続きです。
第三節に入ります。(p103)
-------
三
以上、慈光寺本における武家に対する敬語使用の拡がりを見た。中間層あるいはそれ以下のクラスにまで敬語適用範囲が拡がっていることは、特筆に価する事実であるが、しかしまた、その反面、その敬語適用のあり方が決して一律的斉一的ではないことをも見落してはなるまい。
慈光寺本には、官軍、幕府軍さまざまな武士が登場する。右にみたごとく敬語の使用をもって待遇されている武士が多く拾い上げられる反面、中間層クラスはもちろんのこと、上層クラスの武士にであっても、その場合についての具体的な言動の叙述部があるにもかかわらず、敬語の使用が見られないという場合も、また尠くはないのである。さらにまた、敬語の使用が見られる場合であっても、すでに散発的に触れるところがあったように、きわめて頻度高く濃密にその使用例の見られる武士もあれば、一例程度といった武士もある。
これが一律的斉一的ではない事実の一つである。ただ、こうした凸凹、不斉性は、多くの作品にまま見いだされることであって、かならずしも慈光寺本のみに指摘される特異な現象ではない。敬語の有無やその頻度は、具体的な言動の叙述部の量の大小とも相関するところがあるという点も考慮に入れてよろしかろう。北条氏以外では、敬語適用の密度が極めて濃密であるのは、これもすでに触れたように伊賀光季と山田重忠の二人である。二人ともに具体的な叙述部の量が大であることとも関係があろう。
不斉性という点で注意すべきは、同一人物でありながら、その敬語の適用に、場面によって濃淡疎密の差が見られるという事実である。
たとえば、今その名を出した伊賀光季の場合をみてみよう。彼についての詳細な叙述が繰り広げられるのは、光季と親交のある佐々木広綱が、院方に光季誅殺の謀議があることをそれとなく知らせようと、光季を招いて酒宴を張る武士の友誼を描いた挿話およびその後に続く光季館での壮絶な合戦のくだりである。後者においては、官軍方では広綱にのみ「山城守広綱(略)ト【宣給】ヘバ」(一九四頁)と一例敬語の使用がみられるのにとどまっているのに対し、光季にはほぼ斉一に敬語が適用されて、彼を主体とする動作・存在の尊敬表現二三例、彼を客体とする動作の謙譲表現七例の計三〇例もの使用例が数えられる。しかるに、酒宴場面では、広綱に対しては「ワリナキ美女【召出シ】、酌ヲ【被】取テ」(一八八頁)のように敬語の使用例が見られるのに、光季については、もし、「(広綱ガ光季ヲ=筆者注)喚寄テ酒尽シテ打解テ遊ビ、【申シ】ケルハ(=新撰日本古典文庫デハ『打解ケ遊ビ申シケルハ』ト読ミ、<遊ビ申ス>ノゴトク解シテイルヨウニ思ワレルガ、『遊ビ』ノ後ニ 、ヲ打ツベキデアロウ。筆者注)」(一八八頁)の類の「申ス」を謙譲語と見るならば、「申ス」に限っては、二例拾えることになるが、彼を主体とした動作・存在の表現では、「光季、心行テ打解ケレバ、申様(略)トゾ云ケル」(一八九頁)のように一切敬語の使用がなく、合戦場面とまことに対蹠的なのである。
-------
いったん、ここで切ります。
佐々木広綱と伊賀光季の酒宴場面は、岩波新大系(久保田淳氏)では、
-------
サ申程〔まうすほど〕ニ、十四日ニモ成ニケル。山城守広綱ト伊賀ノ判官光季トハ、アヒヤケ也ケレバ、山城守此由〔このよし〕聞付テ、伊賀ノ判官ニ知ラセバヤト思〔おもひ〕、喚寄〔よびよせ〕テ酒盛シテ、打解〔うちとけ〕テ遊ビ申ケルハ、「判官殿、今日ハ心静〔こころしづか〕ニ遊ビ玉ヘ」トテ、追座ニ成テワリナキ美女召出シ、酌ヲ被取〔とられ〕テ、其ヲ肴ニテ、今一度トゾ勧メケル。光季心行〔こころゆき〕テ打解ケレバ、申様〔まうすやう〕、「此程、都ニ武士アマタ有ト承ル。何事故〔なにごとゆゑ〕ト難心得〔こころえがたし〕。過シ夜ノ夢ニ、宣旨ノ御使三人来〔きたり〕テ、光季張〔はり〕テ立タル弓ヲ取テ、ツカヲ七ニ切〔きる〕ト見テ候ヘバ、万〔よろ〕ヅ心細クアヂキナク候也。今日ノ交遊〔かういう〕ハ思出〔おもひいで〕ニコソ仕ラメ」トゾ云ケル。山城守是ヲ聞〔きき〕、弓矢取身〔とるみ〕ハ、今日ハ人ノ上、明日ハ身ノ上ト云事ノ有物ヲ、知セバヤトハ思ヘ共、光季ガ打レナン次日〔つぎのひ〕ハ、御所ニ聞食〔きこしめし〕、「広綱コソ中媒〔ちうばい〕シタリケレ。奇怪也」トテ、頸ヲ召〔めさ〕レン事、一定ナリ。乍去〔さりながら〕、余所〔よそ〕ノ様ニテ知セバヤト思ヒ、光季ニ申ケルハ、「院ハ何事ヲ思食ヤ覧。都中ニ騒事共〔さわぐことども〕有ト承ル。此世中ノ習〔ならひ〕ナレバ、人ノ上ニヤ候覧、身ノ上ニヤ候覧。若〔もし〕事モアラン時ハ憑〔たの〕ミ申ベシ。又憑マセ玉ヘ」トゾ云ケル。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/625f1f6ec356fe05e45c0dffd5a61aa4
となっていて、森野氏の「新撰日本古典文庫デハ『打解ケ遊ビ申シケルハ』ト読ミ、<遊ビ申ス>ノゴトク解シテイルヨウニ思ワレルガ、『遊ビ』ノ後ニ 、ヲ打ツベキデアロウ」という指摘にもかかわらず、久保田淳氏も「打解〔うちとけ〕テ遊ビ申ケルハ」とされていますね。
ま、それはともかく、酒宴の場面では広綱に敬語が用いられているのに対し、光季には敬語が使用されていません。
岩波新大系では酒宴場面は15行なのに対し、これに続く合戦場面は9頁強、141行と長大なので全部は引用できませんが、確かに官軍では佐々木広綱に一例だけ敬語が用いられているのに対し、「光季にはほぼ斉一に敬語が適用されて」いますね。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その20)─「此等ノ家子・郎等ナドスベテ議シケルハ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b3dc644f79d6ac5103361a8c1fb58aa
(その21)─「光季、物具ヲシテ軍ヲセバ、打勝ベキカ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f4411ce826c0e7e2ede1d6616eb1eb
(その22)─「草田右馬允」と「原田右馬允」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e1efa6121522e5ce8fd795c45cd9e70
(その23)─「判官次郎ハ広綱ニハ烏帽子子ナガラ聟ゾカシ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/514d5b63524ac02e483e15a3e893dc93
(その24)─「八幡大菩薩・賀茂・春日、哀ミ納受ヲ垂給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/638fe2866f581171f1821f3e3a03e7e9
第三節に入ります。(p103)
-------
三
以上、慈光寺本における武家に対する敬語使用の拡がりを見た。中間層あるいはそれ以下のクラスにまで敬語適用範囲が拡がっていることは、特筆に価する事実であるが、しかしまた、その反面、その敬語適用のあり方が決して一律的斉一的ではないことをも見落してはなるまい。
慈光寺本には、官軍、幕府軍さまざまな武士が登場する。右にみたごとく敬語の使用をもって待遇されている武士が多く拾い上げられる反面、中間層クラスはもちろんのこと、上層クラスの武士にであっても、その場合についての具体的な言動の叙述部があるにもかかわらず、敬語の使用が見られないという場合も、また尠くはないのである。さらにまた、敬語の使用が見られる場合であっても、すでに散発的に触れるところがあったように、きわめて頻度高く濃密にその使用例の見られる武士もあれば、一例程度といった武士もある。
これが一律的斉一的ではない事実の一つである。ただ、こうした凸凹、不斉性は、多くの作品にまま見いだされることであって、かならずしも慈光寺本のみに指摘される特異な現象ではない。敬語の有無やその頻度は、具体的な言動の叙述部の量の大小とも相関するところがあるという点も考慮に入れてよろしかろう。北条氏以外では、敬語適用の密度が極めて濃密であるのは、これもすでに触れたように伊賀光季と山田重忠の二人である。二人ともに具体的な叙述部の量が大であることとも関係があろう。
不斉性という点で注意すべきは、同一人物でありながら、その敬語の適用に、場面によって濃淡疎密の差が見られるという事実である。
たとえば、今その名を出した伊賀光季の場合をみてみよう。彼についての詳細な叙述が繰り広げられるのは、光季と親交のある佐々木広綱が、院方に光季誅殺の謀議があることをそれとなく知らせようと、光季を招いて酒宴を張る武士の友誼を描いた挿話およびその後に続く光季館での壮絶な合戦のくだりである。後者においては、官軍方では広綱にのみ「山城守広綱(略)ト【宣給】ヘバ」(一九四頁)と一例敬語の使用がみられるのにとどまっているのに対し、光季にはほぼ斉一に敬語が適用されて、彼を主体とする動作・存在の尊敬表現二三例、彼を客体とする動作の謙譲表現七例の計三〇例もの使用例が数えられる。しかるに、酒宴場面では、広綱に対しては「ワリナキ美女【召出シ】、酌ヲ【被】取テ」(一八八頁)のように敬語の使用例が見られるのに、光季については、もし、「(広綱ガ光季ヲ=筆者注)喚寄テ酒尽シテ打解テ遊ビ、【申シ】ケルハ(=新撰日本古典文庫デハ『打解ケ遊ビ申シケルハ』ト読ミ、<遊ビ申ス>ノゴトク解シテイルヨウニ思ワレルガ、『遊ビ』ノ後ニ 、ヲ打ツベキデアロウ。筆者注)」(一八八頁)の類の「申ス」を謙譲語と見るならば、「申ス」に限っては、二例拾えることになるが、彼を主体とした動作・存在の表現では、「光季、心行テ打解ケレバ、申様(略)トゾ云ケル」(一八九頁)のように一切敬語の使用がなく、合戦場面とまことに対蹠的なのである。
-------
いったん、ここで切ります。
佐々木広綱と伊賀光季の酒宴場面は、岩波新大系(久保田淳氏)では、
-------
サ申程〔まうすほど〕ニ、十四日ニモ成ニケル。山城守広綱ト伊賀ノ判官光季トハ、アヒヤケ也ケレバ、山城守此由〔このよし〕聞付テ、伊賀ノ判官ニ知ラセバヤト思〔おもひ〕、喚寄〔よびよせ〕テ酒盛シテ、打解〔うちとけ〕テ遊ビ申ケルハ、「判官殿、今日ハ心静〔こころしづか〕ニ遊ビ玉ヘ」トテ、追座ニ成テワリナキ美女召出シ、酌ヲ被取〔とられ〕テ、其ヲ肴ニテ、今一度トゾ勧メケル。光季心行〔こころゆき〕テ打解ケレバ、申様〔まうすやう〕、「此程、都ニ武士アマタ有ト承ル。何事故〔なにごとゆゑ〕ト難心得〔こころえがたし〕。過シ夜ノ夢ニ、宣旨ノ御使三人来〔きたり〕テ、光季張〔はり〕テ立タル弓ヲ取テ、ツカヲ七ニ切〔きる〕ト見テ候ヘバ、万〔よろ〕ヅ心細クアヂキナク候也。今日ノ交遊〔かういう〕ハ思出〔おもひいで〕ニコソ仕ラメ」トゾ云ケル。山城守是ヲ聞〔きき〕、弓矢取身〔とるみ〕ハ、今日ハ人ノ上、明日ハ身ノ上ト云事ノ有物ヲ、知セバヤトハ思ヘ共、光季ガ打レナン次日〔つぎのひ〕ハ、御所ニ聞食〔きこしめし〕、「広綱コソ中媒〔ちうばい〕シタリケレ。奇怪也」トテ、頸ヲ召〔めさ〕レン事、一定ナリ。乍去〔さりながら〕、余所〔よそ〕ノ様ニテ知セバヤト思ヒ、光季ニ申ケルハ、「院ハ何事ヲ思食ヤ覧。都中ニ騒事共〔さわぐことども〕有ト承ル。此世中ノ習〔ならひ〕ナレバ、人ノ上ニヤ候覧、身ノ上ニヤ候覧。若〔もし〕事モアラン時ハ憑〔たの〕ミ申ベシ。又憑マセ玉ヘ」トゾ云ケル。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/625f1f6ec356fe05e45c0dffd5a61aa4
となっていて、森野氏の「新撰日本古典文庫デハ『打解ケ遊ビ申シケルハ』ト読ミ、<遊ビ申ス>ノゴトク解シテイルヨウニ思ワレルガ、『遊ビ』ノ後ニ 、ヲ打ツベキデアロウ」という指摘にもかかわらず、久保田淳氏も「打解〔うちとけ〕テ遊ビ申ケルハ」とされていますね。
ま、それはともかく、酒宴の場面では広綱に敬語が用いられているのに対し、光季には敬語が使用されていません。
岩波新大系では酒宴場面は15行なのに対し、これに続く合戦場面は9頁強、141行と長大なので全部は引用できませんが、確かに官軍では佐々木広綱に一例だけ敬語が用いられているのに対し、「光季にはほぼ斉一に敬語が適用されて」いますね。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その20)─「此等ノ家子・郎等ナドスベテ議シケルハ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b3dc644f79d6ac5103361a8c1fb58aa
(その21)─「光季、物具ヲシテ軍ヲセバ、打勝ベキカ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f4411ce826c0e7e2ede1d6616eb1eb
(その22)─「草田右馬允」と「原田右馬允」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4e1efa6121522e5ce8fd795c45cd9e70
(その23)─「判官次郎ハ広綱ニハ烏帽子子ナガラ聟ゾカシ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/514d5b63524ac02e483e15a3e893dc93
(その24)─「八幡大菩薩・賀茂・春日、哀ミ納受ヲ垂給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/638fe2866f581171f1821f3e3a03e7e9
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます