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錦昭江氏「京方武士群像」(その1)

2023-09-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
歴史上に実在した山田重忠ではなく、慈光寺本において創作された山田「重貞(定)」の役割について検討する前に、重忠周辺の武士について、錦昭江氏「京方武士群像」(『後鳥羽院のすべて』所収、新人物往来社、2009)に基づいて少し知識を補充しておきたいと思います。
この論稿は、

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承久の乱前史─美濃源氏の内紛
上皇方の武将たち
美濃の合戦
美濃在地勢力
戦後の美濃国
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と構成されていますが、先ずは「承久の乱前史─美濃源氏の内紛」の冒頭を見ることとします。(p57)

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 『承久記』は、その題名のとおり、承久の乱の顛末を語る軍記物語である。物語では、後鳥羽上皇と幕府の確執からはじまり、合戦の推移と敗北した上皇方の公家・武将たちの末路を描くが、軍記物語でありながらも、合戦譚の部分はそれほど多くはない。承久の乱における主たる合戦場は美濃・瀬田・宇治であるが、とくに諸本のなかで古態を示すといわれる慈光寺本『承久記』では、瀬田・宇治合戦部分を欠き、美濃合戦が語られるのみで、その後は、延々と敗北した武将たちの悲劇を語る。成立当時はあった瀬田・宇治合戦部分が、後世脱落したのであろうか(杉山次子「承久記諸本と吾妻鏡」)。いずれにしても、承久の乱における諸合戦のうち美濃合戦での上皇方敗北は、この乱の帰趨をかなり決定づけるものであったことは間違いないようだ。
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慈光寺本に「成立当時はあった瀬田・宇治合戦部分が、後世脱落した」とする杉山次子説は、別にきちんとした論拠に基づく主張ではなく、単なる思い付き程度のものですね。
私は杉山説は成り立たないと考えています。

宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d

ついで「上皇方の武将たち」を見ることとします。(p61)

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【前略】
 はたして、この時上皇方は、どのような武将で編成されていたのであろうか? まず、「海道の大将軍」となったのが藤原秀康である。秀康は、藤原秀郷の流れをくむ武将で、河内国讃良を本拠としていた。後鳥羽上皇の下北面に選ばれた後、侍身分ではありながらも下野・上総をはじめ数ヵ国の国守を歴任するなど破格の待遇をうけていた。上皇の和歌所の寄人〔よりうど〕でもあり、また、大内裏造営における中核的役割を担っており、弟秀澄とともに「中央権力と結びつき、その私兵となってきた畿内武士の典型」といわれている(上横手雅敬「承久の乱の諸前提」)。
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藤原秀康が「上皇の和歌所の寄人〔よりうど〕でもあり」とありますが、これは弟の秀能と混同されているようですね。
秀康・秀能・秀澄の三人兄弟のうち、秀能は新古今時代の新進気鋭の歌人として著名ですが、錦氏はあまり和歌の世界には興味を持たれていないようですね。

平岡豊氏「藤原秀康について」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5cd02ed73a6421ca3596c6ab42ed763
田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/faea43e5df2f914947b0b31be431cbd9

この後、三浦胤義と佐々木広綱についての説明がありますが、省略して「美濃の合戦」に入ります。(p63)

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 先述のように、慈光寺本『承久記』に語られる具体的な戦闘は、美濃国内のみに限られる。京を出立し美濃に到着した上皇方東海道将軍藤原秀澄は、軍勢一万ニ千騎を各十二の木戸(城冊)に分散して防衛する策を取る。尾張住人山田重定〔しげさだ〕は、東海・東山両軍を河川諸流の合流点である洲俣(墨俣)に集結して幕府軍と対決し、一気に尾張国府を攻略し関東へ攻め上る案を主張するが、受け容れられなかったという。
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いったん、ここで切ります。
「上皇方東海道将軍藤原秀澄は、軍勢一万ニ千騎を各十二の木戸(城冊)に分散して防衛する策を取る」とありますが、秀澄がどのような資格・権限でこのような軍勢配置を行うことができたのかは全く不明です。
この点、錦氏は特に気にされておられないようですが、慈光寺本の大きな謎の一つですね。
なお、「十二の木戸」とありますが、実際に数えてみると十ヵ所しかなく、これも謎です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その33)─「山道・海道一万ニ千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナレ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9
盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d

