慈光寺本だけに存在する公卿僉議の場面で「近衛殿」(基通、1160-1233)が義時追討に消極的な意見を述べると、卿二位が反論します。(p307)
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茲〔ここ〕ニ、女房卿二位〔きやうのにゐ〕殿、簾中〔れんちう〕ヨリ申サセ給ケルハ、「大極殿造営ニ、山陽道ニハ安芸・周防、山陰道ニハ但馬・丹後、北陸道ニハ越後・加賀、六ケ国マデ寄ラレタレドモ、按察<光親>・秀康ガ沙汰トシテ、四ケ国ハ国務ヲ行〔おこなふ〕ト雖〔いへども〕、越後・加賀両国ハ、坂東ノ地頭、用ヒズ候ナル。去〔され〕バ、木ヲ切〔きる〕ニハ本ヲ断〔たち〕ヌレバ、末ノ栄〔さかゆ〕ル事ナシ。義時ヲ打〔うた〕レテ、日本国ヲ思食儘〔おぼしめすまま〕ニ行ハセ玉ヘ」トゾ申サセ給ケル。院ハ此由〔このよし〕聞食〔きこしめし〕テ、「サラバ秀康メセ」トテ、御所ニ召サル。院宣ノ成〔なり〕ケル様、「義時ガ数度〔すど〕ノ院宣ヲ背〔そむく〕コソ奇怪ナレ。打〔うつ〕ベキ由思食立〔おぼしめしたつ〕。計〔はからひ〕申セ」トゾ仰下〔おほせくだ〕リケル。秀康畏〔かしこまり〕テ奏申〔そうしまうし〕ケルハ、「駿河守義村ガ弟ニ、平判官胤義コソ此程〔このほど〕都ニ上〔のぼり〕テ候エ。胤義ニ此由申合〔まうしあはせ〕テ、義時討〔うた〕ン事易〔やすく〕候」トゾ申ケル。
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そもそも大極殿造営の必要が生じたのは、鎌倉殿(候補)に三寅が選ばれたことに不満を抱いた源三位頼政の孫・頼茂が反抗的な態度を示したので後鳥羽院が追討を命じ、承久元年(1219)七月十三日、合戦になって大内裏が焼けてしまったからですが、慈光寺本はその点は触れません。
そして、公卿僉議の正式メンバーではない卿二位が、簾中から、造営費用をまかなうため、山陽道は安芸・周防、山陰道は但馬・丹後、北陸道は越後・加賀の合計六か国の税収をあてることに決定し、葉室光親・藤原秀康を四ヵ国の国司(または知行国主?)にしたけれども、越後・加賀は「坂東ノ地頭」が非協力的で、再建事業が進まない、木を切るには根本を切らなければならないように、諸悪の根源は義時なのだから、義時を討って「日本国ヲ思食儘ニ行ハセ玉ヘ」(日本国を思い通りに支配なさって下さい)と主張します。
最後の表現は義時登場場面の「朝ノ護源氏ハ失終ヌ。誰カハ日本国ヲバ知行スベキ。義時一人シテ万方ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍フベキ」に対応していますね。
さて、卿二位はいったい何のために登場しているのか。
流布本では卿二位は登場せず、全て後鳥羽院が独断で進めています。
即ち、源頼茂の追討も、
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都には又、源三位頼政が孫、左馬権頭頼持とて、大内守護に候けるを、是も多田満仲が末なればとて、一院より西面の輩を差遣し、被攻しかば、是も難遁とて、腹掻切てぞ失にける。院の関東を亡さんと被思召ける事は現前なり。故大臣殿の官位、除目ごとに望にも過て被成けり。是は、官打にせん為とぞ。三条白川の端に、関東調伏の堂を建て、最勝四天王院と被名。されば大臣殿、無程被打給しかば、白川の水の恐れも有とて、急ぎ被壊にけり。
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という具合いに(松林靖明『新訂承久記』、p53)、実朝の「官打」、最勝四天王院の建立と破却と並んで、後鳥羽院の「関東を亡さんと被思召ける事」が「現前」であることの現れとしています。
実朝の「官打」と最勝四天王院については、近時の学説は流布本の描き方に懐疑的ですが、流布本では後鳥羽の討幕の意思が極めて堅固であることの証拠という位置付けですね。
とにかく、流布本では全てを後鳥羽院が独裁者として決定しており、公卿僉議も近衛基通の消極的意見も、それに対する卿二位の反論もありません。
とすると、慈光寺本で卿二位が登場する意味は、後鳥羽院の独裁者としての印象を弱めることにありそうです。
実は、慈光寺本では卿二位はもう一度登場します。
即ち、いよいよ義時追討の決意を固めた後鳥羽院が陰陽師七人を呼んで鎌倉攻撃の日取りを占わせたところ、「当時ハ不快」で、今回は中止して「年号替ラレテ、十月上旬ニ思食立ナラバ、成就仕テ平安ナルベシ」との回答だったので、後鳥羽院が悩んでいたところ、
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卿二位殿、又申サレケルハ、「陰陽師、神ノ御号〔みな〕を借テコソ申候ヘ。十善ノ君ノ御果報〔くわほう〕ニ義時ガ果報ハ対揚〔たいやう〕スベキ事カハ。且〔かつう〕ハ加様〔かやう〕ノ事、独〔ひとり〕ガ耳ニ聞ヘタルダニモ、世ニハ程ナク聞ユ。増シテ一千余騎ガ耳ニ触テン事、隠ス共隠アルマジ。義時ガ聞候ナン後ハ、弥〔いよいよ〕君ノ御為、重ク成候ベシ。只疾々〔とくとく〕思食立候ベシ」トゾ申サレタル。サラバ秀康召テ、先〔まず〕義時ガ縁者検非違使伊賀太郎判官光季ヲ可討由ヲ、宣旨ゾ下ケル。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58
とあって、卿二位は再び後鳥羽院を叱咤激励します。
こうして慈光寺本では、二度に亘って卿二位が後鳥羽院以上の強硬派として登場し、後鳥羽院を叱咤激励しており、この二つの卿二位エピソードは後鳥羽院の独裁者としての印象を軽減し、併せて後鳥羽院への責任非難を軽減する機能がありますね。
また、卿二位が登場することで、
朝廷:後鳥羽院と卿二位
幕府:義時と「二位殿」(北条政子)
というシンメトリカルな構図になっている点も面白いですね。
流布本では、独裁者の後鳥羽院がたった一人で義時・政子に対峙、という構図です。
なお、流布本では、卿二位は後鳥羽院が隠岐に流される場面に、
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同十三日、隠岐国へ移し可奉と聞へしかば、御文遊して九条殿へ奉らせ給ふ。「君しがらみと成て、留させ給なんや」とて、御歌を被遊ける。
墨染の袖に情を懸よかし涙計にくちもこそすれ
加様に被遊けるとなん。御乳母の卿の二位殿、あはて参て見進〔まゐ〕らするに、譬〔たとへ〕ん方ぞ無りけり。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae971e493adbe288b43f7a272012f86f
と登場するだけで、慈光寺本に比べれば弱々しい人物に造型されています。
逆に、慈光寺本では、戦後処理の方には卿二位は一切登場しません。
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