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盛り付け上手な青山幹哉氏(その5)

2023-09-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p103以下)

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 ところで、『承久記』には重忠の郎等として、諸輪左近将監・小波田右馬允・大加太郎・国夫太郎・山口源多・弥源次兵衛・刑部坊・水尾左近将監・榎殿・小五郎兵衛(『慈光寺本承久記』)、または、水野左近・大金太郎・太田五郎兵衛・藤兵衛・伊豫坊・荒左近・兵部坊(『承久記(元和四年古活字本)』といった人名が挙げられている。
 おそらくかれらは、重忠を惣領とする庶子の一族か、重忠の所領内に名主職のような下級の職を与えられ、重忠と主従関係を結んだ従者クラスの武士であろう。名字から考えれば、「諸輪」は愛知郡諸輪(愛知郡東郷町)、「小波田」は山田郡小幡(守山区)、「水野」は山田郡水野(瀬戸市、第一節で紹介した「水野氏系図」には「水野有高」が承久の乱で戦死したとある)を本拠地としていた可能性があり、とくに「小波田右馬允」はあるいは『沙石集』二に登場する「右馬允明長」と同人かもしれない。また「藤兵衛」は『沙石集』六に重忠の郎党として「藤兵衛なにがし」と見えている。ただ、これらの名字は後に改竄された可能性も否定できず、確実な史料ではないことを付言しておく。
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重忠の郎等の人名リストは、慈光寺本の方は前回投稿で引用した杭瀬河合戦の場面で、

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【前略】山田殿方ニモ、四十八騎ハ討レニケリ。小玉党、山田殿ニ余〔あまり〕ニキブク攻ラレテ引ケレバ、山田殿申サレケルハ、「人白〔しら〕マバ我モ白〔しろ〕ミ、人カケバ我モカケヨ、殿原。命ヲ惜マズシテ、励メ、殿原」トテ、手ノ者ヲ汰〔そろ〕ヘ給フ。
「一番ニハ諸輪左近将監、二番ニハ小波田右馬允、三番ニハ大加太郎、四番ニハ国夫太郎、五番ニハ山口源多、六番ニハ弥源次兵衛、七番ニハ刑部房、八番ニハ水尾左近将監、九番ニハ榎殿、十番ニハ小五郎兵衛カケヨ」トゾ申サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a

と十番に編成した部隊に登場した人名を、「〇番」抜きでそのまま並べたものですね。
ただ、私にはどうにもこの十番編成があまりに機械的で不自然なように思われます。
慈光寺本作者には数字マニア的な面があることに加え、慈光寺本における杭瀬河合戦は宇治河合戦の「埋め草」なので、記事の分量を増すために適当に創作したのではなかろうかと私は疑っています。

宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d
「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」することの困難さ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55a3a8abb7d99b1f5cb589a98becbc70
野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90bf212c9c3b54e64c94d20179e5ff44

他方、流布本の方の人名は、慈光寺本と同様、杭瀬河合戦の場面に登場します。
即ち、

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 被討残て落ち行ける勢の中に、山田次郎申けるは、「打手に被向たる者共の尾張川にても有恥〔はぢある〕矢の一も不射、道の程(も)甲斐々々敷〔かひがひしき〕軍もせで(落行)、君の御尋有んには、何とか答可申。されば重忠は一軍〔ひといくさ〕せんと思ふ也」とて、杭瀬河〔くひせがは〕の西の端〔はた〕に、九十余騎にて扣〔ひかへ〕たり。奥岳嶋〔をかじま〕橘左衛門、三十余騎の勢にて馳来れば、御方〔みかた〕を待かと覚敷〔おぼしく〕て、河も不渡、軍もせず。去程に御方の勢少々馳著たり。河の端に打立て、「向の岸なるは何者ぞ。敵か御方か」(と問)。山田次郎、「御方ぞ」。「御方は誰ぞ」。「誠には敵ぞ」。「敵〔かた〕きは誰ぞ」。「尾張国の住人、山田次郎重忠なり」。「さては(よき敵なり)」とて、矢合する程社〔こそ〕あれ、打漬て渡しけり。山田次郎が郎等共、水野左近・大金太郎・太田五郎兵衛・藤兵衛・伊予坊・荒左近・兵部坊、是等を始として九十余騎、河の端に打下りて散々に戦ふ。その中に大弓・精兵数多〔あまた〕有しかば、河中に射被浸流るゝ者もあり。痛手負て引退者もあり。(左右なく渡しえざりけり)。其中に加地丹内渡しけるが、鞍の前輪鎧こめ、尻輪〔しづわ〕に被射付て、暫〔しば〕しは保て見へけるが、後には真倒〔まつさかさま〕に落ちてぞ流ける。佐賀羅三郎、真甲〔まつかふ〕の余を射させて引退く。波多野五郎、尻もなき矢にて、其も真向の余を射させて引退く。(かゝる所に)大将軍武蔵守、河端に打立て軍の被下知ければ、手負共、各参て見参に入。誠〔まことに〕由々敷〔ゆゆしく〕ぞ見たりける。薄手〔うすで〕負たる者共、矢折懸て臆たる気色もなく渡しけり。被討をも不顧、乗越々々渡す。東国の兵共、如雲霞続きければ暫戦ふて、山田次郎颯〔さつ〕と引てぞ落行ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b058f79b72d6688c7f2f801e6a5b9e9

