森野氏は『増鏡』について「承久の乱関係の記事が詳しく、『承久記』と比較し得る便がある」とされていますが、確かに『増鏡』作者は承久の乱について相当詳しく研究したことが窺えますね。
そして、『増鏡』作者が見出した承久の乱の本質が「かしこくも問へるをのこかな」エピソードに凝縮されているように思えます。
「巻二 新島守」(その6)─北条泰時
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105
「巻二 新島守」(その8)─後鳥羽院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7aa410720e4d53adc19456000f53ea07
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9
私は『増鏡』作者を後深草院二条と考えますが、二条の父方の祖父、久我通光は上卿として義時追討の官宣旨に関与したために長期間にわたって逼塞を余儀なくされ、それまで極めて順調だった人生は暗転していますし、母方の祖父・四条隆親も久我通光とともに甲冑を身に着けて後鳥羽院の叡山御幸に同行するなど、系図を辿れば承久の乱の関係者ばかりで、承久の乱の三十七年後に生まれたとはいえ、二条にとって承久の乱は決して遠い過去の記憶ではありません。
二条が慈光寺本を見ていたかは分かりませんが、流布本を見ていたことは確実のように思われるので、「『承久記』と比較し得る便がある」のは決して偶然ではなさそうです。
四条隆親と隆顕・二条との関係(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/191ea5eb6fde00ee3f4943ada1c489e8
なお、四条隆親の母は坊門信清の娘であり、隆親も一時は坊門信家の娘(房名母)を正室としていたはずで、四条家と坊門家の結び付きは強いですね。
私は『とはずがたり』に登場する「母方の祖母権大納言」も房名と同腹で、坊門信家の娘と考えています。
二人の「近子」(その3)(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f2a26745f54da5d6e93f44843e49ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/482deb8d7d6f9bb02e583f66a0804c6b
ま、それはともかく、森野論文の続きです。(p92以下)
-------
一ノ二
歴史もののなかで、武家に対して敬語の使用がみられる代表的なものは、戦記物語である。天皇を頂点とする公家に対する扱いが鄭重であり、武家と公家とに対する待遇評価の軽重が、特定の敬語表現形式を使い分けることによって差別的に表現されているという点では、やはり公家本位という基本線が貫かれているが、敬語使用の範囲は公家の枠を越えて裾野を拡げ、特定武士層にも及んでいるのである。次にその模様を概観してみよう。
戦記物語については、諸本による異同がどのようであるかをおさえてかかることが必要であるが、いま、金刀比羅宮蔵本を底本とした日本古典文学大系所収の『保元物語』、『平治物語』についてみるならば、それぞれ、保元、平治の合戦当時において最大の武門の棟梁としての門地を誇る平清盛一家や源為義・義朝一家の人物に敬語の使用がみられる。ただし、源平二大棟梁家の支配下に服属する武士群は、いかにその名が知られる有力者で、やがて時代が下って鎌倉幕府の中枢を構成するような有力御家人の祖となるような人物であっても、敬語が適用されることはない。
『平家物語』の敬語についての研究はすこぶる活発で、多くの論説がある。諸本の異同にもそれなりに目を配りながら、武家に対する敬語の適用の様相にも言及して概観した西田直敏氏の「平家物語の敬語」(敬語講座③『中世の敬語』所収)が便利なので、それをも参看しながら、竜谷大学図書館蔵本を底本にした日本古典文学大系所収の『平家物語』についてみるならば、平氏に対してかなり斉一に敬語の適用が見られるほか、源氏では、頼信を祖とする河内源氏の嫡流に対する配慮がこまやかで、ことに頼朝に対する敬語の使用が目立つ。その舎弟範頼、義経、そして河内源氏の庶子流ではあるが、頼朝とは別個の武士勢力を結集して棟梁としての評価を受けた義仲、同じく河内源氏の庶子流で頼朝の叔父にあたる、小規模ながら別格的扱いを受けている行家、頼光を祖とする摂津源氏の嫡流で、清和源氏の流れを汲む宮廷武士としての家系を誇り、清和源氏出身ではじめて三位に叙せられた頼政およびその子息仲綱といったところにも敬語の使用が及ぶが、そのへんが下限で、使用状態も、頼朝にくらべると疎密の差がある。後述するように、慈光寺本では、武田信光、その子息信長、信光の弟小笠原長清という河内源氏の庶子流甲斐源氏の武士に対しても、散発的な域にとどまるものの、敬語の使用が目につくが、『平家物語』では、同じく一条忠頼、安田義定、阿佐里義成等が登場するにもかかわらず、敬語が使用されることはない。『吾妻鏡』によれば、甲斐源氏に対し、頼朝はかなり肌理こまかな配慮をしていたことがうかがわれるし、『平家物語』巻十一の遠矢のくだりでも、義経の阿佐里義成に対する言葉づかいは鄭重であるが、頼朝麾下に服属する武士団として家人並みに扱い、一方の棟梁として処遇していないことの現われかと思われる。
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いったん、ここで切ります。
「信光の弟小笠原長清」とありますが、武田信光(1162-1248)の父・信義(1128-86)と小笠原長清(1162-1242)の父・加賀美遠光(1143-1230)が兄弟であって、信光と長清は従兄弟ですね。
信光と長清は東山道軍の総大将であり、慈光寺本では二人の奇妙な密談の場面があります。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その40)─「娑婆世界ハ無常ノ所ナリ。如何有ベキ、武田殿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe9038ee3aa25c707e10727fda788908
「武田の本音を見透かしたように甘言で誘う時房もまたしたたかである」(by 大津雄一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/28b4e0e9fbdd8014e7cffa6f5bea75c2
