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再考:慈光寺本の想定読者と執筆目的

2023-09-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
従前の私の仮説では想定読者(三浦光村)と執筆の目的を直結させていましたが、想定読者の範囲を拡大すれば、執筆の目的も、何らかの形で藤原能茂の味方をしてくれる人を増やすため、程度と考えることも可能となり、必ずしも宝治合戦と結びつけなくても良さそうだなと思えてきました。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その2)─執筆の目的
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e731640f95dc7466f6c3a996f5c0c68b

慈光寺本は、その反幕府的内容から、決して不特定多数への公表を予定した作品とは考えられませんが、かといって三浦光村だけを狙った特注品ではなく、秘密保持ができることを条件に、特定少数の読者を想定した作品の可能性もありそうです。
例えば隠岐守護の佐々木泰清など、慈光寺本の読者としてふさわしい感じがします。

佐々木泰清
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E6%B3%B0%E6%B8%85

佐々木泰清と藤原能茂の交流の可能性を考える上で、田渕句美子氏『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)の「第五章 後鳥羽院とその周辺」「第二節 隠岐の後鳥羽院」が大変参考になります。
この論文は、

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一 隠岐と都─『明月記』から─
二 おびただしい交流・交差
三 隠岐からの伝来─『夫木抄』をめぐって─
四 最晩年と置文
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と構成されていますが、「二 おびただしい交流・交差」に、藤原家隆男の隆祐について次のような記述があります。(p150以下)

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   二 おびただしい交流・交差

 隠岐の後鳥羽院との間に和歌など文化的レベルでの交渉を持った人々について、以下順不同に取り上げる。
①家隆
  【中略】
②隆祐
 『隆祐集』には彼ら親子と隠岐との交流を語る貴重な資料として屡々取り上げられている箇所があり、久保田淳氏の「藤原隆祐について」に詳しい。四一から五〇に『遠島御歌合』の歌があり、このあとに後鳥羽院の家隆への言葉として隆祐への賞賛と激励が書かれ、そして隆祐の感激が記され、続いて嘉禎三年(一二三七)『十首和歌』が五一から六〇に置かれ、続いてまた後鳥羽院の更なる賞賛が少輔局の女房奉書として隆祐に伝えられている。七七の「三十六人撰歌歌被人」とあるのは前述『明月記』天福元年(一二三三)七・八月の後鳥羽院の命による『三十六人撰』(散佚)であろう。二七五「故入道より、隆祐は歌某が跡ありと御覧ずるよし遠所より被仰下侍るなり、今は心安きよしなどこまかに被仰たりし返事に」という詞書も見える。そして三〇九「法皇隠岐国にて崩御、夢とのみ承るのち程へて、守護左衛門尉泰清がもとより、年来あひたてまつりし御所は目の前の煙と成りはてて、露の命とまりがたく侍りし人人をさそひぐして都ヘおくりたてまつりし心のうち、(下略)」など、隠岐の守護佐々木泰清が崩御のことや自分の悲嘆を詳しく隆祐に手紙で知らせ、隆祐はそれに対する返事と三〇九から三一二の歌を送り、その返しとして泰清は三一三から三一六の歌を送ってきた。佐々木泰清は義清の次子で、義清は頼朝の家臣であり、高綱の弟にあたる。承久の乱後出雲守・隠岐守・隠岐守護となり、その後義清の長子政義が隠岐守護となるが、三浦泰村と争い無断出家したため、弟の泰清が出雲・隠岐の守護となった。
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いったん、ここで切ります。
『新編国歌大観』第四巻の「隆祐集」を見ると、隆祐と泰清の贈答歌は次のようなものです。

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      法皇隠岐国にて崩御夢とのみ承るのち程へて、守護左衛門尉泰清
      がもとより、年来あひたてまつりし御所は目の前の煙と成りはて
      て、露の命とまりがたく侍りし人人をさそひぐして都ヘおくりた
      てまつりし心のうち、心なき海士の袖まで朽ちぬべくみえ侍りし
      よし、くはしく申送りて侍りし返事の次に、あまた書付け侍りし
      中に