ということで、「山田次郎が郎等共、水野左近・大金太郎・太田五郎兵衛・藤兵衛・伊予坊・荒左近・兵部坊、是等を始として九十余騎」であり、慈光寺本よりは現実的な数字ですね。
流布本では杭瀬河で重忠と戦ったのは児玉党ではありません。
最初に「奥岳嶋橘左衛門」(『吾妻鏡』では「小鹿嶋橘左衛門尉公成」)が三十余騎でやってきて、暫く味方を待って様子見をしています。
「御方の勢少々」が来ると、やっと戦闘が始まりますが、慈光寺本のように重忠は十倍の敵と戦う訳でもなく、まあ、同じぐらいの人数でしょうか。
そして、重忠は暫らく善戦した後、「東国の兵共、如雲霞続きければ」、さすがに多勢に無勢と思って「颯〔さつ〕と引てぞ落行ける」となる訳ですね。
こちらの方が慈光寺本より遥かにリアルな感じがします。
さて、続きです。(p104)

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承久の乱後
 尾張川の合戦に勝利した幕府軍はそのまま宇治川を突破し、京都を占領、圧倒的な強さを示して開戦よりわずか一カ月で乱を終結させた。天皇・上皇が武士、それも将軍の家来である北条義時に負けたことは、治安警察機構であるべき幕府が逆に朝廷を支配する国家の政権となったことを明らかとした。それは、北条義時調伏の宣旨に対して、「誰か昔の王孫ならぬ。武田・小笠原殿も清和天皇の末孫なり。権大夫(北条義時のこと)も桓武天皇の後胤なり」(『慈光寺本承久記』)と、武士も天皇もいにしえの天皇の子孫であることには変わりないと言い放った東国武士の意識に支えられた勝利であった。
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いったん、ここで切ります。
引用されているのは、大井戸の戦いでの「小笠原一ノ郎等市川新五郎」の発言ですね。

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小笠原一ノ郎等市川新五郎ハ、扇ヲ上〔あげ〕テ、向〔むかひ〕ノ旗ヲゾ招キタル。「向ノ旗ニテマシマスハ、河法シキノ人ゾ。ヨキ人ナラバ、渡シテ見参セン。次々ノ人ナラバ、馬クルシメニ渡サジ」トゾ招〔まねき〕タル。薩摩左衛門立出テ申ケルハ、「男共、サコソ云トモ、己等〔おのれら〕ハ権太夫ガ郎等ナリ。調伏〔てうぶく〕ノ宣旨蒙ヌル上ハ、ヤハスナホニ渡スベキ。渡スベクハ渡セ」トゾ招タル。新五郎是ヲ聞〔きき〕、腹ヲ立テテ、「マサキニ詞〔ことば〕シ給フ殿原哉。誰カ昔ノ王孫ナラヌ。武田・小笠原殿モ、清和天皇ノ末孫〔ばつそん〕ナリ。権太夫も桓武〔くわんむ〕天皇ノ後胤ナリ。誰カ昔ノ王孫ナラヌ。其儀ナラバ、渡シテ見セ申サン」トテ、一千余騎コソ打出タレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bff94f63d818bc7dbe91b11a89be431f

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盛り付け上手な青山幹哉氏(その4)

