『川瀬博士古稀記念 国語国文学論集』での森野宗明氏の肩書は「青山学院女子短大教授」ですが、後に筑波大学教授になられたそうですね。。
旺文社の大学受験ラジオ講座で有名な方だったようですが、私は利用したことがなく、お名前も知りませんでした。
森野宗明(1930-2022)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%87%8E%E5%AE%97%E6%98%8E
さて、続きです。(p92)
傍線部分は【 】とします。
-------
『六代勝事記』も基本線は同様であるが、『群書類従』所収のものでみるかぎりにおいては、武家に対する言語待遇が若干緩やかであり、ひとり源実朝についてのみは、公家並みに敬語の使用例が散見する。
『今鏡』は、文と武の平氏二流の朝廷中枢への進出が、公家社会の汚染でもなければ権威失墜を意味するものでもないことを論じていて興味深いが、「平氏初めは一つにおはしけれど、日記の家と、世の固めに【おはする】筋とは、久しう変りて、かたがた聞え【給ふ】を、いづ方も同じ御世に、帝、后、同じ氏に栄えさせ給ふめる」(日本古典全書、一五四頁)と、「日記の家」の文系平氏と込みにして述べたくだりに敬語の使用がみられるのみで、わずかながら言及記事が散見する正盛・忠盛・清盛についての具体的な叙述部には、一切敬語の使用がない。他の武士関係としては奥州藤原基衡や源光保・光宗・頼国・義光などについて言及した叙述部があるが、後に三位の序せられた頼政について、歌人としての逸話を記したところ─ 内聞き・巻十 ─に一例、「歌詠ま【る】なる人」と(る)が用いられているのが例外で、他は、敬語が用いられないこと、言うを俟たない。
右等が伝統的な宮廷貴族社会における価値観に基づく、公家本位の王朝的秩序に則った言語待遇基準が支配している典型的な作品群であり、若干の凸凹はあるものの、武家に対してはすこぶる冷淡であることが明瞭である。これは歴史ものではなく、作り物語の系統を引く擬古物語であるが、『石清水物語』も、そうした言語待遇基準による武家の処遇がいかなるものであるかを象徴的に示す例として加えておきたい。この物語は、女主人公に配する最重要人物として坂東育ちの武士伊予守を登場させる。そこに前代とは異なる鎌倉時代の時代色を見てとることができるのではあるが、にもかかわらず、そしてその人物造型にあたって、単に秀れた武人として描くのみではなく、たとえていうなら平維盛・忠度的文雅人としての素養や品格をも十分に付与しているにもかかわらず、結局、地の文の叙述部においては、終始一貫、ついに敬語の使用がないのである。
-------
いったん、ここで切ります。
「石清水物語」は私は未読ですが、『百科事典マイペディア 』によれば、
-------
鎌倉時代の物語。2巻。13世紀半ば成立。作者不詳。伝本は多く,中に《正三位物語》と題する系統があるが,これは本居宣長の誤りをそのまま踏襲したもの。東国の武士出身の伊予守が,木幡の地で見出された美しい姫君を,男色関係にある中納言と争う。姫君は老齢の中務宮に嫁ぐが,帝が暴力的に介入,拉致幽閉される。悲しんだ伊予守は出家,後に往生する。主人公を武士とする点や,意思的な天皇などの造形に新しさが見られる。
https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E7%89%A9%E8%AA%9E-32660
とのことで、なかなか際どい内容のようですね。
成立時期は辞典類によって異同があるようですが、13世紀末の成立とする説もあるそうで、そうであれば後深草院二条作の可能性もあるのではないか、などと妄想したくなってしまいます。
三角洋一氏の訳注で笠間書院から出ているそうなので、後で内容を確認してみようと思います。
『中世王朝物語全集5 石清水物語』
https://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305400857/
さて、続きです。(p92)
-------
なお、付け加えていえば、公家本位の言語待遇基準を厳格に適用し、武家に対しては敬語を使用せずに叙述するという方針は、やや時代が下る『神皇正統記』、『増鏡』にもそのまま認められる。日本古典文学大系所収のものについてみるかぎりでは、前著に、頼朝に対して動詞および補助動詞としての<給ふ>を使用した例がそれぞれ一八六頁に例外として見いだされる程度で、武家は敬語適用外という方針が原則として維持されていることが確認できる。後者は、承久の乱関係の記事が詳しく、『承久記』と比較し得る便があるが、後述するように慈光寺本で多量に敬語の使用例が見られる北条氏や京都守護伊賀光季について、まったく敬語の使用例がない等々一切敬語を用いた例が見いだせない。ただし、将軍といっても、摂関家から入った頼経などは別で、これは武家としてではなく、公家の人物として処遇され、敬語が適用されている。