三〇九 たちのぼる煙と成りし別路にゆくもとまるもさぞまよひけん
三一〇 なれなれておきつ島もりいかばかり君もなぎさに袖ぬらすらん
三一一 世中になきをおくりし御幸こそかへるもつらき都なりけれ
三一二 此世には数ならぬ身のことの葉をいさめし道も又絶えにけり

      返し                     泰清

三一三 たちのぼる煙ののちのわかれぢを見しはまよひの夢かうつつか
三一四 世中になきながらかへる御幸にはあらぬ衣の袖もはつれき
三一五 島守もむなしき舟のうかびいでてのこるなぎさのすむかひぞなき
三一六 わかのうらの道の心をおほせけん君のみ跡はさぞしのぶべき
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二人の歌を見ると、三〇九(隆祐)と三一三(泰清)、三一〇(隆祐)と三一五(泰清)、三一一(隆祐)と三一四(泰清)、三一二(隆祐)と三一六(泰清)がきちんと対応しており、縁語なども巧みに使われていて、泰清の和歌の才能はなかなかのものですね。
さて、田渕論文に戻って続きです。(p152)

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 泰清は関東御家人・隠岐の守護として後鳥羽院を監視する立場であるが、家隆・隆祐が隠岐へ頻繁に連絡する中で泰清とも親しくなり、家隆・隆祐とはこれ以前にも和歌や手紙のやりとりをしていたのであろう。そして泰清自身、後鳥羽院を深く敬愛し、それを隆祐もよく知っていた上での贈答である。泰清の和歌はこの四首以外には他に見当らないが、後鳥羽院から和歌の指導を受けたりしていたのではないか。その子の時清は勅撰歌人となり、『続古今集』以下に四首入集し、宗尊親王家歌壇の歌人として活躍した。その歌才の種を蒔いたのは後鳥羽院であったかもしれないということになる。また田村柳壹氏が紹介された『遠島百首』第二類本付載歌に見える詞書の、「よしきよが女かきあつめさせたらむ御哥見たきよし女房にいたくせめ申ければ」の「よしきよが女」は、佐々木義清の娘、すなわち泰清の姉妹であろう。ここにも守護佐々木一族の和歌の上での後鳥羽院への敬愛が窺われるのである。
 前掲の天理図書館烏丸本、および天理図書館蔵藤原隆祐奥書本『新古今集』の奥書の「此本、是後鳥羽院於隠岐、手自有御撰定而家隆卿之許被送遣也、此号御撰本、仍彼卿自筆書写之、而所止置家也、朱合点之外、皆除之云々、」は、家隆のもとへ隠岐本(少なくともその一つ)が送られたことを示している。
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隆祐関係は以上ですが、田渕氏は泰清が「後鳥羽院から和歌の指導を受けたりしていたのではないか」と推測されていますね。
藤原能茂は隠岐においては後鳥羽院に仕えていた人々の中心であり、公務の上で守護の泰清と接点があったのは当然ですが、泰清はもちろん、その姉妹も相当親しく後鳥羽院周辺と接していたとのことですから、能茂も泰清とは公私にわたって親しかったのでしょうね。
上記贈答歌の詞書に「露の命とまりがたく侍りし人人をさそひぐして都ヘおくりたてまつりし」とあるので、泰清は後鳥羽院崩御後に帰洛する人々を京まで送って行ったようですが、その中には後鳥羽院の遺骨を頸に掛けた能茂もいたはずです。
ということで、仮に能茂が、承久の乱についてこんなものを書いてみました、と慈光寺本を義清に手渡したとしても、義清は別に「反北条氏的内容であってけしからん」などと息巻いて鎌倉に注進することもなく、「佐々木一族の高綱を冷酷な人物として描いていてけしからん」などと怒るでもなく、「こういう見方もありますな」と丁寧に読んでくれたのではないかと私は想像します。
更に想像を逞しくすれば、佐々木広綱・高綱・勢多伽丸についての情報源は佐々木泰清の可能性もありそうですね。
コメント
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