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目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その7)─「光親と源有雅(参議)の誅された遇沢を過ぎ」

2023-09-10 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
目崎著の続きです。(p168)

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 その翌日には、光親と源有雅(参議)の誅された遇沢を過ぎ、「是ヤ此人々ノ別シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナ」と、彼らの最期に思いを馳せ、足柄山を越える予定だったのに手前に宿を求めてしまう。それはあたかも二年前、屠所の羊のように歩を運んだ光親そのままの姿であったろう。
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いったん、ここで切ります。
「あたかも二年前、屠所の羊のように歩を運んだ光親そのままの姿」とありますが、これは『海道記』の「実ニ羊ノ歩ニ異ラナズ」という表現を受けたものです。
この表現が含まれる場面は、

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十五日、木瀬川ヲ立ツ。遇沢〔あひざは〕ト云〔いふ〕野原ヲ過〔すぐ〕。此野何里トモ知ズ遥々ト行バ、納言〔なうごん〕ハ、コゝニテハヤ暇〔いとま〕ウベシトキコヘケルニ、心中ニ所作〔しよさ〕アリ今シバシト乞請〔こひうけ〕ラレケレバ、猶遥ニ過行〔すぎゆき〕ケン、実〔まこと〕ニ羊〔ひつじ〕ノ歩〔あゆみ〕ニ異ラナズ。心ユキタルアリキナンリトモ、波ノ音松ノ風、カゝル旅ノ空ハイカゞ物哀〔ものあはれ〕ナルベキニ、况〔いはむ〕ヤ馬嵬〔ばくわい〕ノ路ニ出テ、牛頭〔ごづ〕ノ境〔さかひ〕ニ帰ラントスル涙ノ底ニモ、都ニ思ヲク人々ヤ心ニカゝリテ、有〔あり〕ヤナシヤノコトノハダニモ、今一タビキカマホシカリケン。サレドモ澄田川ニモアラネバ、事トフ鳥ノ便〔たより〕ダニナクテ、此原ニテ永ク日ノ光ニ別〔わかれ〕、冥〔くら〕キ道ニ立カクレニケリ。
  都ヲバイカニ花人〔はなびと〕春タエテ東〔あづま〕ノ秋ノ木葉〔このは〕トハチル

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8ea8e8bf40b6d72010639241e816639

というものですが(『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』、岩波書店、1990、p105)、『海道記』の作者が藍沢原(現、静岡県小山町)を進みながら思い浮かべたのは、葉室光親ではなく、中御門宗行ですね。
作者は「納言」(中御門宗行)と「按察使」を明確に使い分けており、「納言ハ、コゝニテハヤ暇ウベシトキコヘケルニ、心中ニ所作アリ今シバシト乞請ラレケレバ」(「納言」は護送する武士から「ここでもう御最期です(ここで刑を執行します)」と言われたものの、「心中で念仏読経するので、もう少し待ってくれ」とお頼みになったので)とあるので、ここは中御門宗行の話ですね。
藍沢原は相当広い地域を指していたようですが、「此原ニテ永ク日ノ光ニ別、冥キ道ニ立カクレニケリ」とあるので、『海道記』作者が中御門宗行が藍沢原で処刑されたと認識していたことは明らかで、それは『吾妻鏡』などの諸史料と一致します。
さて、目崎氏は中御門宗行の処刑場所には触れず「光親と源有雅(参議)の誅された遇沢を過ぎ」と書かれていますが、これは『海道記』の上記場面に続く、

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 ヤガテ按察使 光親卿 前左兵衛督 有雅卿 同ク此原ニテ末ノ露本ノ滴トヲクレ先立ニケリ。其人常ノ生ナシ、其家常ノ居ナシ。此ハ世ノ習事ノ理ナリ。サレドモ期来テ生ヲ謝セバ、理ヲ演テ忍ヌベシ。〔縁つきて家をわかれば、ならひを存てなぐさみぬべし。〕別シ所ハ憂所ナリ、城ノ外ノ荒々タル野原ノ旅ノ道、没セシ時ハイマダシキ時ナリ、恨ヲ含シ悄々タル秋天ノ夕ノ雲。誠ニ時ノ災蘖ノ遇ニ逢ト云ドモ、是ハ是先世ノ宿業ノ酬ヘル酬也。抑彼人々ハ、官班身ヲ餝リ、名誉聞ヲアク。君恩飽マデウルホシテ降雨ノ如シ、人望カタガタニ開ケテ盛ナル花ニ似タリキ。中に黄門都護ハ、家ノ貫首トシテ一門ノ間ニ楗ヲ排キ、朝ノ重臣トシテ万機ノ道ニ線ヲ調キ。誰カ思シ、天俄ニ災ヲ降シテ天命ヲ滅シ、地忽ニ夭ヲアゲテ地望ヲ失ハントハ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e5c0f3004b83cb8e2f1f954c19bdba9

という文章の冒頭を受けています。
ただ、実は「按察使 光親卿 前左兵衛督 有雅卿 同ク此原ニテ末ノ露本ノ滴トヲクレ先立ニケリ」という史実はなく、ここは『海道記』自体が誤っています。
『吾妻鏡』によれば、京都から東下した「張本公卿」六人の運命は、

 七月五日 一条信能、美濃遠山庄にて遠山景朝により斬首
 七月十二日 葉室光親、駿河国加古坂にて武田信光により斬首
 七月十四日 中御門宗行、駿河国藍沢原にて小山朝長により斬首
 七月十八日 高倉範茂、足柄山の麓の早河にて名越朝時により水死刑
 七月二十九日 源有雅、甲斐国稲積庄小瀬村にて小笠原長清により斬首
 八月一日 坊門信忠、赦免されて遠江国舞沢より帰京

というもので、駿河国藍沢原で処刑されたのは中御門宗行のみであり、葉室光親は駿河国加古坂、源有雅は甲斐国稲積庄小瀬村で処刑されています。
承久の乱から二年後に記されたという『海道記』にも若干の事実誤認がある訳ですね。
ついで目崎氏は「是ヤ此人々ノ別シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナ」という文章を引用されますが、これは上記引用に続く部分に出てきます。(岩波新大系では段落を分けずに続いています)

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哀哉、入木ノ鳥ノ跡ハ、千年ノ記念ニ残リ、帰泉ノ霊魂ハ、九夜ノ夢ニマヨヒニキ。サレドモ善悪心ツヨクシテ、生死ハタゞ限アリト思ヘリキ。終ニ十念相続シテ他界ニウツリヌ。夏ノ終秋ノ始、人酔世濁シ其間ノ妄念ハ任他、南無西方弥陀観音、其時ノ発心等閑ナラズハ来迎タノミアリ。是ヤ此人々ノ別シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナゝ。有為ノ堺トハ思ヘ共、憂カリシ世カナゝ。官位ハ春ノ夢、草ノ枕ニ永ク絶、栄楽ハ朝ノ露、苔ノ席ニ消ハテヌ。死シテ後ノ山路ハ隨ハヌ習ナレバ、後ルゝ恨モ如何セン。東路ニ独リ出テ、尤武者ニイザナハレ行ケン心ノ中コソ哀ナレ。彼冥吏呵責ノ庭ニ、独リ自業自得ノ断罪ニ舌ヲマキ、此妻息別離ノ跡ニ、各不意不慮ノ横死ニ涙ヲカク。生テノ別レ死テノ悲ミ、二ナガライカゞセン。真ヲ移シテモヨシナシ、一生幾カミン、魂ヲ訪テ足ベシ、二世ノ契ムナシカラジ。

 思ヘバナウカリシ世ニモアヒ沢ノ水ノ淡トヤ人ノ消ナン
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余りに難解な文章であり、私が中途半端に説明を加えるとかえって混乱を招きそうなので、興味を持たれた方は岩波新大系を見て下さい。
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目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その6)─「以下延々と敗者の悲運に涙を注ぐ」

2023-09-10 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
批判が先行してしまいましたが、目崎氏の見解を丁寧に見て行くことにします。(p167)

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 『海道記』の筆は、十日近くもとまり重ねて遠江国(静岡県)菊河の宿に到って、にわかに生彩を放つ。
 
  或家ノ柱ニ、中御門中納言宗行斯〔かく〕書付ラレタリ。
    彼南陽県菊水、汲下流延齢、此東海道菊河、宿西岸終命、
  誠ニ哀ニコソ覚ユレ。其身累葉ノ賢キ枝ニ生レ、其官ハ黄門ノ高キ階ニ昇ル。(中略)サテモ
  アサマシヤ、承久三年六月中旬、天下風アレテ、海內波サカヘリキ。闘乱ノ乱将ハ花域(京)
  ヨリ飛テ、合戦ノ戦士ハ夷国ヨリ戦フ。暴雷雲ヲ響カシテ、日月光ヲ覆ハレ、軍慮地ヲ動シテ、
  弓剣威ヲ振フ。

