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土屋貴裕氏「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(その1)

2023-09-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
森野宗明論文を検討している途中ですが、今月13日の投稿で簡単に私見を纏めておいた水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」について、美術史学界の最新の動向を窺うことができる論文を入手したので、私の関心と重なる範囲で紹介したいと思います。

目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その12)─水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9308b3f160507cf01d0331261d799141

それは土屋貴裕氏の「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(『美術フォーラム21』44号、2021)という論文です。
美術史に疎い私は、失礼ながら土屋氏のお名前も存じ上げませんでしたが、東京国立博物館学芸研究部調査研究課絵画・彫刻室室長とのことです。

土屋貴裕(「東京国立博物館研究情報アーカイブズ」サイト内)
https://webarchives.tnm.jp/researcher/personal?id=69

さて、この論文は、

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はじめに
一、「後鳥羽天皇像」を支える記録
二、「後鳥羽天皇像」の不安定な構図
三、「後鳥羽天皇像」の「線」
四、似絵を似絵たらしめるもの
おわりに
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と構成されていますが、まずは問題の所在を知るため、「はじめに」を見て行きます。(p17)

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はじめに

 鎌倉から南北朝時代にかけて隆盛をみた似絵は、写生画的、記録画的性格の濃厚な肖像画の一種で、この時代の美術の写実的傾向を示す作品群として認識されてきた。
 なかでも水無瀬神宮の国宝「後鳥羽天皇像」(図1)は、似絵、あるいは鎌倉時代美術の写実性を語る上で必ず取り上げられてきた画像である。後鳥羽院が承久の乱に敗れ、隠岐に配流される直前、落飾前に藤原信実を召して描かせたとされる。その根拠は『吾妻鏡』承久三年(一二二一)七月八日条の「今日、上皇御落飾、御戒師御室(道助)、先之、召信実朝臣、被摸御影」との記述による。その五日後、後鳥羽院は配流先である隠岐へ遷幸することになる。
 本図は似絵の名手と評される藤原信実の画業をうかがううえで貴重であるばかりでなく、似絵の現存最古作とも位置付けられてきた。配流直前の緊迫した状況下に描かれたという豊かな物語性は、似絵が写実的で真を写すという前提のもと、この画像が描かれた当時の後鳥羽院の悲嘆や憂いといった心情をも読み込む誘惑に満ちている。
 だが従来の研究でも、『吾妻鏡』に記されるところの信実筆の「御影」が「後鳥羽天皇像」そのものかについては議論が分かれる。その一方で、この画像が似絵という作品群の「基準作」とみなされてきたことは間違いない。対看写照で描かれたことを保証するように面貌部分は細線を引き重ね、およそ縦四十、横三十センチメートルの小品の紙絵であることなど、私たちはこの画像から似絵の基本要素と呼ぶべきものを抽出しているところもある。
 本論では、似絵の象徴的な作品ともいえる「後鳥羽天皇像」を見つめなおすことで、似絵における「写実」の問題について改めて考えをめぐらせてみたい。
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「だが従来の研究でも、『吾妻鏡』に記されるところの信実筆の「御影」が「後鳥羽天皇像」そのものかについては議論が分かれる」に付された注(1)を見ると、「疑問を呈す」のは戦後初期の藤懸静也「水無瀬宮蔵後鳥羽院俗体御影に就て」(『國華』六七九号、一九四八年)、白畑よし「鎌倉期の肖像画について」(『MUSEUM』二十八号、一九五三年)の二論文だけで、米倉廸夫・宮次男・村重寧、マリベス・グレービル、若杉準治・井波林太郎の諸氏は「肯定的」だそうですね。
美術史学界では圧倒的多数が「肯定的」とのことですが、果たしてこの結論は諸記録と整合的なのか。
第一節に入ります。(p17以下)

