下巻に入ると、山田重忠の名前が冒頭に出てきます。
即ち、
-------
去程に山田次郎重忠は、杭瀬河の軍破て後〔のち〕、都へ帰参して、事の由を申けるは、「海道所々被打落、北陸道の勢も都近く責寄」と聞へしかば、一院、何と思召〔おぼしめし〕分たる御事共なく、六月九日酉刻に、一院、新院・冷泉宮引具し進〔まゐ〕らせて、日吉へ御幸なる。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427
とのことで(『新訂承久記』、p98)、重忠の報告を受けて後鳥羽院が叡山御幸を決めた、という話の流れになっています。
しかし、尾張河合戦の敗北を後鳥羽院に報告した者は諸史料でバラバラであり、
『六代勝事記』…「糟屋の左衛門尉久季。筑後左衛門尉有永」(糟屋久季・五条有長)
慈光寺本…「員矢四郎左衛門久季・筑後太郎左衛門有仲」(糟屋久季・五条有長)
『吾妻鏡』(六月八日条)…「秀康。有長」(藤原秀康・五条有長)
となっています。
山田重忠の名前を挙げるのは流布本だけですが、ただ、重忠は最後まで踏みとどまって杭瀬河で戦ったのですから、重忠より前に後鳥羽院に尾張河合戦の結果を報告した者がいて、重忠はその後に報告したと考えることは可能です。
一番最初に成立した『六代勝事記』が糟屋久季・五条有長としているのですから、おそらくこの二人が最初の報告者で、重忠が追加的・補足的な報告者ではなかろうかと思います。
さて、叡山御幸が空しく失敗に終わった後、京方の軍勢手分の場面となりますが、ここでも、
-------
月卿・雲客、「去にても打手を可被向〔むけらるべし〕」とて、宇治・勢多方々へ分ち被遣〔つかはさる〕。山田二郎重忠・山法師播磨竪者〔りつしや〕・小鷹助智性坊・丹後、是等を始として、二千余騎を相具して勢多へ向ふ。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427
と重忠の名前が筆頭に出てきますね。(p99)
ま、これは宇治川の上流から順番に書いたので、たまたま勢多橋に配された重忠の名前が最初に登場しただけでしょうが。
流布本も読んでみる。(その29)─「引議にては不候。帯〔をび〕くにて社〔こそ〕候へ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f26372d6e5ae7138937d40180fcce3d
さて、流布本では勢多橋の戦闘場面は『新訂承久記』で57行、4頁弱と相当な分量で描かれています。
重忠関係の記述を抜き出すと、まず、前半では、
-------
海道の先陣相模守時房、同六月十二日、勢多の橋近く野路に陣をとる。早雄〔はやりを〕の者共、河端に押寄て見れば、橋中二間引落〔おとし〕て掻楯掻〔かいだてかき〕、山田次郎を始として、山法師大勢陣を取。【中略】
山法師颯〔さつ〕と引て除〔のき〕にける。山田次郎是を見て、郎従等荒左近を使者にて、「如何に大衆はあれ程の小勢には引せ給ふぞ。返させ給へ。後ろをば籠〔こめ〕ん」と申ければ、播磨竪者、「引議にては不候。帯〔をび〕くにて社〔こそ〕候へ」とて、返合て戦けり。山法師は徒歩〔かちだち〕の達者なり。其上、大太刀・長刀を持て重〔しげ〕く打ければ、武士は心こそ剛なれ共、小太刀にてあいしらひ戦程に、九人が中、六人は掻楯の際に被切伏。平内左衛門尉是を見て、今は如何にも叶まじと思ひて、其中に宗徒の者と見へける播磨竪者と組で臥〔ふす〕。平内左衛門、取てをさへて首を掻んとしける所に、竪者が下人の法師寄合て、長刀を持て、平内左衛門尉が押付を丁々と二打三打健〔した〕たかに被打て、傾く様にしける所を、山田次郎が郎従、荒左近落合て、平内左衛門が頚を取。【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f26372d6e5ae7138937d40180fcce3d
といった具合です。(p100以下)
後半は宇都宮頼業の活躍が目立ち、
-------
爰〔ここ〕に宇都宮四郎頼業〔よりなり〕、親の入道を待とて、大勢には三日後〔おくれ〕たりけるが、勢待付、少々の者をば打捨て上る程に、勢多の橋の戦、第二番の時に五十六騎にて馳著たり。橋上の軍をばせず、橋より上〔かみ〕、一町余引上て陣を取。向より敵〔かたき〕の射矢の繁き事、雨の足の如〔ごとし〕。【中略】宇都宮四郎、甲の鉢を被射て、不安〔やすからず〕思ひ起揚〔あがつ〕て見れば、「信濃国住人・福地十郎俊政」と矢誌しあり。十三束〔ぞく〕三伏〔ぶせ〕ぞ有ける。「宇都宮四郎頼成」と矢誌したる、是も十三束二伏有けるを以て、河端に立、能引〔よつぴい〕て丁と放つ。川を直違〔すぢか〕ひ様に、三町余を射渡て、山田次郎が川端に唐笠指〔ささ〕せて、軍の下知して居たりけるに、危〔あやふき〕程にぞ射懸たる。急ぎ笠を取せて(上の)壇に上る。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/949abc949b246591aef06020ab142ae8
ということで(p101以下)、重忠は宇都宮頼業の遠矢を恐れて指揮の拠点を変えたとあります。
この後、長大な宇治川合戦を経て、次に重忠が登場するのは藤原秀康・三浦胤義とともに四辻殿で後鳥羽院に敗戦の報告をする場面です。
即ち、
-------
去程に、京方の勢の中に、能登守秀安・平九郎判官胤義・山田次郎重忠、四辻殿へ参りて、某々帰参して候由、訇〔ののし〕り申ければ、「武士共は是より何方〔いづち〕へも落行」とて、門をも開かで不被入ければ、山田次郎、門を敲〔たたい〕て高声〔かうじやう〕に、「大臆病の君に語らはされて、憂に死せんずる事、口惜候」と訇ける。平九郎判官、「いざ同くは坂東勢に向ひ打死せん。但し宇治は大勢にて有なり。大将軍の目に懸らん事も不定〔ふじやう〕なり。淀へ向ひ死ん」とて馳行けるが、東寺に引籠る。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b53c80a818239c07d4e8e88f9eb868cd
とのことで(p122)、「大臆病の君に語らはされて、憂に死せんずる事、口惜候」と叫ぶ重忠が極めて印象的に描かれており、ここは流布本屈指の名場面ですね。
そして、
-------
又、安西・金鞠が進みしかば、能登守・山田次郎も落にけり。【中略】
山田次郎は嵯峨の奥なる山へ落行けるが、谷河の端にて、子息伊豆守・伊与房下居〔おりゐ〕て、水を吸飲て、疲れに臨みたる気にて休居たり。山田次郎、「哀れ世に有時、功徳善根を不為〔せざり〕ける事を」と云ければ、伊予房、「大乗経書写供養せらる。如法経行はせて御座す。是に過たる功徳は候はじ」と申せば、山田次郎、「され共」と云所に、天野左衛門が手者共、猛勢にて押寄たり。伊豆守、「暫く打払ひ候はん。御自害候へ」とて、太刀を抜て立揚り打払ふ。其間に山田次郎自害す。伊豆守、右の股を射させて、生取〔いけどり〕に成て被切にけり。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0b1c777b2beb73162b85b9f613f0cc
と重忠自害の場面も丁寧に描かれています。(p123以下)
即ち、
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去程に山田次郎重忠は、杭瀬河の軍破て後〔のち〕、都へ帰参して、事の由を申けるは、「海道所々被打落、北陸道の勢も都近く責寄」と聞へしかば、一院、何と思召〔おぼしめし〕分たる御事共なく、六月九日酉刻に、一院、新院・冷泉宮引具し進〔まゐ〕らせて、日吉へ御幸なる。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427
とのことで(『新訂承久記』、p98)、重忠の報告を受けて後鳥羽院が叡山御幸を決めた、という話の流れになっています。
しかし、尾張河合戦の敗北を後鳥羽院に報告した者は諸史料でバラバラであり、
『六代勝事記』…「糟屋の左衛門尉久季。筑後左衛門尉有永」(糟屋久季・五条有長)
慈光寺本…「員矢四郎左衛門久季・筑後太郎左衛門有仲」(糟屋久季・五条有長)
『吾妻鏡』(六月八日条)…「秀康。有長」(藤原秀康・五条有長)
となっています。
山田重忠の名前を挙げるのは流布本だけですが、ただ、重忠は最後まで踏みとどまって杭瀬河で戦ったのですから、重忠より前に後鳥羽院に尾張河合戦の結果を報告した者がいて、重忠はその後に報告したと考えることは可能です。
一番最初に成立した『六代勝事記』が糟屋久季・五条有長としているのですから、おそらくこの二人が最初の報告者で、重忠が追加的・補足的な報告者ではなかろうかと思います。
さて、叡山御幸が空しく失敗に終わった後、京方の軍勢手分の場面となりますが、ここでも、
-------
月卿・雲客、「去にても打手を可被向〔むけらるべし〕」とて、宇治・勢多方々へ分ち被遣〔つかはさる〕。山田二郎重忠・山法師播磨竪者〔りつしや〕・小鷹助智性坊・丹後、是等を始として、二千余騎を相具して勢多へ向ふ。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427
と重忠の名前が筆頭に出てきますね。(p99)
ま、これは宇治川の上流から順番に書いたので、たまたま勢多橋に配された重忠の名前が最初に登場しただけでしょうが。
流布本も読んでみる。(その29)─「引議にては不候。帯〔をび〕くにて社〔こそ〕候へ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f26372d6e5ae7138937d40180fcce3d
さて、流布本では勢多橋の戦闘場面は『新訂承久記』で57行、4頁弱と相当な分量で描かれています。