 以下延々と敗者の悲運に涙を注ぐ。この宗行の筆跡は思いがけず眼に入ったわけではない。それこそ待望の発見でなくて何であろう。
-------

いったん、ここで切ります。
『海道記』で目崎氏が言及される場面は全て、私も既に今年一月の「戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較」シリーズで引用ずみです。
上記箇所で、目崎氏が(中略)とされる部分には、

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雲上〔うんしやう〕ノ月ノ前ニハ、玉ノ冠〔かうぶり〕光ヲ交ヘ、仙洞ノ花ノ下〔もと〕ニハ、錦ノ袖色ヲ争フ。才〔さい〕身ニタリ栄〔さかえ〕分ニアマリテ時ノ花ト匂シカバ、人其ヲカザシテ近〔ちかき〕モ随ヒ遠〔とほき〕モ靡キ。カゝルウキ目ミムトハ思ヤハヨルベキ。
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という文章が入り、「以下延々と敗者の悲運に涙を注ぐ」云々は、具体的には次のような文章です。

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其間万歲〔ばんぜい〕ノ山ノ声、風忘テ枝ヲ鳴シ、ー清〔いつせい〕ノ河ノ色、波誤〔あやまち〕テ濁〔にごり〕ヲ立ツ。茨山汾水〔しざんふんすい〕ノ源流〔ぐゑんりう〕、高ク流テ遥ニ西海〔さいかい〕ノ西ニ下リ、卿相羽林〔けいしやううりん〕ノ花ノ族〔やか〕ラ、落テ遠ク東関〔とうくわん〕ノ東ニ散ヌ。是ノミニアラズ、別離宮〔べつりきう〕ノ月光〔ぐわつくわう〕処々〔ところどころ〕ニ遷ヌ、雲井ヲ隔テゝ旅ノ空ニ住〔すみ〕、鷄籠山〔けいろうさん〕ノ竹声〔ちくせい〕方々ニ憂タリ。風便〔かぜのたより〕ヲ絶テ外土〔ぐわいと〕ニ吟〔さまよ〕フ。夢カ現〔うつつ〕カ、昔モイマダキカズ。錦帳玉璫〔きんちやうぎよくたう〕ノ床〔とこ〕ハ、主ヲ失テ武宿トナリ、麗水蜀川〔れいすいしよくせん〕ノ貢〔みつきもの〕ハ、数ヲ尽テ辺民〔へんみん〕ノ財〔たから〕トナリキ。夜昼戯〔たはぶれ〕テ衿〔ころものくび〕ヲ重〔かさね〕シ鴛鴦〔ゑんあう〕ハ、千歲比翼〔せんぜいひよく〕ノ契〔ちぎり〕生〔いき〕ナガラタエ、朝夕ニ敬〔うやまひ〕テ袖ヲ収メシ僮僕〔とうぼく〕モ、多年知恩〔ちおん〕ノ志思〔おもひ〕ナガラ忘ヌ。実〔まこと〕ニ会者定離〔えしやぢやうり〕ノ習〔ならひ〕、目ノ前ニミユ。刹利〔せつり〕モ首陀〔しゆだ〕モカハラヌ奈落ノ底ノ有様、今ハ哀ニコソ覚レ。今ハ歎トモ助ベキ人モナシ。泪〔なみだ〕ヲサキダテゝ心ヨハク打出ヌ。其身ニ従フ者ハ甲冑〔かふちう〕ノ兵〔つはも〕ノ、心ヲ一騎ノ客〔かく〕ニカク。其目ニ立者〔たつもの〕ハ釼戟〔けんげき〕ノ刃〔やきは〕、魂ヲ寸神〔すんしん〕ノ胸ニケス。セメテ命ノ惜サニカク書付ラレムケムコソ、スル墨ナラヌ袖ノ上モ露〔アラハレ〕ヌベク覚〔おぼゆ〕レ。
 心アラバサゾナ哀〔あはれ〕ト水茎〔みづくき〕ノ跡カキツクル宿ノ旅人

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dc34fda73d40fdf58285180a15cbf655

さて、目崎著の続きです。(p167以下)

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 進んで大井川を渡って駿河国に入り、木瀬川の宿で、著者はまたしても宗行や光親に出会う。

  木瀬川ノ宿ニ泊テ、萱屋ノ下ニ休ス。或家ノ柱ニ、又彼納言(宗行)和歌一首ヲヨミテ、一筆
  ノ跡ヲ留ラレタリ。
    今日過ル身ヲ浮嶋ガ原ニキテツヰノ道ヲゾ聞サダメツル
  此ヲ見ル人、心アレバミナ袖ヲウルホス。(中略)サテモ此歌ノ心ヲ尋レバ、納言浮嶋原ヲ過ル
  トテ、モノヲ肩ニカケテノボル者アヒタリケリ。問ヘバ按察使光親卿ノ僮僕、主君ノ遺骨ヲ拾テ
  都ニ帰ト泣々云ケリ。其ヲミルハ身ノ上ノ事ナレバ。魂ハ生テヨリサコソハ消ニケメ。本ヨリ遁
  ルマジト知ナガラ、ヲノヅカラ虎ノ口ヨリ出テ亀ノ毛ノ命モヤウルト、猶待レケン心ニ命ハ終
  ニト聞定テ、ゲニ浮嶋原ヨリ我ニモアラズ馬ノ行ニ任テ此宿ニオチツキヌ。今日斗ノ命、枕ノ下
  ノ蛩ト共ニ哭明シテ、カク書留テ出ラレケンコソ、アハレヲ残スノミニ非ズ、無跡マデ情モフカ
  クミユレ。
    サゾナゲニ命モヲシノ剣羽ニカゝル別ヲ浮嶋ガ原
-------

ここも目崎氏が(中略)とされた部分には、

-------
夫〔それ〕北州ノ千年ハ、限〔かぎり〕ヲ知テ寿〔いのち〕ヲ歎ク。南州ノ不定〔ふじやう〕ハ、期〔ご〕ヲ知ズシテ寿ヲ楽シム。誠ニ今日計〔ばかり〕ト思ケム心ノ中ヲ推〔すい〕スベシ。大方ハ昔語リニダニモ哀ナルニ泪ヲ拭〔のご〕フ。何況〔いかにいはむ〕ヤ我モ人モ見シ世ノ夢ナレバ、驚カスニ付テ哀ニコソ覚レ。サテモ峰ノ梢ヲ払シ嵐ノ響ニ、思ハヌ谷ノ下草マデ吹シホレテ、数ナラヌ露ノ身モ置所〔おきどころ〕ナク成ニシヨリ、カク吟〔サマヨヒ〕テ命ヲ惜〔をしみ〕テ失〔うせ〕ニシ人ノ言端〔ことのは〕ヲ、存〔イケル〕ヲ厭フ身ハ今マデ有テ、ヨソニミルコソ哀レナレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dc34fda73d40fdf58285180a15cbf655

という文章が入ります。
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目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その5)─「みな手の込んだ朧化の手段である」

2023-09-10 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
目崎氏が『海道記』の作者とされる源光行については、平岡豊氏の「藤原秀康について」(『日本歴史』716号、1991)を検討する際に少し触れたことがあります。

平岡豊氏「藤原秀康について」(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5a6c59c513b35d2988ac4fe69ad51ba

目崎氏は「乱の発端に権中納言光親の名で出された義時追討の院宣に副状を書いた廉〔とが〕で斬罪に処せられるところを、幕府側にいた子の親行の泣訴によって危うく助命された」と書かれていますが、『吾妻鏡』で関係する箇所を見ると、先ず、承久三年五月十九日条に、

-------
大夫尉光季去十五日飛脚下着関東。申云。此間。院中被召聚官軍。仍前民部少輔親広入道昨日応勅喚。光季依聞右幕下〔公経〕告。申障之間。有可蒙勅勘之形勢云々。未刻。右大將家司主税頭長衡去十五日京都飛脚下着。申云。昨日〔十四〕幕下并黄門〔実氏〕仰二位法印尊長。被召籠弓塲殿。十五日午刻。遣官軍被誅伊賀廷尉。則勅按察使光親卿。被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々。関東分宣旨御使。今日同到着云々。仍相尋之処。自葛西谷山里殿辺召出之。称押松丸〔秀康所従云々〕。取所持宣旨并大監物光行副状。同東士交名註進状等。於二品亭〔号御堂御所〕披閲。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とあって、「大監物光行」が源光行ですね。
目崎氏は「義時追討の院宣」とされていますが、『吾妻鏡』には「右京兆追討宣旨」とあります。
次いで、承久三年八月二日条に、

-------
大監物光行者。清久五郎行盛相具之下向。今日已刻。着金洗沢。先以子息太郎。通案内於右京兆。早於其所。可誅戮旨。有其命。是乍浴関東数箇所恩沢。参 院中。注進東士交名。書宣旨副文。罪科異他之故也。于時光行嫡男源民部大夫親行。本自在関東積功也。漏聞此事。可被宥死罪之由。泣雖愁申。無許容。重属申伊予中将。羽林伝達之。仍不可誅之旨。与書状。親行帯之馳向金洗沢。救父命訖。自清久之手。召渡小山左衛門尉方。光行往年依報慈父〔豊前守光秀与平家。右幕下咎之。光行令下向愁訴。仍免許〕之恩徳。今日逢孝子之扶持也。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-08.htm

とありますが、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳によれば、

-------
大監物〔だいけんもつ〕(源)光行は清久五郎行盛が伴って(鎌倉に)下向し、今日の已の刻に金洗沢に到着した。(行盛は)まず子息の太郎を遣わして右京兆(北条義時)に知らせた。速やかにその場所で誅殺せよと、義時の命があった。これは関東から数箇所の恩賞を受けながら、院(後鳥羽)に参じて東国武士の交名を注進し、宣旨の副文を書いた罪科は他に異なるためである。ところで光行の嫡男である源民部大夫親行は、以前から関東にして功を積んでいた。父のことと漏れ聞いて死罪を赦されるよう泣いて訴えたが赦されなかった。(親行は)重ねて伊予中将(一条実雅)に依頼したので、羽林(実雅)がこれを伝えた。そこで誅殺してはならないとの書状が与えられ、親行がこの書状を持って金洗沢に急行し、父の命を救った。(光行は)行盛の手から小山左衛門尉(朝政)の方に引き渡された。光行は先年、慈父〔豊前守光季。平家に味方して右幕下(源頼朝)がこのことを咎め、光行が下向して愁い訴えたところ、赦された〕の恩徳に報いたので、今日、孝行な息子に助けられたのである。
-------

とのことで(p145)、源光行は鎌倉の金洗沢まで連行され、「注進東士交名。書宣旨副文」の「罪科」で、いったんは北条義時の命令で処刑されることに決まったものの、息子「源民部大夫親行」の必死の嘆願と「伊予中将」(一条実雅)の口添えで何とか首がつながった訳ですね。
なお、金洗沢は「現、神奈川県鎌倉市の七里ヶ浜のうち、行合川の西方を指す。元仁元年六月六日には、霊所の七瀬の一つであるこの地の池で七瀬祓が行われており、鎌倉の境界の一つと考えられていた」(p250)という場所です。
さて、目崎氏が傍点を振って強調される「特別な因縁」とは以上のようなものですが、目崎氏は「典型的な公武両属性」と「乱後の屈折した心情特に光親はじめ張本たちへの痛切な同情」を持った源光行が、金洗沢で殺されかけた二年後に再び鎌倉を目指して東海道を下ったとされるばかりか、大変な名文で記されていて、明らかに相当数の読者を想定していたであろう『海道記』も執筆したとされる訳です。
まあ、再び鎌倉に行ったところで、「二年前の決定は誤りだったから、やっぱり処刑するぞ」と言われる可能性は少なかったでしょうが、しかし、どう考えても良い思い出の場所とはいえない鎌倉にわざわざ行って、「張本公卿」に極めて同情的な『海道記』を執筆するというのは、私にはどうにも不自然なように思われます。
目崎氏は、「この個人的事情をあからさまに書けば幕府の忌諱に触れる」ので、「のっけから白河あたりに住む、うだつの上らぬ生涯を送った無名の遁世者と名乗り、長い道中記を退屈で新味にも欠ける歌枕・宿駅の羅列で埋め、到着した鎌倉の見物も大御堂・二階堂・八幡宮だけで早々に打ち切ったのは、みな手の込んだ朧化の手段」であり、「これらを著者推定の手掛りとすることは適当ではない」とされますが、「幕府の忌諱に触れる」のが嫌であれば、最初からそんな危険な書物を書かなければ良いだけの話です。
「貞応二年卯月ノ上旬」といえば、承久の乱から丸二年も経過していない時期であり、二位法印尊長のように逃亡を続けている「合戦張本」も残っていて、決して緊張が緩んでいた訳ではありません。
そんな時期に、首の皮一枚で命拾いした源光行が、いくら「朧化」を重ねたとしても、「張本公卿」に極めて同情的な作品を作るものなのか。
また、直接に幕府を非難している訳でもない『海道記』程度の作品が「幕府の忌諱に触れる」可能性を心配される目崎氏は、北条義時を大悪人として描く慈光寺本については特にそのような心配をされている気配もなく、私は目崎氏のバランス感覚に疑問を感じます。
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