そして、『増鏡』作者が見出した承久の乱の本質が「かしこくも問へるをのこかな」エピソードに凝縮されているように思えます。
「巻二 新島守」(その6)─北条泰時
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105
「巻二 新島守」(その8)─後鳥羽院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7aa410720e4d53adc19456000f53ea07
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9
私は『増鏡』作者を後深草院二条と考えますが、二条の父方の祖父、久我通光は上卿として義時追討の官宣旨に関与したために長期間にわたって逼塞を余儀なくされ、それまで極めて順調だった人生は暗転していますし、母方の祖父・四条隆親も久我通光とともに甲冑を身に着けて後鳥羽院の叡山御幸に同行するなど、系図を辿れば承久の乱の関係者ばかりで、承久の乱の三十七年後に生まれたとはいえ、二条にとって承久の乱は決して遠い過去の記憶ではありません。
二条が慈光寺本を見ていたかは分かりませんが、流布本を見ていたことは確実のように思われるので、「『承久記』と比較し得る便がある」のは決して偶然ではなさそうです。
四条隆親と隆顕・二条との関係(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/191ea5eb6fde00ee3f4943ada1c489e8
なお、四条隆親の母は坊門信清の娘であり、隆親も一時は坊門信家の娘(房名母)を正室としていたはずで、四条家と坊門家の結び付きは強いですね。
私は『とはずがたり』に登場する「母方の祖母権大納言」も房名と同腹で、坊門信家の娘と考えています。
二人の「近子」(その3)(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f2a26745f54da5d6e93f44843e49ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/482deb8d7d6f9bb02e583f66a0804c6b
ま、それはともかく、森野論文の続きです。(p92以下)
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一ノ二
歴史もののなかで、武家に対して敬語の使用がみられる代表的なものは、戦記物語である。天皇を頂点とする公家に対する扱いが鄭重であり、武家と公家とに対する待遇評価の軽重が、特定の敬語表現形式を使い分けることによって差別的に表現されているという点では、やはり公家本位という基本線が貫かれているが、敬語使用の範囲は公家の枠を越えて裾野を拡げ、特定武士層にも及んでいるのである。次にその模様を概観してみよう。
戦記物語については、諸本による異同がどのようであるかをおさえてかかることが必要であるが、いま、金刀比羅宮蔵本を底本とした日本古典文学大系所収の『保元物語』、『平治物語』についてみるならば、それぞれ、保元、平治の合戦当時において最大の武門の棟梁としての門地を誇る平清盛一家や源為義・義朝一家の人物に敬語の使用がみられる。ただし、源平二大棟梁家の支配下に服属する武士群は、いかにその名が知られる有力者で、やがて時代が下って鎌倉幕府の中枢を構成するような有力御家人の祖となるような人物であっても、敬語が適用されることはない。
『平家物語』の敬語についての研究はすこぶる活発で、多くの論説がある。諸本の異同にもそれなりに目を配りながら、武家に対する敬語の適用の様相にも言及して概観した西田直敏氏の「平家物語の敬語」(敬語講座③『中世の敬語』所収)が便利なので、それをも参看しながら、竜谷大学図書館蔵本を底本にした日本古典文学大系所収の『平家物語』についてみるならば、平氏に対してかなり斉一に敬語の適用が見られるほか、源氏では、頼信を祖とする河内源氏の嫡流に対する配慮がこまやかで、ことに頼朝に対する敬語の使用が目立つ。その舎弟範頼、義経、そして河内源氏の庶子流ではあるが、頼朝とは別個の武士勢力を結集して棟梁としての評価を受けた義仲、同じく河内源氏の庶子流で頼朝の叔父にあたる、小規模ながら別格的扱いを受けている行家、頼光を祖とする摂津源氏の嫡流で、清和源氏の流れを汲む宮廷武士としての家系を誇り、清和源氏出身ではじめて三位に叙せられた頼政およびその子息仲綱といったところにも敬語の使用が及ぶが、そのへんが下限で、使用状態も、頼朝にくらべると疎密の差がある。後述するように、慈光寺本では、武田信光、その子息信長、信光の弟小笠原長清という河内源氏の庶子流甲斐源氏の武士に対しても、散発的な域にとどまるものの、敬語の使用が目につくが、『平家物語』では、同じく一条忠頼、安田義定、阿佐里義成等が登場するにもかかわらず、敬語が使用されることはない。『吾妻鏡』によれば、甲斐源氏に対し、頼朝はかなり肌理こまかな配慮をしていたことがうかがわれるし、『平家物語』巻十一の遠矢のくだりでも、義経の阿佐里義成に対する言葉づかいは鄭重であるが、頼朝麾下に服属する武士団として家人並みに扱い、一方の棟梁として処遇していないことの現われかと思われる。
-------
いったん、ここで切ります。
「信光の弟小笠原長清」とありますが、武田信光(1162-1248)の父・信義(1128-86)と小笠原長清(1162-1242)の父・加賀美遠光(1143-1230)が兄弟であって、信光と長清は従兄弟ですね。
信光と長清は東山道軍の総大将であり、慈光寺本では二人の奇妙な密談の場面があります。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その40)─「娑婆世界ハ無常ノ所ナリ。如何有ベキ、武田殿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe9038ee3aa25c707e10727fda788908
「武田の本音を見透かしたように甘言で誘う時房もまたしたたかである」(by 大津雄一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/28b4e0e9fbdd8014e7cffa6f5bea75c2
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