学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その11)─「院の乗物は「逆輿」である」

2023-09-12 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した部分に「似絵の名手信実に描かせたという俗体の宸影」とありますが、これは水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」のことですね。

「水無瀬神宮のご案内」(水無瀬神宮公式サイト内)
https://www.minasejingu.jp/info.html

ただ、慈光寺本には、

-------
 サテ、御タブサヲバ七条院ヘゾマイラセ給フ。女院ハ御グシヲ御覧ズルニ、夢ノ心地シテ、御声モ惜マセ給ハズ伏沈〔ふししづみ〕、御涙ヲ流シテ悲ミ給フゾ哀ナル。替リハテヌル御姿、我床シトヤ思召レケン、院ハ信実ヲ召レテ、御形ヲ写サセラル。御覧ズルニ、影鏡〔かげかがみ〕ナラネドモ、口惜ク、衰テ長キ命ナルベシ。今ハ、此御所、世ヲ知食事〔しろしめすこと〕叶フマジケレバ、朝マダキニ、大公〔おほきみ〕モ九条殿ヘ行幸ナル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

とあって、この文章を素直に読む限り、後鳥羽院は法体になった後に藤原信実を召して似絵を書かせたとしか思えません。
この点、流布本でも、

-------
 同八日、六波羅より御出家可有由申入ければ、則〔すなはち〕御戎師を被召テ、御ぐしをろさせ御座〔おはしま〕す。忽〔たちまち〕に花の御姿の替らせ給ひたるを、信実を召て、似せ絵に被写て、七条院へ奉らせ給ければ、御覧じも不敢〔あへず〕、御目も昏〔く〕れ給ふ御心地して、修明(門)院誘引〔いざなひ〕進〔まゐ〕らせて、一御車にて鳥羽殿へ御幸なる。御車を指寄て、事の由を申させ給ければ、御簾〔みす〕を引遣〔やら〕せ御座〔ましまし〕て、龍顔を指出させ給て見へ被参、とく御返有〔かへりあれ〕と御手にてまねかせ給ふ様也。両女院、御目も暮〔くれ〕、絶入せ給も理也。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4185bb366bd84c3fbf2a65115ae50a3

とあって、やはり法体になった後に藤原信実を召して似絵を書かせたとしか読めません。
となると、慈光寺本が「最古態本」だから一番信頼できるという立場の研究者にとっては、何故に信実作とされて水無瀬神宮に伝わる後鳥羽院像が俗体なのか、相当に深刻な問題になるはずです。
また、「原流布本」(といっても現在の流布本から後鳥羽院・土御門院の諡号を除いた程度のもの)も相当古いと考える私の立場からも、やはり同様の問題が生じます。

慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その4)─「原流布本」の復原
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7469d9367fe0d16b4f76f98f7d882a1

実は水無瀬神宮には法体の後鳥羽院像も所蔵されているのですが、一般には室町時代作と言われていて、素人目で見てもあまり傑作とも思えない作品です。
ということで、少し調べてみた結果、一応の見通しは立ったのですが、私は絵画史に疎く、絵の真贋の判断となると全くの素人なので、もう少し専門家の見解を集めてから私見を述べたいと思います。
さて、続きです。(p171以下)

-------
 七月十三日、隠岐への長い旅がはじまる。院の乗物は「逆輿」である。「さかごし」とは、進行方向と反対向きに乗せることで、罪人を送る作法であった。前後して東方へ連行された近臣「張本」たちの安否を気遣う心のゆとりはあったろうか。ましてや対岸に見える水無瀬の離宮に立ち寄ることなど思いも寄らなかったろう。
 難波を過ぎ、明石から先はもう「外国」である。明石の駅は、むかし菅原道真が大宰府へ流される途中で、「駅長驚くなかれ時の変改 一栄一落は是れ春秋」の絶唱を残した名所である。院がそれに触発されたものか、古活字本『承久記』は次の挿話を伝えている。

  サテ播磨国明石ニ著セ給テ、「爰ハ何クゾ」ト御尋アリ。「明石ノ浦」ト申ケレバ、
    都ヲバクラ闇ニコソ出シカド 月ハ明石ノ浦ニ来ニケリ
  又、白拍子ノ亀菊殿、
    月影ハサコソ明石ノ浦ナレド 雲居ノ秋ゾ猶モコヒシキ

 この挿話は、間もなくはじまる隠岐の配所での日常をもチラリと垣間見せてくれるような気がする。
 播磨路から伯耆の山中を通って半月ほどで出雲国の大浜浦(いま美保関町)へ着き、順風を待って船出した。供人は西御方、伊賀局(亀菊)のほかは、万一の場合に備えて随行した聖〔ひじり〕と医師〔くすし〕だけである。道中の不安を慈光寺本は、

  道スガラノ御ナヤミサヘ有ケレバ、御心中イカゞ思食ツゞケケン。

と簡潔に語るのみである。道中「御ナヤミ」があったか否かも分からない。まして船酔なども加わったかどうか。少なくとも、

  われこそは新島守よ隠岐の海の 荒き波風心して吹け

と昂然とうそぶく王者の風格は、この傷心のどん底ではうかがうよしもない。敗北の「クラ闇」は深かった。
-------

「その五 敗者の運命」は以上です。
「逆輿」は慈光寺本にしか登場しませんが、その場面は、

-------
 去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。「今一度、広瀬殿ヲ見バヤ」ト仰下サレケレドモ、見セマイラセズシテ、水無瀬殿ヲバ雲ノヨソニ御覧ジテ、明石ヘコソ著セ給ヘ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

というものです。
私はこの「逆輿」に興味を持って慈光寺本を調べ始めたのですが、「逆輿」を史実と明言する歴史研究者にはなかなか出会えなくて、私が鋭意作成中の「慈光寺本妄信研究者交名(仮称)」において大将格に位置づけている坂井孝一氏(創価大学教授)ですら、『承久の乱』(中公新書、2018)では「逆輿」に言及されていません。
また、同じく私が大将格と見ている関幸彦氏(日本大学教授)も、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012)では「逆輿」に言及されていません。
このお二人ですら「逆輿」を積極的に史実と肯定されていない中で、目崎氏が「逆輿」を全く疑っていなさそうなことは興味深いですね。

※追記(2023年10月27日)
坂井孝一氏と関幸彦氏のお二人は何の留保もなく「逆輿」に言及されていました。
下記投稿で訂正しました。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その22)─坂井氏は何故に慈光寺本の和歌贈答場面を採らないのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e455bb083860ca90a24163b0a90dff8
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その27)─関氏も何故か慈光寺本の和歌贈答場面は不採用。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/54dcdb7e8a5d36bd4240ba2c44225ae7
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目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その10)─「軍記物『承久記』の圧巻というべきこの場面は、お涙頂戴の人情話なのか」

2023-09-12 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p169以下)

-------
 完勝した幕府の戦後処理は、敗者を無視して迅速に進められる。八日、院の同母兄の持明院の宮(入道行助親王、後高倉院)が院政に当ることが決り、その翌日、幼年の孫王(後堀河天皇)が立てられた。かつて幼帝(安徳天皇)のいわば予備員として平家都落に連れ去られ、壇の浦の滅亡後帰京して、わびしく夜を遠ざかっていた一歳上の次兄に、思いがけない晩年がめぐって来たのであるが、いうまでもなく院政の実権はあますところなく鎌倉の手中に奪われていた。後鳥羽院政の豊富な財源の一つであった八条院(鳥羽皇女)の広大な遺領も後高倉院に移ったが、これも幕府の要求する場合は返却という条件付きである。「院政」は今後も断続するが、実質はこの日を期として失われた。古代中世の最大画期である。
-------

「幼年の孫王(後堀河天皇)」とありますが、後堀河天皇は後高倉院(1179-1223)の皇子なので、これはちょっと変ですね。

後堀河天皇(1212-34)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A0%80%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

ま、そんな細かなことはともかく、目崎氏は「いうまでもなく院政の実権はあますところなく鎌倉の手中に奪われていた」、「「院政」は今後も断続するが、実質はこの日を期として失われた。古代中世の最大画期である」と言われるので、権門体制論者ではないですね。
後述するように、目崎氏は慈光寺本の「逆輿」エピソードを史実とされており、私は目崎氏を「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(仮称)に載せざるを得ないのですが、ただ、目崎氏は「慈光寺本妄信歴史研究者交名」の一大勢力を占めている権門体制論者でないこととはこれらの記述から明らかです。
権門体制論者の方々は「予定調和」のまったりとした麗しい世界に生きておられるので、これほど率直な物言いはしないですね。

「理論を生むのに必要な渇きが足りない」(by 桜井英治)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e14112e16ddd3903222e2dccab922120

さて、続きです。(p170)