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一、「後鳥羽天皇像」を支える記録

 『吾妻鏡』の「今日、上皇御落飾」のくだりには続きがあり、後鳥羽院の生母七条院(藤原殖子)が院のもとを訪れ面会したとある。これらの出来事は『吾妻鏡』以外でも『六代勝事記』『承久記(慈光寺本)』『同(古活字本)』『増鏡』『高野日記』に記録を留めるが、その内容が若干異なる。この点はこれまでも知られてきたことだが、諸本の差異に少しこだわってみたい。
 御影がいつ写されたのかについては、『高野日記』では明記されないものの、『吾妻鏡』以外では院が落飾した後に写されたことになっている。またこの時の御影の行方だが、『吾妻鏡』では言及がなく、『六代勝事記』『承久記(慈光寺本)』では院が落飾した自らの姿を見て現況を思いやるという筋で、『承久記(古活字本)』『増鏡』『高野物語』【ママ】はこの画像が七条院に贈られたとある。特に『高野日記』では、七条院に贈られたこの御影が後鳥羽院を祀った水無瀬、もしくは大原(法華堂)の御影堂に安置されているとの情報も見える。
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少し長くなったので、いったんここで切ります。
私は『高野日記』は未読ですが、頓阿作とのことなので、成立は『吾妻鏡』に遅れますね。

頓阿(1289-1372)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%93%E9%98%BF

コメント
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森野宗明論文の評価(その3)─後鳥羽院に近すぎるが故のパラドックス

2023-09-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
慈光寺本作者の身分意識(=差別意識)をもう少し具体的に探るために、森野氏の所謂「不斉性」の問題を検討してみたいと思います。
森野氏は第三節の最後に、

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 さて、こうした不斉性は、作者の気まぐれといってしまえばそれきりであるが、そこに何等かの意味を見いだそうとすれば、慈光寺本『承久記』の性格をどう捉えるか、そこまで足を踏みこまざるを得ない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d33368ba253b1de2572efbcf52bd4e2e

と言われた後で(p105)、第四節において、「不斉性」は素材となる資料をそのまま用いたためではないか、という説明をされていますが、別の考え方もできそうです。
それを森野氏が「不斉性」の代表例とされている人物に即して、少し検討してみたいと思います。
まず、「北条氏以外では、山田重忠とともに敬語使用の密度のもっとも高い人物」(p101)である伊賀光季を見ると、光季の場合、合戦場面では敬語が使用されているのに、佐々木広綱との酒宴場面では敬語が使用されていないという特異性があります。
この点、森野氏は、

-------
 たとえば、今その名を出した伊賀光季の場合をみてみよう。彼についての詳細な叙述が繰り広げられるのは、光季と親交のある佐々木広綱が、院方に光季誅殺の謀議があることをそれとなく知らせようと、光季を招いて酒宴を張る武士の友誼を描いた挿話およびその後に続く光季館での壮絶な合戦のくだりである。後者においては、官軍方では広綱にのみ「山城守広綱(略)ト【宣給】ヘバ」(一九四頁)と一例敬語の使用がみられるのにとどまっているのに対し、光季にはほぼ斉一に敬語が適用されて、彼を主体とする動作・存在の尊敬表現二三例、彼を客体とする動作の謙譲表現七例の計三〇例もの使用例が数えられる。しかるに、酒宴場面では、広綱に対しては「ワリナキ美女【召出シ】、酌ヲ【被】取テ」(一八八頁)のように敬語の使用例が見られるのに、光季については、もし、「(広綱ガ光季ヲ=筆者注)喚寄テ酒尽シテ打解テ遊ビ、【申シ】ケルハ(=新撰日本古典文庫デハ『打解ケ遊ビ申シケルハ』ト読ミ、<遊ビ申ス>ノゴトク解シテイルヨウニ思ワレルガ、『遊ビ』ノ後ニ 、ヲ打ツベキデアロウ。筆者注)」(一八八頁)の類の「申ス」を謙譲語と見るならば、「申ス」に限っては、二例拾えることになるが、彼を主体とした動作・存在の表現では、「光季、心行テ打解ケレバ、申様(略)トゾ云ケル」(一八九頁)のように一切敬語の使用がなく、合戦場面とまことに対蹠的なのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cc78e1666a412482aed6aad7a630872

