町)の景色
一人で歩いていても
周りの人々の生活の姿に自分が溶け込み
なにか大勢の人々の
ザワザワした気配も背中に貼りつく。
そしてまるで風や光が街道に沿って流れているように
景色が移動してゆく。
街道を歩いているという意識から
そう感じるのかもしれないが
そういう事を排除しても
街道を歩くと感じるものがある。
霊感、というのではない
直感、ともいうべきものなのかもしれない。
その原因の一つが、
街道上にある多くの地蔵だ。
今回歩いた街道部分は4~5キロ程度だろうが
その道のいたるところにあったのが
地蔵尊
数えていなかったが
ざっと思い出しただけでも
一日で見た地蔵は
多分20を超えているだろう。
子安地蔵、子宝地蔵
安全祈願地蔵といろんな思いで
造られた幾多の地蔵があり
そこに注がれた数多の祈りがあった
のにちがいない。
小栗の名がついた地蔵(再掲)
平松王子近くの地蔵
三名地蔵と名がついてました
井ノ口王子跡にあった地蔵
少子化社会の救世主になれるか。
昔の人はわけのわからないことに
きっと怯え続けたんだろう。
それは病気であったり
予測できない気象であったりしただろう。
それに直面した時
人々は祈るしかできることがなかったはずだ。
そうして、見えない力に
すがって生きてきたからこそ
人々が行きかう街道沿いに
地蔵の建立が盛んだったのだろうと思う。
熊野に向けて人々の祈りは、
街道をゆききし、
その街道のいたるところで
祈りが注がれたがゆえに
街道はパワーストリートなのである。
近所には、この小栗街道(熊野街道)のほか
紀州街道もある。
次回の街道の旅は
そこを歩いてみようと思っている。
さて、次は和泉の名刹、松尾寺を
本日徒歩で訪ねたので
新シリーズ
「和泉名刹、ご明察」が始まるよ。
その時はまた