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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その19)─「筆者としては、無住作者説に固執するつもりはない」

2023-09-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
森野論文の第四節は無住作者説で終わっているのではなく、最後にどんでん返しがあります。(p112)

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 では、無住で不都合はないか。残念ながら、そうそう都合よくばかりはいかないようである。彼は後宇多天皇の詔により、東福寺第二世におさまったほどの高僧である。慈光寺本は他の諸本と異なって、その冒頭を、仏説の三世劫から説きおこす。それはそれで一見好都合のようであるが、その内容は無住の学識のほどに比してどうも稚拙の度がすぎる感がある。また、一八一頁には梶原景時についての批判めいた記事が見えるが、このへんはどうなるかも頬被りしてすまされまい。無住を作者に擬する場合にも問題点が残るわけである。
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第四節はこれで終りです。
慈光寺本は、

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 娑婆世界ニ衆生利益ノ為ニトテ、仏ハ世ニ出給〔いでたま〕フ事、総ジテ申サバ、無始無終〔むしむしゆう〕ニシテ、不可有際限〔さいげんあるべからず〕。別シテ申サバ、過去ニ千仏、現在ニ千仏、未来ニ千仏、三世〔さんぜ〕に三千仏出世〔しゆつせ〕有ベシト承ル。過去ノ劫〔こふ〕ヲバ荘厳劫〔しやうごんごふ〕、現在ヲバ賢劫〔けんごふ〕、未来ヲバ星宿劫〔しやうしゆくごふ〕ト名付〔なづく〕ベシ。三世共〔とも〕ニ二十ノ増減アルベシ。過去二十ノ増減ノ間ニ、千仏出給〔いでたまひ〕ヌ。現在二十増減ノ間ニモ、亦〔また〕千仏、未来モ亦復〔またまた〕爾也〔しかなり〕。然〔しかる〕ニ、釈尊ノ出世ヲ何〔いづれ〕ノ比〔ころ〕ゾト云ニ、現在賢劫ノ中ニ第九減劫ニ、初〔はじめ〕テ仏出玉〔いでたま〕フヲ、拘留孫仏〔くるそんぶつ〕ト奉名〔なづけたてまつる〕。此時ハ人寿四万歳ノ時也。拘那含牟尼仏〔くなごんむにぶつ〕出ハ人寿三万歳、迦葉仏〔かせいぶつ〕ハ人寿二万歳ノ時出給フ。此時ハ釈尊、補処〔ふしよ〕ノ位トシテ、都率〔とそつ〕ノ内院〔ないゐん〕ニ生ジテ、今日人寿百歳時出世シマシマシテ、十九出家、三十成道〔じやうだう〕給。八十入滅〔にふめつ〕ノ時至〔いたり〕テ、狗尸那〔くしな〕城ノ西北方、抜提河〔ばつだいが〕ノ西ノ岸ニシテ、利生〔りしやう〕ノ光、黄金〔わうごん〕ノ櫃〔ひつ〕キニ納〔をさまり〕給フ。二千余年ノ春秋ハ夢ノ如〔ごとく〕ニシテ過〔すぎ〕ヌレド、今教法〔きようぼう〕盛〔さかり〕ニシテ、世間モ出世モ、明〔あきらか〕ニ習学スル人ハ、過去・未来マデ皆悟ル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b6f6430ffecf3f663a099ae7e28cc47

と始まっていて、このように仏教臭い話で始まるのは慈光寺本だけの特徴です。
この部分を極めて重視されて深淵な、もしくは深淵そうな雰囲気が漂う議論を展開されているのが早稲田大学教授の大津雄一氏(1954生)ですが、森野氏は「その内容は無住の学識のほどに比してどうも稚拙の度がすぎる感がある」と評価されている訳で、果たしてどちらが正しいのか。
私自身の仏教知識は非常に低レベルなので何ともいえませんが、慈光寺本の場合、「国王ノ兵乱十二度」などと書きながら、実際には兵乱の事例が九つしかないなど、随所に「やっつけ仕事」感が漂っています。
従って、冒頭の仏教話も適当な資料の切り貼りで、素人相手の虚仮脅しではなかろうかと私は思っています。

大津雄一「慈光寺本『承久記』は嘆かない」には賛成できる点がひとつもない。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07a3c0aa92664d6fb1f0edd2cd08ec
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その7)─「国王兵乱」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ceb221e963f9e49a0409bcecaf871ebf
(その8)─「国王ノ兵乱十二度」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9bbac31be3ad10781b7be02cd58f6e16
「武田の本音を見透かしたように甘言で誘う時房もまたしたたかである」(by 大津雄一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/28b4e0e9fbdd8014e7cffa6f5bea75c2