2023-09-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
青山氏は慈光寺本の引用を、

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山田殿申されけるは、「殿原、聞き給え。我をば誰とか御覧ずる。美濃と尾張との堺に、六孫王の末葉、山田次郎重定(忠)とは我事なり」とて、散々に切って出で、火出る程に戦われければ、小玉党が勢百余騎は、やにわに討れにけり。
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で終わらせるので、これを読んだ読者、特に名古屋市民は郷土の英雄の活躍になかなか良い気分になれるでしょうが、慈光寺本の杭瀬河合戦の場面にはもう少し続きがあります。
即ち、

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山田殿方ニモ、四十八騎ハ討レニケリ。小玉党、山田殿ニ余〔あまり〕ニキブク攻ラレテ引ケレバ、山田殿申サレケルハ、「人白〔しら〕マバ我モ白〔しろ〕ミ、人カケバ我モカケヨ、殿原。命ヲ惜マズシテ、励メ、殿原」トテ、手ノ者ヲ汰〔そろ〕ヘ給フ。「一番ニハ諸輪左近将監、二番ニハ小波田右馬允、三番ニハ大加太郎、四番ニハ国夫太郎、五番ニハ山口源多、六番ニハ弥源次兵衛、七番ニハ刑部房、八番ニハ水尾左近将監、九番ニハ榎殿、十番ニハ小五郎兵衛カケヨ」トゾ申サレケル。
 小玉与一、三百余騎ニテ押寄タリ。山田殿是ヲ見テ、「諸輪左近将監、懸〔かけ〕ヨ」トゾ云ハレケル。左近将監是ヲ聞、懸様ニテ小金山ヘゾ落ニケル。小波田右馬允十九騎ニテ懸出テ戦ケリ。向敵三十五騎討取、我勢十五騎討死シ、四騎ハシラミテ、山田殿ヘゾ参リケル。北山左衛門、三百余騎ニテ押寄タリ。大加太郎カケ出テ戦ケリ。分捕シテ、山田殿ヘゾ参ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a

ということで、重忠側にも「小玉党」の犠牲者の約半分、四十八騎の犠牲者が出ます。
しかし、重忠は怯まず、自軍を一番から十番まで編成して突撃を命じますが、一番の「諸輪左近将監」は、重忠の命に応じて突撃するフリをしつつ、逃亡してしまうなど、若干の「不都合な真実」も記されますね。
まあ、慈光寺本では「小玉党」は三千騎なので、十倍の敵を前にした重忠勢の中には逃げ出したいと思う人が出てきても不自然ではありません。
結局、この場面のポイントは「小玉党」が三千騎という膨大な人数になっている点で、武蔵武士団に多少の知識のある人は、ここを一番奇妙に感じるはずです。
もちろん、慈光寺本でも鎌倉方の総合計は流布本・『吾妻鏡』と同じく十九万騎となっているので、随所で数字は盛られているのでしょうが、児玉党が三千騎というのは、いくら何でも盛り過ぎではないか、という感じがします。
青山氏は三千騎の部分を切り取っているので、読者はさほど不自然に感じないでしょうが、三千騎を加えると、とたんに全体が胡散臭い感じの話になってしまいますね。
青山氏のトリミングの仕方は本当に絶妙で、「匠の技」ですね。
ところで、青山氏は「『慈光寺本承久記』は、後鳥羽軍の大将藤原秀康を愚将とする一方、重忠を勇将として描き」(p103)と言われますが、これは藤原秀康と弟の秀澄を混同されているようですね。
慈光寺本では秀康は「愚将」として描かれていないどころか、秀澄による第二次軍勢手分で三浦胤義とともに「大豆戸」(まめど)へ配され、実際にそこで、

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 大豆戸ノ渡リ固メタル能登守秀康・平判官胤義カケ出テ戦フタリ。平判官申ケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。駿河守ガ舎弟胤義、平判官トハ我ゾカシ」トテ、向フ敵廿三騎ゾ、射流シケル。待請々々、多ノ敵討取テ、終ニハシラミテ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2

と戦ったことが記された後(岩波新大系、p345)、慈光寺本から忽然と消えてしまいます。
そして、その名前が次に、そして最後に登場するのは乱後の処刑者・遠流者のリストの中です。(p361)
これは慈光寺本の謎の一つですね。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その54)─藤原秀康の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682

他方、秀澄は、どんな資格・権限に基づくのか分かりませんが、第二次軍勢手分をした際に、「山道・海道一万二千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナリ」と酷評されます。(p336)
そして、墨俣において秀澄は、山田重忠と面談し、

