風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

司馬遼太郎 『峠』

2007-09-13 01:20:18 | 


人間万事、いざ行動しようとすれば、この種の矛盾がむらたるように前後左右にとりかこんでくる。大は天下の事から、小は嫁姑の事にいたるまですべてこの矛盾にみちている。その矛盾に、即決対処できるには自分自身の原則をつくりださねばならない。その原則さえあれば、原則に照らして矛盾の解決ができる。原則をさがすことこそ、おれの学問の道だ、と継之助はいう。

・・・・・・

「世は、絵でいえば一幅の画布である。そこに筆をあげて絵をかく。なにを描くか、志をもってかく。それが志だ」

・・・・・・・

旅は常に自分に冷やかな寝床を提供してくれるであろう。外界との対決が――対決とは大げさだが――それが淋しさのかたちをとるにせよ、憤りのかたちをとるにせよ、新鮮な驚きのかたちをとるにせよ、継之助の心を瞬時も休めないであろう。旅にあってこそ心が躁(さわ)ぎたて、弾みにみちあふれるようにおもえる。その状態に心をおかねば、この胸中の問題は解決すまい。

・・・・・・・

「寅や・・・・・・このいくさがおわれば、さっさと商人になりやい。長岡のような狭い所に住まず、汽船に乗って世界中をまわりゃい。武士はもう、おれが死ねば最後よ」

(司馬遼太郎 『』)


「河合継之助のような人間を持ったことははたして藩にとって幸か不幸か・・・」
作中、登場人物達により幾度も繰り返される問いである。
継之助はその卓越した頭脳と行動力により日本随一の砲兵団を作り上げ、それにより長岡藩という小藩をして一個の独立国にすることを夢見た。
しかし結果として、継之助ひきいる長岡藩は維新史上最も激烈な戦いとなる北越戦争へと突入してゆくことになる。

司馬さんは短編『英雄児』において、継之助の英雄ぶりとともに、このような英雄を持った小藩の不幸を描いた。
そして3年後、同じ河合継之助を主人公にし、全く別の視点、「武士」というものに焦点をあてた長編を発表した。
それがこの『峠』である。
継之助は福沢諭吉に劣らぬ開明論者で封建制の崩壊を誰よりも見通していながら、諭吉とはまったく違う道を選ぶ(この2人の掛け合いは私の最も好きなシーンである)。
自分自身の原理原則、“志”に従った結果である。
継之助の志とは、「長岡藩士として藩をいかによくしてゆくか」ということであった。
人は立場の中で生きているという信条をもつ継之助にとって、彼の仕えるべき場所は長岡藩以外にあり得ないのである。
新時代の申し子のような諭吉と異なり、継之助は心の底からの「武士」だったのだ。
やがて時代の急流は瞬く間に国中をのみ込み、時勢は圧倒的に薩長につく。
長岡藩に対しひたすらな屈従を強い、一方的に軍資金の献上を命じる新政府軍に対し、継之助は中立の立場を貫くべく奔走するが、交渉は決裂。
悲しいまでに「武士」であった継之助に残された道は、ひとつしかなかった。
それは、自らの人生をかけて築き上げた長岡藩を自ら砕くこと。
彼は、たとえ全藩戦死し長岡の地が焦土と化そうとも、最後まで戦い抜くことを決意する。
薩長と長岡藩のいずれが正しいか、その判断は百年後の人々に委ねて――。
司馬さんはあとがきで次のように言っている。
「幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える」

遠い昔この国に武士という人種が生まれ、時代の中でその精神美は究極なまでに磨かれた。
負ける戦と知りながら長岡を焦土にし多くの犠牲者を出した継之助の行いを考えると、それが「多少奇形」であったことは否定できない。
しかしそれでもなお、後にも先にも二度と現れないであろうこの奇跡のような精神美をもった人々が時代の流れの中で消えてゆく様は、仕方がないとはいえ、やはり悲しい。
しかし悲しみだけではない。
一方で継之助の生き様は、今も私達に強烈な問いを投げかける。

あなたは志ある人生を生きているか、と。

時勢のままに流されて生きるのはとても楽である。
傷つくこともなく、また傷つけることもない。
だが――。

この究極的な武士の美を描いた『峠』に、私は司馬作品の典型を感じる。
司馬さんが描くもの、それは人生の美である。
ただ生き伸びるだけの人生ではなく、“志”ある人生が放つ美である。
継之助が極端なほどに貫いたものである。
 
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