森野宗明論文を検討している途中ですが、今月13日の投稿で簡単に私見を纏めておいた水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」について、美術史学界の最新の動向を窺うことができる論文を入手したので、私の関心と重なる範囲で紹介したいと思います。
目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その12)─水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9308b3f160507cf01d0331261d799141
目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その12)─水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9308b3f160507cf01d0331261d799141
それは土屋貴裕氏の「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(『美術フォーラム21』44号、2021)という論文です。
美術史に疎い私は、失礼ながら土屋氏のお名前も存じ上げませんでしたが、東京国立博物館学芸研究部調査研究課絵画・彫刻室室長とのことです。
土屋貴裕(「東京国立博物館研究情報アーカイブズ」サイト内)
https://webarchives.tnm.jp/researcher/personal?id=69
さて、この論文は、
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はじめに
一、「後鳥羽天皇像」を支える記録
二、「後鳥羽天皇像」の不安定な構図
三、「後鳥羽天皇像」の「線」
四、似絵を似絵たらしめるもの
おわりに
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と構成されていますが、まずは問題の所在を知るため、「はじめに」を見て行きます。(p17)
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はじめに
鎌倉から南北朝時代にかけて隆盛をみた似絵は、写生画的、記録画的性格の濃厚な肖像画の一種で、この時代の美術の写実的傾向を示す作品群として認識されてきた。
なかでも水無瀬神宮の国宝「後鳥羽天皇像」(図1)は、似絵、あるいは鎌倉時代美術の写実性を語る上で必ず取り上げられてきた画像である。後鳥羽院が承久の乱に敗れ、隠岐に配流される直前、落飾前に藤原信実を召して描かせたとされる。その根拠は『吾妻鏡』承久三年(一二二一)七月八日条の「今日、上皇御落飾、御戒師御室(道助)、先之、召信実朝臣、被摸御影」との記述による。その五日後、後鳥羽院は配流先である隠岐へ遷幸することになる。
本図は似絵の名手と評される藤原信実の画業をうかがううえで貴重であるばかりでなく、似絵の現存最古作とも位置付けられてきた。配流直前の緊迫した状況下に描かれたという豊かな物語性は、似絵が写実的で真を写すという前提のもと、この画像が描かれた当時の後鳥羽院の悲嘆や憂いといった心情をも読み込む誘惑に満ちている。
だが従来の研究でも、『吾妻鏡』に記されるところの信実筆の「御影」が「後鳥羽天皇像」そのものかについては議論が分かれる。その一方で、この画像が似絵という作品群の「基準作」とみなされてきたことは間違いない。対看写照で描かれたことを保証するように面貌部分は細線を引き重ね、およそ縦四十、横三十センチメートルの小品の紙絵であることなど、私たちはこの画像から似絵の基本要素と呼ぶべきものを抽出しているところもある。
本論では、似絵の象徴的な作品ともいえる「後鳥羽天皇像」を見つめなおすことで、似絵における「写実」の問題について改めて考えをめぐらせてみたい。
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「だが従来の研究でも、『吾妻鏡』に記されるところの信実筆の「御影」が「後鳥羽天皇像」そのものかについては議論が分かれる」に付された注(1)を見ると、「疑問を呈す」のは戦後初期の藤懸静也「水無瀬宮蔵後鳥羽院俗体御影に就て」(『國華』六七九号、一九四八年)、白畑よし「鎌倉期の肖像画について」(『MUSEUM』二十八号、一九五三年)の二論文だけで、米倉廸夫・宮次男・村重寧、マリベス・グレービル、若杉準治・井波林太郎の諸氏は「肯定的」だそうですね。
美術史学界では圧倒的多数が「肯定的」とのことですが、果たしてこの結論は諸記録と整合的なのか。
第一節に入ります。(p17以下)
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一、「後鳥羽天皇像」を支える記録
『吾妻鏡』の「今日、上皇御落飾」のくだりには続きがあり、後鳥羽院の生母七条院(藤原殖子)が院のもとを訪れ面会したとある。これらの出来事は『吾妻鏡』以外でも『六代勝事記』『承久記(慈光寺本)』『同(古活字本)』『増鏡』『高野日記』に記録を留めるが、その内容が若干異なる。この点はこれまでも知られてきたことだが、諸本の差異に少しこだわってみたい。
御影がいつ写されたのかについては、『高野日記』では明記されないものの、『吾妻鏡』以外では院が落飾した後に写されたことになっている。またこの時の御影の行方だが、『吾妻鏡』では言及がなく、『六代勝事記』『承久記(慈光寺本)』では院が落飾した自らの姿を見て現況を思いやるという筋で、『承久記(古活字本)』『増鏡』『高野物語』【ママ】はこの画像が七条院に贈られたとある。特に『高野日記』では、七条院に贈られたこの御影が後鳥羽院を祀った水無瀬、もしくは大原(法華堂)の御影堂に安置されているとの情報も見える。
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少し長くなったので、いったんここで切ります。
私は『高野日記』は未読ですが、頓阿作とのことなので、成立は『吾妻鏡』に遅れますね。
頓阿(1289-1372)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%93%E9%98%BF