目崎著の続きです。(p168以下)
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眠れぬ一夜を明かして翌日足柄山を越えれば相模国。そこでは斬刑よりも入水を望んで急流に沈められた高倉範茂(参議)と、ついでに美濃国遠山という地で誅殺された一条信能(同)に言及し、かくて鎮魂の目的を達したところで鎌倉に入る。私はこのわずか数日間の叙述に、『海道記』の著作目的が余すところなく露呈していると思う。そのなまなましい悲傷を数百年読者が見失っていたのは、著者の仕掛けた朧化にマンマとしてやられたわけであろう。光行はこうして筆禍を免れたが、このホットなルポが代りに失った文学的評価は大きかった。
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『海道記』と源光行への言及はここまでです。
さて、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(岩波書店、1990)では、『海道記』の本文は72頁から124頁までに掲載されています。
1頁は概ね14行で、14行に足りない頁が最初と最後に1頁ずつあるので、合計は、
12+14×51+7=733(行)
となります。
『海道記』と「張本公卿」の関係を見ると、作者が四月四日に京都を出発して以降、「張本公卿」の話は四月十二日、遠江国「菊河ノ宿」に着き(p91)、ここで中御門宗行の漢詩(のようなもの)を見ての感慨から始まります。(23行)
この日は更に「妙井渡」・「播豆蔵宿」(初倉)を過ぎて大井川を渡り、「藤枝ノ市」・「丘部ノ里邑」を過ぎ、「宇津山」を越え、「手越ノ宿」に泊まります。
十三日は「宇度浜」・「江尻ノ浦」を過ぎ、「清見関」を見て、「息津浦」(興津)・「湯居宿」(由比)を過ぎて「千本ノ松原」を見、「蒲原ノ宿」に泊まります(p99)。
十四日は富士川を渡り、「浮嶋原」を過ぎて富士山を眺めますが、作者は何故か唐突に竹取翁とかぐや姫の話を延々と語り出します。
目崎氏の言われる「著者の仕掛けた朧化」という認識が正しいのであれば、33行に及ぶこの竹取物語エピソードは「朧化」の最たるものですね
そして「車返」を過ぎて、「木瀬川ノ宿」に泊まりますが(p104)、ここで「或家ノ柱」に「彼納言和歌一首」が記されているのを発見し、「張本公卿」の話が再開され、中御門宗行が「按察使」の遺骨を持った葉室光親の従者に出会った話などが語られます。(17行)
十五日は「木瀬川」を立って「遇沢ト云野原」を進みますが、ここで「納言」(中御門宗行)の「羊ノ歩」を思い、「按察使」(葉室光親)と「前兵衛督」(源有雅)が「同ク此原ニテ末ノ露本ノ滴トヲクレ先立ニケリ」といった誤解に基づく感懐に耽ったあと、「黄門都護」(光親)のかつての栄華栄耀の様を思い出したりします。
そして、「今日ハ足柄山ヲ越テ関下宿ニ泊ルベキニ、日路ニ烏群リ飛テ、林ノ頂ニ鷺ネグラヲアラソヘバ、山ノ此方ニ竹ノ下ト云処ニトマル」(p107)と、足柄峠を越える予定だったのに、その手前の「竹ノ下」に泊まり、夜中に「張本公卿」を思う歌を詠んだりします。(合計38行)
十六日は足柄峠を越えて相模国に入り、「逆川ト云所」(酒匂)に泊まります(p108)。
十七日は「逆川」を立って「平山」を過ぎたところで「高倉宰相中将<範茂>急川〔はやかは〕ト云淵ニテ底ノミクヅト沈ニケリ」云々と、斬首ではなく水死を選んだ藤原範茂を悼みます。(9行)
そして、「此次〔ついで〕ニ相尋レバ、一条宰相中将<信能>美濃国遠山ト云所ニテ、露ノ命風ヲカクシテケリ」云々と、藤原信能を悼みます。(18行。範茂と合計で27行)
そして「大磯浦小磯浦」を過ぎて相模川を渡り、「懐島」「砥上ノ原」「八松ト云所」を経て「固瀬川」を渡り、「江ノ中ニ一嶺ノ孤山」(江ノ島)を見て「江尻ノ大明神」の霊験話を語り、「腰越ト云平山」・「稲村ト云所」を経て「湯井浜」に到り、「大津ノ浦」に似ているなあといった感懐に耽ったりします。
そして「若宮大路ヨリ宿所ニツキヌ」となって(p113)、十四日に及んだ東海道の旅は終わります。
結局、十四日の旅のうち、「張本公卿」を回顧したのは、
四月十二日「菊河ノ宿」 23行(中御門宗行)
同十四日 「木瀬川ノ宿」 17行(中御門宗行・葉室光親)