-------
 七月十日、北条泰時の嫡男時氏が鳥羽殿へやってきた。血気の若武者は武装のまま、弓の筈で南殿の御簾を荒々しくかき揚げ、
  君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ。
と責め立てた。その声は「琰魔〔えんま〕ノ使ニコトナラズ」と『承久記』(慈光寺本)は形容し、「院、トモカクモ御返事ナカリケリ。」と、衝撃に絶句した院の様子を伝えている。
 時氏はたたみ掛けて、「イカニ宣旨ハ下リ候ヌヤラン。猶謀反〔むほん〕ノ衆ヲ引籠〔ひきこめ〕テマシマスカ。トクトク出〔いで〕サセオハシマセ」と責め立てる。辛くも口を開いた院の答は、「今になって何で彼らを引き籠めようか。せめて都を去る前に、幼時から召し使った伊王能茂にもう一度会いたい。」という哀願であった。若武者時氏は哀願に心打たれて涙を流し、その請を受けた父泰時が伊王を入道させて御前に召しだす。変わり果てた姿に院が涙を流し、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン。」とて、わが皇子「仁和寺ノ御室」(道助法親王)を導師として剃髪した。
 軍記物『承久記』の圧巻というべきこの場面は、お涙頂戴の人情話なのか、はたまた裏で後鳥羽院と北条泰時の虚々実々の駆け引きがあったのかは容易には判断できない。しかしこの時、似絵の名手信実に描かせたという俗体の宸影が、後年水無瀬に営まれた御影堂(いま水無瀬神宮)に現存している。孝心深い院はこの似絵を形見として母七条院に贈ったのである。鳥羽に駆けつけた寵妃(修明門院)は院に殉じて出家した。
-------

「軍記物『承久記』の圧巻というべきこの場面」は慈光寺本だけに存在するものです。
後鳥羽院が「せめて都を去る前に、幼時から召し使った伊王能茂にもう一度会いたい」と「哀願」した場面の原文は前回投稿で引用(再掲)しましたが、その拙訳はリンク先を参照願います。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その59)─後鳥羽院は四辻殿へは何時移ったのか
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f1e524dd5dbddf940d1e9ac2456a496

また、「若武者時氏は哀願に心打たれて涙を流し」云々の場面は次のようなものです。

-------
 其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事、「伊王左衛門能茂、昔、十善君〔じふぜんのきみ〕ニイカナル契〔ちぎり〕ヲ結ビマイラセテ候ケルヤラン。「能茂、今一度見セマイラセヨ」ト院宣ナリテ候ニ、都ニテ宣旨ヲ被下候ハン事、今ハ此事計ナリ。トクトク伊王左衛門マイラサセ給フベシト覚〔おぼえ〕候」ト御文奉給ヘバ、武蔵守ハ、「時氏ガ文御覧ゼヨ、殿原。今年十七ニコソ成候ヘ。是程ノ心アリケル、哀〔あはれ〕ニ候」トテ、「伊王左衛門、入道セヨ」トテ、出家シテコソ参タレ。院ハ能茂ヲ御覧ジテ、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン」トテ、仁和寺ノ御室ヲ御戒師ニテ、院ハ御出家アリケルニ、御室ヲ始マイラセテ、見奉ル人々聞人〔きくひと〕、高〔たかき〕モ賤〔いやしき〕モ、武〔たけ〕キモノゝフニ至マデ、涙ヲ流シ、袖ヲ絞ラヌハナカリケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3412d6a819e9fd4004219b4ca162da01

拙訳を再掲すると、

-------
【私訳】 その時、「武蔵太郎」北条時氏は流を涙して、「武蔵守殿」北条泰時に、
「伊王左衛門能茂は、前世において「十善君」後鳥羽院とどのようなお約束をし申し上げていたのでしょうか。「能茂に今一度だけ会いたい」との「院宣」が下され、都において「宣旨」を下されるのは、今はこの事ばかりです。早く「伊王左衛門」を後鳥羽院の御そばに参上させなさるべきと思われます」
というお手紙を書かれたので、北条泰時は、
「時氏の書状を御覧くだされ、殿原。今年で十七歳の若さなのに、これほどの思いやりの心があったのだ。立派なものだ」
とおっしゃり、
「伊王左衛門、入道せよ」
と命じたので、能茂は出家してから参上した。
後鳥羽院は能茂を御覧になって、
「出家したのだな。私も今となっては剃髪しよう」
と決意され、仁和寺の御室(道助法親王、後鳥羽院皇子)を御戒師として御出家なされたので、御室を始めとして、見奉る人々、そのお話を聞いた人々は、身分の高い者も賤しい者も、猛々しい武者に至るまで、涙を流し、袖を絞らぬ者はいなかった。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0ab4d253ecb86d173f2f9136b6f2e8

