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森野宗明論文のおさらい(その2)

2023-09-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
第二節に入ると、「『吾妻鏡』にも敬語の使用例を見ない中間層武士に対してまで、敬語が使用されている」(p97)慈光寺本の特異性が具体的に指摘されます。
森野氏が検討の対象とされたのは「発言部、心話部の類の引用部とみなされるもの」を除いた「地の文」です。
そして、「地の文」の中で、「一例であっても、明らかに敬語が使用されていると確認できる人物名」(p98)が三十人列挙されます。
このうち、「官軍方」は十七人、「幕府軍」が十三人です。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5eb6514704b0b5a9cb0773423c3099a

これに「佐々木広綱の子息で仁和寺御室の寵童となり、広綱の子であるがゆえに哀れな死を遂げた勢多賀」を加えると三十一人となります。
以上の三十一人は「その武士を動作・存在の主体として尊敬語を用いた例、他の動作・存在の関与する客体として謙譲語を用いた例に限って列挙したもの」(p99)ですが、更に「人物呼称表現」として「接尾語<殿>を使用した例」も加えると、(「山田殿」「武田殿」「神土殿」「寺本殿」といった重複を除き)幕府軍で「二宮殿」、官軍で「高桑殿」が追加されます。
勢多賀を「官軍方」に含めると、結局、「官軍方」は十九人、「幕府軍」は十四人、合計三十三人となります。
さて、これらの武士を社会階層から分類すると、「武田・小笠原・足利は、すべて河内源氏の有力な庶子流であり、承久の乱では各々幕府軍の大将軍の一人として重きをなした」有力御家人です。
また、

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 伊賀光季も、『吾妻鏡』にこそ敬語の適用例が見られはしないが、その妹が義時の妻室に納っていて北条氏の閨閥を成し、自身も大江親広とともに京都守護として在京御家人を統率する重職に補された有力御家人である。その壮烈な最期は語り草になったらしく、『承久記』の諸本が詳しく描いているが、慈光寺本は「判官ハ心ヲシヅメ【ノ玉フ】様」(一九〇頁)を初出として、そのくだりには、かなり斉一に敬語の使用が見られる。北条氏以外では、山田重忠とともに敬語使用の密度のもっとも高い人物である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd89fbd8dd17d78e07b4d78f6b50b044

とのことですが、実は伊賀光季は戦闘場面では敬語が使用されているのに、佐々木広綱との酒宴場面では敬語が使用されていない点で顕著な「不斉性」が見られることが後で指摘されています。
そして、「官軍方」の藤原秀康・秀澄兄弟は「上層クラスの武士」です。
しかし、

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 それらに対して、懸桟、打見の御料、寺本などといった連中は、それぞれその在地では勢威を振った武士ではあろうが、幕府や宮廷においてしかるべき地歩を持つ上層クラスの武士であったとは思われない。『吾妻鏡』における承久の乱関係の記事にもその名が見えず、『承久記』の他の諸本にも登場しない。おそらくは上層の有力武士層より下の中間層あるいはそれ以下のクラスの武士であろう。荻野次郎左衛門、伊豆の御曹司、関田、懸桟、上田、打見の御料、寺本等は敬語の使用例が一例にとどまるが、そうであっても、そもそも、これらのより下層の武士にまで敬語の使用が見られるというその事実は、注目に値する。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d89080cf9ba86fe78edd5525435d6c74

ということで(p101)、「中間層あるいはそれ以下のクラスの武士」にまで敬語が用いられている点が慈光寺本の最大の特徴ですね、
森野氏は、続けて、

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 ところで、さらに注意を引くのは、これら敬語が使用されている中間層あるいはそれ以下のクラスかと思われる武士に、美濃・尾張を地盤とするものが目立つことである。
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と言われますが、「中間層あるいはそれ以下のクラスの武士」が描かれるのは実際上戦闘場面だけなので、これは慈光寺本に宇治川合戦が存在しないことの反映の可能性もあります。
この点、森野氏も、

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 何故に美濃・尾張の在地武士にこうも偏るのか。それは、承久の乱における決戦場が宇治川であり、合戦譚にふさわしい逸話もそちらの方が豊富であったように思われるのに、他系統の諸本と著しく相違して、慈光寺本では、本格的な攻防戦の見られなかった美濃・尾張での合戦にスペースを費やし、宇治川の合戦には筆を及ぼしていないということと絡んで、意味ありげである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d89080cf9ba86fe78edd5525435d6c74

と言われています。(p102)
第三節に入ると、

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 以上、慈光寺本における武家に対する敬語使用の拡がりを見た。中間層あるいはそれ以下のクラスにまで敬語適用範囲が拡がっていることは、特筆に価する事実であるが、しかしまた、その反面、その敬語適用のあり方が決して一律的斉一的ではないことをも見落してはなるまい。
 慈光寺本には、官軍、幕府軍さまざまな武士が登場する。右にみたごとく敬語の使用をもって待遇されている武士が多く拾い上げられる反面、中間層クラスはもちろんのこと、上層クラスの武士にであっても、その場合についての具体的な言動の叙述部があるにもかかわらず、敬語の使用が見られないという場合も、また尠くはないのである。さらにまた、敬語の使用が見られる場合であっても、すでに散発的に触れるところがあったように、きわめて頻度高く濃密にその使用例の見られる武士もあれば、一例程度といった武士もある。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cc78e1666a412482aed6aad7a630872

ということで(p103)、慈光寺本の敬語使用における「不斉性」の問題が論じられます。
まず、「北条氏以外では、敬語適用の密度が極めて濃密であるのは、これもすでに触れたように伊賀光季と山田重忠の二人である。二人ともに具体的な叙述部の量が大であることとも関係があろう」との指摘があります。
ついで、「不斉性」の具体例として伊賀光季と三浦胤義が検討されます。
即ち、伊賀光季の場合は、合戦場面では敬語が用いられているのに、佐々木広綱との酒宴場面では、広綱に敬語が用いられているのに、光季には敬語がありません。
また、三浦胤義の場合、

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 そうした不斉性の例としては、三浦胤義の場合が興味深い。彼についての具体的な叙述部は、後鳥羽院側近の藤原秀康の来訪を受けて北条討伐計画への積極的賛同を表明するくだりにはじまって諸処に見られるが、合戦場面での武将としての言動の叙述を含めて容易に敬語の使用が見られず、結局最後の、兄義村の軍勢と遭遇し決戦を挑む場面に到ってはじめて、「平判官(=胤義ヲ指ス。筆者注)申サ【レ】ケルハ」、「散々ニカケ【給】ヘバ」、「木島ヘゾ、【オハシ】ケル」(以上、二一九頁)とたて続けに適用例が現われるのである。こうした偏在は、合戦場面に武士に対する敬語の使用が顕著に見られる云々といったことだけでは説明しきれまい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d33368ba253b1de2572efbcf52bd4e2e

ということで(p104)、最上級クラスの武士であるにもかかわらず、敬語使用の割合は僅少です。
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