重忠関係の記述を抜き出すと、まず、前半では、
-------
海道の先陣相模守時房、同六月十二日、勢多の橋近く野路に陣をとる。早雄〔はやりを〕の者共、河端に押寄て見れば、橋中二間引落〔おとし〕て掻楯掻〔かいだてかき〕、山田次郎を始として、山法師大勢陣を取。【中略】
山法師颯〔さつ〕と引て除〔のき〕にける。山田次郎是を見て、郎従等荒左近を使者にて、「如何に大衆はあれ程の小勢には引せ給ふぞ。返させ給へ。後ろをば籠〔こめ〕ん」と申ければ、播磨竪者、「引議にては不候。帯〔をび〕くにて社〔こそ〕候へ」とて、返合て戦けり。山法師は徒歩〔かちだち〕の達者なり。其上、大太刀・長刀を持て重〔しげ〕く打ければ、武士は心こそ剛なれ共、小太刀にてあいしらひ戦程に、九人が中、六人は掻楯の際に被切伏。平内左衛門尉是を見て、今は如何にも叶まじと思ひて、其中に宗徒の者と見へける播磨竪者と組で臥〔ふす〕。平内左衛門、取てをさへて首を掻んとしける所に、竪者が下人の法師寄合て、長刀を持て、平内左衛門尉が押付を丁々と二打三打健〔した〕たかに被打て、傾く様にしける所を、山田次郎が郎従、荒左近落合て、平内左衛門が頚を取。【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f26372d6e5ae7138937d40180fcce3d
といった具合です。(p100以下)
後半は宇都宮頼業の活躍が目立ち、
-------
爰〔ここ〕に宇都宮四郎頼業〔よりなり〕、親の入道を待とて、大勢には三日後〔おくれ〕たりけるが、勢待付、少々の者をば打捨て上る程に、勢多の橋の戦、第二番の時に五十六騎にて馳著たり。橋上の軍をばせず、橋より上〔かみ〕、一町余引上て陣を取。向より敵〔かたき〕の射矢の繁き事、雨の足の如〔ごとし〕。【中略】宇都宮四郎、甲の鉢を被射て、不安〔やすからず〕思ひ起揚〔あがつ〕て見れば、「信濃国住人・福地十郎俊政」と矢誌しあり。十三束〔ぞく〕三伏〔ぶせ〕ぞ有ける。「宇都宮四郎頼成」と矢誌したる、是も十三束二伏有けるを以て、河端に立、能引〔よつぴい〕て丁と放つ。川を直違〔すぢか〕ひ様に、三町余を射渡て、山田次郎が川端に唐笠指〔ささ〕せて、軍の下知して居たりけるに、危〔あやふき〕程にぞ射懸たる。急ぎ笠を取せて(上の)壇に上る。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/949abc949b246591aef06020ab142ae8
ということで(p101以下)、重忠は宇都宮頼業の遠矢を恐れて指揮の拠点を変えたとあります。
この後、長大な宇治川合戦を経て、次に重忠が登場するのは藤原秀康・三浦胤義とともに四辻殿で後鳥羽院に敗戦の報告をする場面です。
即ち、
-------
去程に、京方の勢の中に、能登守秀安・平九郎判官胤義・山田次郎重忠、四辻殿へ参りて、某々帰参して候由、訇〔ののし〕り申ければ、「武士共は是より何方〔いづち〕へも落行」とて、門をも開かで不被入ければ、山田次郎、門を敲〔たたい〕て高声〔かうじやう〕に、「大臆病の君に語らはされて、憂に死せんずる事、口惜候」と訇ける。平九郎判官、「いざ同くは坂東勢に向ひ打死せん。但し宇治は大勢にて有なり。大将軍の目に懸らん事も不定〔ふじやう〕なり。淀へ向ひ死ん」とて馳行けるが、東寺に引籠る。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b53c80a818239c07d4e8e88f9eb868cd
とのことで(p122)、「大臆病の君に語らはされて、憂に死せんずる事、口惜候」と叫ぶ重忠が極めて印象的に描かれており、ここは流布本屈指の名場面ですね。
そして、
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又、安西・金鞠が進みしかば、能登守・山田次郎も落にけり。【中略】
山田次郎は嵯峨の奥なる山へ落行けるが、谷河の端にて、子息伊豆守・伊与房下居〔おりゐ〕て、水を吸飲て、疲れに臨みたる気にて休居たり。山田次郎、「哀れ世に有時、功徳善根を不為〔せざり〕ける事を」と云ければ、伊予房、「大乗経書写供養せらる。如法経行はせて御座す。是に過たる功徳は候はじ」と申せば、山田次郎、「され共」と云所に、天野左衛門が手者共、猛勢にて押寄たり。伊豆守、「暫く打払ひ候はん。御自害候へ」とて、太刀を抜て立揚り打払ふ。其間に山田次郎自害す。伊豆守、右の股を射させて、生取〔いけどり〕に成て被切にけり。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0b1c777b2beb73162b85b9f613f0cc
と重忠自害の場面も丁寧に描かれています。(p123以下)
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