となりますが、何ともシュールな展開です。
目崎氏は「軍記物『承久記』の圧巻というべきこの場面は、お涙頂戴の人情話なのか、はたまた裏で後鳥羽院と北条泰時の虚々実々の駆け引きがあったのかは容易には判断できない」と言われますが、私にはこんなものが「軍記物『承久記』の圧巻」とは思えませんし、「お涙頂戴」どころか、「何じゃこりゃ」と乾いた笑いしか浮かんできません。
このあたり、目崎氏の文章も些か軽薄な感じがしないでもありませんが、慈光寺本は何故に碩学の目を曇らせ、ハイな気分にさせるのか。
慈光寺本を研究するということは、このような奇妙な史料を妄信する歴史研究者を研究することでもあり、権門体制論者ではない目崎氏の反応はなかなか興味深いですね。
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目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その9)─「頼りにする腹心というよりも寵愛してやまぬ側近」

2023-09-12 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
今更という感じもしますが、『海道記』のオーソドックスな説明としては、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(岩波書店、1990)の冒頭の解説が良いですね。(p70)
この解説自体には筆者が書かれていませんが、『海道記』の校注は大曾根章介・久保田淳氏のお二人が担当されています。

-------
〔内容〕貞応二年(一二二三)四月四日の暁、都を出立した作者が鈴鹿越えの道筋で東海道を下り、同十八日に鎌倉に到着、寺社などを遊覧したのち、五月初め帰京の途に就くまでの旅を、漢文訓読体に近い和漢混淆文で綴った紀行文。途中、二年以前の承久の乱で斬られた後鳥羽院近臣達ゆかりの地ではしばしば動乱を回顧し、犠牲者を悼む。また、末尾近くでは仏道信仰のあり方を論じ、単なる紀行文の域にとどまらない思想性を含んでいる。
〔作者〕京の白川付近、中山の麓に隠遁生活を送る遁世者。五十歳前後で、八十以上と思われる老母がいるということが作中の叙述から知られるが、それ以上は未詳である。『夫木和歌抄』や『歌枕名寄』では作中の和歌を鴨長明作として扱い、また近世には「鴨長明海道記」と題して上梓されている。けれども、長明は建保四年(一二一六)に没しているから、彼が作者ではありえない。一方、『群書類従』は源光行の作とする。光行は和漢の才が豊かで、故事の引用が多い本書の作者にふさわしいが、壮年の頃から京と鎌倉の間をしばしば往返しており、今回が鎌倉下向の初旅であるという作者とは合致しないことになる。作者は承久の乱の犠牲者に熱い涙を灑いでおり、中でも藤原(中御門)宗行の死を痛悼している。また、自身も乱の余波を受けて落魄したかのごとく解される叙述も見出される。宗行は前名行光で、中山に家があった左大弁行隆の男である。その兄弟には下野守従五位下行長があいる。『徒然草』で『平家物語』作者とする信濃前司行長に相当すると見られる人物である。その経歴などは明らかではないが、儒学的教養を備えていたであろうことは十分想像しうる。本書の作者としてもふさわしいのではないか。
-------

「同十八日に鎌倉に到着」とありますが、正しくは十七日ですね。
ま、そんな細かなことはともかく、源光行は長寛元年(1163)生まれなので、貞応二年(1223)時点では六十一歳です。
「五十歳前後」というのは、

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 然間、逝水早ク流テ、生涯ハ崩レナントス。留ントスレドモ留マラズ、五旬齢ノ流車坂ニクダル。朝ニ馳暮ニ馳ス、日月廻ノ駿駒隙ヲ過グ。鏡ノ影ニ対居テ知ヌ翁ニ恥ヂ、鑷子ヲ取テ白糸ニアハレム。【後略】
-------

という表現があることによりますが(p72以下)、目崎氏に言わせれば、これは幕府の忌諱を避けるための「朧化」ということになるのでしょうね。
「壮年の頃から京と鎌倉の間をしばしば往返して」いるのにもかかわらず、「今回が鎌倉下向の初旅」を装うのも「朧化」であり、竹取物語や江ノ島の霊験譚を語るのも「朧化」ということになりそうですが、そもそも『海道記』には「張本公卿」への哀惜の念こそあれ、彼らを処刑した幕府への非難は全くありません。
仮に光行が実名で執筆・公表したとしても、果たして本当に「幕府忌諱に触れ」、「筆禍」をもたらすような事態になったのか。
というか、そもそも幕府関係者で『海道記』をきちんと読める人がどれだけいたのかすら疑問です。
『海道記』の文章は難解で、上記の短い引用部分だけでも、