-------
「一ノ一」はこれで終りです。
敬語の使用という観点から『増鏡』を読んだことはありませんが、承久の乱の場面を見ると、
「東の代官にて伊賀判官光季といふものあり。かつがつかれを御勘事の由、仰せらるれば、御方に参る兵押し寄せたるに、逃がるべきやうなくて腹切りてけり」
「(義時は)思ひなりて、弟の時房と泰時といふ一男と、二人をかしらとして、雲霞のつはものをたなびかせて都にのぼす」
「泰時を前に据ゑていふやう」
「泰時も鎧の袖をしぼる」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f04376b5554137bcb16be7814fce3d27
「かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時ただ一人鞭をあげて馳せ来たり」
「義時とばかりうち案じて」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105
といった具合で、確かに伊賀光季や北条義時・泰時らには一切敬語を使用していません。
他方、九条頼経(三寅)は、僅か二歳で鎌倉に下ったときから、
-------
その年の六月に東に率て奉る。七月十九日におはしまし着きぬ。むつきの中の御有様は、ただ形代などをいはひたらんやうにて、よろづの事、さながら右京権大夫義時朝臣心のままなれど、一の人の御子の将軍に成り給へるは、これぞはじめなるべき。かの平家の亡びがた近く、人の夢に、「頼朝が後はその御太刀あづかるべし」と春日大明神仰せられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8cd0bab5ec2728680efbf06ad21cb7bd
などと丁寧な敬語が用いられています。
宗尊親王も、もちろん最上級の敬語で遇されていますね。
「巻五 内野の雪」(その12)─宗尊親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df97ebd9ddfd84fc306d7efd834631af
旺文社の大学受験ラジオ講座で有名な方だったようですが、私は利用したことがなく、お名前も知りませんでした。
森野宗明(1930-2022)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%87%8E%E5%AE%97%E6%98%8E
さて、続きです。(p92)
傍線部分は【 】とします。
-------
『六代勝事記』も基本線は同様であるが、『群書類従』所収のものでみるかぎりにおいては、武家に対する言語待遇が若干緩やかであり、ひとり源実朝についてのみは、公家並みに敬語の使用例が散見する。
『今鏡』は、文と武の平氏二流の朝廷中枢への進出が、公家社会の汚染でもなければ権威失墜を意味するものでもないことを論じていて興味深いが、「平氏初めは一つにおはしけれど、日記の家と、世の固めに【おはする】筋とは、久しう変りて、かたがた聞え【給ふ】を、いづ方も同じ御世に、帝、后、同じ氏に栄えさせ給ふめる」(日本古典全書、一五四頁)と、「日記の家」の文系平氏と込みにして述べたくだりに敬語の使用がみられるのみで、わずかながら言及記事が散見する正盛・忠盛・清盛についての具体的な叙述部には、一切敬語の使用がない。他の武士関係としては奥州藤原基衡や源光保・光宗・頼国・義光などについて言及した叙述部があるが、後に三位の序せられた頼政について、歌人としての逸話を記したところ─ 内聞き・巻十 ─に一例、「歌詠ま【る】なる人」と(る)が用いられているのが例外で、他は、敬語が用いられないこと、言うを俟たない。
右等が伝統的な宮廷貴族社会における価値観に基づく、公家本位の王朝的秩序に則った言語待遇基準が支配している典型的な作品群であり、若干の凸凹はあるものの、武家に対してはすこぶる冷淡であることが明瞭である。これは歴史ものではなく、作り物語の系統を引く擬古物語であるが、『石清水物語』も、そうした言語待遇基準による武家の処遇がいかなるものであるかを象徴的に示す例として加えておきたい。この物語は、女主人公に配する最重要人物として坂東育ちの武士伊予守を登場させる。そこに前代とは異なる鎌倉時代の時代色を見てとることができるのではあるが、にもかかわらず、そしてその人物造型にあたって、単に秀れた武人として描くのみではなく、たとえていうなら平維盛・忠度的文雅人としての素養や品格をも十分に付与しているにもかかわらず、結局、地の文の叙述部においては、終始一貫、ついに敬語の使用がないのである。
-------
いったん、ここで切ります。
「石清水物語」は私は未読ですが、『百科事典マイペディア 』によれば、
-------
鎌倉時代の物語。2巻。13世紀半ば成立。作者不詳。伝本は多く,中に《正三位物語》と題する系統があるが,これは本居宣長の誤りをそのまま踏襲したもの。東国の武士出身の伊予守が,木幡の地で見出された美しい姫君を,男色関係にある中納言と争う。姫君は老齢の中務宮に嫁ぐが,帝が暴力的に介入,拉致幽閉される。悲しんだ伊予守は出家,後に往生する。主人公を武士とする点や,意思的な天皇などの造形に新しさが見られる。
https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E7%89%A9%E8%AA%9E-32660
とのことで、なかなか際どい内容のようですね。
成立時期は辞典類によって異同があるようですが、13世紀末の成立とする説もあるそうで、そうであれば後深草院二条作の可能性もあるのではないか、などと妄想したくなってしまいます。
三角洋一氏の訳注で笠間書院から出ているそうなので、後で内容を確認してみようと思います。
『中世王朝物語全集5 石清水物語』
https://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305400857/
さて、続きです。(p92)
-------
なお、付け加えていえば、公家本位の言語待遇基準を厳格に適用し、武家に対しては敬語を使用せずに叙述するという方針は、やや時代が下る『神皇正統記』、『増鏡』にもそのまま認められる。日本古典文学大系所収のものについてみるかぎりでは、前著に、頼朝に対して動詞および補助動詞としての<給ふ>を使用した例がそれぞれ一八六頁に例外として見いだされる程度で、武家は敬語適用外という方針が原則として維持されていることが確認できる。後者は、承久の乱関係の記事が詳しく、『承久記』と比較し得る便があるが、後述するように慈光寺本で多量に敬語の使用例が見られる北条氏や京都守護伊賀光季について、まったく敬語の使用例がない等々一切敬語を用いた例が見いだせない。ただし、将軍といっても、摂関家から入った頼経などは別で、これは武家としてではなく、公家の人物として処遇され、敬語が適用されている。
-------
「一ノ一」はこれで終りです。
敬語の使用という観点から『増鏡』を読んだことはありませんが、承久の乱の場面を見ると、
「東の代官にて伊賀判官光季といふものあり。かつがつかれを御勘事の由、仰せらるれば、御方に参る兵押し寄せたるに、逃がるべきやうなくて腹切りてけり」
「(義時は)思ひなりて、弟の時房と泰時といふ一男と、二人をかしらとして、雲霞のつはものをたなびかせて都にのぼす」
「泰時を前に据ゑていふやう」
「泰時も鎧の袖をしぼる」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f04376b5554137bcb16be7814fce3d27
「かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時ただ一人鞭をあげて馳せ来たり」
「義時とばかりうち案じて」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105
といった具合で、確かに伊賀光季や北条義時・泰時らには一切敬語を使用していません。
他方、九条頼経(三寅)は、僅か二歳で鎌倉に下ったときから、
-------
その年の六月に東に率て奉る。七月十九日におはしまし着きぬ。むつきの中の御有様は、ただ形代などをいはひたらんやうにて、よろづの事、さながら右京権大夫義時朝臣心のままなれど、一の人の御子の将軍に成り給へるは、これぞはじめなるべき。かの平家の亡びがた近く、人の夢に、「頼朝が後はその御太刀あづかるべし」と春日大明神仰せられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8cd0bab5ec2728680efbf06ad21cb7bd
などと丁寧な敬語が用いられています。
宗尊親王も、もちろん最上級の敬語で遇されていますね。
「巻五 内野の雪」(その12)─宗尊親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df97ebd9ddfd84fc306d7efd834631af
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます