学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

流布本も読んでみる。(その28)─「山田次郎重忠は、杭瀬河の軍破て後、都へ帰参して」

2023-05-11 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

それでは久しぶりに流布本に戻ります。
4月28日の投稿、

流布本も読んでみる。(その27)─「浜に幾等も有ける牛を捕へて、角先に続松を結付て」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a671e2277afb72d206e58e26cb41f0b

で上巻を終えたので、下巻の冒頭からとなります。(松林靖明校注『新訂承久記』、p98以下)

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 去程に山田次郎重忠は、杭瀬河の軍破て後〔のち〕、都へ帰参して、事の由を申けるは、「海道所々被打落、北陸道の勢も都近く責寄」と聞へしかば、一院、何と思召〔おぼしめし〕分たる御事共なく、六月九日酉刻に、一院、新院・冷泉宮引具し進〔まゐ〕らせて、日吉へ御幸なる。二位法印尊長は、巴の大将の被御供たりけるを、組落して打ばやと、頻に目を懸け被支度けるを、子息新中納言申様〔まうすやう〕、「尊長が大将に目を懸進らせ候ぞ。実氏死候て後こそ、如何にも成せ給候はめ」とて、中に押隔々々せられければ、知れたりと思ひて左右なくも不組。(角て君は)東坂本梶井御所へ入せ給。天台座主参らせ給て、終夜〔よもすがら〕御物語申させ給ひ、「君を守護し奉候はんずる大衆は、皆水尾崎・勢多へとて馳向候ぬ。是〔ここ〕は如何にも悪く候なん」と被申けれ共、「今日は猶も宇治・勢多被堅て被御覧よ」と、謀叛結構の公卿・殿上人・武士共、各進〔すす〕め申上る。然る間、一日御逗留有て、明る卯刻に都へ還御、四辻宮へ入せ給て後は、四方の門を被閉、兎角の儀も不被仰。
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流布本では瀕死の重傷を負った「高枝次郎」の手当てを依頼した北条泰時の義時宛て書状の中に「六月六日、杭瀬河の軍に、手数多負候」とあるので、「杭瀬河の軍」が六月六日の出来事であることは明確になっています。
しかし、「杭瀬河の軍」に敗北した山田重忠が帰洛して院参した日時は明示されておらず、「尾張阿合戦では各防禦拠点が全て破られ、北陸道軍も都近くまで来ています」との重忠の報告に対する後鳥羽院の反応も特に記されません。
そして、六月九日の酉刻(午後六時頃)、後鳥羽院は新院(順徳院)と冷泉宮を伴って叡山(日吉)に御幸となります。
「賀陽院」の「馬場殿」に監禁されていた「巴の大将」西園寺公経と子息・実氏は御幸に同行、というか連行されますが、二位法印尊長が公経を殺そうと試みるのを実氏が必死に守ります。
後鳥羽院は東坂本梶井御所に入って天台座主尊快法親王(後鳥羽皇子)と終夜話し合いますが、僧兵は水尾崎・勢多に行っており、日吉では守れないと言われます。
また、宇治・瀬田を早く固めなければ、という「謀叛結構の公卿・殿上人・武士共」の意見もあり、後鳥羽院は一日滞在しただけで、十日の卯刻(午前六時頃)に都に還御、四辻殿に入ります。

さて、『吾妻鏡』六月八日条には、

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寅刻。秀康。有長。乍被疵令帰洛。去六日。於摩免戸合戦。官軍敗北之由奏聞。諸人変顏色。凡御所中騒動。女房并上下北面医陰輩等。奔迷東西。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、尾張河合戦の敗北を後鳥羽院に報告したのは藤原秀康と五条有長であり、山田重忠の名前はありません。
慈光寺本では、

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 承久三年六月八日ノ暁、員矢〔かずや〕四郎左衛門久季・筑後太郎左衛門有仲、各〔おのおの〕身ニ疵蒙〔かうぶり〕ナガラ、院ニ参〔まゐり〕テ申ケルハ、坂東武者、数ヲシラズ責上〔せめのぼ〕ル間、六日、洲俣河原ニシテ纔〔わづか〕ニ戦フトイヘドモ、皆落ヌル由ヲ奏シ申〔まうす〕ゾ、憑〔たの〕モシゲナキ。院イトゞ騒セ給ヒテ、院ニ宮々モ引具シ奉テ、二位法印尊長ノ押小路河原ノ泉ニ入セ給フ。公卿・殿上人、若キ老タル、皆物具〔もののぐ〕シテ、御供ニ候。ゲニゲニ矢一〔ひとつ〕射ン事、知ガタシ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/abfe3f518960f8febf8b0841fc347508

とあり、また、『六代勝事記』には、

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同六月八日の暁。糟屋の左衛門尉久季。筑後左衛門尉有永。各疵をかうぶりてすのまたより帰参て。雲霞のいくさ。山野にみちて。官軍をびへおそれ。たゝかふにたへずして。六日やぶれはべるよし奏すれば。さはぎのゝしりて院々宮々を引ぐしまいらせて。尊長法印の押小路河原の家にて。公卿殿上人よろひをき旗をあげて。人なみ/\に。ものゝふのすがたをかれども。いかでか征戦のみちをしらん。中々いたはしくぞみえし
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とあり(『群書類従・第三輯 帝王部』、p416)、慈光寺本とよく似ていますね。
というか、慈光寺本作者が『六代勝事記』を真似したのでしょうね。
このように尾張川合戦の敗北を後鳥羽院に報告した者については諸史料に異同がありますが、藤原秀康の名前が出て来るのは『吾妻鏡』だけで、『吾妻鏡』の典拠が気になります。
ま、それはともかく、続きです。(p99以下)

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 月卿・雲客、「去にても打手を可被向〔むけらるべし〕」とて、宇治・勢多方々へ分ち被遣〔つかはさる〕。山田二郎重忠・山法師播磨竪者〔りつしや〕・小鷹助智性坊・丹後、是等を始として、二千余騎を相具して勢多へ向ふ。能登守秀安・平九郎判官胤義・少輔入道近広・佐々木弥太郎判官高重・中条下総守盛綱・安芸宗内左衛門尉・伊藤左衛門尉、是等を始として一万余騎、供御瀬〔くごのせ〕へ向ふ。佐々木前中納言有雅卿・甲斐宰相中将範茂・右衛門佐朝俊、武士には山城前司広綱・子息太郎右衛門尉・筑後六郎左衛門尉・(中条弥二郎左衛門尉)、熊野法師には、田部〔たなべの〕法印・十万法橋・万劫禅師、奈良法師には土護覚心・円音、是等を始として一万余騎、宇治橋へ相向ふ。長瀬判官代・足立源左衛門尉、五百余騎にて牧嶋〔まきのしま〕へ向ふ。一条宰相中将信能・二位法印尊長、一千余騎にて芋洗〔いもあらひ〕へ向ふ。坊門大納言忠信、一千余騎にて淀へ向ふ。河野四郎入道通信・子息太郎、五百余騎にて広瀬へとてぞ向ひける。
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検討は次の投稿で行います。

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