続きです。(p96以下)
傍線部分は【 】としています。
-------
さて、一般の侍クラスではどうか。そのクラスでは、ほぼ『平家物語』に類似する。ただきわめてまれながら、建保四年九月二十日の条の、大江広元についての「【被】申此由相州」、寛元三年八月十五日の条の、三浦義村、安達義景たちについての「若狭前司、秋田城介等面々【被】賀之」のように有力御家人に対しての敬語使用が拾い上げられることは注意してよろしかろう。はみ出し程度ではあるが、敬語適用の拡大が一応認められるからである。しかし、それは、あくまでも、はみ出しであり、例外的なのであって、基調は、『平家物語』と同一の枠内にとどまる。
以上のように、伝統的な宮廷貴族社会の価値観とは性質を異にする基準を設定しそれに基づいて、武家に対する言語待遇に独自の方式を打ちだしたと考えられる『吾妻鏡』ではあるが、その方式は、あくまでも幕府上層部本位の待遇基準の堅持であって、一般の侍層以下に対してはすこぶるきびしく、冷淡なのである。
このように広く歴史ものの世界を通観して、さて慈光寺本に目を転ずると、どうであろうか。その武家に対する言語待遇は、異色の一語に尽きる。
-------
「一ノ二」は以上です。
近時は野口実氏や高橋秀樹氏によって三浦義村の幕府における地位は相当高かったのではないか、といった議論もなされていますが、『吾妻鏡』編者による「言語待遇」としては、「あくまでも、はみ出しであり、例外的」に「被」が用いられる程度であって、将軍家はもちろん、北条氏とも隔絶した存在のようですね。
さて、続きです。
いよいよ慈光寺本の検討となります。(p97以下)
-------
二
さて、その慈光寺本『承久記』における武家に対する言語待遇である。官軍、幕府軍の別を問わず、その行動がもののふの道に照らして亀鑑たり得るか怯懦未練の見本として憫笑を買うかといった毀誉褒貶のいかんを問わず、上は将軍家そして北条氏から下は朝廷においても幕府においても格別の地歩を保持しない中間層クラスの地方武士に至るまで、敬語使用の幅が広範に拡がっているのが見いだされるのである。『吾妻鏡』にみられるような、将軍家そして北条氏に特定の敬語表現形式を適用して武家社会内部における序列構成上の卓越性を表示するといった方式は採っておらず、その意味では、『平家物語』などの戦記物語類と規を一にするが、『平家物語』には絶えて敬語の使用が見受けられず、『吾妻鏡』にもはみ出しぎみにごくわずかしか見いだせなかった武田、足利などの河内源氏の有力庶子流や、三浦氏のごとき北条氏に対抗し得る勢威を誇る有力御家人はもちろんのこと、『吾妻鏡』にも敬語の使用例を見ない中間層武士に対してまで、敬語が使用されているのである。このことはまことに異色と称すべく、強い関心がよせられるのである。
では、その具体相はどうか。いま、新撰日本古典文庫所収のものに依り、武家についての叙述部について、将軍家そして北条氏に対する場合は改めて云々するまでもないこととして除き、かつ発言部、心話部の類の引用部とみなされるものも除き、考察の対象をいわゆる地の文、すなわち「鵜沼瀬ニ【オハシ】ケル神土殿(=後述スルヨウニ神地蔵人ノコト。筆者注)ハ、是ヲ見テ「河ヲ下ニカクル武者ハ、敵カ味方カ」ト問ハ【レ】ケレバ」(二一四頁)のごとき例に限って、その叙述対象となっている武士に対して、一例であっても、明らかに敬語が使用されていると確認できる人物名を、順を逐って挙示すると次のごとくなる。
ただし、「伊義ノ渡ニ【オハシ】ケル関田・懸桟・上田殿、坂東方ト矢合シテ戦ケルガ」(二一四頁)のごとき例については、「オハシケル」が、開田のみではなく、懸桟・上田殿にもかかるものとみなして処理することにする。また、それら人物のなかには、素性の文明ならざるものもかなりいるが─文明ならざる人物がしばしば登場するのも、持明院統の特徴で、研究者をしてその考証のむずかしさを嘆かせている─、それらについてはそのまま、ただ、<殿>の呼称が適用されているものについてはそれをはずして示すことにし、はっきりしているものについては、一般に知られている姓名によって示す。必要があれば、適宜( )内にそれを記すことにする。
なお、肩に◎印を付した人物は官軍方である。
-------
ということで、この後、段を少し下げて人名が列挙されますが、「◎佐々木広綱・伊賀光季・武田信光……」といった具合にそのまま引用すると読みづらいですね。
傍線部分は【 】としています。
-------
さて、一般の侍クラスではどうか。そのクラスでは、ほぼ『平家物語』に類似する。ただきわめてまれながら、建保四年九月二十日の条の、大江広元についての「【被】申此由相州」、寛元三年八月十五日の条の、三浦義村、安達義景たちについての「若狭前司、秋田城介等面々【被】賀之」のように有力御家人に対しての敬語使用が拾い上げられることは注意してよろしかろう。はみ出し程度ではあるが、敬語適用の拡大が一応認められるからである。しかし、それは、あくまでも、はみ出しであり、例外的なのであって、基調は、『平家物語』と同一の枠内にとどまる。