同十五日 藍沢原~竹ノ下 38行(中御門宗行・葉室光親・源有雅)
同十七日 平山 27行(高倉範茂・一条信能)
の四日で、合計105行となります。
『海道記』全体が733行ですから、
105/733≒0.143
ということで、全体の約14%が「張本公卿」関係記事で占められていますね。
さて、目崎氏は「鎮魂の目的を達したところで鎌倉に入る。私はこのわずか数日間の叙述に、『海道記』の著作目的が余すところなく露呈していると思う」と言われていますが、
『海道記』の著作目的=「張本公卿」の「鎮魂の目的」
とする点には私も反対するつもりはありません。
しかし、「そのなまなましい悲傷を数百年読者が見失っていたのは、著者の仕掛けた朧化にマンマとしてやられたわけであろう」との見解はどうなのか。
「張本公卿」に関連する箇所は、その分量といい内容といい、普通の「読者」にも「なまなましい悲傷」を感じさせるものであり、それは現代の「読者」のみならず、鎌倉時代以降、「数百年」の「読者」にとっても同じだったように思われます。
私には別に何かが「朧化」されているようには思えないのですが、作者が源光行だと確信されている目崎氏にとっては、この「朧化」によって光行は「筆禍を免れた」訳ですね。
ただ、「このホットなルポが代りに失った文学的評価は大きかった」とのことなので、光行が自分の作品だと明確化していれば、『海道記』の文学的評価は極めて高かったはずなのに、残念ながら「数百年」の間、『海道記』の文学的評価は低いままだった、ということのようです。
うーむ。
私は出発点の『海道記』作者=源光行説に賛成できないので、結果的に目崎氏の言われることには何一つ賛成できません。
実は私は、今年の四月頃、流布本の作者が藤原秀康の同母弟で、藤原能茂を猶子とした藤原秀能ではなかろうかという妄想に囚われていて、その旨を当ブログに書いていました。
そして、ブログには書かなかったのですが、同じ時期に『海道記』の作者も藤原秀能ではなかろうかと考えて、あれこれ文献を漁っていました。
孤独な知識人・藤原秀能について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0710c7d3316f116fb4da512b9b936eaf
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c4c93c1bc8fbffae925ce68caec6554
流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回します。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ab913546709680fe4350d606a965d81
『海道記』において、中御門宗行等の承久の乱の犠牲者を悼む記述には作者との間の特別な交流が窺われ、作者自身も後鳥羽院に親近した人物のように思われます。
そして、『尊卑分脈』の記載にもかかわらず、私は田渕句美子説に従って、秀能は承久の乱には一切関与していなかった、と考えるのですが、その不作為は恩顧をかけてくれた後鳥羽院への裏切りであり、秀能は周囲から裏切者という批判を浴び、自身も裏切者と呼ばれても仕方ないとの負い目を感じていたと思います。
目崎氏は「乱後の屈折した心情特に光親はじめ張本たちへの痛切な同情は想像に余りあるものであったろう」と言われますが(p166)、源光行は実際に乱に加担しているので、少なくとも裏切者ではありません。
そして乱後、親族の努力で助命された点は坊門忠信と同じ立場であり、金洗沢で処刑される直前、文字通り首の皮一枚で助かった点では坊門忠信以上に怖い目にあっています。
従って、光行には「張本たちへの痛切な同情」はあっても、それは別に「屈折した心情」ではなかったはずです。
光行に比べれば(私の考える)秀能の方が「裏切者」としての、よほど「屈折した心情」を抱えていたはずであり、『海道記』の作者に相応しい存在ではなかろうかと思います。
私は流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回しましたが、『海道記』の作者としては秀能になお若干の可能性を感じています。
ただ、あくまで漠然とした可能性に留まり、具体的な根拠に基づく積極的な論証はさすがに無理ですね。
