目崎著の続きです。(p168)
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その翌日には、光親と源有雅(参議)の誅された遇沢を過ぎ、「是ヤ此人々ノ別シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナ」と、彼らの最期に思いを馳せ、足柄山を越える予定だったのに手前に宿を求めてしまう。それはあたかも二年前、屠所の羊のように歩を運んだ光親そのままの姿であったろう。
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いったん、ここで切ります。
「あたかも二年前、屠所の羊のように歩を運んだ光親そのままの姿」とありますが、これは『海道記』の「実ニ羊ノ歩ニ異ラナズ」という表現を受けたものです。
この表現が含まれる場面は、
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十五日、木瀬川ヲ立ツ。遇沢〔あひざは〕ト云〔いふ〕野原ヲ過〔すぐ〕。此野何里トモ知ズ遥々ト行バ、納言〔なうごん〕ハ、コゝニテハヤ暇〔いとま〕ウベシトキコヘケルニ、心中ニ所作〔しよさ〕アリ今シバシト乞請〔こひうけ〕ラレケレバ、猶遥ニ過行〔すぎゆき〕ケン、実〔まこと〕ニ羊〔ひつじ〕ノ歩〔あゆみ〕ニ異ラナズ。心ユキタルアリキナンリトモ、波ノ音松ノ風、カゝル旅ノ空ハイカゞ物哀〔ものあはれ〕ナルベキニ、况〔いはむ〕ヤ馬嵬〔ばくわい〕ノ路ニ出テ、牛頭〔ごづ〕ノ境〔さかひ〕ニ帰ラントスル涙ノ底ニモ、都ニ思ヲク人々ヤ心ニカゝリテ、有〔あり〕ヤナシヤノコトノハダニモ、今一タビキカマホシカリケン。サレドモ澄田川ニモアラネバ、事トフ鳥ノ便〔たより〕ダニナクテ、此原ニテ永ク日ノ光ニ別〔わかれ〕、冥〔くら〕キ道ニ立カクレニケリ。
都ヲバイカニ花人〔はなびと〕春タエテ東〔あづま〕ノ秋ノ木葉〔このは〕トハチル
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8ea8e8bf40b6d72010639241e816639
というものですが(『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』、岩波書店、1990、p105)、『海道記』の作者が藍沢原(現、静岡県小山町)を進みながら思い浮かべたのは、葉室光親ではなく、中御門宗行ですね。
作者は「納言」(中御門宗行)と「按察使」を明確に使い分けており、「納言ハ、コゝニテハヤ暇ウベシトキコヘケルニ、心中ニ所作アリ今シバシト乞請ラレケレバ」(「納言」は護送する武士から「ここでもう御最期です(ここで刑を執行します)」と言われたものの、「心中で念仏読経するので、もう少し待ってくれ」とお頼みになったので)とあるので、ここは中御門宗行の話ですね。
藍沢原は相当広い地域を指していたようですが、「此原ニテ永ク日ノ光ニ別、冥キ道ニ立カクレニケリ」とあるので、『海道記』作者が中御門宗行が藍沢原で処刑されたと認識していたことは明らかで、それは『吾妻鏡』などの諸史料と一致します。
さて、目崎氏は中御門宗行の処刑場所には触れず「光親と源有雅(参議)の誅された遇沢を過ぎ」と書かれていますが、これは『海道記』の上記場面に続く、
