学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

土屋貴裕氏「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(その1)

2023-09-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
森野宗明論文を検討している途中ですが、今月13日の投稿で簡単に私見を纏めておいた水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」について、美術史学界の最新の動向を窺うことができる論文を入手したので、私の関心と重なる範囲で紹介したいと思います。

目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その12)─水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9308b3f160507cf01d0331261d799141

それは土屋貴裕氏の「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(『美術フォーラム21』44号、2021)という論文です。
美術史に疎い私は、失礼ながら土屋氏のお名前も存じ上げませんでしたが、東京国立博物館学芸研究部調査研究課絵画・彫刻室室長とのことです。

土屋貴裕(「東京国立博物館研究情報アーカイブズ」サイト内)
https://webarchives.tnm.jp/researcher/personal?id=69

さて、この論文は、

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はじめに
一、「後鳥羽天皇像」を支える記録
二、「後鳥羽天皇像」の不安定な構図
三、「後鳥羽天皇像」の「線」
四、似絵を似絵たらしめるもの
おわりに
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と構成されていますが、まずは問題の所在を知るため、「はじめに」を見て行きます。(p17)

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はじめに

 鎌倉から南北朝時代にかけて隆盛をみた似絵は、写生画的、記録画的性格の濃厚な肖像画の一種で、この時代の美術の写実的傾向を示す作品群として認識されてきた。
 なかでも水無瀬神宮の国宝「後鳥羽天皇像」(図1)は、似絵、あるいは鎌倉時代美術の写実性を語る上で必ず取り上げられてきた画像である。後鳥羽院が承久の乱に敗れ、隠岐に配流される直前、落飾前に藤原信実を召して描かせたとされる。その根拠は『吾妻鏡』承久三年(一二二一)七月八日条の「今日、上皇御落飾、御戒師御室(道助)、先之、召信実朝臣、被摸御影」との記述による。その五日後、後鳥羽院は配流先である隠岐へ遷幸することになる。
 本図は似絵の名手と評される藤原信実の画業をうかがううえで貴重であるばかりでなく、似絵の現存最古作とも位置付けられてきた。配流直前の緊迫した状況下に描かれたという豊かな物語性は、似絵が写実的で真を写すという前提のもと、この画像が描かれた当時の後鳥羽院の悲嘆や憂いといった心情をも読み込む誘惑に満ちている。
 だが従来の研究でも、『吾妻鏡』に記されるところの信実筆の「御影」が「後鳥羽天皇像」そのものかについては議論が分かれる。その一方で、この画像が似絵という作品群の「基準作」とみなされてきたことは間違いない。対看写照で描かれたことを保証するように面貌部分は細線を引き重ね、およそ縦四十、横三十センチメートルの小品の紙絵であることなど、私たちはこの画像から似絵の基本要素と呼ぶべきものを抽出しているところもある。
 本論では、似絵の象徴的な作品ともいえる「後鳥羽天皇像」を見つめなおすことで、似絵における「写実」の問題について改めて考えをめぐらせてみたい。
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「だが従来の研究でも、『吾妻鏡』に記されるところの信実筆の「御影」が「後鳥羽天皇像」そのものかについては議論が分かれる」に付された注(1)を見ると、「疑問を呈す」のは戦後初期の藤懸静也「水無瀬宮蔵後鳥羽院俗体御影に就て」(『國華』六七九号、一九四八年)、白畑よし「鎌倉期の肖像画について」(『MUSEUM』二十八号、一九五三年)の二論文だけで、米倉廸夫・宮次男・村重寧、マリベス・グレービル、若杉準治・井波林太郎の諸氏は「肯定的」だそうですね。
美術史学界では圧倒的多数が「肯定的」とのことですが、果たしてこの結論は諸記録と整合的なのか。
第一節に入ります。(p17以下)

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一、「後鳥羽天皇像」を支える記録

 『吾妻鏡』の「今日、上皇御落飾」のくだりには続きがあり、後鳥羽院の生母七条院(藤原殖子)が院のもとを訪れ面会したとある。これらの出来事は『吾妻鏡』以外でも『六代勝事記』『承久記(慈光寺本)』『同(古活字本)』『増鏡』『高野日記』に記録を留めるが、その内容が若干異なる。この点はこれまでも知られてきたことだが、諸本の差異に少しこだわってみたい。
 御影がいつ写されたのかについては、『高野日記』では明記されないものの、『吾妻鏡』以外では院が落飾した後に写されたことになっている。またこの時の御影の行方だが、『吾妻鏡』では言及がなく、『六代勝事記』『承久記(慈光寺本)』では院が落飾した自らの姿を見て現況を思いやるという筋で、『承久記(古活字本)』『増鏡』『高野物語』【ママ】はこの画像が七条院に贈られたとある。特に『高野日記』では、七条院に贈られたこの御影が後鳥羽院を祀った水無瀬、もしくは大原(法華堂)の御影堂に安置されているとの情報も見える。
-------

少し長くなったので、いったんここで切ります。
私は『高野日記』は未読ですが、頓阿作とのことなので、成立は『吾妻鏡』に遅れますね。

頓阿(1289-1372)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%93%E9%98%BF

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森野宗明論文の評価(その3)─後鳥羽院に近すぎるが故のパラドックス

2023-09-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
慈光寺本作者の身分意識(=差別意識)をもう少し具体的に探るために、森野氏の所謂「不斉性」の問題を検討してみたいと思います。
森野氏は第三節の最後に、

-------
 さて、こうした不斉性は、作者の気まぐれといってしまえばそれきりであるが、そこに何等かの意味を見いだそうとすれば、慈光寺本『承久記』の性格をどう捉えるか、そこまで足を踏みこまざるを得ない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d33368ba253b1de2572efbcf52bd4e2e

と言われた後で(p105)、第四節において、「不斉性」は素材となる資料をそのまま用いたためではないか、という説明をされていますが、別の考え方もできそうです。
それを森野氏が「不斉性」の代表例とされている人物に即して、少し検討してみたいと思います。
まず、「北条氏以外では、山田重忠とともに敬語使用の密度のもっとも高い人物」(p101)である伊賀光季を見ると、光季の場合、合戦場面では敬語が使用されているのに、佐々木広綱との酒宴場面では敬語が使用されていないという特異性があります。
この点、森野氏は、

-------
 たとえば、今その名を出した伊賀光季の場合をみてみよう。彼についての詳細な叙述が繰り広げられるのは、光季と親交のある佐々木広綱が、院方に光季誅殺の謀議があることをそれとなく知らせようと、光季を招いて酒宴を張る武士の友誼を描いた挿話およびその後に続く光季館での壮絶な合戦のくだりである。後者においては、官軍方では広綱にのみ「山城守広綱(略)ト【宣給】ヘバ」(一九四頁)と一例敬語の使用がみられるのにとどまっているのに対し、光季にはほぼ斉一に敬語が適用されて、彼を主体とする動作・存在の尊敬表現二三例、彼を客体とする動作の謙譲表現七例の計三〇例もの使用例が数えられる。しかるに、酒宴場面では、広綱に対しては「ワリナキ美女【召出シ】、酌ヲ【被】取テ」(一八八頁)のように敬語の使用例が見られるのに、光季については、もし、「(広綱ガ光季ヲ=筆者注)喚寄テ酒尽シテ打解テ遊ビ、【申シ】ケルハ(=新撰日本古典文庫デハ『打解ケ遊ビ申シケルハ』ト読ミ、<遊ビ申ス>ノゴトク解シテイルヨウニ思ワレルガ、『遊ビ』ノ後ニ 、ヲ打ツベキデアロウ。筆者注)」(一八八頁)の類の「申ス」を謙譲語と見るならば、「申ス」に限っては、二例拾えることになるが、彼を主体とした動作・存在の表現では、「光季、心行テ打解ケレバ、申様(略)トゾ云ケル」(一八九頁)のように一切敬語の使用がなく、合戦場面とまことに対蹠的なのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cc78e1666a412482aed6aad7a630872

とされますが、酒宴場面で佐々木広綱にのみ敬語が用いられ、合戦場面でも「官軍方では広綱にのみ」敬語が用いられているということは、端的に、慈光寺本作者にとっては佐々木広綱が伊賀光季の上位に位置づけられているというだけの話のようにも思われます。
前回投稿で書いたように、仮に慈光寺本作者が、同一場面に身分の異なる複数の人物が登場する場合、下位者が社会的には相当に上であっても、更に上位者がいる場合には下位者には敬語をつけない、即ち絶対的な身分ではなく、相対的な身分関係で敬語の使用・不使用を決めているとすると、

 佐々木広綱 > 伊賀光季

で簡単に説明できる話ですね。
森野氏は、上記引用部分の後、少し間を空けて、

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 先の光季の酒宴場面にしても、その場面構成の人的要素として公家が含まれ、公家本位の序列差別意識が作用して敬語が使用されなかったとでも解せられるのならばともかく、広綱は傍輩であり、しかも広綱の方には敬語の使用例が見られるというのでは、合戦場面ではないからという理由もいかにも苦しいことになるであろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d33368ba253b1de2572efbcf52bd4e2e

と言われていますが、幕府方の光季と京方の広綱は本当に「傍輩」なのか。
まあ、互いに有力御家人であり、旧知のそれなりに親しい間柄ではあったので、武家社会においては「傍輩」かもしれませんが、広綱は朝廷にも仕える立場です。
従って、慈光寺本作者が朝廷側の人間であれば、朝廷にも仕える広綱の方が光季などより身分的に遥かに上、という価値判断があったとしても不思議ではありません。
次に、三浦胤義について、森野氏は、

-------
 そうした不斉性の例としては、三浦胤義の場合が興味深い。彼についての具体的な叙述部は、後鳥羽院側近の藤原秀康の来訪を受けて北条討伐計画への積極的賛同を表明するくだりにはじまって諸処に見られるが、合戦場面での武将としての言動の叙述を含めて容易に敬語の使用が見られず、結局最後の、兄義村の軍勢と遭遇し決戦を挑む場面に到ってはじめて、「平判官(=胤義ヲ指ス。筆者注)申サ【レ】ケルハ」、「散々ニカケ【給】ヘバ」、「木島ヘゾ、【オハシ】ケル」(以上、二一九頁)とたて続けに適用例が現われるのである。こうした偏在は、合戦場面に武士に対する敬語の使用が顕著に見られる云々といったことだけでは説明しきれまい。
-------

と言われますが(p104以下)、「後鳥羽院側近の藤原秀康の来訪を受けて北条討伐計画への積極的賛同を表明するくだり」では、藤原秀康に対しても敬語は用いられていません。
そもそも秀康が胤義を訪問したのは後鳥羽院に命じられたからですが、その場面では、

-------
 茲〔ここ〕ニ、女房卿二位〔きやうのにゐ〕殿、簾中〔れんちう〕ヨリ申サセ給ケルハ、「大極殿造営ニ、山陽道ニハ安芸・周防、山陰道ニハ但馬・丹後、北陸道ニハ越後・加賀、六ケ国マデ寄ラレタレドモ、按察<光親>・秀康ガ沙汰トシテ、四ケ国ハ国務ヲ行〔おこなふ〕ト雖〔いへども〕、越後・加賀両国ハ、坂東ノ地頭、用ヒズ候ナル。去〔され〕バ、木ヲ切〔きる〕ニハ本ヲ断〔たち〕ヌレバ、末ノ栄〔さかゆ〕ル事ナシ。義時ヲ打〔うた〕レテ、日本国ヲ思食儘〔おぼしめすまま〕ニ行ハセ玉ヘ」トゾ申サセ給ケル。院ハ此由〔このよし〕聞食〔きこしめし〕テ、「サラバ秀康メセ」トテ、御所ニ召サル。院宣ノ成〔なり〕ケル様、「義時ガ数度〔すど〕ノ院宣ヲ背〔そむく〕コソ奇怪ナレ。打〔うつ〕ベキ由思食立〔おぼしめしたつ〕。計〔はからひ〕申セ」トゾ仰下〔おほせくだ〕リケル。秀康畏〔かしこまり〕テ奏申〔そうしまうし〕ケルハ、「駿河守義村ガ弟ニ、平判官胤義コソ此程〔このほど〕都ニ上〔のぼり〕テ候エ。胤義ニ此由申合〔まうしあはせ〕テ、義時討〔うた〕ン事易〔やすく〕候」トゾ申ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34ab5510c317b7bfc3313a37223bcb77