とされますが、酒宴場面で佐々木広綱にのみ敬語が用いられ、合戦場面でも「官軍方では広綱にのみ」敬語が用いられているということは、端的に、慈光寺本作者にとっては佐々木広綱が伊賀光季の上位に位置づけられているというだけの話のようにも思われます。
前回投稿で書いたように、仮に慈光寺本作者が、同一場面に身分の異なる複数の人物が登場する場合、下位者が社会的には相当に上であっても、更に上位者がいる場合には下位者には敬語をつけない、即ち絶対的な身分ではなく、相対的な身分関係で敬語の使用・不使用を決めているとすると、

 佐々木広綱 > 伊賀光季

で簡単に説明できる話ですね。
森野氏は、上記引用部分の後、少し間を空けて、

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 先の光季の酒宴場面にしても、その場面構成の人的要素として公家が含まれ、公家本位の序列差別意識が作用して敬語が使用されなかったとでも解せられるのならばともかく、広綱は傍輩であり、しかも広綱の方には敬語の使用例が見られるというのでは、合戦場面ではないからという理由もいかにも苦しいことになるであろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d33368ba253b1de2572efbcf52bd4e2e

と言われていますが、幕府方の光季と京方の広綱は本当に「傍輩」なのか。
まあ、互いに有力御家人であり、旧知のそれなりに親しい間柄ではあったので、武家社会においては「傍輩」かもしれませんが、広綱は朝廷にも仕える立場です。
従って、慈光寺本作者が朝廷側の人間であれば、朝廷にも仕える広綱の方が光季などより身分的に遥かに上、という価値判断があったとしても不思議ではありません。
次に、三浦胤義について、森野氏は、

-------
 そうした不斉性の例としては、三浦胤義の場合が興味深い。彼についての具体的な叙述部は、後鳥羽院側近の藤原秀康の来訪を受けて北条討伐計画への積極的賛同を表明するくだりにはじまって諸処に見られるが、合戦場面での武将としての言動の叙述を含めて容易に敬語の使用が見られず、結局最後の、兄義村の軍勢と遭遇し決戦を挑む場面に到ってはじめて、「平判官(=胤義ヲ指ス。筆者注)申サ【レ】ケルハ」、「散々ニカケ【給】ヘバ」、「木島ヘゾ、【オハシ】ケル」(以上、二一九頁)とたて続けに適用例が現われるのである。こうした偏在は、合戦場面に武士に対する敬語の使用が顕著に見られる云々といったことだけでは説明しきれまい。
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と言われますが(p104以下)、「後鳥羽院側近の藤原秀康の来訪を受けて北条討伐計画への積極的賛同を表明するくだり」では、藤原秀康に対しても敬語は用いられていません。
そもそも秀康が胤義を訪問したのは後鳥羽院に命じられたからですが、その場面では、

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 茲〔ここ〕ニ、女房卿二位〔きやうのにゐ〕殿、簾中〔れんちう〕ヨリ申サセ給ケルハ、「大極殿造営ニ、山陽道ニハ安芸・周防、山陰道ニハ但馬・丹後、北陸道ニハ越後・加賀、六ケ国マデ寄ラレタレドモ、按察<光親>・秀康ガ沙汰トシテ、四ケ国ハ国務ヲ行〔おこなふ〕ト雖〔いへども〕、越後・加賀両国ハ、坂東ノ地頭、用ヒズ候ナル。去〔され〕バ、木ヲ切〔きる〕ニハ本ヲ断〔たち〕ヌレバ、末ノ栄〔さかゆ〕ル事ナシ。義時ヲ打〔うた〕レテ、日本国ヲ思食儘〔おぼしめすまま〕ニ行ハセ玉ヘ」トゾ申サセ給ケル。院ハ此由〔このよし〕聞食〔きこしめし〕テ、「サラバ秀康メセ」トテ、御所ニ召サル。院宣ノ成〔なり〕ケル様、「義時ガ数度〔すど〕ノ院宣ヲ背〔そむく〕コソ奇怪ナレ。打〔うつ〕ベキ由思食立〔おぼしめしたつ〕。計〔はからひ〕申セ」トゾ仰下〔おほせくだ〕リケル。秀康畏〔かしこまり〕テ奏申〔そうしまうし〕ケルハ、「駿河守義村ガ弟ニ、平判官胤義コソ此程〔このほど〕都ニ上〔のぼり〕テ候エ。胤義ニ此由申合〔まうしあはせ〕テ、義時討〔うた〕ン事易〔やすく〕候」トゾ申ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34ab5510c317b7bfc3313a37223bcb77

とあって、後鳥羽院には当然のことながら「仰下」と最上級の敬語が用いられており、卿二位には「申サセ給ケルハ」と、後鳥羽院に対する関係では「申」という謙譲表現になってはいるものの、卿二位自身も「サセ給」と相当高いレベルの敬語が用いられています。
他方、秀康には敬語は用いられていません。
そして、後鳥羽院の命令を受けた秀康が胤義を自分の「宿所」に招いて行った密談では、

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 能登守秀康ハ、高陽院殿〔かやのゐんどの〕ノ御倉町〔みくらまち〕辺ノ北辺〔ほくへん〕ニ宿所有ケリ。平判官胤義ヲ請寄〔しやうじよせ〕、酒盛〔さかもり〕ヲ始テ申様〔まうすやう〕、「今日ハ判官殿ト秀康ト、心静〔しづか〕ニ一日〔ひとひ〕酒盛仕ラン」トテ、隠座〔をんざ〕ニ成テ、能登守申様、「ヤ、判官殿、三浦・鎌倉振棄〔ふりすて〕テ都ニ上リ、十善君ニ宮仕〔みやづか〕ヘ申サセ給ヘ。和殿〔わどの〕ハ一定〔いちぢやう〕心中ニ思事〔おもふこと〕マシマスラント推〔すい〕スル也。一院〔いちゐん〕ハヨナ、御心サスガノ君ニテマシマス也。此程思食〔おぼしめす〕事有ヤラント推シ奉〔たてまつる〕。殿ハ鎌倉ニ付〔つく〕ヤ付〔つか〕ズヤ、十善ノ君ニハ随ヒマヒラセンヤ、計〔はからひ〕給ヘ、判官殿」トゾ申タル。
 判官ハ此由〔このよし〕聞〔きき〕、返答申ケルハ、【中略】加様ノ事ハ延〔のび〕ヌレバ悪〔あしく〕候。急ギ軍〔いくさ〕ノ僉議〔せんぎ〕候ベシ」トゾ申タル。能登守秀康ハ、又此由院奏シケレバ、「申〔まうす〕所、神妙也。サラバ急ギ軍ノ僉議仕レ」トゾ勅定ナル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8

という具合に、地の文においては、秀康と胤義は互いに「申」す対等な関係です。
つまり、後鳥羽院の命令から始まる一連の場面では、

 後鳥羽院(+卿二位) > 藤原秀康・三浦胤義

という顕著な身分秩序があって、前者には敬語が用いられ、後者には用いられないと説明することが可能です。
この後も「総大将」の藤原秀康は後鳥羽院の命を受けて何らかの行動を起こすというパターンが続くため、結果的に秀康には敬語が用いられないのではないかと思われます。

平岡豊氏「藤原秀康について」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ce47efa1716a05ac0bda76c0b98d7a72
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その54)─藤原秀康の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682

三浦胤義は秀康ほど後鳥羽院の近くにいる訳ではありませんが、秀康と一緒に行動することが多いので、秀康とともに敬語は用いられないようです。
この二人は武士としては極めて高い身分であるにもかかわらず、後鳥羽院に近すぎるために敬語が用いられない、という一種のパラドックスが起きているようです。
そして、胤義は渡辺翔・山田「重貞」とともに後鳥羽院へ敗戦の報告に行って追い返されたことにより、やっと後鳥羽院の桎梏を脱し、「結局最後の、兄義村の軍勢と遭遇し決戦を挑む場面に到ってはじめて、「平判官(=胤義ヲ指ス。筆者注)申サ【レ】ケルハ」、「散々ニカケ【給】ヘバ」、「木島ヘゾ、【オハシ】ケル」(以上、二一九頁)とたて続けに適用例が現われる」ことになる訳ですね。
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