 「逝水早ク流テ」……「逝水争流不再廻」(田氏家集・下)
 「留ントスレドモ留マラズ」……「留而不留、関東之煙泛泛」(本朝文粋九)
 「日月廻ノ駿駒隙ヲ過グ」……「人生一世間、如白駒過隙」(史記・留侯世家)
 「鏡ノ影ニ対居テ知ヌ翁ニ恥ヂ」……「ます鏡底なる影に向かひゐて見る時にこそ知らぬ翁に
                   あふ心地すれ」(拾遺集・雑下・読人知らず)

といった具合に和漢の古典の複雑な引用がなされており、一般武士ではとても理解できないような内容です。
幕府関係者でも、京下りの官人クラスの人でなければ理解できない作品であって、読者に要求される知識・教養のレベルが流布本や慈光寺本などよりは相当上ですね。
私は、光行が作者であることを明確にしたとしても「幕府忌諱に触れ」、「筆禍」をもたらすような事態はおよそ考えられず、「朧化」の必要はなく、目崎説は根本的に誤っていると考えます。
ま、『海道記』にあまり寄り道している訳にも行かないので、先に進みます。(p169)

-------
 さて七月六日、後鳥羽院は洛中(いまの京都御所あたり)の四辻殿から、洛南の離宮鳥羽殿へ身柄を移される。それは配流の地隠岐への門出であったが、院はまだ知らない。しかし『承久記』(慈光寺本)によれば、「昔ナガラノ御供ノ人ニハ、大宮中納言実氏、宰相中将信業〔ママ〕、左衛門尉能茂」だけであったという。「治天の君」の威風はもうない。中納言実氏は西園寺公経の子で、父とともに追討計画に抵抗して処刑されかけた人物だから、供人というよりは監視人であろう。院の母七条院の里坊門家の信成(忠信の子)と、歌人秀能の猶子の伊王能茂は、頼りにする腹心というよりも寵愛してやまぬ側近で、前者は水無瀬の離宮を守り、後者は隠岐の行在所へ供奉することになる。いずれにせよこのわずか数名の周囲を殺気立った軍勢がひしひしと固めていた。院にとっては四十年君臨した花の都との、思いも寄らぬ別れである。
-------

いったん、ここで切ります。
目崎氏が「諸本のうち最も成立が早いとみられる」ことを理由に一番信頼されている慈光寺本によれば、鳥羽御幸の場面は、

-------
 去程ニ、七月二日、院ハ高陽院殿ヲ出サセ給ヒテ、押小路ノ泉殿ヘゾ御幸ナル。同四日、四辻殿ヘ御幸成。サラヌ御方々ニハ、是ヨリ皆我御所々ヘ帰リ入セ給フ。同六日、四辻殿ヨリシテ、千葉次郎御供ニテ、鳥羽殿ヘコソ御幸ナレ。昔ナガラノ御供ノ人ニハ、大宮中納言実氏、宰相中将信業〔のぶなり〕、左衛門尉能茂許〔ばかり〕也。
 同十日ハ、武蔵太郎時氏、鳥羽殿ヘコソ参リ給ヘ。物具シナガラ南殿ヘ参給ヒ、弓ノウラハズニテ御前御簾ヲカキ揚テ、「君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ」ト責申声〔せめまうすこゑ〕気色〔きそく〕、琰魔〔エンマ〕ノ使ニコトナラズ。院トモカクモ御返事ナカリケリ。武蔵太郎、重テ被申ケルハ、「イカニ宣旨ハ下リ候ヌヤラン。猶〔なほ〕謀反ノ衆ヲ引籠〔ひきこめ〕テマシマスカ。トクトク出サセオハシマセ」ト責申ケレバ、今度ハ勅答アリ。「今、我報〔むくい〕ニテ、争〔いかで〕カ謀反者引籠ベキ。但、麻呂〔まろ〕ガ都ヲ出ナバ、宮々ニハナレマイラセン事コソ悲ケレ。就中〔なかんづく〕、彼堂別当〔かのだうべつたう〕ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便〔ふびん〕に思食レツル者ナリ。今一度見セマイラセヨ」トゾ仰下サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569

というもので、慈光寺本ではここに久しぶりに「伊王左衛門能茂」が登場しています。
しかも、後鳥羽院の発言の中に、能茂が「彼堂別当ガ子」(行願寺別当法眼道提の子)などと、その出自についての丁寧な説明があったりします。
なお、後鳥羽院が七月六日に鳥羽殿に移ったことは諸史料で一致していますが、それまでの経緯については若干の混乱があります。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その59)─後鳥羽院は四辻殿へは何時移ったのか
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f1e524dd5dbddf940d1e9ac2456a496
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