とあって、後鳥羽院には当然のことながら「仰下」と最上級の敬語が用いられており、卿二位には「申サセ給ケルハ」と、後鳥羽院に対する関係では「申」という謙譲表現になってはいるものの、卿二位自身も「サセ給」と相当高いレベルの敬語が用いられています。
他方、秀康には敬語は用いられていません。
そして、後鳥羽院の命令を受けた秀康が胤義を自分の「宿所」に招いて行った密談では、

-------
 能登守秀康ハ、高陽院殿〔かやのゐんどの〕ノ御倉町〔みくらまち〕辺ノ北辺〔ほくへん〕ニ宿所有ケリ。平判官胤義ヲ請寄〔しやうじよせ〕、酒盛〔さかもり〕ヲ始テ申様〔まうすやう〕、「今日ハ判官殿ト秀康ト、心静〔しづか〕ニ一日〔ひとひ〕酒盛仕ラン」トテ、隠座〔をんざ〕ニ成テ、能登守申様、「ヤ、判官殿、三浦・鎌倉振棄〔ふりすて〕テ都ニ上リ、十善君ニ宮仕〔みやづか〕ヘ申サセ給ヘ。和殿〔わどの〕ハ一定〔いちぢやう〕心中ニ思事〔おもふこと〕マシマスラント推〔すい〕スル也。一院〔いちゐん〕ハヨナ、御心サスガノ君ニテマシマス也。此程思食〔おぼしめす〕事有ヤラント推シ奉〔たてまつる〕。殿ハ鎌倉ニ付〔つく〕ヤ付〔つか〕ズヤ、十善ノ君ニハ随ヒマヒラセンヤ、計〔はからひ〕給ヘ、判官殿」トゾ申タル。
 判官ハ此由〔このよし〕聞〔きき〕、返答申ケルハ、【中略】加様ノ事ハ延〔のび〕ヌレバ悪〔あしく〕候。急ギ軍〔いくさ〕ノ僉議〔せんぎ〕候ベシ」トゾ申タル。能登守秀康ハ、又此由院奏シケレバ、「申〔まうす〕所、神妙也。サラバ急ギ軍ノ僉議仕レ」トゾ勅定ナル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8

という具合に、地の文においては、秀康と胤義は互いに「申」す対等な関係です。
つまり、後鳥羽院の命令から始まる一連の場面では、

 後鳥羽院(+卿二位) > 藤原秀康・三浦胤義

という顕著な身分秩序があって、前者には敬語が用いられ、後者には用いられないと説明することが可能です。
この後も「総大将」の藤原秀康は後鳥羽院の命を受けて何らかの行動を起こすというパターンが続くため、結果的に秀康には敬語が用いられないのではないかと思われます。

平岡豊氏「藤原秀康について」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ce47efa1716a05ac0bda76c0b98d7a72
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その54)─藤原秀康の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682

三浦胤義は秀康ほど後鳥羽院の近くにいる訳ではありませんが、秀康と一緒に行動することが多いので、秀康とともに敬語は用いられないようです。
この二人は武士としては極めて高い身分であるにもかかわらず、後鳥羽院に近すぎるために敬語が用いられない、という一種のパラドックスが起きているようです。
そして、胤義は渡辺翔・山田「重貞」とともに後鳥羽院へ敗戦の報告に行って追い返されたことにより、やっと後鳥羽院の桎梏を脱し、「結局最後の、兄義村の軍勢と遭遇し決戦を挑む場面に到ってはじめて、「平判官(=胤義ヲ指ス。筆者注)申サ【レ】ケルハ」、「散々ニカケ【給】ヘバ」、「木島ヘゾ、【オハシ】ケル」(以上、二一九頁)とたて続けに適用例が現われる」ことになる訳ですね。
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森野宗明論文の評価(その2)─能茂の主観的な身分意識(=差別意識)の特異性

2023-09-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「敬語を用いて待遇している武士の層が中間層(あるいはそれ以下)まで及んでいる」(p105)にもかかわらず、藤原能茂に敬語が用いられていないということは、慈光寺本作者が能茂を「中間層(あるいはそれ以下)」の武士より下に位置づけているからかというと、さすがにそれは考えにくいですね。
能茂に特徴的なのは後鳥羽院と一緒にいる場面が多いことです。
慈光寺本作者が、同一場面に身分の異なる複数の人物が登場する場合、下位者が社会的には相当に上であっても、更に上位者がいる場合には下位者には敬語をつけない、即ち絶対的な身分ではなく、相対的な身分関係で敬語の使用・不使用を決めているとすると、後鳥羽院と一緒にいることが多い能茂の場合、結果的に敬語が用いられないことになりますね。
私は、武士としては最上層クラスの藤原秀康や三浦胤義についても敬語使用の頻度が低く、「不斉性」が見られる点も、こうした原則で説明できるのではないかと思っていますが、この点は後で改めて論じます。
さて、そうは言っても、中世が厳しい身分制社会であることは間違いないので、作者の絶対的な身分、即ち出身階層が作者の身分意識(=差別意識)の反映である敬語使用の態様に影響を与えないとは考えにくいところです。
藤原能茂の出自・経歴は下記投稿を参照してもらうとして、田渕句美子氏が指摘されているように『尊卑分脈』の能茂の記述には能茂を猶子とした秀能の実子・秀茂との混同があるようですが、少なくとも、

  童名伊王丸、主馬首、左衛門尉、母弥平左衛門尉定清女、秀能猶子、実者行願寺別当法眼
  道提子、隠岐御所御共参、出家法名西蓮、

とある部分は能茂の経歴で間違いありません。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/870b1319bf4c43646f8d868ba2830b4b
田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0be06ac4886fc275de8e50db40a65dcd

そして能茂の実父が行願寺別当法眼道提(道誓)であることは慈光寺本そのもの、それも後鳥羽院の発言の中に、「中〔なかんづく〕、彼堂別当〔かのだうべつたう〕ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便〔ふびん〕に思食レツル者ナリ。今一度見セマイラセヨ」と明記されています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その58)─「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569

ただ、「彼堂」が行願寺(革堂)であると書かれている訳ではなく、「彼堂」が転写による「革堂」の誤記でなければ、慈光寺本作者と想定読者にとっては、「彼堂」はわざわざ説明する必要のない自明の存在であるようです。
そして、後鳥羽院が言及している以上、「彼堂別当」はそれなりに高く評価される地位であることも慈光寺本作者にとっては自明の前提のようです。
しかし、貴族社会における「彼堂別当」の客観的評価はどうだったのか。
「革堂」の由来からも窺えるように、行願寺は高貴な権門寺院というよりは民衆的な寺院のようですから、実際にはたいしたことのない寺院と思われていたのではないか。
だからこそ、能茂は藤原秀能の猶子となって、おそらく秀能から一字をもらって能茂と改名し、身分的な上昇を図ったのではないか。
私としては、行願寺程度の僧の家の出身である能茂は「武家もしくは武家周辺の人物、あるいは下級の官人層といったあたり」に直接該当はしないものの、社会的評価としては当該階層、それもどちらかといえば下の方の階層と同じなのではなかろうかと考えています。

森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その13)─「卿二位のアジテーター的言動を描いた逸話」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd9e8f6db5e45d02e65280001a588cd1

さて、能茂が公家でも武家でもなく、僧の家という中途半端な出自だったとしても、それは能茂の身分意識(=差別意識)の下限を画するだけであり、能茂は後鳥羽院と特別な縁を得たことにより、少なくとも主観的には相当高い身分意識を有していた可能性があります。
即ち、慈光寺本には後鳥羽院・能茂と七条院の二対一の奇妙な贈答歌がありますが、渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)によれば、「現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない」とのことです。
それにもかかわらず、慈光寺本には何故にこんな奇妙な贈答歌が載せられているのかといえば、私には慈光寺本作者が能茂だから、という答え以外は見出せません。
従って、慈光寺本作者の能茂は、あくまで主観的には、後鳥羽院と一緒に七条院と歌の贈答をすることが許されるほどの大変高貴な身分となります。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/581532859e25780fef4ee441ea4ce703
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その66)─「応答しない贈答歌」は誰が作ったのか
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed3eb83b741d2f72767c0c9bf3705741
渡邉裕美子論文の達成と限界(補遺、その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3fe6cd5bf43554ea8abc6483a80f35e4

この能茂の主観的な身分意識(=差別意識)の特異性は、森野氏が整理された慈光寺本の敬語使用の特異性を合理的に説明できるように思われます。
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森野宗明論文の評価(その1)─藤原能茂に対する「言語待遇」

2023-09-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
慈光寺本作者を無住道暁とする点で森野論文は全く駄目、との先入観があったので、結果的に読むのが大変遅れてしまったのですが、森野論文は多くの国文学・歴史研究者のように慈光寺本を「つまみ食い」するのではなく、正面からその全体像を緻密に分析していて本当に優れた論文ですね。
私にとっては渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)に匹敵する刺激的な論文でした。
そして、私は慈光寺本作者=藤原能茂(「医王左衛門」・「伊王左衛門」)とする自分の立場が森野論文と矛盾しないであろうと思われて一安心したのですが、しかし森野論文には私の従来の思考の枠組みに若干の不備があったのではなかろうか、と思わせる不安材料があったため、ここ暫く、山田重忠を中心に少し補足的な調査を行ってきました。
山田重忠関係も当面の分析に必要な範囲の論文は一応押さえたので、ここで私の立場からの森野論文への評価をまとめておこうと思います。
まず、前提として、慈光寺本において藤原能茂に対する「言語待遇」がどのようになっているかを確認しておきます。
能茂の登場場面は今まで何度か検討してきましたが、敬語に着目して改めて見直すと、まず、一番最初に登場する亀菊エピソードでは、

-------
【前略】仍〔よつて〕、此趣ヲ院ニ愁申〔うれへまうし〕ケレバ、叡慮不安〔やすからず〕カラ思食テ、医王〔ゐわう〕左衛門能茂〔よしもち〕ヲ召テ、「又、長江庄ニ罷下〔まかりくだり〕テ、地頭追出〔おひいだ〕シテ取ラセヨ」ト被仰下〔おほせくだされ〕ケレバ、能茂馳下〔はせくだり〕テ追出ケレドモ、更ニ用ヒズ。能茂帰洛シテ、此由〔このよし〕院奏シケレバ、仰下〔おほせくだ〕サレケルハ、【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8

とあって(岩波新大系、p306)、後鳥羽院には(当然のことながら)最上級の敬語が用いられているのに対し、能茂には敬語が用いられていません。
ついで、能茂は「廻文ニ入輩」(p310)と藤原秀康による第一次軍勢手分(p334)に登場しますが(p310)、いずれも人名リストに名前だけです。
そして、敗戦後の後鳥羽院の鳥羽殿御幸と北条時氏の御所闖入の場面に、

-------
同六日、四辻殿ヨリシテ、千葉次郎御供ニテ、鳥羽殿ヘコソ御幸ナレ。昔ナガラノ御供ノ人ニハ、大宮中納言実氏、宰相中将信業〔のぶなり〕、左衛門尉能茂許〔ばかり〕也。
 同十日ハ、武蔵太郎時氏、鳥羽殿ヘコソ参リ給ヘ。物具シナガラ南殿ヘ参給ヒ、弓ノウラハズニテ御前御簾ヲカキ揚テ、「君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ」ト責申声〔せめまうすこゑ〕気色〔きそく〕、琰魔〔エンマ〕ノ使ニコトナラズ。院トモカクモ御返事ナカリケリ。武蔵太郎、重テ被申ケルハ、「イカニ宣旨ハ下リ候ヌヤラン。猶〔なほ〕謀反ノ衆ヲ引籠〔ひきこめ〕テマシマスカ。トクトク出サセオハシマセ」ト責申ケレバ、今度ハ勅答アリ。「今、我報〔むくい〕ニテ、争〔いかで〕カ謀反者引籠ベキ。但、麻呂〔まろ〕ガ都ヲ出ナバ、宮々ニハナレマイラセン事コソ悲ケレ。就中〔なかんづく〕、彼堂別当〔かのだうべつたう〕ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便〔ふびん〕に思食レツル者ナリ。今一度見セマイラセヨ」トゾ仰下サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569

と登場しますが、後鳥羽院の発話の中に「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂」が出て来るだけで、敬語はありません。
続く後鳥羽院の出家の場面では、

-------
 其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事、「伊王左衛門能茂、昔、十善君〔じふぜんのきみ〕ニイカナル契〔ちぎり〕ヲ結ビマイラセテ候ケルヤラン。「能茂、今一度見セマイラセヨ」ト院宣ナリテ候ニ、都ニテ宣旨ヲ被下候ハン事、今ハ此事計ナリ。トクトク伊王左衛門マイラサセ給フベシト覚〔おぼえ〕候」ト御文奉給ヘバ、武蔵守ハ、「時氏ガ文御覧ゼヨ、殿原。今年十七ニコソ成候ヘ。是程ノ心アリケル、哀〔あはれ〕ニ候」トテ、「伊王左衛門、入道セヨ」トテ、出家シテコソ参タレ。院ハ能茂ヲ御覧ジテ、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン」トテ、仁和寺ノ御室ヲ御戒師ニテ、院ハ御出家アリケルニ、御室ヲ始マイラセテ、見奉ル人々聞人〔きくひと〕、高〔たかき〕モ賤〔いやしき〕モ、武〔たけ〕キモノゝフニ至マデ、涙ヲ流シ、袖ヲ絞ラヌハナカリケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3412d6a819e9fd4004219b4ca162da01

とあって、能茂は北条泰時から出家を命ぜられ、能茂の出家姿を見た後鳥羽院も出家を決意するという展開になりますが、ここでも能茂に敬語は使われていません。
ついで七月十三日、隠岐遷幸の場面では、

-------
 去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

とありますが、「御供」は後鳥羽院に敬意を表しているだけで、能茂への敬語ではないですね。
そして、能茂が登場する最後の場面、即ち後鳥羽院・能茂と七条院の贈答歌の場面には、

-------
哀〔あはれ〕、都ニテハ、カゝル浪風ハ聞ザリシニ、哀ニ思食レテ、イトゞ御心細ク御袖ヲ絞テ、
  都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
 伊王左衛門、
  スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
 御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ
-------

とありますが、「御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ」の主体は後鳥羽院であって能茂ではないですから、ここでも能茂自身には敬語が用いられていません。
結局、能茂に対しては一度も敬語は用いられていませんが、それは最上級の敬語を以て遇すべき後鳥羽院と一緒にいるため、と考えることもできそうです。
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森野宗明論文のおさらい(その3)

2023-09-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
森野氏に倣って、私も京方の「総大将」と言われることの多い藤原秀康に対する敬語使用を少し調べてみましたが、秀康の場合も一貫性がないですね。

森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その11)─「能登守秀康・平判官胤義カケ出テ戦フタリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/82878b1d4801024151ea8b8fff14fffc

さて、第四節に入ると、前節までの議論が次のように整理されます。

-------
 以上をもって、慈光寺本『承久記』に見いだされる武家に対する言語待遇の具体相についての叙述を終える。独自的といい、個性的とも評した、その武家に対する言語待遇の特色を摘記すれば、次のごとくになる。

 一 なによりもまず重要なことは、敬語を用いて待遇している武士の層が中間層(あるいはそれ
   以下)まで及んでいるということである。
 二 その中間層所属の武士には、美濃・尾張の両国の関係者が目立つ。
 三 同一人物に対する敬語の用不用に斉一性が認められず、記事・場面による落差がきわめて大
   きい場合がある。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fda8933cd3c115f87f3a9c8c03776d4

そして、森野氏は、この三点を合理的に説明するポイントとして「慈光寺本における作者の階層性をどうとらえるか、そしてどのような資料をどう利用していると考えられるか」が重要だとされます。
まず前者については、

-------
言語待遇の与え方に即していえば、作者は、すくなくとも、中間層クラスの武士に敬語を適用することに異和感を抱き拒絶反応を示すような階層に所属する可能性はきわめて低い。言語待遇にはそのときどきの恣意によって微妙に左右されるところがありはするが、多数の読者が想定されるような著作─『承久記』は、何本においてもそのような著作とみなすことが許されよう─においては、概してその作者の帰属する社会集団に一般的に認められる価値規範に則る傾向がある。そうした傾向にあわせて捉えるならば、公家出身である可能性ははなはだ低いとみるのが自然であろう。武家もしくは武家周辺の人物、あるいは下級の官人層といったあたりにその出身階層を求めるのがまずは無難というところか。
-------

とされます。
後者については、

-------
 次に資料云々であるが、作者が記事作成にあたって具体的にどのような資料を蒐集利用したかは分明ではない。【中略】そうしたなかで注目されるのは、武士の郎従、凡下の間の見聞談、また聞き、それらの口碑伝説化したものなどの類をかなり積極的に使用したらしいふしがうかがえることである。既述のように、慈光寺本は、兵乱全体からの比重からすれば宇治川の攻防戦より軽く、かつ都を離れていて、京や鎌倉ではそうたやすくはこまかい情報が入手しにくかったのではないかと思われるような美濃・尾張での合戦について、『承久記』の他の諸本や記録には見られないようなこまかな逸話を多くかつ具体的に伝えていて異色であるが、それらの逸話はその土地に密着した下層の武士や民衆の間に伝えられた話を取材源としたものが多かったのではないかと思われる。【中略】
 なお、美濃・尾張の合戦に関する逸話という点でいえば、作者は、そうした逸話をかなり豊富に資料として活用できるような条件に恵まれた人物ということになるであろう。かならずしも美濃・尾張の関係者とはきめつけられないが、美濃・尾張という地域と密接な関係を持つ人物である可能性は大きい。特に山田重忠の逸話が目を惹くが、あるいはなんらかの意味で山田重忠とつながりを持つものか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd9e8f6db5e45d02e65280001a588cd1

ということで、慈光寺本作者=無住の可能性が大きいと考える森野氏は、徐々に議論を無住に近づけて行きます。
そして、

-------
 さて、そうした資料の活用の仕方であるが、作者自身の見解をフィルターとしてろ過、調整し、全体的な統一をはかりながら整合化するというよりは、その逸話、逸話の伝えられている姿を手を加えずにそのままの姿に近いかたちで記事化するといったふしが見受けられる。それぞれの場面が生動感豊かに描かれていて活力を感じさせる反面、そうした場面を横に並べたといった印象が強く、全体の緊密な統一感に乏しい憾みがあるのもそれと関係があるであろうし、今、具体的に詳述する余裕はないが、他の諸本にくらべて、人物の発言部の描写に口頭語的色彩がより強く、他の諸本にみられない、武士や民衆の世界に伝えられた話をその口吻を活かして利用したからこそこのような描写が可能なのであろうと解することができるような臨場感溢れることばの使用、たとえば、二例ではあるが、武士の発言部に集中する助動詞<めり>の使用などが見受けられることも、示唆的である。
 このように辿ってきて、まず頭に浮かぶのは、しごく平凡ではあるが、中間層あたりの武士に対する敬語の使用は、郎従や凡下の世界に伝えられた話の利用と相関する度が大きいのではないかということである。その人物に隷従する郎従の見聞談に源があるとすれば、当然のことながら、その人物については敬語を適用して語られることになろう。それがその人物の出身地でありかつ合戦の行われた美濃・尾張の在地において伝えられ根を下ろしていったとすれば、その敬語の使用は消去されることなく保持されやすいであろう。中間層あたりの武士に対する敬語の使用について格別の異和感を抱かぬ人物であれば、そうした話の口吻をそのまま取り入れながら記事化する際、使用されている敬語についても削除せずに受容するといったことは、起こり得るのではないか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1b2430e4b1c8dc962d30102e31840f1

とされる訳ですが、「作者自身の見解をフィルターとしてろ過、調整し、全体的な統一をはかりながら整合化」する努力があまり感じられない点は私も賛成できるものの、しかし、「その逸話、逸話の伝えられている姿を手を加えずにそのままの姿に近いかたちで記事化するといったふし」はどうなのか。
私にはむしろ、慈光寺本の個別エピソードには何らかの素材があるとしても、「そのままの姿に近いかたちで記事化する」どころか、むしろ素材を自由勝手に改変し、創作して記事化しているように思われます。
山田重忠が活躍する杭瀬河合戦など、その典型ですね。
この後、森野氏は、

-------
 こう書き進めていよいよ終端に近づいたが、終始筆者の頭の隅にこびりついている一つの作品の名がある。冒頭に烏滸咄をそこから引いた『沙石集』である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d6f733939ba6b95c9aa841e3fce349b0

ということで、無住作者説を述べられる訳ですが、慈光寺本の成立が1230年代であれば無住作者説は全く無理ですね。
無住と山田重忠との関係を詳しく追った後、しかし、森野氏自身も、

-------
 では、無住で不都合はないか。残念ながら、そうそう都合よくばかりはいかないようである。彼は後宇多天皇の詔により、東福寺第二世におさまったほどの高僧である。慈光寺本は他の諸本と異なって、その冒頭を、仏説の三世劫から説きおこす。それはそれで一見好都合のようであるが、その内容は無住の学識のほどに比してどうも稚拙の度がすぎる感がある。また、一八一頁には梶原景時についての批判めいた記事が見えるが、このへんはどうなるかも頬被りしてすまされまい。無住を作者に擬する場合にも問題点が残るわけである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74fe42af459af6e2e189d78bfa712d5f

とされ、無住作者説には若干の無理があることを自ら認めておられます。
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森野宗明論文のおさらい(その2)

2023-09-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
第二節に入ると、「『吾妻鏡』にも敬語の使用例を見ない中間層武士に対してまで、敬語が使用されている」(p97)慈光寺本の特異性が具体的に指摘されます。
森野氏が検討の対象とされたのは「発言部、心話部の類の引用部とみなされるもの」を除いた「地の文」です。
そして、「地の文」の中で、「一例であっても、明らかに敬語が使用されていると確認できる人物名」(p98)が三十人列挙されます。
このうち、「官軍方」は十七人、「幕府軍」が十三人です。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5eb6514704b0b5a9cb0773423c3099a

これに「佐々木広綱の子息で仁和寺御室の寵童となり、広綱の子であるがゆえに哀れな死を遂げた勢多賀」を加えると三十一人となります。
以上の三十一人は「その武士を動作・存在の主体として尊敬語を用いた例、他の動作・存在の関与する客体として謙譲語を用いた例に限って列挙したもの」(p99)ですが、更に「人物呼称表現」として「接尾語<殿>を使用した例」も加えると、(「山田殿」「武田殿」「神土殿」「寺本殿」といった重複を除き)幕府軍で「二宮殿」、官軍で「高桑殿」が追加されます。
勢多賀を「官軍方」に含めると、結局、「官軍方」は十九人、「幕府軍」は十四人、合計三十三人となります。
さて、これらの武士を社会階層から分類すると、「武田・小笠原・足利は、すべて河内源氏の有力な庶子流であり、承久の乱では各々幕府軍の大将軍の一人として重きをなした」有力御家人です。
また、

-------
 伊賀光季も、『吾妻鏡』にこそ敬語の適用例が見られはしないが、その妹が義時の妻室に納っていて北条氏の閨閥を成し、自身も大江親広とともに京都守護として在京御家人を統率する重職に補された有力御家人である。その壮烈な最期は語り草になったらしく、『承久記』の諸本が詳しく描いているが、慈光寺本は「判官ハ心ヲシヅメ【ノ玉フ】様」(一九〇頁)を初出として、そのくだりには、かなり斉一に敬語の使用が見られる。北条氏以外では、山田重忠とともに敬語使用の密度のもっとも高い人物である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd89fbd8dd17d78e07b4d78f6b50b044

とのことですが、実は伊賀光季は戦闘場面では敬語が使用されているのに、佐々木広綱との酒宴場面では敬語が使用されていない点で顕著な「不斉性」が見られることが後で指摘されています。
そして、「官軍方」の藤原秀康・秀澄兄弟は「上層クラスの武士」です。
しかし、

-------
 それらに対して、懸桟、打見の御料、寺本などといった連中は、それぞれその在地では勢威を振った武士ではあろうが、幕府や宮廷においてしかるべき地歩を持つ上層クラスの武士であったとは思われない。『吾妻鏡』における承久の乱関係の記事にもその名が見えず、『承久記』の他の諸本にも登場しない。おそらくは上層の有力武士層より下の中間層あるいはそれ以下のクラスの武士であろう。荻野次郎左衛門、伊豆の御曹司、関田、懸桟、上田、打見の御料、寺本等は敬語の使用例が一例にとどまるが、そうであっても、そもそも、これらのより下層の武士にまで敬語の使用が見られるというその事実は、注目に値する。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d89080cf9ba86fe78edd5525435d6c74

ということで(p101)、「中間層あるいはそれ以下のクラスの武士」にまで敬語が用いられている点が慈光寺本の最大の特徴ですね、
森野氏は、続けて、

-------
 ところで、さらに注意を引くのは、これら敬語が使用されている中間層あるいはそれ以下のクラスかと思われる武士に、美濃・尾張を地盤とするものが目立つことである。
-------

と言われますが、「中間層あるいはそれ以下のクラスの武士」が描かれるのは実際上戦闘場面だけなので、これは慈光寺本に宇治川合戦が存在しないことの反映の可能性もあります。
この点、森野氏も、

-------
 何故に美濃・尾張の在地武士にこうも偏るのか。それは、承久の乱における決戦場が宇治川であり、合戦譚にふさわしい逸話もそちらの方が豊富であったように思われるのに、他系統の諸本と著しく相違して、慈光寺本では、本格的な攻防戦の見られなかった美濃・尾張での合戦にスペースを費やし、宇治川の合戦には筆を及ぼしていないということと絡んで、意味ありげである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d89080cf9ba86fe78edd5525435d6c74

と言われています。(p102)
第三節に入ると、

-------
 以上、慈光寺本における武家に対する敬語使用の拡がりを見た。中間層あるいはそれ以下のクラスにまで敬語適用範囲が拡がっていることは、特筆に価する事実であるが、しかしまた、その反面、その敬語適用のあり方が決して一律的斉一的ではないことをも見落してはなるまい。
 慈光寺本には、官軍、幕府軍さまざまな武士が登場する。右にみたごとく敬語の使用をもって待遇されている武士が多く拾い上げられる反面、中間層クラスはもちろんのこと、上層クラスの武士にであっても、その場合についての具体的な言動の叙述部があるにもかかわらず、敬語の使用が見られないという場合も、また尠くはないのである。さらにまた、敬語の使用が見られる場合であっても、すでに散発的に触れるところがあったように、きわめて頻度高く濃密にその使用例の見られる武士もあれば、一例程度といった武士もある。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cc78e1666a412482aed6aad7a630872

ということで(p103)、慈光寺本の敬語使用における「不斉性」の問題が論じられます。
まず、「北条氏以外では、敬語適用の密度が極めて濃密であるのは、これもすでに触れたように伊賀光季と山田重忠の二人である。二人ともに具体的な叙述部の量が大であることとも関係があろう」との指摘があります。
ついで、「不斉性」の具体例として伊賀光季と三浦胤義が検討されます。
即ち、伊賀光季の場合は、合戦場面では敬語が用いられているのに、佐々木広綱との酒宴場面では、広綱に敬語が用いられているのに、光季には敬語がありません。
また、三浦胤義の場合、

-------
 そうした不斉性の例としては、三浦胤義の場合が興味深い。彼についての具体的な叙述部は、後鳥羽院側近の藤原秀康の来訪を受けて北条討伐計画への積極的賛同を表明するくだりにはじまって諸処に見られるが、合戦場面での武将としての言動の叙述を含めて容易に敬語の使用が見られず、結局最後の、兄義村の軍勢と遭遇し決戦を挑む場面に到ってはじめて、「平判官(=胤義ヲ指ス。筆者注)申サ【レ】ケルハ」、「散々ニカケ【給】ヘバ」、「木島ヘゾ、【オハシ】ケル」(以上、二一九頁)とたて続けに適用例が現われるのである。こうした偏在は、合戦場面に武士に対する敬語の使用が顕著に見られる云々といったことだけでは説明しきれまい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d33368ba253b1de2572efbcf52bd4e2e

ということで(p104)、最上級クラスの武士であるにもかかわらず、敬語使用の割合は僅少です。
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森野宗明論文のおさらい(その1)

2023-09-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
ちょっと日が空いてしまいましたので、森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(『川瀬博士古稀記念 国語国文学論集』所収、雄松堂書店、1979)への私見を述べる前に、少し復習しておきます。
森野論文には各節にタイトルがありませんが、仮に私が付けるとすれば、

-------
 はじめに
 一ノ一 「歴史もの」一般における「武家に対する言語待遇」
 一ノ二 「戦記物語」における「武家に対する言語待遇」
 二    慈光寺本における「武家に対する言語待遇」
 三    慈光寺本における敬語使用の「不斉性」
 四    慈光寺本の特色と作者の「階層性」
 おわりに
-------

といったことになるかと思います。
まず、「はじめに」においては、冒頭に『沙石集』の「烏滸咄」が紹介されますが(p90)、これは森野氏の慈光寺本作者=無住説の布石となっています。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4b61745b19c693c1911023122ee961b4

ついで「一ノ一」に入ると、「史論・史書・歴史物語・戦記もの、一括して歴史もの」一般における「武家に対する言語待遇」、即ち敬語使用の状況が概観され、「大勢としては依然公家本位の王朝的秩序に則った待遇基準の適用が主流を占める」(p91)ことが『愚管抄』『六代勝事記』『今鏡』『石清水物語』に即して論じられます。
少し時代が下った『神皇正統記』『増鏡』も同様で、特に『増鏡』は、

-------
承久の乱関係の記事が詳しく、『承久記』と比較し得る便があるが、後述するように慈光寺本で多量に敬語の使用例が見られる北条氏や京都守護伊賀光季について、まったく敬語の使用例がない等々一切敬語を用いた例が見いだせない。ただし、将軍といっても、摂関家から入った頼経などは別で、これは武家としてではなく、公家の人物として処遇され、敬語が適用されている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/09ac039d6c6c876c81688872f471554c

とのことです。(p93)
ついで「一ノ二」に入ると、

-------
 歴史もののなかで、武家に対して敬語の使用がみられる代表的なものは、戦記物語である。天皇を頂点とする公家に対する扱いが鄭重であり、武家と公家とに対する待遇評価の軽重が、特定の敬語表現形式を使い分けることによって差別的に表現されているという点では、やはり公家本位という基本線が貫かれているが、敬語使用の範囲は公家の枠を越えて裾野を拡げ、特定武士層にも及んでいるのである。次にその模様を概観してみよう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c7aab945a171885c460ac6db846cff44

とのことで(p94)、まず『保元物語』『平治物語』では、

-------
それぞれ、保元、平治の合戦当時において最大の武門の棟梁としての門地を誇る平清盛一家や源為義・義朝一家の人物に敬語の使用がみられる。ただし、源平二大棟梁家の支配下に服属する武士群は、いかにその名が知られる有力者で、やがて時代が下って鎌倉幕府の中枢を構成するような有力御家人の祖となるような人物であっても、敬語が適用されることはない。
-------

とのことです。
そして『平家物語』では、

-------
平氏に対してかなり斉一に敬語の適用が見られるほか、源氏では、頼信を祖とする河内源氏の嫡流に対する配慮がこまやかで、ことに頼朝に対する敬語の使用が目立つ。その舎弟範頼、義経、そして河内源氏の庶子流ではあるが、頼朝とは別個の武士勢力を結集して棟梁としての評価を受けた義仲、同じく河内源氏の庶子流で頼朝の叔父にあたる、小規模ながら別格的扱いを受けている行家、頼光を祖とする摂津源氏の嫡流で、清和源氏の流れを汲む宮廷武士としての家系を誇り、清和源氏出身ではじめて三位に叙せられた頼政およびその子息仲綱といったところにも敬語の使用が及ぶが、そのへんが下限で、使用状態も、頼朝にくらべると疎密の差がある。
-------

とのことです。
ただ、『平家物語』では唯一の例外が存在します。
即ち、

-------
 このように、どれほど強力な武士団の長であっても、源平棟梁家に服属する家人・郎従と呼ばれるクラスの武士として処遇される場合には、敬語の使用をみないのであるが、そのなかで唯一つ例外が存する。北条氏である。その長である時政も、公家の眼をもって見れば、「伝聞、頼朝代官北条丸、今夜可謁経房云々。(略)件北条丸以下郎従等(下略)」(『玉葉』文治元年十一月二十八日)と、軽侮感あらわに接尾語<丸>をもって呼称される微々たる存在にすぎなかったのであるが、『平家物語』では、散発的ながら、敬語が適用されているのである。前記の源家門葉と同格の待遇といってよく、幕府上層部の主導者として北条氏を別格視する風が、通念として社会的に根をおろすようになったその反映を、そこに見いだすことができるであろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c75e4cf49687265410fa292cc60d2d28

とのことです。(p95)
以上の「戦記物語」とは全く異質なのが『吾妻鏡』です。
即ち、

-------
 戦記物語以外では、『吾妻鏡』が、武家に対する敬語の適用という点で注目される。特に北条氏に対する言語待遇の高さは、よくいわれることながら過度ともいえる感があり、『平家物語』における北条氏に対する敬語の使用も、それにくらべれば、まったく影を薄くする。北条得宗家による専政体制下に、幕府の正史としての性格を強く帯びる記録として編述されたという事情を反映してのことであろうが、得宗家を中心とした北条氏に対する言語待遇の高さは、ここでは源家門葉をはるかに凌ぎ、鎌倉殿たる将軍家に次ぐのである。
-------

とのことですが、「一般の侍クラス」は『平家物語』と同様の扱いで、ただ、「きわめてまれながら」大江広元・三浦義村・安達義景について若干の敬語使用が見られるものの、それはあくまで「はみだし」であり「例外的」なのだそうです。
そして、森野氏による『吾妻鏡』の総括的評価は、

-------
 以上のように、伝統的な宮廷貴族社会の価値観とは性質を異にする基準を設定しそれに基づいて、武家に対する言語待遇に独自の方式を打ちだしたと考えられる『吾妻鏡』ではあるが、その方式は、あくまでも幕府上層部本位の待遇基準の堅持であって、一般の侍層以下に対してはすこぶるきびしく、冷淡なのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ae8e605325bbe4e514ab918334615c4

となります。(p96)
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盛り付け上手な青山幹哉氏(その6)

2023-09-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した部分、「小笠原一ノ郎等市川新五郎」と京方の「薩摩左衛門」の応答は、全くかみ合っていないですね。
「薩摩左衛門」は義時追討の宣旨が出ている以上、その配下のお前たちを渡すことはできないと言っているだけで、幕府側が「王孫」かどうかなど全く問題にしていません。
それにも拘わらず、市川は、まるで自分たちが身分的に差別されたことに対する反論のように、我々だって「王孫」ではないか、と主張している訳で、何ともチグハグなやり取りです。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その42)─「何ゾ、新五郎ガ唯今ノ河渡ゾ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88c823c32fa110d009d3bf7d40b7f892

ま、それはともかく、杭瀬河合戦の話に戻ると、青山氏は何故に慈光寺本の中でも格別に胡散臭い杭瀬河合戦の場面を選んで引用されたのか。
とにかく慈光寺本では、史実としては六月六日の出来事であった杭瀬河合戦が極めて奇妙な位置に置かれており、「小玉党」三千騎を加味すると、普通の歴史研究者であれば警戒心を抱く場面であろうと思われます。
青山氏が山田重忠の英雄像を強調したいのであれば流布本でも十分なはずですが、それでも敢えて慈光寺本を選んだということは、やはり慈光寺本が一番古いので一番信頼できる、という基本的な発想があるからでしょうね。
青山氏は、

-------
重忠はその後の宇治川・勢多の合戦でも奮戦し、最後は山城嵯峨の奥で自害するわけだが、『慈光寺本承久記』は、後鳥羽軍の大将藤原秀康を愚将とする一方、重忠を勇将として描き、さらに『流布本承久記』になると、後鳥羽院も重忠から「大臆病の君に語らわされて、憂に死せんずる事、口惜し候」と声高にののしられる役となり、重忠の勇将ぶりが強調されていく。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/93ea0dc7129958c22366ecdf8cd0684e

と書かれており、慈光寺本が「最古態本」で流布本が「後継本」であるという一般的な評価を微塵も疑っておられないようです。
しかし、杭瀬河合戦は慈光寺本と流布本で期日・対戦相手・軍勢の規模が全く異なっており、仮に流布本作者が「最古態本」の慈光寺本を参考にしたいと思って読んだとしても、全く参考にならないことは明らかです。
慈光寺本と流布本を網羅的に検討した結果、私は、仮に慈光寺本が「最古態本」で流布本がそれに時期的に遅れるとしても、流布本作者にとって慈光寺本は何の参考にもならない資料であることを確認できたと思っていますが、杭瀬河合戦は慈光寺本が参考にならない典型例ですね。
さて、目崎徳衛氏の「山田重忠とその一族」(『貴族社会と古典文化』所収、吉川弘文館、1995)と『史伝 後鳥羽院』(吉川弘文館、2001)、そして『新修名古屋市史 第二巻』(名古屋市、1998)の青山幹哉氏担当の「第二章 公武両政権下の尾張」と寄り道してきたので、そろそろ森野宗明氏の「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(『川瀬博士古稀記念 国語国文学論集』所収、雄松堂書店、1979)に戻らなければなりません。
ただ、私は慈光寺本作者を藤原能茂とする自分の立場から森野論文の評価をすれば良いと思っていたところ、その前に、森野氏の分析方法に倣って、慈光寺本の敬語使用の態様をもう少し具体的に深める必要を感じるようになりました。
この点、次の投稿で少し説明したいと思います。
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盛り付け上手な青山幹哉氏(その5)