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眠れぬ一夜を明かして翌日足柄山を越えれば相模国。そこでは斬刑よりも入水を望んで急流に沈められた高倉範茂(参議)と、ついでに美濃国遠山という地で誅殺された一条信能(同)に言及し、かくて鎮魂の目的を達したところで鎌倉に入る。私はこのわずか数日間の叙述に、『海道記』の著作目的が余すところなく露呈していると思う。そのなまなましい悲傷を数百年読者が見失っていたのは、著者の仕掛けた朧化にマンマとしてやられたわけであろう。光行はこうして筆禍を免れたが、このホットなルポが代りに失った文学的評価は大きかった。
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『海道記』と源光行への言及はここまでです。
さて、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(岩波書店、1990)では、『海道記』の本文は72頁から124頁までに掲載されています。
1頁は概ね14行で、14行に足りない頁が最初と最後に1頁ずつあるので、合計は、
12+14×51+7=733(行)
となります。
『海道記』と「張本公卿」の関係を見ると、作者が四月四日に京都を出発して以降、「張本公卿」の話は四月十二日、遠江国「菊河ノ宿」に着き(p91)、ここで中御門宗行の漢詩(のようなもの)を見ての感慨から始まります。(23行)
この日は更に「妙井渡」・「播豆蔵宿」(初倉)を過ぎて大井川を渡り、「藤枝ノ市」・「丘部ノ里邑」を過ぎ、「宇津山」を越え、「手越ノ宿」に泊まります。
十三日は「宇度浜」・「江尻ノ浦」を過ぎ、「清見関」を見て、「息津浦」(興津)・「湯居宿」(由比)を過ぎて「千本ノ松原」を見、「蒲原ノ宿」に泊まります(p99)。
十四日は富士川を渡り、「浮嶋原」を過ぎて富士山を眺めますが、作者は何故か唐突に竹取翁とかぐや姫の話を延々と語り出します。
目崎氏の言われる「著者の仕掛けた朧化」という認識が正しいのであれば、33行に及ぶこの竹取物語エピソードは「朧化」の最たるものですね
そして「車返」を過ぎて、「木瀬川ノ宿」に泊まりますが(p104)、ここで「或家ノ柱」に「彼納言和歌一首」が記されているのを発見し、「張本公卿」の話が再開され、中御門宗行が「按察使」の遺骨を持った葉室光親の従者に出会った話などが語られます。(17行)
十五日は「木瀬川」を立って「遇沢ト云野原」を進みますが、ここで「納言」(中御門宗行)の「羊ノ歩」を思い、「按察使」(葉室光親)と「前兵衛督」(源有雅)が「同ク此原ニテ末ノ露本ノ滴トヲクレ先立ニケリ」といった誤解に基づく感懐に耽ったあと、「黄門都護」(光親)のかつての栄華栄耀の様を思い出したりします。
そして、「今日ハ足柄山ヲ越テ関下宿ニ泊ルベキニ、日路ニ烏群リ飛テ、林ノ頂ニ鷺ネグラヲアラソヘバ、山ノ此方ニ竹ノ下ト云処ニトマル」(p107)と、足柄峠を越える予定だったのに、その手前の「竹ノ下」に泊まり、夜中に「張本公卿」を思う歌を詠んだりします。(合計38行)
十六日は足柄峠を越えて相模国に入り、「逆川ト云所」(酒匂)に泊まります(p108)。
十七日は「逆川」を立って「平山」を過ぎたところで「高倉宰相中将<範茂>急川〔はやかは〕ト云淵ニテ底ノミクヅト沈ニケリ」云々と、斬首ではなく水死を選んだ藤原範茂を悼みます。(9行)
そして、「此次〔ついで〕ニ相尋レバ、一条宰相中将<信能>美濃国遠山ト云所ニテ、露ノ命風ヲカクシテケリ」云々と、藤原信能を悼みます。(18行。範茂と合計で27行)
そして「大磯浦小磯浦」を過ぎて相模川を渡り、「懐島」「砥上ノ原」「八松ト云所」を経て「固瀬川」を渡り、「江ノ中ニ一嶺ノ孤山」(江ノ島)を見て「江尻ノ大明神」の霊験話を語り、「腰越ト云平山」・「稲村ト云所」を経て「湯井浜」に到り、「大津ノ浦」に似ているなあといった感懐に耽ったりします。
そして「若宮大路ヨリ宿所ニツキヌ」となって(p113)、十四日に及んだ東海道の旅は終わります。
結局、十四日の旅のうち、「張本公卿」を回顧したのは、
四月十二日「菊河ノ宿」 23行(中御門宗行)
同十四日 「木瀬川ノ宿」 17行(中御門宗行・葉室光親)
同十五日 藍沢原~竹ノ下 38行(中御門宗行・葉室光親・源有雅)
同十七日 平山 27行(高倉範茂・一条信能)
の四日で、合計105行となります。
『海道記』全体が733行ですから、
105/733≒0.143
ということで、全体の約14%が「張本公卿」関係記事で占められていますね。
さて、目崎氏は「鎮魂の目的を達したところで鎌倉に入る。私はこのわずか数日間の叙述に、『海道記』の著作目的が余すところなく露呈していると思う」と言われていますが、
『海道記』の著作目的=「張本公卿」の「鎮魂の目的」
とする点には私も反対するつもりはありません。
しかし、「そのなまなましい悲傷を数百年読者が見失っていたのは、著者の仕掛けた朧化にマンマとしてやられたわけであろう」との見解はどうなのか。
「張本公卿」に関連する箇所は、その分量といい内容といい、普通の「読者」にも「なまなましい悲傷」を感じさせるものであり、それは現代の「読者」のみならず、鎌倉時代以降、「数百年」の「読者」にとっても同じだったように思われます。
私には別に何かが「朧化」されているようには思えないのですが、作者が源光行だと確信されている目崎氏にとっては、この「朧化」によって光行は「筆禍を免れた」訳ですね。
ただ、「このホットなルポが代りに失った文学的評価は大きかった」とのことなので、光行が自分の作品だと明確化していれば、『海道記』の文学的評価は極めて高かったはずなのに、残念ながら「数百年」の間、『海道記』の文学的評価は低いままだった、ということのようです。
うーむ。
私は出発点の『海道記』作者=源光行説に賛成できないので、結果的に目崎氏の言われることには何一つ賛成できません。
実は私は、今年の四月頃、流布本の作者が藤原秀康の同母弟で、藤原能茂を猶子とした藤原秀能ではなかろうかという妄想に囚われていて、その旨を当ブログに書いていました。
そして、ブログには書かなかったのですが、同じ時期に『海道記』の作者も藤原秀能ではなかろうかと考えて、あれこれ文献を漁っていました。
孤独な知識人・藤原秀能について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0710c7d3316f116fb4da512b9b936eaf
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c4c93c1bc8fbffae925ce68caec6554
流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回します。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ab913546709680fe4350d606a965d81
『海道記』において、中御門宗行等の承久の乱の犠牲者を悼む記述には作者との間の特別な交流が窺われ、作者自身も後鳥羽院に親近した人物のように思われます。
そして、『尊卑分脈』の記載にもかかわらず、私は田渕句美子説に従って、秀能は承久の乱には一切関与していなかった、と考えるのですが、その不作為は恩顧をかけてくれた後鳥羽院への裏切りであり、秀能は周囲から裏切者という批判を浴び、自身も裏切者と呼ばれても仕方ないとの負い目を感じていたと思います。
目崎氏は「乱後の屈折した心情特に光親はじめ張本たちへの痛切な同情は想像に余りあるものであったろう」と言われますが(p166)、源光行は実際に乱に加担しているので、少なくとも裏切者ではありません。
そして乱後、親族の努力で助命された点は坊門忠信と同じ立場であり、金洗沢で処刑される直前、文字通り首の皮一枚で助かった点では坊門忠信以上に怖い目にあっています。
従って、光行には「張本たちへの痛切な同情」はあっても、それは別に「屈折した心情」ではなかったはずです。
光行に比べれば(私の考える)秀能の方が「裏切者」としての、よほど「屈折した心情」を抱えていたはずであり、『海道記』の作者に相応しい存在ではなかろうかと思います。
私は流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回しましたが、『海道記』の作者としては秀能になお若干の可能性を感じています。
ただ、あくまで漠然とした可能性に留まり、具体的な根拠に基づく積極的な論証はさすがに無理ですね。