さて、続きです。(p63以下)

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 一方、幕府方東海道軍は、尾張国一宮に集結後、本体は洲俣へ、他の軍勢は、東山道軍を救援すべく尾張川(木曽川)の各渡に発遣した。暁に及び、幕府方東山道軍武田信光・小笠原長清軍が大井戸(可児市)に到着し、河を挟んで上皇方大内惟信軍と対峙した。まず、小笠原長清軍の市川新五郎が川を渡りはじめると、武田信光軍も水練巧みな十九歳の荒三郎が潜って浅瀬をさぐる。強い馬は上流を、弱い馬は下流をと、幕府方五千騎が渡河をはたすと、上皇方大内惟信や蜂屋入道、高桑殿は防戦するがかなわず、惟信の子は討死、惟信も戦線を離脱した。蜂屋入道も負傷し自害、蜂屋入道の子蔵人は逃亡、子三郎は奮戦するも戦死し、上皇方は「皆悉〔ことごとく〕落ニケリ」というありさまであった。大井戸の下流鵜沼瀬(各務原市)を防衛していた神土蔵人頼経は降参。板橋(各務原市)では、荻野次郎佐衛門・山田重継(重忠の子)、伊義渡(各務原市)では開田・懸桟・上田らが奮戦するも落ちていく。火の御子では打見・御料・寺本らが、尾張熱田大宮司に懸けつめられて討死。大豆戸(摩免戸・各務原市)では、本隊である藤原秀康・三浦胤義が打って出て戦い、多くの敵と戦うが、やがて落ちていった。食渡(羽島郡岐南町)では惟宗孝親・下条・加藤判官(光定)が待ち受けていたが、関政綱ら大軍が、河端の堂を破壊して作った筏に乗って渡河に成功すると、戦わずして逃げていった。上瀬では滋原左衛門・摂津渡辺党の翔が対戦し、とくに翔は、「我は翔、我は翔」と馳せ廻り、敵を多数討ち取るが、最後はやはり落ちていった。こうして東山道の諸木戸は幕府軍によって次々破られてしまった。
 洲俣は藤原秀澄が防衛していたが、戌刻(午後七時~九時)には敗走し、最後に山田重定は、東山道と東海道の出会う杭瀬川(揖斐川)にて一人「火が出る程に」戦い抜いたが、衆寡敵せず、ついに落ちていった。
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検討は次の投稿で行います。
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「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」の人

2023-09-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
従前の私の仮説、

(1)慈光寺本の作者は藤原能茂
(2)能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村
(3)目的は光村に承久の乱の「真相」を伝え、「正しい歴史観」を持ってもらうこと

のうち、(2)と(3)については少し緩めるべきだろうと考えを改めましたが、慈光寺本と流布本の網羅的検討を経て、更に森野論文の強烈な刺激を受けた後も、(1)については私は全く変更の必要を感じていません。
森野論文の最大の功績は慈光寺本における敬語秩序の不安定さを摘出したことですが、これは慈光寺本作者の身分意識(=差別意識)が不安定であることを示しています。
藤原能茂は行願寺(革堂)別当程度の僧の家に生まれた人であり、藤原秀能の猶子となることにより身分的上昇を図ったとしても、客観的には、公家社会・武家社会いずれにおいても、さほど高く評価された人とは思えません。
しかし、能茂は幼いころから寵童として後鳥羽院と特別な関係を持ち、承久の乱後は隠岐における後鳥羽側近の中心に位置し、最後は後鳥羽院の遺骨を首に懸けて帰洛するなど、身体的にも精神的にも後鳥羽院に密着した存在です。
こうした特殊な経験から、能茂の主観的な身分意識が、その出自を遥かに超えて上昇したとしても不思議ではありません。
他方、慈光寺本においては、後鳥羽院自身の言葉として「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」と能茂の出自が明確にされ、併せて後鳥羽院の能茂に対する特別な愛情が強調されています。
また、能茂が出家したことが後鳥羽院の出家の動機となっており、更に能茂は後鳥羽院と一緒になって七条院と歌の贈答を行うなど、能茂は殆ど後鳥羽院と精神的に一体化したような存在として描かれています。
このように、慈光寺本において能茂は極めて特殊な描かれ方をされており、これは慈光寺本の作者を「彼堂別当ガ子」程度の出自にそれなりの誇りを持ちつつ、同時に後鳥羽院と殆ど一体化した身分意識も併せ持つ、主観的な身分意識が極端に不安定な人物、即ち能茂と考えるべきことを示していると思います。

森野宗明論文の評価(その2)─能茂の主観的な身分意識(=差別意識)の特異性
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8c4d926eb017d0367bef7850f223b036

以上のように、森野論文を踏まえた結果、私は今まで以上に慈光寺本の作者を藤原能茂だろうと確信しているのですが、しかし、慈光寺本作者は身分意識だけでなく、他の面でもいろいろと不安定な人です。
まず、何といっても奇妙なのは、慈光寺本の冒頭近くに置かれた「国王ノ兵乱十二度」の話で、作者は十二度と繰り返すにも拘わらず、実際に数えてみると九度しかなく、しかもその内容には不審な点が多々あります。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その7)─「国王兵乱」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ceb221e963f9e49a0409bcecaf871ebf
(その8)─「国王ノ兵乱十二度」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9bbac31be3ad10781b7be02cd58f6e16

また、尾張河合戦の場面でも、「十二ノ木戸」と明記しながら、実際に数えてみると十ヵ所しか存在せず、その中には「阿井渡」「火御子」のように他の史料に登場しない地名もあります。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その33)─「山道・海道一万ニ千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナレ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9
(その46)─「阿井渡、蜂屋入道堅メ給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/51f9021c68667da368f5bb7da224bdda
盛り付け上手な青山幹哉氏(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/995da08b3874a5eef6a5a63eb589ad9a

「国王ノ兵乱十二度」と明記しながら九度しか挙げず、「十二ノ木戸」と明記しながら十ヵ所しか挙げない人物は、いったいどのような性格なのか。
久保田淳氏は「其間ニ国王兵乱、今度マデ具シテ、已ニ十二ヶ度ニ成」(岩波新大系、p299)に付した脚注において「以下の叙述では九か度の兵乱を記す」とするだけで何の感想も述べず、「十二ノ木戸」には注記もありませんが、改めて考えてみれば本当に変な話です。
まあ、慈光寺本作者が几帳面な人物ではなかったことは間違いなく、文章を丁寧に推敲する習慣があったとも思えず、素直に考えればずいぶん適当な人であり、いい加減な人ですね。
森野氏は、

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 さて、こうした不斉性は、作者の気まぐれといってしまえばそれきりであるが、そこに何等かの意味を見いだそうとすれば、慈光寺本『承久記』の性格をどう捉えるか、そこまで足を踏みこまざるを得ない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d33368ba253b1de2572efbcf52bd4e2e

と言われていますが、「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」も慈光寺本の「不斉性」の典型であり、あれこれ考えても「不斉性」を統一的に説明する原理・原則はなさそうなので、結局、「作者の気まぐれ」と考えるのが一番良さそうにも思えてきます。
作者が「気まぐれ」な人だとすれば、慈光寺本全体を貫く確固とした基本方針、制作目的を探究すること自体が無駄な作業かもしれません。
ただ、いい加減なところが多々あるとはいえ、慈光寺本は全体として決して支離滅裂ではなく、大変な手間と時間をかけて制作された作品であることは間違いありませんから、作者にはこの作品を書かなければならなかった何らかの事情があり、それなりの目的があり、想定読者もいたはずです。
しかし、そうかといって全てをガチガチの統一的な原理・原則で説明する必要はなく、多分に「気まぐれ」の要素を含みつつ、何らかのそれぞれ異なる事情、目的で書かれた場面の寄せ集め程度に思っておく方が良いのかもしれません。
例えば異常な分量で描かれている伊賀光季追討場面や、父子を合計すれば相当な分量になる佐々木広綱・勢多伽丸関係記事などは想定読者との関係で一応説明できそうですが、山田重忠関係記事には今のところ想定読者との関係は見出せません。
そして、何より山田「重忠」が一貫して「重貞(定)」と誤記されている点も気になります。
山田重忠関係記事が異常な分量で、敬語の点でも極めて特殊であることは、伊賀光季・佐々木広綱父子関係とは別の観点からの説明が必要なように思われます。
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