2023-09-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p103以下)

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 ところで、『承久記』には重忠の郎等として、諸輪左近将監・小波田右馬允・大加太郎・国夫太郎・山口源多・弥源次兵衛・刑部坊・水尾左近将監・榎殿・小五郎兵衛(『慈光寺本承久記』)、または、水野左近・大金太郎・太田五郎兵衛・藤兵衛・伊豫坊・荒左近・兵部坊(『承久記(元和四年古活字本)』といった人名が挙げられている。
 おそらくかれらは、重忠を惣領とする庶子の一族か、重忠の所領内に名主職のような下級の職を与えられ、重忠と主従関係を結んだ従者クラスの武士であろう。名字から考えれば、「諸輪」は愛知郡諸輪(愛知郡東郷町)、「小波田」は山田郡小幡(守山区)、「水野」は山田郡水野(瀬戸市、第一節で紹介した「水野氏系図」には「水野有高」が承久の乱で戦死したとある)を本拠地としていた可能性があり、とくに「小波田右馬允」はあるいは『沙石集』二に登場する「右馬允明長」と同人かもしれない。また「藤兵衛」は『沙石集』六に重忠の郎党として「藤兵衛なにがし」と見えている。ただ、これらの名字は後に改竄された可能性も否定できず、確実な史料ではないことを付言しておく。
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重忠の郎等の人名リストは、慈光寺本の方は前回投稿で引用した杭瀬河合戦の場面で、

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【前略】山田殿方ニモ、四十八騎ハ討レニケリ。小玉党、山田殿ニ余〔あまり〕ニキブク攻ラレテ引ケレバ、山田殿申サレケルハ、「人白〔しら〕マバ我モ白〔しろ〕ミ、人カケバ我モカケヨ、殿原。命ヲ惜マズシテ、励メ、殿原」トテ、手ノ者ヲ汰〔そろ〕ヘ給フ。
「一番ニハ諸輪左近将監、二番ニハ小波田右馬允、三番ニハ大加太郎、四番ニハ国夫太郎、五番ニハ山口源多、六番ニハ弥源次兵衛、七番ニハ刑部房、八番ニハ水尾左近将監、九番ニハ榎殿、十番ニハ小五郎兵衛カケヨ」トゾ申サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a

と十番に編成した部隊に登場した人名を、「〇番」抜きでそのまま並べたものですね。
ただ、私にはどうにもこの十番編成があまりに機械的で不自然なように思われます。
慈光寺本作者には数字マニア的な面があることに加え、慈光寺本における杭瀬河合戦は宇治河合戦の「埋め草」なので、記事の分量を増すために適当に創作したのではなかろうかと私は疑っています。

宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d
「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」することの困難さ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55a3a8abb7d99b1f5cb589a98becbc70
野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90bf212c9c3b54e64c94d20179e5ff44

他方、流布本の方の人名は、慈光寺本と同様、杭瀬河合戦の場面に登場します。
即ち、

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 被討残て落ち行ける勢の中に、山田次郎申けるは、「打手に被向たる者共の尾張川にても有恥〔はぢある〕矢の一も不射、道の程(も)甲斐々々敷〔かひがひしき〕軍もせで(落行)、君の御尋有んには、何とか答可申。されば重忠は一軍〔ひといくさ〕せんと思ふ也」とて、杭瀬河〔くひせがは〕の西の端〔はた〕に、九十余騎にて扣〔ひかへ〕たり。奥岳嶋〔をかじま〕橘左衛門、三十余騎の勢にて馳来れば、御方〔みかた〕を待かと覚敷〔おぼしく〕て、河も不渡、軍もせず。去程に御方の勢少々馳著たり。河の端に打立て、「向の岸なるは何者ぞ。敵か御方か」(と問)。山田次郎、「御方ぞ」。「御方は誰ぞ」。「誠には敵ぞ」。「敵〔かた〕きは誰ぞ」。「尾張国の住人、山田次郎重忠なり」。「さては(よき敵なり)」とて、矢合する程社〔こそ〕あれ、打漬て渡しけり。山田次郎が郎等共、水野左近・大金太郎・太田五郎兵衛・藤兵衛・伊予坊・荒左近・兵部坊、是等を始として九十余騎、河の端に打下りて散々に戦ふ。その中に大弓・精兵数多〔あまた〕有しかば、河中に射被浸流るゝ者もあり。痛手負て引退者もあり。(左右なく渡しえざりけり)。其中に加地丹内渡しけるが、鞍の前輪鎧こめ、尻輪〔しづわ〕に被射付て、暫〔しば〕しは保て見へけるが、後には真倒〔まつさかさま〕に落ちてぞ流ける。佐賀羅三郎、真甲〔まつかふ〕の余を射させて引退く。波多野五郎、尻もなき矢にて、其も真向の余を射させて引退く。(かゝる所に)大将軍武蔵守、河端に打立て軍の被下知ければ、手負共、各参て見参に入。誠〔まことに〕由々敷〔ゆゆしく〕ぞ見たりける。薄手〔うすで〕負たる者共、矢折懸て臆たる気色もなく渡しけり。被討をも不顧、乗越々々渡す。東国の兵共、如雲霞続きければ暫戦ふて、山田次郎颯〔さつ〕と引てぞ落行ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b058f79b72d6688c7f2f801e6a5b9e9

ということで、「山田次郎が郎等共、水野左近・大金太郎・太田五郎兵衛・藤兵衛・伊予坊・荒左近・兵部坊、是等を始として九十余騎」であり、慈光寺本よりは現実的な数字ですね。
流布本では杭瀬河で重忠と戦ったのは児玉党ではありません。
最初に「奥岳嶋橘左衛門」(『吾妻鏡』では「小鹿嶋橘左衛門尉公成」)が三十余騎でやってきて、暫く味方を待って様子見をしています。
「御方の勢少々」が来ると、やっと戦闘が始まりますが、慈光寺本のように重忠は十倍の敵と戦う訳でもなく、まあ、同じぐらいの人数でしょうか。
そして、重忠は暫らく善戦した後、「東国の兵共、如雲霞続きければ」、さすがに多勢に無勢と思って「颯〔さつ〕と引てぞ落行ける」となる訳ですね。
こちらの方が慈光寺本より遥かにリアルな感じがします。
さて、続きです。(p104)

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承久の乱後
 尾張川の合戦に勝利した幕府軍はそのまま宇治川を突破し、京都を占領、圧倒的な強さを示して開戦よりわずか一カ月で乱を終結させた。天皇・上皇が武士、それも将軍の家来である北条義時に負けたことは、治安警察機構であるべき幕府が逆に朝廷を支配する国家の政権となったことを明らかとした。それは、北条義時調伏の宣旨に対して、「誰か昔の王孫ならぬ。武田・小笠原殿も清和天皇の末孫なり。権大夫(北条義時のこと)も桓武天皇の後胤なり」(『慈光寺本承久記』)と、武士も天皇もいにしえの天皇の子孫であることには変わりないと言い放った東国武士の意識に支えられた勝利であった。
-------

いったん、ここで切ります。
引用されているのは、大井戸の戦いでの「小笠原一ノ郎等市川新五郎」の発言ですね。

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小笠原一ノ郎等市川新五郎ハ、扇ヲ上〔あげ〕テ、向〔むかひ〕ノ旗ヲゾ招キタル。「向ノ旗ニテマシマスハ、河法シキノ人ゾ。ヨキ人ナラバ、渡シテ見参セン。次々ノ人ナラバ、馬クルシメニ渡サジ」トゾ招〔まねき〕タル。薩摩左衛門立出テ申ケルハ、「男共、サコソ云トモ、己等〔おのれら〕ハ権太夫ガ郎等ナリ。調伏〔てうぶく〕ノ宣旨蒙ヌル上ハ、ヤハスナホニ渡スベキ。渡スベクハ渡セ」トゾ招タル。新五郎是ヲ聞〔きき〕、腹ヲ立テテ、「マサキニ詞〔ことば〕シ給フ殿原哉。誰カ昔ノ王孫ナラヌ。武田・小笠原殿モ、清和天皇ノ末孫〔ばつそん〕ナリ。権太夫も桓武〔くわんむ〕天皇ノ後胤ナリ。誰カ昔ノ王孫ナラヌ。其儀ナラバ、渡シテ見セ申サン」トテ、一千余騎コソ打出タレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bff94f63d818bc7dbe91b11a89be431f

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盛り付け上手な青山幹哉氏(その4)

2023-09-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
青山氏は慈光寺本の引用を、

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山田殿申されけるは、「殿原、聞き給え。我をば誰とか御覧ずる。美濃と尾張との堺に、六孫王の末葉、山田次郎重定(忠)とは我事なり」とて、散々に切って出で、火出る程に戦われければ、小玉党が勢百余騎は、やにわに討れにけり。
-------

で終わらせるので、これを読んだ読者、特に名古屋市民は郷土の英雄の活躍になかなか良い気分になれるでしょうが、慈光寺本の杭瀬河合戦の場面にはもう少し続きがあります。
即ち、

-------
山田殿方ニモ、四十八騎ハ討レニケリ。小玉党、山田殿ニ余〔あまり〕ニキブク攻ラレテ引ケレバ、山田殿申サレケルハ、「人白〔しら〕マバ我モ白〔しろ〕ミ、人カケバ我モカケヨ、殿原。命ヲ惜マズシテ、励メ、殿原」トテ、手ノ者ヲ汰〔そろ〕ヘ給フ。「一番ニハ諸輪左近将監、二番ニハ小波田右馬允、三番ニハ大加太郎、四番ニハ国夫太郎、五番ニハ山口源多、六番ニハ弥源次兵衛、七番ニハ刑部房、八番ニハ水尾左近将監、九番ニハ榎殿、十番ニハ小五郎兵衛カケヨ」トゾ申サレケル。
 小玉与一、三百余騎ニテ押寄タリ。山田殿是ヲ見テ、「諸輪左近将監、懸〔かけ〕ヨ」トゾ云ハレケル。左近将監是ヲ聞、懸様ニテ小金山ヘゾ落ニケル。小波田右馬允十九騎ニテ懸出テ戦ケリ。向敵三十五騎討取、我勢十五騎討死シ、四騎ハシラミテ、山田殿ヘゾ参リケル。北山左衛門、三百余騎ニテ押寄タリ。大加太郎カケ出テ戦ケリ。分捕シテ、山田殿ヘゾ参ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a

ということで、重忠側にも「小玉党」の犠牲者の約半分、四十八騎の犠牲者が出ます。
しかし、重忠は怯まず、自軍を一番から十番まで編成して突撃を命じますが、一番の「諸輪左近将監」は、重忠の命に応じて突撃するフリをしつつ、逃亡してしまうなど、若干の「不都合な真実」も記されますね。
まあ、慈光寺本では「小玉党」は三千騎なので、十倍の敵を前にした重忠勢の中には逃げ出したいと思う人が出てきても不自然ではありません。
結局、この場面のポイントは「小玉党」が三千騎という膨大な人数になっている点で、武蔵武士団に多少の知識のある人は、ここを一番奇妙に感じるはずです。
もちろん、慈光寺本でも鎌倉方の総合計は流布本・『吾妻鏡』と同じく十九万騎となっているので、随所で数字は盛られているのでしょうが、児玉党が三千騎というのは、いくら何でも盛り過ぎではないか、という感じがします。
青山氏は三千騎の部分を切り取っているので、読者はさほど不自然に感じないでしょうが、三千騎を加えると、とたんに全体が胡散臭い感じの話になってしまいますね。
青山氏のトリミングの仕方は本当に絶妙で、「匠の技」ですね。
ところで、青山氏は「『慈光寺本承久記』は、後鳥羽軍の大将藤原秀康を愚将とする一方、重忠を勇将として描き」(p103)と言われますが、これは藤原秀康と弟の秀澄を混同されているようですね。
慈光寺本では秀康は「愚将」として描かれていないどころか、秀澄による第二次軍勢手分で三浦胤義とともに「大豆戸」(まめど)へ配され、実際にそこで、

-------
 大豆戸ノ渡リ固メタル能登守秀康・平判官胤義カケ出テ戦フタリ。平判官申ケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。駿河守ガ舎弟胤義、平判官トハ我ゾカシ」トテ、向フ敵廿三騎ゾ、射流シケル。待請々々、多ノ敵討取テ、終ニハシラミテ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2

と戦ったことが記された後(岩波新大系、p345)、慈光寺本から忽然と消えてしまいます。
そして、その名前が次に、そして最後に登場するのは乱後の処刑者・遠流者のリストの中です。(p361)
これは慈光寺本の謎の一つですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その54)─藤原秀康の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682

他方、秀澄は、どんな資格・権限に基づくのか分かりませんが、第二次軍勢手分をした際に、「山道・海道一万二千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナリ」と酷評されます。(p336)
そして、墨俣において秀澄は、山田重忠と面談し、

-------
 山道遠江井助〔とほたふみのゐすけ〕ハ、尾張国府ニゾ著〔つき〕ニケル。其時、洲俣〔すのまた〕ニオハシケル山田殿、此由聞付テ、河内判官請〔しやう〕ジテ宣給〔のたま〕フ様、「相模守・山道遠江井助ガ尾張ノ国府ニ著ナルハ。我等、山道・海道一万二千騎ヲ、十二ノ木戸ヘ散シタルコソ詮ナケレ。此勢一〔ひとつ〕ニマロゲテ、洲俣ヲ打渡〔うちわたし〕テ、尾張国府ニ押寄テ、遠江井助討取〔うちとり〕、三河国高瀬・宮道・本野原・音和原ヲ打過〔うちすぎ〕テ、橋本ノ宿ニ押寄テ、武蔵并〔ならびに〕相模守ヲ討取テ、鎌倉ヘ押寄〔おしよせ〕、義時討取テ、谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上〔やきあげ〕、北陸道ニ打廻リ、式部丞朝時討取、都ニ登〔のぼり〕テ、院ノ御見参ニ入ラン、河内判官殿」トゾ申サレケル。判官ハ、天性臆病武者ナリ。此事ヲ聞〔きき〕、「其事ニ候。尤〔もつとも〕サルベキ事ナレドモ、山道・海道一〔ひとつ〕ニ円〔まろ〕ゲ、洲俣渡シテ、尾張国府ニアンナル遠江井介・武蔵・相模守討取、鎌倉ヘ下〔くだる〕モノナラバ、北陸道責〔せめ〕テ上〔のぼる〕ナル式部丞朝時、山道々々〔せんだうのみちみち〕固メテ上ナル武田・小笠原ガ中ニ取籠ラレテ、属降〔ぞくかう〕カキテ要事ナシ。京ヨリ此マデ下〔くだる〕ダニ馬足ノクルシキニ、唯、是ニテ何時日〔いつのひ〕マデモ待請〔まちうけ〕テ、坂東武者ノ種振〔たねふる〕ハン、山田殿」トゾ申サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bb5884b5829798a9028ad254ef2855cd

と、重忠から「我等、山道・海道一万二千騎ヲ、十二ノ木戸ヘ散シタルコソ詮ナケレ」と第二次軍勢配置を根本的に批判された後、重忠の大胆な鎌倉攻撃案を聞きますが、しかし、「天性臆病武者」の秀澄は山田案を慇懃に否定します。
秀澄の返答を不快に感じた重忠は、だったら自分の軍勢だけで渡ってやるぞと思い、配下に、北条時房と「山道遠江井介」が尾張国府に着いたそうだから行って偵察して来い、と命じます。
そして、重忠の配下が敵方の密偵を騙して捕まえてくると、重忠はそのうちの一人(「中六男」)を秀澄の許に送ります。
しかし、

-------
【前略】山田次郎ハ、道理有ケル武者ナレバ、中六男ヲバ、日ノ大将軍河内判官ニゾ奉ラレケル。判官ハ、心ノビタル武者ナレバ、御料食間ニ中六ヲバ早北〔にが〕シテケリ。山田殿ハ、中源次ヲ召寄セ、「鎌倉ニハ、イカゞ云」。有ノ儘ニ申テケリ。其後ニ権八ニ預ラル。森堤〔もりのつつみ〕ニテ遂ニ頸切テ懸タリケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e18148ac5d76108499d797479633a933

ということで、「心ノビタル武者」である秀澄は、食事中に「中六」に逃げられてしまいます。
万事に有能で、しかも「道理有ケル武者」である重忠に対し、「天性臆病武者」で「心ノビタル武者」である秀澄は「愚将」そのものですね。
ちなみに秀澄は流布本では全く影の薄い存在で、上下巻通してたった一箇所、尾張河合戦前の京方の軍勢手分において、

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【前略】墨俣〔すのまた〕へは河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千余騎にて向。市河前へは賀藤伊勢前司光定、五百余騎にて向ける。以上一万七千五百余騎、六月二日の暁、各都を出て、尾張(河)の瀬々へとてぞ急ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce

と山田重忠と並んで名前が出て来るだけです。
慈光寺本の秀澄は山田重忠の立派さを引き立てる役として造形されている感じですね。
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盛り付け上手な青山幹哉氏(その3)

2023-09-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
藤原秀澄の第二次軍勢手分では、「十二ノ木戸」と書きながら十ヵ所しか挙げていない点に加え、「食渡〔じきのわたり〕ヲバ、安芸宗左衛門・下条殿・加藤判官、三千騎ニテ固メ給ヘ」と、「食渡」のみ三千騎という具体的数字を挙げているのも変な感じですね。
変なエピソードに溢れている慈光寺本の中でも、尾張川合戦には特に変な話が集まっていて、歴史研究者の常識的な感覚としては、慈光寺本は信頼できない史料だとして全く排除するか、あるいは他史料と比較するなど、相当の注意をもって慎重に扱うのが普通ではないかと思われますが、青山幹哉氏が慈光寺本を利用するやり方は大胆ですね。
少しずつ見て行きたいと思います。(p102)

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『承久記』の英雄山田重忠
 山田重忠は重宗流の尾張源氏であり、すでに本節でも治承・寿永の内乱に関する項目で何度も登場している。治承五年(一一八一)の墨俣川(尾張川)の合戦では、東軍(源行家軍)として西軍(平家軍)を攻撃したが、その四〇年後には同じ美濃尾張の国境で西軍(後鳥羽軍)として東軍(幕府軍)の攻撃を防戦するという奇運のもとにあった。重宗流源氏が源頼朝に疎まれていたことは既述したが、そのためか一層、京の院権力へ接近していったらしく、重忠も本領山田荘こそ幕府に安堵されたらしいが、同時に鳥羽院【ママ】の一将としての処遇を受け、承久の乱が起こると、重宗流源氏の長老として尾張・美濃・三河の一族を率い、勇躍、後鳥羽院のもとへ参じたのであった。
-------

いったん、ここで切ります。
『平家物語』に登場する木曽義仲麾下の「山田次郎」が重忠であるかについては若干の異論もあるようですが(p96)、『吉記』等からも、この時期から重忠が活躍していたと考えて良いみたいですね。
先に、目崎徳衛氏「山田重忠とその一族」を検討する際に、

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重忠の生年・没年齢は不明ですが、『吾妻鑑』建久元年(1190)六月二十九日条に、【中略】と「尾張国住人重家。重忠等」が登場しているので、仮にこの年に(相当若く見積もって)二十歳として、承久の乱の時点では五十二歳ですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a052ad8292740a72420254131ee29421

などと書いてしまいましたが、重忠が治承・寿永期から活動していたとすると、承久の乱の時点では還暦を越えていたことになりそうです。
ただ、そうすると、重忠が無位無官であった事情が一層分かりにくい感じもしてきます。
ま、それはともかく、続きです。(p102以下)

-------
 さて、承久の乱を題材とした『承久記』等の軍記物語では、この重忠が英雄として描かれている。尾張川の合戦でも、味方がふがいなく退却する中、

  されども山田殿は火出だすばかりの戦いして、多くの敵を討ち取ると見給えば、(木曽川の)
  上にも下にも人もなし、心細くぞ思われける。「重定(忠)は是にて討死せんとは思えども、
  わが身一人に成て討死していかがせん。杭瀬川(揖斐川)こそ山道・海道の束ねなれば、それ
  へ向はん」とて、三百余騎をたなびきておわしけり。……小玉党(武蔵国児玉郡の武士団)押
  寄せ押寄せ、戦いけり。山田殿申されけるは、「殿原、聞き給え。我をば誰とか御覧ずる。美
  濃と尾張との堺に、六孫王の末葉、山田次郎重定(忠)とは我事なり」とて、散々に切って出
  で、火出る程に戦われければ、小玉党が勢百余騎は、やにわに討れにけり。(『慈光寺本承久
  記』下)

と英雄的な戦闘を繰り広げる。重忠はその後の宇治川・勢多の合戦でも奮戦し、最後は山城嵯峨の奥で自害するわけだが、『慈光寺本承久記』は、後鳥羽軍の大将藤原秀康を愚将とする一方、重忠を勇将として描き、さらに『流布本承久記』になると、後鳥羽院も重忠から「大臆病の君に語らわされて、憂に死せんずる事、口惜し候」と声高にののしられる役となり、重忠の勇将ぶりが強調されていく。
 残念ながら、『平家物語』や『源平盛衰記』等ほど『承久記』は完成されていない分、この山田重忠像もまた荒削りのままで終わった感があるが、中世武士の一つの英雄像となったのは、悲運であった尾張源氏としては持って瞑すべきことであろう。
-------

森野宗明氏の論文を読んだ後で慈光寺本の引用部分を見ると、「多くの敵を討ち取ると見給えば」「心細くぞ思われける」「三百余騎をたなびきておわしけり」「山田殿申されけるは」「火出る程に戦われければ」という具合に、地の文において、重忠に対して本当に丁寧に敬語が用いられている点が気になってきますね。
ま、それはさておき、慈光寺本の引用で青山氏が省略された部分には、

-------
 杭瀬河ニ打立テオハスレバ、小玉党〔こだまたう〕三千騎ニテ寄〔よせ〕タリケリ。小玉党ガ申〔まうす〕ヤウ、「此ナル武者ハ、イカナル者ゾ。敵カ味方カ」ト云ケレバ、安藤兵衛申ケルハ、「アレヨナ、洲俣ニテ手ノ際〔きは〕ノ戦シツル山田次郎ト見タンナリ。誠ニ、ソニテ有ナラバ、手取〔てどり〕ニセヨ」トゾ申ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a

という文章が入ります。
重忠が対峙した児玉党は実に重忠勢の十倍、三千騎とのことですが、青山氏はこれを史実と考えておられるのでしょうか。
また、青山氏は「重忠はその後の宇治川・勢多の合戦でも奮戦し」とされますが、宇治川合戦が存在しない慈光寺本では、重忠の「奮戦」は描かれません。
そもそも慈光寺本の杭瀬河合戦は『吾妻鏡』のように六月六日の出来事ではなく、山門を味方に引き入れようとした後鳥羽院の叡山御幸が失敗に終わった後、本来であれば宇治河合戦が行なわれていた時期の出来事として描かれおり、山田重忠は杭瀬河合戦の直後、「六月十四日ノ夜半計ニ」、渡辺翔・三浦胤義とともに「高陽院殿ヘ参テ」、敗戦の報告をしています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その53)─「カゝリケル君ニカタラハレマイラセテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f263e58f5c29509706d6166498b7e1f6

青山氏はこのような事情を熟知されているはずですが、読者への説明は一切ありません。
自治体史は論文よりは一般書に近いものでしょうから、論文のように丁寧な出典の明記は必要ないと思いますが、それでも青山氏の書き方では読者に相当の誤解を与えるように思われます。
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盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)

2023-09-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
4月21日の投稿では、

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全部合計すると一万九千騎なので「山道・海道・北陸道山路ヨリ、一万九千三百廿六騎」より326騎少ないですが、あくまで概数を挙げたということでしょうね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bee622726e9347aeba18024daf52e03

などと書いていましたが、私にしてはずいぶん慈光寺本作者に好意的な書き方でした。
慈光寺本に描かれた藤原秀康と弟の秀澄による二段階の軍勢手分は、「三百廿六騎」の増加や「十二ノ木戸」が数えてみると十ヵ所しかないといった数字の点以外にも奇妙な記述に溢れています。
まず、藤原秀康による第一次軍勢手分では、「山道・海道・北陸道山路ヨリ、一万九千三百廿六騎トゾ註タル」の後に「残ノ人々ハ、宇治・勢多ヲ固メ玉ヘ」とあります。
しかし、尾張河合戦の前に何故に宇治・勢多に軍勢を配置するのか。
尾張河合戦の敗北を受けて、京都防衛のための最後の砦として宇治・勢多に軍勢を配置する必要が生じるのであって、最初からそんなところに軍勢を配置しても軍事的意味がありません。
軍事的意味がないどころか、慈光寺本では、

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 瀬田ヲバ山ノ口ニモ仰付ラレケリ。美濃竪者〔りつしや〕・播磨竪者・周防竪者・智正・丹後ヲ始トシテ、七百人コソ下リケレ。五百人ハ三尾〔みを〕ガ崎、二百人ハ瀬田橋ニ立向〔たちむか〕フ。行桁〔ゆきげた〕三間引放〔ひきはなち〕、大綱〔おほづな〕九筋引ハヘテ、乱杭〔らんぐひ〕・逆木〔さかもぎ〕引テ待懸〔まちかけ〕タリケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9

と続くので、瀬田橋の橋板を三間分もはずしてしまったことになっていますが、これでは尾張河合戦で敗北した人々が京都に戻れなくなってしまいます。
尾張河合戦で勝利した幕府軍が瀬田橋に近づいた時点で橋板をはずすことに軍事的意味があるのであって、尾張河合戦前に橋板をはずすのは味方の退路を断つ裏切り行為です。

宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a52911b4d75fb26095129eac93be624

次に、秀澄による第二次軍勢手分では、秀澄がどういう資格・権限で軍勢手分をしているのかが分かりません。
秀澄は確かに「海道大将軍」ですが、秀康による第一次軍勢手分を整理すると、

-------
Ⅰ 東海道 七千騎
 大将軍…能登守秀康・河内判官秀澄・平判官胤義・山城守広綱・六郎左衛門・刑部左衛門・
     帯刀左衛門・平内左衛門・平三左衛門・伊王左衛門・斎藤左衛門・薩摩左衛門・
     安達源左衛門・熊替左衛門・阿波守長家・下総守・上野守・重原左衛門・翔左衛門

Ⅱ 東山道 五千騎
 大将軍…蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門・高桑殿・開田・懸桟・上田殿・打見・御料・寺本殿・
     駿河大夫判官・関左衛門・佐野御曹司・筑後入道父子六騎・上野入道父子三騎

Ⅲ 北陸道 七千騎
 大将軍…伊勢前司・石見前司・蜂田殿・若狭前司・隠岐守・隼井判官・江判官・主馬左衛門・
 宮崎左衛門・筌会〔うへあひ〕左衛門・白奇蔵人・西屋蔵人・保田左衛門・安原殿・成田太郎・
 石黒殿・大谷三郎・森二郎・徳田十郎・能木源太・羽差八郎・中村太郎・内蔵頭

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bee622726e9347aeba18024daf52e03

となるので、「海道ノ大将軍」は秀澄を含めて十九人、「山道大将軍」は「蜂屋入道父子三騎」「筑後入道父子六騎」「上野入道父子三騎」をそれぞれ一人と考えても十四人、単純に合計すれば二十三人です。
「北陸道大将軍」は二十三人で、単純に合計すれば海道・山道・北陸道の三道で「大将軍」は六十五人となります。
その中には「殿」の敬称すらつかないレベルの武士も大勢いて、慈光寺本における「大将軍」はずいぶん安っぽい存在ですね。
その程度の存在である藤原秀澄が何故に第二次軍勢手分を行っているのか。
「総大将」の藤原秀康の授権があるのだ、といった説明があればまだしも、慈光寺本には何の説明もありません。
第三に、秀澄の第二次軍勢手分の具体的内容を見てみると、

-------
 去程〔さるほど〕ニ、海道大将軍河内判官秀澄、美濃国垂見郷〔たるみのがう〕少ナル野ニ著〔つき〕、軍〔いくさ〕ノ手分〔てわけ〕セラレケリ。「阿井渡〔あゐのわたり〕、蜂屋入道堅メ給ヘ。大井戸〔おほゐど〕ヲバ、駿河判官・関左衛門・佐野御曹司固メ給ヘ。売間瀬〔うるまのせ〕ヲ神土殿、板橋〔いたばし〕ヲバ萩野次郎左衛門・伊豆御曹司固メ給ヘ。火御子〔ひのみこ〕ヲバ、打見・御料・寺本殿固メ給ヘ。伊義渡〔いぎのわたり〕ヲバ、開田・懸桟・上田殿固メ給ヘ。大豆戸〔まめど〕ヲバ、能登守・平判官固メケリ。食渡〔じきのわたり〕ヲバ、安芸宗左衛門・下条殿・加藤判官、三千騎ニテ固メ給ヘ。上瀬〔かみのせ〕ヲバ、滋原左衛門・翔左衛門固メ給ヘ。洲俣〔すのまた〕ヲバ、山田殿固メ給ヘ」。山道・海道一万ニ千騎ヲ十二ノ木戸〔きど〕ヘ散ス事コソ哀レナレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9

とあり、整理すると、「海道大将軍」藤原秀澄の行った第二次軍勢手分の中に、秀康の第一次軍勢手分で山道に配置された人々が多数含まれています。
即ち、◎を海道、△を山道、■を第一次軍勢手分には登場しない人々とすると、

 阿井渡…△蜂屋入道
 大井戸…△駿河判官・△関左衛門・△佐野御曹司
 売間瀬…■神土殿
 板橋…■萩野次郎左衛門・■伊豆御曹司
 火御子…△打見・△御料・△寺本殿
 伊義渡…△開田・△懸桟・△上田殿
 大豆戸…◎能登守・◎平判官
 食渡…■安芸宗左衛門・■下条殿・■加藤判官(三千騎)
 上瀬…◎滋原左衛門・◎翔左衛門
 洲俣…■山田殿

となります。
◎は僅か四名(滋原左衛門=重原左衛門として)、△は10名、■は七名で、「山田殿」も■です。
さすがに第一次軍勢手分で北陸道とされた人々の名前はありませんが、「海道大将軍」の一人にすぎない藤原秀澄がどうして「山道大将軍」の配置を決定することが出来るのか。
これも秀澄の資格・権限の問題ですが、海道・山道が全くごちゃまぜになっているので、いったい藤原秀康による第一次軍勢手分とは何だったのか、という疑問すら生じてきます。
第四に秀澄が第二次軍勢手分を行なった場所も不審です。
「美濃国垂見郷〔たるみのがう〕少ナル野」とありますが、久保田淳氏の注記によれば「美濃国本巣郡。現、岐阜県本巣郡根尾村に「樽見」の地名が残る。「小ナル野」は未詳」とのことです。(岩波新大系、p336)
しかし、根尾村(2004年に本巣郡の四町村が合併して、現在は本巣市)といえば、福井県に接する山間部であり、東海道・東山道からは相当に離れています。
そんなところで軍議を行ったとは到底思えません。
いったい、慈光寺本作者の美濃国の地理に関する知識はどの程度のものなのか。

根尾村
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E5%B0%BE%E6%9D%91
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盛り付け上手な青山幹哉氏(その1)

2023-09-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
山田重忠に関する知識を補強したいと思って『新修名古屋市史 第二巻』(名古屋市、1998)を見たところ、青山幹哉氏(名古屋大学助手、現・南山大学教授)が担当されている「第二章 公武両政権下の尾張」に次のような記述がありました。(p100以下)

-------
尾張川の合戦
 六月二日、後鳥羽軍は防戦のため京を進発、治承・寿永の内乱の時同様、東西両軍最初の主力対決は尾張・美濃の国境で行われることとなった。
 尾張川(墨俣川・木曽川)には渡河すべき箇所が九つあり、後鳥羽軍はその九つの渡しに藤原秀康・大内惟信以下、都合一万七五〇〇余騎の軍勢を配備した。尾張の将としては、大豆度〔まめど〕に小野盛綱、板橋に朝日頼清、墨俣に山田重忠がそれぞれ守将として、幕府軍の来襲を待ち受けたのである(『承久記』)。
 六月五日、幕府軍は尾張一宮に到着し、大炊の渡へは東山道軍、鵜沼へは毛利季光、池瀬(気瀬)へは足利義氏、板橋へは狩野宗茂、大豆渡へは北条泰時・三浦義村、墨俣へは北条時房・安達景盛等と、諸将の部署を決定した(『吾妻鏡』)。ここで双方が主力部隊を投入した地点は大豆度(岐阜県各務原市前渡)であり、この地の攻防が合戦の勝敗を決するはずであった。だが戦いは五日夕、大炊の渡(岐阜県可児市)で幕府東山道軍の武田勢の抜け駆けから開始された。河中には乱株が打たれ逆茂木がめぐらされていたが、幕府軍はそれをものともせず、猛進して後鳥羽軍を強攻、ついに守将大内惟信もたまらず退いた。この敗報が大豆渡の本営に届くや、主将藤原秀康は大炊を渡った幕府軍から背後を突かれることを恐れて戦わずして退却してしまい、全軍の崩れを誘ってしまった。
 さて、後鳥羽軍が敗退するなか、山田重忠のみ孤軍奮戦したと『承久記』『承久兵乱記』等に見えるが、しばしこの人物に焦点をあててみよう。
-------

いったん、ここで切ります。
『承久記』とあるのみで、どの本か明示されていませんが、「渡河すべき箇所が九つ 」と「都合一万七五〇〇余騎」から流布本と分かります。
即ち、流布本には、

-------
 先〔まづ〕討手を可被向とて、「宇治・勢多の橋をや可被引」「尾張河へや向るべき」「尾張河破れたらん時こそ、宇治・勢多にても防れめ」「尾張河には九瀬有なれば」とて、各分ち被遣。【中略】墨俣〔すのまた〕へは河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千余騎にて向。市河前へは賀藤伊勢前司光定、五百余騎にて向ける。以上一万七千五百余騎、六月二日の暁、各都を出て、尾張(河)の瀬々へとてぞ急ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce

とあります。
他方、慈光寺本では、先ず、

-------
 十善ノ君、宣旨ノ成様〔なるやう〕ハ、「ウタテカリトヨ、和人共〔わひとども〕。サテモ麿〔まろ〕ヲバ、軍セヨトハ勧メケルカ。今ハ此事、如何ニ示ストモ叶フマジ。トクトク勢ヲ汰〔そろ〕ヘテ、手ヲ向ヨ」。
 能登守秀康ハ此宣旨ヲ蒙リ、手々〔てんで〕ヲ汰〔そろへ〕テ分〔わけ〕ラレケリ。「海道ノ大将軍ハ、能登守秀康・河内判官秀澄・平判官胤義・山城守広綱・六郎左衛門・刑部左衛門・帯刀左衛門・平内左衛門・平三左衛門・伊王左衛門・斎藤左衛門・薩摩左衛門・安達源左衛門・熊替左衛門・阿波守長家・下総守・上野守・重原左衛門・翔左衛門ヲ始トシテ、七千騎ニテ下ベシ。山道大将軍ニハ、蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門・高桑殿・開田・懸桟・上田殿・打見・御料・寺本殿・駿河大夫判官・関左衛門・佐野御曹司・筑後入道父子六騎・上野入道父子三騎ヲ始トシテ、五千騎ニテ下ルベシ。北陸道大将軍ニハ、伊勢前司・石見前司・蜂田殿・若狭前司・隠岐守・隼井判官・江判官・主馬左衛門・宮崎左衛門・筌会〔うへあひ〕左衛門・白奇蔵人・西屋蔵人・保田左衛門・安原殿・成田太郎・石黒殿・大谷三郎・森二郎・徳田十郎・能木源太・羽差八郎・中村太郎・内蔵頭ヲ始トシテ、七千騎ニテ下ルベシ。山道・海道・北陸道山路ヨリ、一万九千三百廿六騎トゾ註タル。残ノ人々ハ、宇治・勢多ヲ固メ玉ヘ」。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bee622726e9347aeba18024daf52e03

という具合に、後鳥羽院の「宣旨」を受けた藤原秀康の軍勢配置がありますが、そこでは、

 海道  七千騎
 山道  五千騎
 北陸道 七千騎

としながら、何故か合計が一万九千騎ではなく、「山道・海道・北陸道三路ヨリ、一万九千三百廿六騎」と妙に細かい数字となっています。
次いで、「海道大将軍河内判官秀澄」が「美濃国垂見郷小ナル野」で行った「軍ノ手分」では、

-------
 去程〔さるほど〕ニ、海道大将軍河内判官秀澄、美濃国垂見郷〔たるみのがう〕少ナル野ニ著〔つき〕、軍〔いくさ〕ノ手分〔てわけ〕セラレケリ。「阿井渡〔あゐのわたり〕、蜂屋入道堅メ給ヘ。大井戸〔おほゐど〕ヲバ、駿河判官・関左衛門・佐野御曹司固メ給ヘ。売間瀬〔うるまのせ〕ヲ神土殿、板橋〔いたばし〕ヲバ萩野次郎左衛門・伊豆御曹司固メ給ヘ。火御子〔ひのみこ〕ヲバ、打見・御料・寺本殿固メ給ヘ。伊義渡〔いぎのわたり〕ヲバ、開田・懸桟・上田殿固メ給ヘ。大豆戸〔まめど〕ヲバ、能登守・平判官固メケリ。食渡〔じきのわたり〕ヲバ、安芸宗左衛門・下条殿・加藤判官、三千騎ニテ固メ給ヘ。上瀬〔かみのせ〕ヲバ、滋原左衛門・翔左衛門固メ給ヘ。洲俣〔すのまた〕ヲバ、山田殿固メ給ヘ」。山道・海道一万ニ千騎ヲ十二ノ木戸〔きど〕ヘ散ス事コソ哀レナレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9

とあって、「山道・海道一万ニ千騎」は藤原秀康による軍勢配置と一致していますが、「十二ノ木戸〔きど〕ヘ散ス」は奇妙です。
即ち、この記述を整理すると、

 阿井渡…蜂屋入道
 大井戸…駿河判官・関左衛門・佐野御曹司
 売間瀬…神土殿
 板橋…萩野次郎左衛門・伊豆御曹司
 火御子…打見・御料・寺本殿
 伊義渡…開田・懸桟・上田殿
 大豆戸…能登守・平判官
 食渡…安芸宗左衛門・下条殿・加藤判官(三千騎)
 上瀬…滋原左衛門・翔左衛門
 洲俣…山田殿

という具合に十か所であって、「十二ノ木戸」ではありません。
流布本と慈光寺本、そして『吾妻鏡』における京方の軍勢配置の異同については、リンク先投稿で整理しておきました。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その46)─「阿井渡、蜂屋入道堅メ給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/51f9021c68667da368f5bb7da224bdda

それにしても、海道・山道・北陸道を千騎単位で記しながら合計で唐突に326騎増やしたり、「十二ノ木戸」と書きながら十か所しか挙げないなど、慈光寺本作者は細かい数字にこだわるような姿勢を見せながら、しかし実際には極めて雑です。
上巻の始めの方で、「国王ノ兵乱十二度」と述べながら、数えてみると九度しかないという謎の記述がありますが、「十二ノ木戸」はその再来とも言えますね。
慈光寺本作者の数字に関する奇妙な性癖の理由は私には分かりません。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その7)─「国王兵乱」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ceb221e963f9e49a0409bcecaf871ebf
(その8)─「国王ノ兵乱十二度」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9bbac31be3ad10781b7be02cd58f6e16
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目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その13)─目崎著の評価

2023-09-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「逆輿」については既に何度も書いているので再論はしませんが、目崎氏が本当に「逆輿」が「罪人を送る作法」なのかを検討した様子もなく、慈光寺本を丸々信じ込んでいるように見えるのは吃驚ですね。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ec3d9321ac9d301eca3923c022ea649
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/063fe98e5d44c4e6a731f7230db7e96c
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その65)─後鳥羽院は「流罪」に処せられたのか
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c1e4d8f0bf9457827eb230860c538aa
市川猿之助と「逆輿」の場面について(雑感)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b74f73b579012c492ad4ce5cedd7fade

また、目崎氏は『海道記』に関して、その内容が「幕府の忌諱に触れる」(p167)ことを立論の前提とされており、私はこの前提自体に全く賛成できませんが、着眼点は鋭いと思います。
ただ、そう考えるならば、何故に慈光寺本が「幕府の忌諱に触れる」可能性について考えが及ばなかったのか。
目崎氏は慈光寺本の成立時期について明確には書かれていませんが、慈光寺本が「諸本のうち最も成立が早いとみられる」(p247)とされているので、おそらく1230年代成立との杉山次子説に同意されているのだと思われます。
とすると、承久の乱主謀者への追及は既に1220年代にほぼ終息しているとはいえ、嘉禎元年(1235)には九条道家を中心とする後鳥羽院の還京要請が北条泰時に峻拒されるなど(p191以下)、幕府は承久の乱関係者を決して許してはおらず、承久の乱に関する論評についても寛容ではなかったはずです。

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f718cb2b8089ab4a5bcf414487d32f1

そもそも鎌倉時代に「言論の自由」など欠片も存在していないのであって、殺される覚悟がなければ正面からの幕府批判などできないですね。
しかし、慈光寺本は、

-------
 爰〔ここ〕に、右京権大夫義時ノ朝臣思様〔おもふやう〕、「朝〔てう〕ノ護〔まもり〕源氏ハ失終〔うせをはり〕ヌ。誰〔たれ〕カハ日本国ヲバ知行〔ちぎやう〕スベキ。義時一人シテ万方〔ばんぱう〕ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍〔あらそ〕フベキ」【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939

という具合に承久の乱の出発点に北条義時の野心を置いており、これに「太上天皇叡慮動キマシマス事アリ」と後鳥羽院が対応したとするなど、義時を大悪人として描くことに余念がありません。
また、北条氏以外でも、武田信光と小笠原長清の密談の場面など、ずいぶん危険な内容です。
仮に武田・小笠原家の関係者が、武田信光・小笠原長清は大井戸で戦端が開かれる直前まで、内心では幕府か京方のいずれにつくかを決めておらず、北条時房によって目の前にぶら下げられた巨大なニンジンを見てやっと決断し、渡河を行なった、という記述を見た場合、けっこうなトラブルが発生するように思われます。
ここまで侮辱されている以上、武田・小笠原家から作者に刺客が放たれても不思議ではないような内容です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その41)─「誰カ昔ノ王孫ナラヌ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bff94f63d818bc7dbe91b11a89be431f

結局、「幕府の忌諱に触れる」可能性という観点からは、目崎氏の『海道記』への過剰な懸念と、慈光寺本への一切の懸念の不在は対照的であり、私には目崎氏のバランス感覚が理解できません。
さて、歴史研究者としての目崎氏の最大の特徴は、その国文学、特に和歌についての膨大な知識ですが、目崎氏は渡邉裕美子氏が指摘されるところの慈光寺本の和歌の特異性については全く気付かれていなかったのか。
普通の歴史研究者の和歌に対する理解は隠岐の海を泳いでいるクジラやイルカとたいして違わないレベルであり、また『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)で慈光寺本を担当された久保田淳氏の注釈は罪作りなほど巧妙なので、大半の歴史研究者にとって慈光寺本の和歌の特異性に気づくのはなかなか困難です。

渡邉裕美子論文の達成と限界(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58d38e5acac46a16d9a5372652fbf290

しかし、和歌に関する膨大な蘊蓄を誇る目崎氏ならば、少なくとも、慈光寺本の和歌は何か変だな、くらいのことを思われたのではないかと私は想像しますが、目崎著にはそのような気配は全く窺えません。
これは本当に不思議であり、目崎氏がご存命ならば渡邉論文の感想とともに聞いてみたいところですが、目崎氏は『史伝 後鳥羽院』が刊行された2001年に亡くなられているので、お聞きするのは不可能ですね。
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目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その12)─水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」について

2023-09-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
藤原信実が描いたという後鳥羽院像ですが、『吾妻鏡』七月八日条には、

-------
持明院入道親王〔守貞〕可有御治世云々。又止摂政〔道家〕。前関白〔家実〕被蒙摂政詔云々。今日。上皇御落飾。御戒師御室〔道助〕。先之。召信実朝臣。被摸御影。七条院誘警固勇士御幸。雖有御面謁兮。只抑悲涙還御云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあります。
『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳によれば、

-------
持明院入道親王〔守貞〕が世を治めるという。また摂政〔(藤原)道家〕を止め、前関白〔(藤原)家実〕が摂政の詔を受けられたという。今日、上皇(後鳥羽)が出家された。御戒師は御室〔道助(入道親王)〕であった。これ以前に(藤原)信実朝臣を召して御影が描かれた。七条院(藤原殖子)が警固の武士を説得して御幸され、(後鳥羽に)対面されたが、ただ悲涙を抑えて帰られたという。
-------

とのことですが(p140以下)、こちらは「先之」を「御落飾に先だって」と読むこともでき、『吾妻鏡』の編者は俗体の「御影」を想定しているようにも見えます。
なお、流布本が『吾妻鏡』に先行すると考える私の立場からすると、「七条院誘警固勇士御幸。雖有御面謁兮。只抑悲涙還御云々」は、流布本の、

-------
 同八日、六波羅より御出家可有由申入ければ、則〔すなはち〕御戎師を被召テ、御ぐしをろさせ御座〔おはしま〕す。忽〔たちまち〕に花の御姿の替らせ給ひたるを、信実を召て、似せ絵に被写て、七条院へ奉らせ給ければ、御覧じも不敢〔あへず〕、御目も昏〔く〕れ給ふ御心地して、修明(門)院誘引〔いざなひ〕進〔まゐ〕らせて、一御車にて鳥羽殿へ御幸なる。御車を指寄て、事の由を申させ給ければ、御簾〔みす〕を引遣〔やら〕せ御座〔ましまし〕て、龍顔を指出させ給て見へ被参、とく御返有〔かへりあれ〕と御手にてまねかせ給ふ様也。両女院、御目も暮〔くれ〕、絶入せ給も理也。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4185bb366bd84c3fbf2a65115ae50a3

を要約しているように思われます。
慈光寺本には、後鳥羽院が「御タブサ」を七条院に贈ったとあるだけで、その後、七条院(と修明門院)が後鳥羽院と対面した旨の叙述はなく、少なくともこの場面に関しては、『吾妻鏡』の編者が慈光寺本を参照した様子は窺えないですね。
ついでですが、目崎氏は「鳥羽に駆けつけた寵妃(修明門院)は院に殉じて出家した」(p171)と書かれていますが、「鳥羽に駆けつけた」云々は慈光寺本には出てきません。
整理すると、

 慈光寺本:後鳥羽院は出家後に「御タブサ」を七条院に贈るのみ。
 流布本: 後鳥羽院は信実に描かせた似絵を七条院に贈る。
      それを見た七条院が修明門院を誘って鳥羽殿に御幸。
『吾妻鏡』:(後鳥羽院が七条院に「御タブサ」もしくは似絵を贈ったか否かは不明)
      七条院が鳥羽殿に御幸。(修明門院が同行したかは不明)

となります。
さて、前回投稿ではちょっともったいぶった書き方をしてしまいましたが、私は、慈光寺本と流布本がともに信実は法体の後鳥羽院を描いたとしている以上、承久三年七月八日に信実が描いたのは法体の後鳥羽院像なのだと思います。
従って、水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」は、少なくとも七月八日に描かれたものではなく、信実が描き、七条院に贈られた法体像はいつしか失われてしまったのだと考えます。
ただ、「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」が信実作を騙った偽物かというと、出家以前、全く別の機会に後鳥羽院が信実に描かせていた可能性もあるので、そこは何とも言えないですね。
絵画史に疎い私が一応の調査をしたところでは、実は信実作で間違いないとされている作品自体が残っておらず、むしろ「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」を基準に他の作品の真贋が判定されているような状況らしいので、結論は永遠に出ないのかもしれません。
以上、暫定的な私見を述べましたが、この問題はもう少し調べてから再度検討したいと思います。
なお、『吾妻鏡』より更に遅れて成立した『増鏡』には、

-------
 東よりいひおこするままに、かの二人の大将軍はからひおきてつつ、保元のためしにや、院の上、都の外に移し奉るべしと聞ゆれば、女院・宮々、所々に思しまどふ事さらなり。本院は隠岐の国におはしますべければ、まづ鳥羽殿へ網代車のあやしげなるにて、七月六日いらせ給ふ。今日を限りの御歩き、あさましうあはれなり。「物にもがな」と思さるるもかひなし。その日やがて御くしおろす。御年四十に一二や余らせ給ふらん。まだいとほしかるべき御程なり。信実の朝臣召して御姿うつしかかせらる。七条院へ奉らせ給はんとなり。かくて同じ十三日に御船に奉りて、遙かなる浪路をしのぎおはします御心地、この世の同じ御身とも思されずいみじ。いかなりける代々の報ひにかと恨めしく、新院も佐渡国に移らせ給ふ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8111effe1a7eac3ee2ee79a29d92cb46

とあって、出家の後に「信実の朝臣召して御姿うつしかかせらる。七条院へ奉らせ給はんとなり」としているので、流布本に近いですね。
私は『増鏡』作者は間違いなく流布本を参照しているものと考えています。
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