学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その50)─「洲俣河原ニシテ纔ニ戦フトイヘドモ、皆落ヌル」

2023-05-10 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私が慈光寺本作者と想定する藤原能茂(幼名「医王」)と渡辺翔(かける、幼名「愛王」)は、後鳥羽の寵童から西面の武士になった、という共通点があります。
そこで、私は渡辺翔が慈光寺本においてのみ頻出し、活躍するのは二人が「寵童仲間」として親しかったからではないかと推測するのですが、「寵童仲間」の相互の感情を想像するのはなかなか難しいですね。
ただ、殆どルネサンス的な「万能人」である後鳥羽院の圧倒的な魅力の下にいた者同士として、他者には理解できない一種の友愛感情を抱くことはあり得るのではないか、と一応考えておきます。
なお、「医王」能茂と「愛王」翔の経歴の共通性からすると、能茂が「廻文ニ入輩」で、翔が「諸国ニ被召輩」に分類されているのは些か不審です。

(その17)─「廻文」と「諸国ニ被召輩」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85115aad12fb5061d7af9f55e5f2fe7f

翔も後鳥羽院の側近として京都で活動した人ですから、地方豪族が多い「諸国ニ被召輩」ではなく、「廻文ニ入輩」に入ってもおかしくないと思われますが、なぜに「諸国ニ被召輩」なのか。
あるいはここに能茂の翔に対する微妙な差別意識が反映されているのではないか、などと考えると、ちょっと小説の世界に入り込みかけているかな、という感じもしてきます。
ただ、「廻文ニ入輩」と「諸国ニ被召輩」は一応の歴史的事実を反映しているものと私は考えますが、京都守護の大江親広(「少輔入道親広」)が佐々木党と並んで「諸国ニ被召輩」の近江国グループに入っているのは明らかにおかしく、必ずしも全てが信頼できる訳ではないことには留意すべきだと思います。
ま、それはともかく、続きです。(岩波新大系、p347以下)

-------
 承久三年六月八日ノ暁、員矢〔かずや〕四郎左衛門久季・筑後太郎左衛門有仲、各〔おのおの〕身ニ疵蒙〔かうぶり〕ナガラ、院ニ参〔まゐり〕テ申ケルハ、坂東武者、数ヲシラズ責上〔せめのぼ〕ル間、六日、洲俣河原ニシテ纔〔わづか〕ニ戦フトイヘドモ、皆落ヌル由ヲ奏シ申〔まうす〕ゾ、憑〔たの〕モシゲナキ。院イトゞ騒セ給ヒテ、院ニ宮々モ引具シ奉テ、二位法印尊長ノ押小路河原ノ泉ニ入セ給フ。公卿・殿上人、若キ老タル、皆物具〔もののぐ〕シテ、御供ニ候。ゲニゲニ矢一〔ひとつ〕射ン事、知ガタシ。
-------

承久三年六月八日の暁、糟屋久季と「筑後太郎左衛門有仲」が、負傷した姿で後鳥羽院に、坂東武者は数えきれないほどの人数で攻め上って来て、六日に墨俣で若干の戦闘があったが、京方は皆、敗退した旨を報告した。
後鳥羽院は驚愕し、中院・新院や六条宮・冷泉宮を連れて二位法印尊長の押小路河原邸に入った。
公卿・殿上人は老いも若きも、皆、鎧を付けてお供したが、これらの人々は、果たして矢一つ射ることができるのだろうか。

ということで、ここで「承久三年六月八日ノ暁」とありますが、下巻に入って以降、日時が明確に出てくるのは実にここが初めてです。
慈光寺本には「押松」が鎌倉を出発し、京都に着いた日すら記載されておらず、ただ「鎌倉ヲ出テ五日ト云シ酉ノ時ニハ都ニ上リ、高陽院殿ノ大庭ニゾ著ニケレ」で上巻が終わって、押松の報告で下巻が始まります。

(その31)─「此世中ハ闘諍堅固ノ世ト成テ、逆ニナル事、程モナシ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/233d606a92d0f07c661e4806fddd6b6e

そして、下巻が始まって、既に岩波新大系本で15頁目にもなっているのですが、ここでやっと具体的な日時が出てきます。
これは慈光寺本作者に事実を正確に記録しようとの意志が乏しいことの一つの証左ですね。
さて、流布本では下巻の冒頭に、山田重忠が尾張河合戦で京方が大敗北を喫したことを後鳥羽院に報告しています。(『新訂承久記』、p98)
また、『吾妻鏡』六月八日条には、

-------
寅刻。秀康。有長。乍被疵令帰洛。去六日。於摩免戸合戦。官軍敗北之由奏聞。諸人変顔色。凡御所中騒動。女房并上下北面医陰輩等。奔迷東西。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、後鳥羽に報告したのは藤原秀康と五条有長とされています。
なお、岩波新大系の「承久記 人物一覧」には、

-------
有仲<ありなか>  正しくは有長。糟屋。生年未詳-承久三年(一二二一)。藤原北家良方流。糟屋系図には有季の三男として乙石左衛門有長の名が見え「承久京方討る」と記されている。吾妻鏡・承久三年六月八日の条には、秀康と有長が負傷しながら帰洛して戦況を報告した記事があり、続けて乙石左衛門尉が討ち取られたと記されている。慈光寺本に、京方の敗将の一人として登場する。
-------

とあり、諸史料で情報が錯綜していますが、この点は後で整理する予定です。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もしも三浦光村が慈光寺本を... | トップ | もしも三浦光村が慈光寺本を... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事