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ヤガテ按察使 光親卿 前左兵衛督 有雅卿 同ク此原ニテ末ノ露本ノ滴トヲクレ先立ニケリ。其人常ノ生ナシ、其家常ノ居ナシ。此ハ世ノ習事ノ理ナリ。サレドモ期来テ生ヲ謝セバ、理ヲ演テ忍ヌベシ。〔縁つきて家をわかれば、ならひを存てなぐさみぬべし。〕別シ所ハ憂所ナリ、城ノ外ノ荒々タル野原ノ旅ノ道、没セシ時ハイマダシキ時ナリ、恨ヲ含シ悄々タル秋天ノ夕ノ雲。誠ニ時ノ災蘖ノ遇ニ逢ト云ドモ、是ハ是先世ノ宿業ノ酬ヘル酬也。抑彼人々ハ、官班身ヲ餝リ、名誉聞ヲアク。君恩飽マデウルホシテ降雨ノ如シ、人望カタガタニ開ケテ盛ナル花ニ似タリキ。中に黄門都護ハ、家ノ貫首トシテ一門ノ間ニ楗ヲ排キ、朝ノ重臣トシテ万機ノ道ニ線ヲ調キ。誰カ思シ、天俄ニ災ヲ降シテ天命ヲ滅シ、地忽ニ夭ヲアゲテ地望ヲ失ハントハ。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e5c0f3004b83cb8e2f1f954c19bdba9
という文章の冒頭を受けています。
ただ、実は「按察使 光親卿 前左兵衛督 有雅卿 同ク此原ニテ末ノ露本ノ滴トヲクレ先立ニケリ」という史実はなく、ここは『海道記』自体が誤っています。
『吾妻鏡』によれば、京都から東下した「張本公卿」六人の運命は、
七月五日 一条信能、美濃遠山庄にて遠山景朝により斬首
七月十二日 葉室光親、駿河国加古坂にて武田信光により斬首
七月十四日 中御門宗行、駿河国藍沢原にて小山朝長により斬首
七月十八日 高倉範茂、足柄山の麓の早河にて名越朝時により水死刑
七月二十九日 源有雅、甲斐国稲積庄小瀬村にて小笠原長清により斬首
八月一日 坊門信忠、赦免されて遠江国舞沢より帰京
というもので、駿河国藍沢原で処刑されたのは中御門宗行のみであり、葉室光親は駿河国加古坂、源有雅は甲斐国稲積庄小瀬村で処刑されています。
承久の乱から二年後に記されたという『海道記』にも若干の事実誤認がある訳ですね。
ついで目崎氏は「是ヤ此人々ノ別シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナ」という文章を引用されますが、これは上記引用に続く部分に出てきます。(岩波新大系では段落を分けずに続いています)
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哀哉、入木ノ鳥ノ跡ハ、千年ノ記念ニ残リ、帰泉ノ霊魂ハ、九夜ノ夢ニマヨヒニキ。サレドモ善悪心ツヨクシテ、生死ハタゞ限アリト思ヘリキ。終ニ十念相続シテ他界ニウツリヌ。夏ノ終秋ノ始、人酔世濁シ其間ノ妄念ハ任他、南無西方弥陀観音、其時ノ発心等閑ナラズハ来迎タノミアリ。是ヤ此人々ノ別シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナゝ。有為ノ堺トハ思ヘ共、憂カリシ世カナゝ。官位ハ春ノ夢、草ノ枕ニ永ク絶、栄楽ハ朝ノ露、苔ノ席ニ消ハテヌ。死シテ後ノ山路ハ隨ハヌ習ナレバ、後ルゝ恨モ如何セン。東路ニ独リ出テ、尤武者ニイザナハレ行ケン心ノ中コソ哀ナレ。彼冥吏呵責ノ庭ニ、独リ自業自得ノ断罪ニ舌ヲマキ、此妻息別離ノ跡ニ、各不意不慮ノ横死ニ涙ヲカク。生テノ別レ死テノ悲ミ、二ナガライカゞセン。真ヲ移シテモヨシナシ、一生幾カミン、魂ヲ訪テ足ベシ、二世ノ契ムナシカラジ。
思ヘバナウカリシ世ニモアヒ沢ノ水ノ淡トヤ人ノ消ナン
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余りに難解な文章であり、私が中途半端に説明を加えるとかえって混乱を招きそうなので、興味を持たれた方は岩波新大系を見て下さい。
