歴史上に実在した山田重忠ではなく、慈光寺本において創作された山田「重貞(定)」の役割について検討する前に、重忠周辺の武士について、錦昭江氏「京方武士群像」(『後鳥羽院のすべて』所収、新人物往来社、2009)に基づいて少し知識を補充しておきたいと思います。
この論稿は、
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承久の乱前史─美濃源氏の内紛
上皇方の武将たち
美濃の合戦
美濃在地勢力
戦後の美濃国
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と構成されていますが、先ずは「承久の乱前史─美濃源氏の内紛」の冒頭を見ることとします。(p57)
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『承久記』は、その題名のとおり、承久の乱の顛末を語る軍記物語である。物語では、後鳥羽上皇と幕府の確執からはじまり、合戦の推移と敗北した上皇方の公家・武将たちの末路を描くが、軍記物語でありながらも、合戦譚の部分はそれほど多くはない。承久の乱における主たる合戦場は美濃・瀬田・宇治であるが、とくに諸本のなかで古態を示すといわれる慈光寺本『承久記』では、瀬田・宇治合戦部分を欠き、美濃合戦が語られるのみで、その後は、延々と敗北した武将たちの悲劇を語る。成立当時はあった瀬田・宇治合戦部分が、後世脱落したのであろうか(杉山次子「承久記諸本と吾妻鏡」)。いずれにしても、承久の乱における諸合戦のうち美濃合戦での上皇方敗北は、この乱の帰趨をかなり決定づけるものであったことは間違いないようだ。
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慈光寺本に「成立当時はあった瀬田・宇治合戦部分が、後世脱落した」とする杉山次子説は、別にきちんとした論拠に基づく主張ではなく、単なる思い付き程度のものですね。
私は杉山説は成り立たないと考えています。
宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d
この論稿は、
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承久の乱前史─美濃源氏の内紛
上皇方の武将たち
美濃の合戦
美濃在地勢力
戦後の美濃国
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と構成されていますが、先ずは「承久の乱前史─美濃源氏の内紛」の冒頭を見ることとします。(p57)
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『承久記』は、その題名のとおり、承久の乱の顛末を語る軍記物語である。物語では、後鳥羽上皇と幕府の確執からはじまり、合戦の推移と敗北した上皇方の公家・武将たちの末路を描くが、軍記物語でありながらも、合戦譚の部分はそれほど多くはない。承久の乱における主たる合戦場は美濃・瀬田・宇治であるが、とくに諸本のなかで古態を示すといわれる慈光寺本『承久記』では、瀬田・宇治合戦部分を欠き、美濃合戦が語られるのみで、その後は、延々と敗北した武将たちの悲劇を語る。成立当時はあった瀬田・宇治合戦部分が、後世脱落したのであろうか(杉山次子「承久記諸本と吾妻鏡」)。いずれにしても、承久の乱における諸合戦のうち美濃合戦での上皇方敗北は、この乱の帰趨をかなり決定づけるものであったことは間違いないようだ。
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慈光寺本に「成立当時はあった瀬田・宇治合戦部分が、後世脱落した」とする杉山次子説は、別にきちんとした論拠に基づく主張ではなく、単なる思い付き程度のものですね。
私は杉山説は成り立たないと考えています。
宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d
ついで「上皇方の武将たち」を見ることとします。(p61)
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【前略】
はたして、この時上皇方は、どのような武将で編成されていたのであろうか? まず、「海道の大将軍」となったのが藤原秀康である。秀康は、藤原秀郷の流れをくむ武将で、河内国讃良を本拠としていた。後鳥羽上皇の下北面に選ばれた後、侍身分ではありながらも下野・上総をはじめ数ヵ国の国守を歴任するなど破格の待遇をうけていた。上皇の和歌所の寄人〔よりうど〕でもあり、また、大内裏造営における中核的役割を担っており、弟秀澄とともに「中央権力と結びつき、その私兵となってきた畿内武士の典型」といわれている(上横手雅敬「承久の乱の諸前提」)。
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藤原秀康が「上皇の和歌所の寄人〔よりうど〕でもあり」とありますが、これは弟の秀能と混同されているようですね。
秀康・秀能・秀澄の三人兄弟のうち、秀能は新古今時代の新進気鋭の歌人として著名ですが、錦氏はあまり和歌の世界には興味を持たれていないようですね。
平岡豊氏「藤原秀康について」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5cd02ed73a6421ca3596c6ab42ed763
田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/faea43e5df2f914947b0b31be431cbd9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/faea43e5df2f914947b0b31be431cbd9
この後、三浦胤義と佐々木広綱についての説明がありますが、省略して「美濃の合戦」に入ります。(p63)
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先述のように、慈光寺本『承久記』に語られる具体的な戦闘は、美濃国内のみに限られる。京を出立し美濃に到着した上皇方東海道将軍藤原秀澄は、軍勢一万ニ千騎を各十二の木戸(城冊)に分散して防衛する策を取る。尾張住人山田重定〔しげさだ〕は、東海・東山両軍を河川諸流の合流点である洲俣(墨俣)に集結して幕府軍と対決し、一気に尾張国府を攻略し関東へ攻め上る案を主張するが、受け容れられなかったという。
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いったん、ここで切ります。
「上皇方東海道将軍藤原秀澄は、軍勢一万ニ千騎を各十二の木戸(城冊)に分散して防衛する策を取る」とありますが、秀澄がどのような資格・権限でこのような軍勢配置を行うことができたのかは全く不明です。
この点、錦氏は特に気にされておられないようですが、慈光寺本の大きな謎の一つですね。
なお、「十二の木戸」とありますが、実際に数えてみると十ヵ所しかなく、これも謎です。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その33)─「山道・海道一万ニ千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナレ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9
盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d
さて、続きです。(p63以下)
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一方、幕府方東海道軍は、尾張国一宮に集結後、本体は洲俣へ、他の軍勢は、東山道軍を救援すべく尾張川(木曽川)の各渡に発遣した。暁に及び、幕府方東山道軍武田信光・小笠原長清軍が大井戸(可児市)に到着し、河を挟んで上皇方大内惟信軍と対峙した。まず、小笠原長清軍の市川新五郎が川を渡りはじめると、武田信光軍も水練巧みな十九歳の荒三郎が潜って浅瀬をさぐる。強い馬は上流を、弱い馬は下流をと、幕府方五千騎が渡河をはたすと、上皇方大内惟信や蜂屋入道、高桑殿は防戦するがかなわず、惟信の子は討死、惟信も戦線を離脱した。蜂屋入道も負傷し自害、蜂屋入道の子蔵人は逃亡、子三郎は奮戦するも戦死し、上皇方は「皆悉〔ことごとく〕落ニケリ」というありさまであった。大井戸の下流鵜沼瀬(各務原市)を防衛していた神土蔵人頼経は降参。板橋(各務原市)では、荻野次郎佐衛門・山田重継(重忠の子)、伊義渡(各務原市)では開田・懸桟・上田らが奮戦するも落ちていく。火の御子では打見・御料・寺本らが、尾張熱田大宮司に懸けつめられて討死。大豆戸(摩免戸・各務原市)では、本隊である藤原秀康・三浦胤義が打って出て戦い、多くの敵と戦うが、やがて落ちていった。食渡(羽島郡岐南町)では惟宗孝親・下条・加藤判官(光定)が待ち受けていたが、関政綱ら大軍が、河端の堂を破壊して作った筏に乗って渡河に成功すると、戦わずして逃げていった。上瀬では滋原左衛門・摂津渡辺党の翔が対戦し、とくに翔は、「我は翔、我は翔」と馳せ廻り、敵を多数討ち取るが、最後はやはり落ちていった。こうして東山道の諸木戸は幕府軍によって次々破られてしまった。
洲俣は藤原秀澄が防衛していたが、戌刻(午後七時~九時)には敗走し、最後に山田重定は、東山道と東海道の出会う杭瀬川(揖斐川)にて一人「火が出る程に」戦い抜いたが、衆寡敵せず、ついに落ちていった。
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検討は次の投稿で行います。