以上のように、伝統的な宮廷貴族社会の価値観とは性質を異にする基準を設定しそれに基づいて、武家に対する言語待遇に独自の方式を打ちだしたと考えられる『吾妻鏡』ではあるが、その方式は、あくまでも幕府上層部本位の待遇基準の堅持であって、一般の侍層以下に対してはすこぶるきびしく、冷淡なのである。
このように広く歴史ものの世界を通観して、さて慈光寺本に目を転ずると、どうであろうか。その武家に対する言語待遇は、異色の一語に尽きる。
-------
「一ノ二」は以上です。
近時は野口実氏や高橋秀樹氏によって三浦義村の幕府における地位は相当高かったのではないか、といった議論もなされていますが、『吾妻鏡』編者による「言語待遇」としては、「あくまでも、はみ出しであり、例外的」に「被」が用いられる程度であって、将軍家はもちろん、北条氏とも隔絶した存在のようですね。
さて、続きです。
いよいよ慈光寺本の検討となります。(p97以下)
-------
二
さて、その慈光寺本『承久記』における武家に対する言語待遇である。官軍、幕府軍の別を問わず、その行動がもののふの道に照らして亀鑑たり得るか怯懦未練の見本として憫笑を買うかといった毀誉褒貶のいかんを問わず、上は将軍家そして北条氏から下は朝廷においても幕府においても格別の地歩を保持しない中間層クラスの地方武士に至るまで、敬語使用の幅が広範に拡がっているのが見いだされるのである。『吾妻鏡』にみられるような、将軍家そして北条氏に特定の敬語表現形式を適用して武家社会内部における序列構成上の卓越性を表示するといった方式は採っておらず、その意味では、『平家物語』などの戦記物語類と規を一にするが、『平家物語』には絶えて敬語の使用が見受けられず、『吾妻鏡』にもはみ出しぎみにごくわずかしか見いだせなかった武田、足利などの河内源氏の有力庶子流や、三浦氏のごとき北条氏に対抗し得る勢威を誇る有力御家人はもちろんのこと、『吾妻鏡』にも敬語の使用例を見ない中間層武士に対してまで、敬語が使用されているのである。このことはまことに異色と称すべく、強い関心がよせられるのである。
では、その具体相はどうか。いま、新撰日本古典文庫所収のものに依り、武家についての叙述部について、将軍家そして北条氏に対する場合は改めて云々するまでもないこととして除き、かつ発言部、心話部の類の引用部とみなされるものも除き、考察の対象をいわゆる地の文、すなわち「鵜沼瀬ニ【オハシ】ケル神土殿(=後述スルヨウニ神地蔵人ノコト。筆者注)ハ、是ヲ見テ「河ヲ下ニカクル武者ハ、敵カ味方カ」ト問ハ【レ】ケレバ」(二一四頁)のごとき例に限って、その叙述対象となっている武士に対して、一例であっても、明らかに敬語が使用されていると確認できる人物名を、順を逐って挙示すると次のごとくなる。
ただし、「伊義ノ渡ニ【オハシ】ケル関田・懸桟・上田殿、坂東方ト矢合シテ戦ケルガ」(二一四頁)のごとき例については、「オハシケル」が、開田のみではなく、懸桟・上田殿にもかかるものとみなして処理することにする。また、それら人物のなかには、素性の文明ならざるものもかなりいるが─文明ならざる人物がしばしば登場するのも、持明院統の特徴で、研究者をしてその考証のむずかしさを嘆かせている─、それらについてはそのまま、ただ、<殿>の呼称が適用されているものについてはそれをはずして示すことにし、はっきりしているものについては、一般に知られている姓名によって示す。必要があれば、適宜( )内にそれを記すことにする。
なお、肩に◎印を付した人物は官軍方である。
-------
ということで、この後、段を少し下げて人名が列挙されますが、「◎佐々木広綱・伊賀光季・武田信光……」といった具合にそのまま引用すると読みづらいですね。
少し工夫してみるつもりです。
なお、「神土殿」は慈光寺本と『吾妻鏡』の記事がかなり異なっている点で興味深い存在ですね。
慈光寺本は作り話ばかりと思っている私は、もちろん『吾妻鏡』の方が史実に近いと考えています。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その45)─「命アレバ海月ノ骨ニモ、申譬ノ候ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その47)─「大夫殿御前ニテ、軍ノ糺定蒙シ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2
慈光寺本は作り話ばかりと思っている私は、もちろん『吾妻鏡』の方が史実に近いと考えています。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その45)─「命アレバ海月ノ骨ニモ、申譬ノ候ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その47)─「大夫殿御前ニテ、軍ノ糺定蒙シ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます