学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

土屋貴裕氏「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(補遺)

2023-09-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
土屋論文が本当に面白いのは「二、「後鳥羽天皇像」の不安定な構図」に入ってからで、

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 かねてより、この画像について不思議に思っていたことがある。それは院の座す上畳が水平ではなく、時計回りの方向に傾斜をつけて描かれている点である。これに合わせて体部も同様に傾き、右肩はやや上がり、左肩はやや下がり、さらに右脚は膝を大きく持ち上げ、対して下げた左脚は指貫が上畳の縁に掛かっている。これが画面の切り詰めなどによる水平軸の変更の結果でないならば、極めて不安定な構図である。
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という問題意識に基づく詳細な分析があります。
私など、そう言われて初めて、なるほど斜めになっているな、と思ったくらいなので、絵画の分析には全く向いていないですね。

「水無瀬神宮のご案内」(水無瀬神宮公式サイト内)
https://www.minasejingu.jp/info.html

第二節以下に比べると、第一節の分析は、特に美的センスを持たない歴史ないし国文学の研究者が調べても大体同じような結論になるはずですが、しかし、美術史学界において、「『吾妻鏡』のみに頼って「後鳥羽天皇像」を「隠岐配流直前、藤原信実によって描かれた落飾前の御影」と決着する」傾向は極めて強固であり、今後もおそらく変わらないでしょうね。
(その1)で少し触れた注(1)を引用すると、

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(1)戦後の主な言及では、藤懸静也「水無瀬宮蔵後鳥羽院俗体御影に就て」(『國華』六七九号、一九四八年)、白畑よし「鎌倉期の肖像画について」(『MUSEUM』二十八号、一九五三年)が疑問を呈すのに対し、米倉廸夫「藤原信実考」(『美術研究』三〇五号、一九七七年)、京都国立博物館編『日本の肖像』(中央公論社、一九七八年。解説中野玄三)、宮次男「鎌倉時代肖像画と似絵」(『新修日本絵巻物全集』二十六巻、角川書店、一九七八年)、マリベス・グレービル(池田忍訳)「家業としての絵画制作」(『美術研究』三六〇号、一九九四年)、若杉準治『似絵(日本の美術四六九号)』(至文堂、二〇〇五年)、京都国立博物館「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」展図録(二〇一九年。解説井波林太郎)など、これを肯定的に捉えるのがここ半世紀の傾向のようである。
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とのことで、今や存命の研究者で、『吾妻鏡』に記された信実筆の「御影」が水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」であることに「肯定的」ではない人は存在しないようです。
私が見た範囲でも、例えば『日本美術全集第8巻 鎌倉・南北朝時代Ⅱ 中世絵巻と肖像画』(小学館、2015)では、同巻の「責任編集」加須屋誠氏が後鳥羽天皇像の解説を担当されています。
そして、

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73 後鳥羽天皇像
  伝藤原信実 国宝 水無瀬神宮 大阪
  13世紀前半 紙本着色 1幅 40.3×30.6cm

 後鳥羽天皇(一一八〇~一二三九)は高倉天皇の第四皇子。源平の争乱のさなかの寿永二年(一一八三)、平氏が安徳天皇とともに都落ちしたため、祖父・後白河院の詔により皇位に就くことになった。建久九年(一一九八)譲位。以後、土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇の三代二三年間、上皇として院政を敷く。承久三年(一二二一)、北条義時追討の宣旨を発して挙兵。しかし、幕府方に完敗した。本作品は、この承久の乱の敗北後、仙洞(院御所)から鳥羽離宮へ移送された後鳥羽の姿を描いている。
 烏帽子をかぶり、直衣を着た俗体像(僧侶ではない一般人の姿)。敗北のショックを隠せない、憂いに満ちた表情が印象的だ。その顔貌は薄い墨線の重ね描きで表わされる。後鳥羽本人を目の前にしての、対看写照(本人を目の前にしてその姿を写し取ること)であることがわかる。描いたのは似絵の名手・藤原信実。『古今著聞集』によれば『随身庭騎絵巻』(カラー図版67)も彼の作と考えられる。
 後鳥羽が隠岐に流されてのち、紙本小画面の本作品をもとにして、絹本大画面の肖像画が制作されたと思われる。それは祟りなす後鳥羽の怨霊を慰撫するために建てられた水無瀬御影堂に奉られた。しかし、この絵は現存しない。(水無瀬神宮に現在伝わる法体像〔僧侶としての姿〕は、室町時代の作)。今に遺った本作品は配流の直前に急ぎ描かれたものであったが、だからこそ生前の後鳥羽の面影を直截に伝えるがゆえに、彼を思慕する者あるいはその怨霊を畏怖する者により、大事に保管されたに違いない。
 勝者が掲げるフォーマルな肖像画よりも、敗者の飾らぬイメージが、歴史的には意義深い。勝者の言説=創られた歴史の「他者」として、それは無言の訴えを今に伝えるからである。
(加須屋誠)
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などと書かれていますが、加須屋氏の頭の中には『吾妻鏡』という「勝者の言説=創られた歴史」に対する疑いは微塵も存在しないようです。
「敗北のショックを隠せない、憂いに満ちた表情が印象的だ」などとありますが、平時の後鳥羽院の表情を見た人はみんな死んでしまっていますから、これが本当に「敗北のショックを隠せない、憂いに満ちた表情」なのかは不明であり、私には加須屋氏の単なる思い込みのように思われます。
「後鳥羽が隠岐に流されてのち、紙本小画面の本作品をもとにして、絹本大画面の肖像画が制作され」、「それは祟りなす後鳥羽の怨霊を慰撫するために建てられた水無瀬御影堂に奉られた」かどうかも怪しく、少なくとも史料的根拠で裏付けることは無理ですね。
「勝者が掲げるフォーマルな肖像画よりも、敗者の飾らぬイメージが、歴史的には意義深い」のかもしれませんが、この絵が承久三年七月八日、「敗者」であることが確定した時期の作品かは史料的には極めて疑わしく、これも加須屋氏の単なる思い込みではなかろうかと思われます。
全体的に非常に格調の高い文体で書かれてはいるものの、内容は「開運!なんでも鑑定団」レベルですね。

加須屋誠(1960生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E9%A0%88%E5%B1%8B%E8%AA%A0
コメント
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