さて、森野論文の続きです。(p113)

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  おわりに

 またもや歯切れが悪くなった。筆者としては、無住作者説に固執するつもりはない。ただ、無住のごとき条件を具えた僧もまた、作者像を模索するうえで有資格者のうちに含めて考え得るのではないか、このような粗い推理も、作者論をすすめるうえで、たたき台の一つほどの意味はあるのではなかろうかと、そう考えるのみである。慈光寺本にみられる武家に対する言語待遇の具体相についての考察から、おおけなくも作者論にまで踏みこんでしまった。言語待遇に即して考えることは重要な視点ではあるが、同時に一つの視点にすぎないことも、また、たしかである。慈光寺本の作者、成立事情等は、この視点のみで解明し尽されるはずもない。その意味では、国語学畑の筆者のいまだ目にしていない先学の論考が尠くはなく、ために粗漏も多いであろうことを恐れる。右等のことがすでに論じ尽されたところであるとすれば、ただ恥じ入るのみである。
 最後に他の諸本について簡単に触れる。新撰日本古典文庫所収の元和四年古活字本および続群書類従所収の『承久兵乱記』によって、流布本、前田家本系の本文をうかがうとすれば、ともにそれぞれ武家に対する敬語適用範囲の裾野の拡がりを見せはするものの、あくまではみ出し程度の域を出ないものであり、上層クラス本位である。慈光寺本との径庭は大きい。益田宗氏は「承久記─回顧と展望─」(「国語と国文学」昭和三五・四)において、「慈光寺本をもって他の諸本と同一の書とみなし、かつそれらのもとになった祖本に先行するもの、原本の俤を多く伝えているとみる説」について疑問を投げかけているが、言語待遇に限っても、この径庭を埋めて同系であることを論証するのがそうたやすいことでないことだけは、たしかであろう。
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森野論文の本文、全24頁は以上です。
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その18)─「このくだりになると、<なむ>も登場するのである」

2023-09-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
山田重忠の登場場面は分量も多いですね。
岩波新大系では、

(1)秀澄への提案場面 13行
(2)敵の斥候をつかまえる場面 21行
(3)杭瀬河合戦 22行
(4)後鳥羽院への敗戦報告 (渡辺翔・三浦胤義と三人分で)15行
(5)嵯峨へ落ちる場面 3行

となります。
(4)を重忠の分が三分の一の5行として計算すると、全体で64行ですね。
慈光寺本上下二巻全体が1044行ですから、

 64/1044≒0.061

となり、全体の約6%が重忠関係の記事となります。
伊賀光季追討記事が163行(約16%)、勢多伽丸エピソードが55行なので、重忠関係記事は第二位ですね。

伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b26323766357635b77c96397322fb65e
流布本も読んでみる。(その79)─「勢多伽童だに被助置候はゞ、信綱髻切て、如何にも罷成候はん」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/314d5ee57db04e88ffa0464acccf0154

このように、重忠関係記事は質量ともに慈光寺本で大変に重要な位置を占めていますが、それだけに慈光寺本では重忠の名前が「重貞」「重定」と誤記されていることが気になります。
藤原秀康の「大将軍」リストに載っていないこと、最初に秀澄の「軍ノ手分」で登場する時に「山田殿」になっているのも妙な感じですね。
ま、それはともかく、森野論文の続きです。(p111以下)

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 この作者は無住である。無住はかの梶原氏にゆかりある人物といわれる。彼は、三十七歳以降の五十年間を尾張の地ですごした。山田重忠の本貫であり、承久の乱の第一次攻防戦が展開されたあの尾張である。『沙石集』が書かれたのは、承久の乱後すでに五十年以上の歳月が流れた弘安年間のことである。尾張、その隣国美濃には、かの合戦にまつわるさまざまな話が、史実とは食い違いを見せたりしながらも、口碑伝説化して根づいていたことであろう。京、鎌倉では知られていないその類の話も、尾張に居住する人物なら容易に蒐集できたはずである。ことに『吾妻鏡』にも簡単ながら記述されている、美濃・尾張の合戦での山田重忠の勇戦ぶりを伝える話は、さまざまあったであろうし、それらを豊富に駆使することが可能だったはずである。重忠の逸話にかなりなスペースが割かれているわりに、元和四年古活字本の伝えているような京での自害のくだりが見えないのも面白い。あくまで彼についての話は、美濃・尾張に偏在しており、京での話は影が薄いのである。
 かりに無住を作者に擬すならば、慈光寺本にみられる美濃・尾張の合戦が中心になっていること、またそれらの記事にみられる在地の中間層あたりの武士に敬語が用いられていることも、かなりスムースに納得がいく。都合がよさそうな材料を、我田引水よろしく数え立てれば、慈光寺本における作者像としては、ある程度には雅文意識の持ち主であり、かつそれによって文章を飾り得る力があったものが浮かぶ。幕府軍の完勝に終わったあと、官軍方の処罰が行なわれるが、慈光寺本の末尾はそれら貴族たちの悲しい末路が和歌中心の歌物語風の仕立て方で描かれる。二二二頁後半からその色調が濃厚になる。それまで係助詞の使用による強調表現としては、会話文は<こそ>、地の文は<ぞ>を主調とした<こそ>混用で一貫し、<なむ>は一切用いていなかったものが、このくだりになると、<なむ>も登場するのである。それは二例にとどまりはするが、それなりの文体的配慮をそこに見いだすのは、あながち見当はずれではあるまい。無住なら、この程度の文飾は造作もないことであったろう。
 さらに彼が無類の話好きで、民間に伝わる話をこまめに蒐集するのに熱心であったことも加えておきたい。それは『沙石集』そして『雑談集』を一読すれば、容易に了解されるところである。
-------

いったん、ここで切ります。
「貴族たちの悲しい末路が和歌中心の歌物語風の仕立て方で描かれる」場面での係助詞<なむ>の使用例を探してみたのですが、よく分りません。
「和歌中心の歌物語風の仕立て方」になるのは、

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 去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

以降ですが、「鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ」「聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル」と、

 「コソ」+ 已然形
 「ゾ」 + 連体形

の係り結びの例はいくらでも見つかるものの、「なむ」は見あたりません。
目を皿のようにして眺めてみた結果、おそらく順徳院と九条道家の長歌贈答での、

-------
 兵衛佐モ又煩〔わづらひ〕テ、帰リケリ。又ト契ラセ給タリケレドモ、墓〔はか〕ナク成テ参ラザリケレバ、イトゞ憂世モ今更ニゾ思食レケル。サテ渡ラセ給ヒ付タ所ハ、草ノ戸ザシ、風モタマラヌホドニ、都ノ事、露モ御忘レナシ。御母女院・中宮ナドヘモ、御使参サセ給フ。サテ又、前摂政殿ヘノ御文ニハカクナン、

  天ノ原 空行月日〔そらゆくつきひ〕 クモラネバ 清キコゝロハ サリトモト【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e871bad8ab958a721d2f4cce5366a8ac

の「カクナン」の「ナン」が第一例のようで、ここでは結びが省略されていますね。
また、第二例は、

------- 
 中御門中納言宗行卿ハ遠江国菊川ノ宿ニテ切ラレ給ヒヌ。御手水〔てうず〕メシケル人家ニ立入〔たちいり〕、カクゾ書附〔かきつけ〕給ヒケル。

  昔南陽県菊水 汲下流延齢 今東海道菊川 傍西岸終命

 按察卿ヲバ、駿河国浮島原ニテ切奉ル。御経アソバシテ、又カクナン、

  今日過〔すぐ〕ル身ヲウキ島ガ原ニ来テ露ノ命ゾコゝニ消ヌル

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2e5806ca4cbdad02046430f79d2e8dc

の「カクナン」で、こちらは「カクゾ書附〔かきつけ〕給ヒケル」の「ゾ」+ 連体形と対比的になっていますね。
ただ、私も古典文法の知識は遥か昔の大学受験以来全く進歩がないので、森野氏が注目されているのが本当に「カクナン」二つで良いのか自信がなく、仮に「カクナン」二つで正しいとしても、こんなものがそれほど重要なのか、「それなりの文体的配慮」を云々するような話なのかが分かりません。
自分が全く頓珍漢なことを書いているような感じもするので、文法に詳しい方にご教示いただければありがたいです。
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森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その17)─「彼の動作・存在に関する尊敬表現だけに限っても、二一例の使用例」

2023-09-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
次に重忠が登場するのは杭瀬河合戦です。
尾張河合戦で官軍が総崩れになった後も、重忠はたった一人、杭瀬河で奮闘しますが、史実では六月六日の出来事である杭瀬河合戦が、何故か慈光寺本では後鳥羽院の叡山御幸の後、まるで宇治川合戦の「埋め草」であるかのように叙述されています。
即ち、