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 山道遠江井助〔とほたふみのゐすけ〕ハ、尾張国府ニゾ著〔つき〕ニケル。其時、洲俣〔すのまた〕ニオハシケル山田殿、此由聞付テ、河内判官請〔しやう〕ジテ宣給〔のたま〕フ様、「相模守・山道遠江井助ガ尾張ノ国府ニ著ナルハ。我等、山道・海道一万二千騎ヲ、十二ノ木戸ヘ散シタルコソ詮ナケレ。此勢一〔ひとつ〕ニマロゲテ、洲俣ヲ打渡〔うちわたし〕テ、尾張国府ニ押寄テ、遠江井助討取〔うちとり〕、三河国高瀬・宮道・本野原・音和原ヲ打過〔うちすぎ〕テ、橋本ノ宿ニ押寄テ、武蔵并〔ならびに〕相模守ヲ討取テ、鎌倉ヘ押寄〔おしよせ〕、義時討取テ、谷七郷〔やつしちがう〕ニ火ヲ懸テ、空ノ霞ト焼上〔やきあげ〕、北陸道ニ打廻リ、式部丞朝時討取、都ニ登〔のぼり〕テ、院ノ御見参ニ入ラン、河内判官殿」トゾ申サレケル。判官ハ、天性臆病武者ナリ。此事ヲ聞〔きき〕、「其事ニ候。尤〔もつとも〕サルベキ事ナレドモ、山道・海道一〔ひとつ〕ニ円〔まろ〕ゲ、洲俣渡シテ、尾張国府ニアンナル遠江井介・武蔵・相模守討取、鎌倉ヘ下〔くだる〕モノナラバ、北陸道責〔せめ〕テ上〔のぼる〕ナル式部丞朝時、山道々々〔せんだうのみちみち〕固メテ上ナル武田・小笠原ガ中ニ取籠ラレテ、属降〔ぞくかう〕カキテ要事ナシ。京ヨリ此マデ下〔くだる〕ダニ馬足ノクルシキニ、唯、是ニテ何時日〔いつのひ〕マデモ待請〔まちうけ〕テ、坂東武者ノ種振〔たねふる〕ハン、山田殿」トゾ申サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bb5884b5829798a9028ad254ef2855cd

と、重忠から「我等、山道・海道一万二千騎ヲ、十二ノ木戸ヘ散シタルコソ詮ナケレ」と第二次軍勢配置を根本的に批判された後、重忠の大胆な鎌倉攻撃案を聞きますが、しかし、「天性臆病武者」の秀澄は山田案を慇懃に否定します。
秀澄の返答を不快に感じた重忠は、だったら自分の軍勢だけで渡ってやるぞと思い、配下に、北条時房と「山道遠江井介」が尾張国府に着いたそうだから行って偵察して来い、と命じます。
そして、重忠の配下が敵方の密偵を騙して捕まえてくると、重忠はそのうちの一人(「中六男」)を秀澄の許に送ります。
しかし、

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【前略】山田次郎ハ、道理有ケル武者ナレバ、中六男ヲバ、日ノ大将軍河内判官ニゾ奉ラレケル。判官ハ、心ノビタル武者ナレバ、御料食間ニ中六ヲバ早北〔にが〕シテケリ。山田殿ハ、中源次ヲ召寄セ、「鎌倉ニハ、イカゞ云」。有ノ儘ニ申テケリ。其後ニ権八ニ預ラル。森堤〔もりのつつみ〕ニテ遂ニ頸切テ懸タリケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e18148ac5d76108499d797479633a933

ということで、「心ノビタル武者」である秀澄は、食事中に「中六」に逃げられてしまいます。
万事に有能で、しかも「道理有ケル武者」である重忠に対し、「天性臆病武者」で「心ノビタル武者」である秀澄は「愚将」そのものですね。
ちなみに秀澄は流布本では全く影の薄い存在で、上下巻通してたった一箇所、尾張河合戦前の京方の軍勢手分において、

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【前略】墨俣〔すのまた〕へは河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千余騎にて向。市河前へは賀藤伊勢前司光定、五百余騎にて向ける。以上一万七千五百余騎、六月二日の暁、各都を出て、尾張(河)の瀬々へとてぞ急ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce

と山田重忠と並んで名前が出て来るだけです。
慈光寺本の秀澄は山田重忠の立派さを引き立てる役として造形されている感じですね。
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