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田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その1)

2023-02-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

ということで、慈光寺本での藤原能茂が非常に奇妙な存在であることは理解していただけたと思いますが、そもそも藤原能茂とは何者なのか。
少し検索してみて、早稲田大学教授・田渕句美子氏の『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)に能茂を扱った論文があることを知り、私もつい二日前に入手して一読してみたところ、同書の「第四章 藤原能茂と藤原秀茂」は私の予想を遥かに超えて充実した内容でした。

笠間叢書『中世初期歌人の研究』
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305103376/

この論文は、

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第一節 藤原能茂
 一 後鳥羽院との関係
 二 『尊卑分脈』の問題
 三 三浦氏との関わり
 四 伝承と霊託の世界へ
第二節 藤原秀茂とその子孫
 一 閲歴
 二 西園寺家の周辺
 三 秀能への敬愛
 四 子孫の繁栄
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と構成されていますが、先ずは第一節の冒頭から少し引用してみます。(p105以下)

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 藤原能茂(西蓮)は、勅撰歌人ではなく、家集もなく、今その作として伝えられている和歌は、慈光寺本『承久記』に見える「すず鴨の身とも我こそなりぬらめ波の上にて世をすごすかな」という一首のみにすぎない。この歌も能茂作とは必ずしも断定し難いであろう。後鳥羽院隠岐配流後も隠岐で院に仕えていたが、隠岐で編まれ初学の人も出詠した『遠島御歌合』に詠進していないから、おそらく和歌は苦手としていたのだろう。しかし、能茂の存在は、秀能や後鳥羽院を考える時に無視できぬものがあり、特に晩年の後鳥羽院との関わりは非常に深く、そして伝承の世界へも広がりをみせている。本節では能茂について述べておきたい。
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慈光寺本の作者が能茂ではないかと疑っていた私は、能茂が創作(偽造)した可能性が高い慈光寺本の和歌がどれも余りにレベルが低いので、ちょっと不安に思っていました。
というのは、元々下手な人が精いっぱい頑張って作ったものならば素直に受け取れるのですが、仮に上手な人が下手なフリをして作ったのであれば、そうした不自然な工作を試みた理由や背景について、相当考えなければならないからです。
しかし、この冒頭の一文で、能茂作とされている和歌は慈光寺本の「すず鴨の身とも我こそなりぬらめ波の上にて世をすごすかな」だけであり、能茂は『遠島御歌合』にすら詠進していないことを知り、本当にホッとしました。
隠岐で後鳥羽院はおよそ文化的とは言い難い環境に置かれており、もちろん才能のある歌人も僅少でしたから、後鳥羽院は仕方なく『遠島御歌合』には相当レベルの低い人も参加させていたのですが、能茂の和歌の才能がそのレベルにも達していないのであれば、慈光寺本の和歌作者として実に適格です。
ま、それはともかく、続きです。(p106)

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 一 後鳥羽院との関係

  能茂に初めて注目したのは、久保田淳氏「慈光寺本『承久記』とその周辺」である。『尊卑分脈』『系図纂要』によれば、秀能の猶子で、幼名伊王丸、実父は法眼道提、母は弥平左衛門尉定清女である。『明月記』嘉禄二年(一二二六)五月二十七日の条には「道継者能茂之父也」とあり、父の名にゆれがあるが、久保田氏の指摘があるように、『承元御鞠記』に再三「道誓」と記され、「此芸をたしなみ其名を顕す輩」として「行願寺別当法橋道誓」と、「医王丸<道誓子>」「隼人<道誓子> 法師」の三名の名が見える。行願寺は寛弘元年(一〇〇四)に行円が開いた寺であって、俗に革堂、或いは一条革堂、一条北辺堂とも称される。『百錬抄』によれば、元久元年(一二〇四)正月十八日と二月十二日、後鳥羽院が御幸しているが、『百錬抄』『一代要記』ほかによれば、承元三年(一二〇九)四月九日に、誓願寺とともに焼失し、仁治三年(一二四二)三月五日にも火災にあった。能茂の第二子道玄は、『系図纂要』によると行願寺の都維那になっているが、これは能茂の縁であろう。
 能茂は『後鳥羽院宸記』『明月記』『承久記』他に名が頻出しており、後鳥羽院に近侍していたことが知られる。久保田氏は前掲論文で、後鳥羽院の寵童の一人であったと推測しているが、その通りであろうと思われる。前掲『承元御鞠記』等を見ると、父道誓と共に鞠衆の一人として出仕しており、また『吾妻鏡』承元三年(一二〇九)三月二十一日の条、実朝に『大柳殿御鞠記』を進献したという記事の中に、御鞠衆の一人として医王の名が見えているので、やはり院側近の鞠衆の一人であったと考えられる。なお後鳥羽院と蹴鞠については、秋山喜代子氏の論に詳しい。
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いったん、ここで切ります。

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