-------
 去〔され〕ドモ、山田殿ハ火出〔ひいだ〕ス計〔ばかり〕ノ戦〔たたかひ〕シテ、多ノ敵ヲ討取ト見給ヘバ、上ニモ下ニモ人モナシ、心細〔こころぼそく〕ゾ思ハレケル。「重定ハ是ニテ討死セントハ思〔おもへ〕ドモ、我身一人ニ成テ討死シテイカゞセン。杭瀬河〔くひせがは〕コソ山道・海道ノタバネナレバ、其ヘ向ハン」トテ、三百余騎ヲタナビキテオハシケリ。
 杭瀬河ニ打立テオハスレバ、小玉党〔こだまたう〕三千騎ニテ寄〔よせ〕タリケリ。小玉党ガ申〔まうす〕ヤウ、「此ナル武者ハ、イカナル者ゾ。敵カ味方カ」ト云ケレバ、安藤兵衛申ケルハ、「アレヨナ、洲俣ニテ手ノ際〔きは〕ノ戦シツル山田次郎ト見タンナリ。誠ニ、ソニテ有ナラバ、手取〔てどり〕ニセヨ」トゾ申ケル。小玉党押寄々々、戦ケリ。山田殿申サレケルハ、「殿原、聞給ヘ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。美濃ト尾張トノ堺ニ、六孫王ノ末葉〔ばつえふ〕、山田次郎重定トハ我事ナリ」トテ、散々ニ切テ出、火出ル程ニ戦レケレバ、小玉党ガ勢百余騎ハ、ヤニハニ討レニケリ。山田殿方ニモ、四十八騎ハ討レニケリ。小玉党、山田殿ニ余〔あまり〕ニキブク攻ラレテ引ケレバ、山田殿申サレケルハ、「人白〔しら〕マバ我モ白〔しろ〕ミ、人カケバ我モカケヨ、殿原。命ヲ惜マズシテ、励メ、殿原」トテ、手ノ者ヲ汰〔そろ〕ヘ給フ。「一番ニハ諸輪左近将監、二番ニハ小波田右馬允、三番ニハ大加太郎、四番ニハ国夫太郎、五番ニハ山口源多、六番ニハ弥源次兵衛、七番ニハ刑部房、八番ニハ水尾左近将監、九番ニハ榎殿、十番ニハ小五郎兵衛カケヨ」トゾ申サレケル。
 小玉与一、三百余騎ニテ押寄タリ。山田殿是ヲ見テ、「諸輪左近将監、懸〔かけ〕ヨ」トゾ云ハレケル。左近将監是ヲ聞、懸様ニテ小金山ヘゾ落ニケル。小波田右馬允十九騎ニテ懸出テ戦ケリ。向敵三十五騎討取、我勢十五騎討死シ、四騎ハシラミテ、山田殿ヘゾ参リケル。北山左衛門、三百余騎ニテ押寄タリ。大加太郎カケ出テ戦ケリ。分捕シテ、山田殿ヘゾ参ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a

とのことですが、ここでも「見給ヘバ」・「思ハレケル」・「三百余騎ヲタナビキテオハシケリ」・「杭瀬河ニ打立テオハスレバ」・「山田殿申サレケルハ」・「火出ル程ニ戦レケレバ」・「山田殿申サレケルハ」(再度)・「手ノ者ヲ汰〔そろ〕ヘ給フ」・「トゾ申サレケル」・「トゾ云ハレケル」と重忠に敬語が多用されています。
重忠の杭瀬河合戦が後鳥羽の叡山御幸の後に置かれるのは極めて奇妙であり、明らかに史実に反しますが、しかし慈光寺本では、杭瀬河合戦の直後に渡辺翔・三浦胤義と重忠の三人が敗戦を後鳥羽院に報告するという流れになります。
この場面は(その15)で引用したばかりですが、参照の便宜のために再掲すると、

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 翔〔かける〕・山田二郎重貞ハ、六月十四日ノ夜半計〔ばかり〕ニ、高陽院殿〔かやのゐんどの〕ヘ参テ、胤義申ケルハ、「君ハ、早〔はや〕、軍〔いくさ〕ニ負サセオハシマシヌ。門ヲ開カセマシマセ。御所ニ祗候シテ、敵待請〔まちうけ〕、手際軍〔てのきはのいくさ〕仕〔つかまつり〕テ、親〔まのあた〕リ君ノ御見参ニ入テ、討死ヲ仕ラン」トゾ奏シタル。院宣ニハ「男共御所ニ籠ラバ、鎌倉ノ武者共打囲〔うちかこみ〕テ、我ヲ攻〔せめ〕ン事ノ口惜〔くちをし〕ケレバ、只今ハトクトク何〔いづ〕クヘモ引退〔ひきしりぞ〕ケ」ト心弱〔こころよわく〕仰下サレケレバ、胤義是ヲ承テ、翔・重定等ニ向〔むかひ〕テ申ケルハ、「口惜〔くちをしく〕マシマシケル君ノ御心哉。カゝリケル君ニカタラハレマイラセテ、謀反ヲ起シケル胤義コソ哀〔あはれ〕ナレ。何〔いづく〕ヘカ退ベキ。コゝニテ自害仕ベケレドモ、兄ノ駿河守ガ淀路〔よどぢ〕ヨリ打テ上ルナルニ、カケ向テ、人手ニカゝランヨリハ、最後ノ対面シテ、思フ事ヲ一詞〔ひとことば〕云ハン。義村ガ手ニカゝリ、命ヲステン」トテ、三人同〔おなじく〕打具シテ、大宮ヲ下〔くだり〕ニ、東寺マデ打〔うち〕、彼寺ニ引籠〔ひきこもり〕テ敵ヲ待〔まつ〕ニ、新田四郎ゾカケ出タル。翔左衛門打向〔うちむかひ〕、「殿原、聞給ヘ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。王城ヨリハ西、摂津国十四郡ガ中ニ、渡辺党ハ身ノキハ千騎ガ其中〔そのなか〕ニ、西面衆〔さいめんのしゆう〕愛王左衛門翔トハ、我事ナリ」ト名対面〔なだいめん〕シテ戦ケルガ、十余騎ハ討トラレテ、我勢モ皆落ニケレバ、翔ノ左衛門ニ大江山ヘゾ落ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f263e58f5c29509706d6166498b7e1f6

とのことで、後鳥羽院が登場するためか、この場面では翔・義・重忠の誰にも敬語は用いられていません。
ついで、

-------
 紀内〔きない〕殿、打テ出タリ。山田殿カケ出申サレケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。尾張国住人山田小二郎重貞ゾ」トナノリテ、手ノ際〔きは〕戦ケル。敵十五騎討取、我身ノ勢モ多〔おほく〕討レニケレバ、嵯峨般若寺ヘゾ落ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

とあって、これが慈光寺本において重忠が登場する最終場面です。
ここでは、「申サレケルハ」には敬語が用いられていますが、「トナノリテ」「嵯峨般若寺ヘゾ落ニケル」には敬語がありません。
なお、流布本では、

-------
 山田次郎は嵯峨の奥なる山へ落行けるが、谷河の端にて、子息伊豆守・伊与房下居〔おりゐ〕て、水を吸飲て、疲れに臨みたる気にて休居たり。山田次郎、「哀れ世に有時、功徳善根を不為〔せざり〕ける事を」と云ければ、伊予房、「大乗経書写供養せらる。如法経行はせて御座す。是に過たる功徳は候はじ」と申せば、山田次郎、「され共」と云所に、天野左衛門が手者共、猛勢にて押寄たり。伊豆守、「暫く打払ひ候はん。御自害候へ」とて、太刀を抜て立揚り打払ふ。其間に山田次郎自害す。伊豆守、右の股を射させて、生取〔いけどり〕に成て被切にけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0b1c777b2beb73162b85b9f613f0cc

と重忠の自害の場面が丁寧に描かれていますが、慈光寺本はそのような場面はなく、あっさりと「嵯峨般若寺ヘゾ落ニケル」で終わっています。
以上、煩を厭わず、慈光寺本における重忠の登場場面を全て確認してみましたが、「彼の動作・存在に関する尊敬表現だけに限って」敬語の使用例を数えると、

(1)秀澄への提案場面 3例
(2)敵の斥候をつかまえる場面 5例
(3)杭瀬河合戦 10例
(4)嵯峨へ落ちる場面 1例

となり、合計で19例となります。
森野氏は「彼の動作・存在に関する尊敬表現だけに限っても、二一例の使用例を数えることができ」るとされているので、おそらく私の数え方が悪いのでしょうが、それでも大変な数です。
確かに重忠は「最期の死に場所を求めて院御所に参向する条を除けば、各場面を通じてほぼ斉一に敬語の適用がみられる例外的人物」ですね。
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