学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

平岡豊氏「藤原秀康について」(その8)

2023-03-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p29以下)

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 これに関連して慈光寺本『承久記』は院宣を与えられる相手として秀康を何度も登場させる。順次列挙してみよう。

① 挙兵計画の発端で、卿二位の勧めで後鳥羽院が義時追討を決意した場面……院ハ此由
 聞食テ、サラバ秀康メセ、トテ御所ニ召サル、院宣ノ成ケル様、義時ガ数度ノ院宣ヲ背
 コソ奇恠ナレ。打ベキ由思食立、計申セ、トゾ仰下リケル、
② ①の院宣をうけた秀康が胤義と謀議を巡らし、その内容を後鳥羽院に報告した場面…
 …能登守秀康ハ、又此由院奏シケレバ、申所神妙也、サラバ急ギ軍ノ僉議仕レ、トゾ勅
 定ナル、
③ 後鳥羽院が卿二位に早く挙兵するようにと催促された次の場面……サラバ秀康召テ、
 先義時ガ縁者検非違使伊賀太郎判官光季ヲ、可討由ヲ宣旨ゾ下ケル、
④ 胤義の計画を容れて、光季を御所に召して討とうとする場面……十五日ノ朝ニ成ケレバ、
 能登守秀康ハ、院宣ニテ伊賀判官ヲ三度マデコソ召タリケレ、光季ハ心ニサトリ怪シト思
 テ、左右ナクモ不参、
⑤ 義時追討の院宣を作成する場面……又十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ、秀康是ヲ承レ、武田・
 小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村、
 此等両三人ガ許ヘハ賺遣ベシトゾ仰下サル、秀康、宣旨ヲ蒙テ、按察中納言光親卿ゾ書下
 サレケル、(院宣省略)
⑥ 幕府軍の上洛に対応して院方の軍勢が発向することになった場面……十善ノ君宣旨ノ成
 様ハ、ウタテカリトヨ和人共、サテモ麿ヲバ軍セヨトハ勧メケルカ、今ハ此事、如何ニ示
 ストモ叶フマジ、トクトク勢ヲ汰ヘテ手ヲ向ヨ、能登守秀康ハ、此宣旨ヲ蒙リ、手々ヲ沙
 テ分ラレケリ、

実に重要な局面において、秀康は必ずといってよいほどに登場し、院宣を蒙っている。先学が述べられているように、秀康が軍事の要であったということになるが、軍記物語という史料の性格上、一概に鵜呑みにするわけにはいかない。
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いったん、ここで切ります。
「先学が述べられているように、秀康が軍事の要であったということになるが」に付された注(97)には、

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(97)石井進氏(註(6)に同じ)は「幕府追討の総司令官」、浄謙俊文氏(『大東市史』一七八頁)は「京方の軍事面の責任者」、浅香年木氏(註(4)書三九八頁)は「京方軍団の首領」とされ、他の先学も「張本」「中心」などと表現されている。しかし、何故そのように言えるのかという点については諸先学は曖昧である。
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とあります。
なお、石井著は『日本の歴史七 鎌倉幕府』(中央公論社、1965)、浅香著は『治承・寿永の内乱論序説』(法政大学出版会、1981)です。
さて、平岡氏が挙げる六例のうち、①~⑤までは、その周辺部分を含めて紹介済みです。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その12)─卿二位が登場する意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34ab5510c317b7bfc3313a37223bcb77
(その13)─三浦胤義の義時追討計画
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8
(その18)─大江親広の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55631e5f49bc5c20cfdc0355c7f41c75
(その20)─「此等ノ家子・郎等ナドスベテ議シケルハ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b3dc644f79d6ac5103361a8c1fb58aa
「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1

平岡氏は「軍記物語という史料の性格上、一概に鵜呑みにするわけにはいかない」と慎重な姿勢を示されますが、果たしてこの姿勢が以後の叙述で維持されているのか。
「一概に鵜呑み」しないとしたら、慈光寺本『承久記』のどの部分が「鵜呑み」(≒信頼)できて、どの部分が「鵜呑み」に出来ないのか、その基準を平岡氏は示されているのか。
こうした問題を意識しつつ、続きを読んで行きます。(p30)

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 一方秀康の名は承久の乱の最中の様子を伝える文書の中にも登場する。まず天福元年(一二三三)五月の八幡石清水宮寺申文の河内国甲斐庄に関する一節で「前下司国範法師称相交同合戦、被補地頭、而彼時為能登守秀康朝臣奉行、付御力者、雖被召国範、自元依非武備之器、遂不参、逃隠高野山之間、被焼払住宅畢」とある。秀康が奉行として力者を派遣し、兵士を徴発しようとしている。次に寛喜三年(一二三一)五月十一日の中原章行勘文の一節には「就中教円者、去承久乱□時、伴秀康依向合戦之庭、重代之所領若杜庄不日被没収□」とあり、これはさらに「件乱逆仁洲俣近辺之輩、依為勅命、大略被駈召候畢、全非教円一人候、付御使被責召候之間、為助当時之身命、相向候畢」とあるので、承久三年(一二二一)六月五・六日の尾張川付近での戦闘に関する記述であることが知られるが、やはり秀康が兵士を徴発している。前者の史料には「奉行」、後者には「御使」とある点から考えれば、秀康には兵士役賦課権が与えられていた、すなわち秀康は追討使であったと見るのが自然であろう。
 『六代勝事記』には「秀康ハ官禄涯分にすきて富有比類なし、五箇国の竹符をあハせて追討の棟梁たりき」という記事があるので秀康が五箇国を管下に置く「追討の棟梁」すなわち追討使であったことは間違いない。院方敗北後「可追討能登守藤原秀康朝臣以下徒党之由」の宣旨が「京畿諸国」に出されているのを見るとき、「五箇国」とは畿内「五箇国」のことであり、院方が敗北すると一転して秀康以下の追討に充てられたと言えるのではないだろうか。この畿内「五箇国」は、推測するに兵粮米の徴収に充てられたものであったろう。これを直接示す史料は見当たらないのであるが、かつて平賀朝雅が伊賀国を与えられて平家残党の追討に向かった例があり、また、上洛した幕府軍による兵粮米徴収が問題となって備前・備中の二箇国が与えられていることからしても、国を与える行為は兵粮米徴収と不可分である。
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少し長くなったので、いったんここで切ります。
「院方敗北後「可追討能登守藤原秀康朝臣以下徒党之由」の宣旨が「京畿諸国」に出されている」に付された注(102)には「「承久三年四年日次記」承久三年六月一九日条」とあり、「かつて平賀朝雅が伊賀国を与えられて平家残党の追討に向かった例があり」に付された注(103)には「『明月記』元久元年三月二一、二二日条」とあります。
また、「上洛した幕府軍による兵粮米徴収が問題となって備前・備中の二箇国が与えられていること」に付された注(104)には「「承久三年四年日次記」承久三年一〇月二九日条。「東大寺要録」二所収同日付官宣旨(『鎌倉遺文』二八五五)、「東寺文書」甲号外同日付官宣旨(『鎌倉遺文』二八五六)」とあります。

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