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その翌日には、光親と源有雅(参議)の誅された遇沢を過ぎ、「是ヤ此人々ノ別シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナ」と、彼らの最期に思いを馳せ、足柄山を越える予定だったのに手前に宿を求めてしまう。それはあたかも二年前、屠所の羊のように歩を運んだ光親そのままの姿であったろう。
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いったん、ここで切ります。
「あたかも二年前、屠所の羊のように歩を運んだ光親そのままの姿」とありますが、これは『海道記』の「実ニ羊ノ歩ニ異ラナズ」という表現を受けたものです。
この表現が含まれる場面は、
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十五日、木瀬川ヲ立ツ。遇沢〔あひざは〕ト云〔いふ〕野原ヲ過〔すぐ〕。此野何里トモ知ズ遥々ト行バ、納言〔なうごん〕ハ、コゝニテハヤ暇〔いとま〕ウベシトキコヘケルニ、心中ニ所作〔しよさ〕アリ今シバシト乞請〔こひうけ〕ラレケレバ、猶遥ニ過行〔すぎゆき〕ケン、実〔まこと〕ニ羊〔ひつじ〕ノ歩〔あゆみ〕ニ異ラナズ。心ユキタルアリキナンリトモ、波ノ音松ノ風、カゝル旅ノ空ハイカゞ物哀〔ものあはれ〕ナルベキニ、况〔いはむ〕ヤ馬嵬〔ばくわい〕ノ路ニ出テ、牛頭〔ごづ〕ノ境〔さかひ〕ニ帰ラントスル涙ノ底ニモ、都ニ思ヲク人々ヤ心ニカゝリテ、有〔あり〕ヤナシヤノコトノハダニモ、今一タビキカマホシカリケン。サレドモ澄田川ニモアラネバ、事トフ鳥ノ便〔たより〕ダニナクテ、此原ニテ永ク日ノ光ニ別〔わかれ〕、冥〔くら〕キ道ニ立カクレニケリ。
都ヲバイカニ花人〔はなびと〕春タエテ東〔あづま〕ノ秋ノ木葉〔このは〕トハチル
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8ea8e8bf40b6d72010639241e816639
というものですが(『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』、岩波書店、1990、p105)、『海道記』の作者が藍沢原(現、静岡県小山町)を進みながら思い浮かべたのは、葉室光親ではなく、中御門宗行ですね。
作者は「納言」(中御門宗行)と「按察使」を明確に使い分けており、「納言ハ、コゝニテハヤ暇ウベシトキコヘケルニ、心中ニ所作アリ今シバシト乞請ラレケレバ」(「納言」は護送する武士から「ここでもう御最期です(ここで刑を執行します)」と言われたものの、「心中で念仏読経するので、もう少し待ってくれ」とお頼みになったので)とあるので、ここは中御門宗行の話ですね。
藍沢原は相当広い地域を指していたようですが、「此原ニテ永ク日ノ光ニ別、冥キ道ニ立カクレニケリ」とあるので、『海道記』作者が中御門宗行が藍沢原で処刑されたと認識していたことは明らかで、それは『吾妻鏡』などの諸史料と一致します。
さて、目崎氏は中御門宗行の処刑場所には触れず「光親と源有雅(参議)の誅された遇沢を過ぎ」と書かれていますが、これは『海道記』の上記場面に続く、
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ヤガテ按察使 光親卿 前左兵衛督 有雅卿 同ク此原ニテ末ノ露本ノ滴トヲクレ先立ニケリ。其人常ノ生ナシ、其家常ノ居ナシ。此ハ世ノ習事ノ理ナリ。サレドモ期来テ生ヲ謝セバ、理ヲ演テ忍ヌベシ。〔縁つきて家をわかれば、ならひを存てなぐさみぬべし。〕別シ所ハ憂所ナリ、城ノ外ノ荒々タル野原ノ旅ノ道、没セシ時ハイマダシキ時ナリ、恨ヲ含シ悄々タル秋天ノ夕ノ雲。誠ニ時ノ災蘖ノ遇ニ逢ト云ドモ、是ハ是先世ノ宿業ノ酬ヘル酬也。抑彼人々ハ、官班身ヲ餝リ、名誉聞ヲアク。君恩飽マデウルホシテ降雨ノ如シ、人望カタガタニ開ケテ盛ナル花ニ似タリキ。中に黄門都護ハ、家ノ貫首トシテ一門ノ間ニ楗ヲ排キ、朝ノ重臣トシテ万機ノ道ニ線ヲ調キ。誰カ思シ、天俄ニ災ヲ降シテ天命ヲ滅シ、地忽ニ夭ヲアゲテ地望ヲ失ハントハ。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e5c0f3004b83cb8e2f1f954c19bdba9
という文章の冒頭を受けています。
ただ、実は「按察使 光親卿 前左兵衛督 有雅卿 同ク此原ニテ末ノ露本ノ滴トヲクレ先立ニケリ」という史実はなく、ここは『海道記』自体が誤っています。
『吾妻鏡』によれば、京都から東下した「張本公卿」六人の運命は、
七月五日 一条信能、美濃遠山庄にて遠山景朝により斬首
七月十二日 葉室光親、駿河国加古坂にて武田信光により斬首
七月十四日 中御門宗行、駿河国藍沢原にて小山朝長により斬首
七月十八日 高倉範茂、足柄山の麓の早河にて名越朝時により水死刑
七月二十九日 源有雅、甲斐国稲積庄小瀬村にて小笠原長清により斬首
八月一日 坊門信忠、赦免されて遠江国舞沢より帰京
というもので、駿河国藍沢原で処刑されたのは中御門宗行のみであり、葉室光親は駿河国加古坂、源有雅は甲斐国稲積庄小瀬村で処刑されています。
承久の乱から二年後に記されたという『海道記』にも若干の事実誤認がある訳ですね。
ついで目崎氏は「是ヤ此人々ノ別シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナ」という文章を引用されますが、これは上記引用に続く部分に出てきます。(岩波新大系では段落を分けずに続いています)
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哀哉、入木ノ鳥ノ跡ハ、千年ノ記念ニ残リ、帰泉ノ霊魂ハ、九夜ノ夢ニマヨヒニキ。サレドモ善悪心ツヨクシテ、生死ハタゞ限アリト思ヘリキ。終ニ十念相続シテ他界ニウツリヌ。夏ノ終秋ノ始、人酔世濁シ其間ノ妄念ハ任他、南無西方弥陀観音、其時ノ発心等閑ナラズハ来迎タノミアリ。是ヤ此人々ノ別シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナゝ。有為ノ堺トハ思ヘ共、憂カリシ世カナゝ。官位ハ春ノ夢、草ノ枕ニ永ク絶、栄楽ハ朝ノ露、苔ノ席ニ消ハテヌ。死シテ後ノ山路ハ隨ハヌ習ナレバ、後ルゝ恨モ如何セン。東路ニ独リ出テ、尤武者ニイザナハレ行ケン心ノ中コソ哀ナレ。彼冥吏呵責ノ庭ニ、独リ自業自得ノ断罪ニ舌ヲマキ、此妻息別離ノ跡ニ、各不意不慮ノ横死ニ涙ヲカク。生テノ別レ死テノ悲ミ、二ナガライカゞセン。真ヲ移シテモヨシナシ、一生幾カミン、魂ヲ訪テ足ベシ、二世ノ契ムナシカラジ。
思ヘバナウカリシ世ニモアヒ沢ノ水ノ淡トヤ人ノ消ナン
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余りに難解な文章であり、私が中途半端に説明を加えるとかえって混乱を招きそうなので、興味を持たれた方は岩波新大系を見て下さい。