学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その1)─「平氏一門であっても、基準の下方に霞む存在」

2023-08-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて」シリーズも21回までになってしまいました。
実はまだ書きたいことが結構あって、特に佐々木氏の問題が残っているのが気になっているのですが、現時点では今一つスッキリした見通しが立たないので、いったんここまでとしたいと思います。
この後、「(その1)─今後の課題」で書いた宝治合戦像の再構成と東国国家論の再生という二つの課題に取り組むことになりますが、その前に、「(その18)─慈光寺本の敬語使用の特異性」で触れた森野宗明氏の「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(『川瀬博士古稀記念 国語国文学論集』所収、雄松堂書店、1979)を少し丁寧に検討しておきたいと思います。
私は今まで慈光寺本・流布本・『吾妻鏡』の比較を通して慈光寺本の特異性を浮き彫りにしてきたつもりですが、あくまで記事内容の比較だけを行っていました。
森野論文は、国語学的見地から、『承久記』諸本だけでなく、鎌倉時代を中心とする非常に広い範囲の作品について、武家への敬語使用の態様を横断的に比較されており、その結論も独創的です。
四十四年も前の刊行でありながら本当に刺激的な論文なので、少し丁寧に見て行きたいと思います。(p90以下)

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 はじめに

   或僧承久トハ万ノ軍ヲ云トシリテ、「イヅレノ承久ト申候ヘ共、宝治ノ承久程ニ、自害多ク
   シタル承久候ハズ」トゾ云ケル。ヲカシクコソ

 これは、『沙石集』(日本古典文学大系による。巻八・一七。三五三頁)に見える烏滸咄である。烏滸咄ではあるが、源平の兵乱が遠い往昔のこととなった鎌倉時代の人々にとっては、朝敵の汚名のもとに、幕府軍が官軍を撃滅し、幕府が公家に対する政治的支配権を確立する基となった承久の兵乱が、いかに強い印象を伴って銘記されたかということをしのばせていて、興味深い。承久の乱に先立つ建保元年(一二一三)の和田合戦にしても、乱後の宝治元年(一二四八)の宝治の合戦にしても、鎌倉を舞台とした激戦ではあったが、ともに幕府上層部内の権力闘争であって、内訌にすぎず、その規模の大きさや重要性において承久の乱の比ではなかった。
 さて、その承久の乱を主題とした戦記ものが、いうまでもなく『承久記』である。古来保元・平治・平家の三戦記物語と合わせて、四部之合戦書と呼ばれたが、三戦記物語、特に『平家物語』が脚光を浴びて、『承久記』ひとり、すこぶる影の薄い感がある。研究界においても、近時ようやく本格的な研究の始動がみられるようにはなったが、作者像、成立事情、諸本の関係等をはじめとして、不分明なままに残されているところが大きい。ことに言語面における研究は、ほとんど手をつけられぬままに放置されているといっても過言ではないのが現状である。しかし、言語面についての関心は大いに寄せられるべきではなかろうか。諸本のうち、近世までその成立が下るとされている『承久軍物語』、また成立は遡るが流布本系や前田家本系のものはともかくとして、慈光寺本については、その言語面、特に言語待遇面において異色ある事象が看取され、その独自性の解明は、鎌倉時代における言語待遇研究の一環として、本格的に取り組まれてしかるべき意義を持つと思われるのである。
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「宝治元年(一二四八)の宝治の合戦」とありますが、宝治元年は西暦だと1247年ですね。
ま、そんな細かな点はともかく、続きです。(p91以下)

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 一ノ一

 さて、小稿では、その慈光寺本の『承久記』に看取される個性的な言語待遇について、結果として表層レベルの整理の域を超えることはむずかしかろうが、考察を試みたい。
 ここでいうところの個性的な言語待遇とは何を指すか。武家に対する言語待遇における敬語使用範囲の拡大である。その武家に対する敬語使用にどのような独自性が認められるかを述べる前に、まず一通り広く、歴史ものについて、武家に対する言語待遇がどうなっているかを見渡しておくことにしたい。
 史論・史書・歴史物語・戦記もの、一括して歴史ものを通覧すれば明らかなごとく、武士層がいわゆる武家として、公家に拮抗しさらに凌駕圧倒する政治勢力を形成するに至った鎌倉時代になっても、諸作品にみられる武家に対する言語待遇は冷淡であり、後述する『吾妻鏡』のごときものもありはするが、大勢としては依然公家本位の王朝的秩序に則った待遇基準の適用が主流を占める。
 鎌倉時代成立の歴史もののうち、公家本位の言語待遇が全体を貫徹して鮮やかなのは、なんといっても『愚管抄』であろう。本書の設定する身分的序列階層は、「マヅハ摂籙臣ノ身々、次ニハソノ庶子ドモノ末孫、源氏ノ家々(=公家トシテノ源氏デ村上源氏。筆者注)、次々ノ諸大夫ドモ」(巻七。日本古典文学大系。三五〇頁)によく窺えるが、その言語待遇基準はきわめて高く、摂関家庶流あたりに置かれているようで、源通親のごとき人物の場合においてさえ、その著者の出自する九条家にとっては憎い政敵という点を割り引くにしても、その叙述部に敬語の使用されている例はごくわずかにとどまっている。それくらいであるから、「次々ノ諸大夫ドモ」より劣る武士層は、たとえ、それが朝堂の顕官をほぼ独占したかの観のある平氏一門であっても、基準の下方に霞む存在であり、敬語の使用された例は皆無である。鎌倉殿すなわち将軍家もまた、その例外ではない。
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いったん、ここで切ります。
「平氏一門であっても、基準の下方に霞む存在」はともかく、いくら政敵とはいえ、内大臣であった源通親にすら敬語を使わないとは、慈円の差別意識は凄まじいですね。
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