特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

比常識

2010-03-19 15:50:46 | Weblog
「ゴミを溜めちゃいまして・・・」
男性の声で、そんな電話が入った。
依頼の内容は、“そのゴミの片付けてほしい”というもの。
私は、この種の依頼でいつも訊ねることを、機械のように質問した。

「そちらで、やれます?」
電話の声は若い感じで、臆した様子はなし。
話しぶりも、ハキハキと軽快。
このような案件では、気マズそうにする人が少なくないのだが、この男性は、まるで他人事のように明るかった。

「親に、怒られちゃいまして・・・」
両親は、男性の常識のなさを嘆いて、酷く叱ったよう。
一方の男性は、一言も反論できないまま降伏。
渋々ながら、片付けざるを得なくなったのだった。

「うちが普通だとは思ってませんけど、誰にも迷惑かけてないはずです・・・」
近隣住民からの苦情がないか訊ねると、男性はそう返事。
誰にも迷惑をかけていないのに、“非常識!”と非難される・・・
落ちた声のトーンに、男性の気落ちがうかがえた。

現場は、男性の自宅。自己所有の一戸建。
実家近くに空いた親戚の家を、安く買い取ったものだった。
ゴミは、数年暮す間に溜まったもの。
食品ゴミ・飲料容器をはじめ、新聞雑誌・衣類まで、生活で使用するありとあらゆるモノが堆積しているようだった。

事前情報として一通りの話を聞いた私だったが、電話での聴聞だけでは見積はできない。
具体的な作業内容や費用を決めるには現地を直接調査することが必要である旨を伝え、その約束を交わしてから電話を終えた。


出向いたところは、街を離れた郊外。
区画整理された区域ではなく、田園風景の中、それぞれの家はポツリポツリと不規則に点在しているような地域。
その中の一軒に、男性の家はあった。

外観は、普通の一軒家。
築年数に相応した汚れや古びた感じはあれど、特段の汚損はなし。
ただ、昼間なのに全ての雨戸が閉められ、どことなく異様な雰囲気を醸し出していた。

私は、番地標識と掲げてある表札によって、そこが男性宅であることを念入りに確認。
それから、玄関脇のインターフォンを押した。
すると、男性は、間髪入れず玄関を開けてくれた。

「こんにちは・・・」
まずは、男性に挨拶。
男性も、愛想よく挨拶を返してくれた。
ただ、私と視線を合わせようとはせず、そこのところに、男性が抱える陰が見えたような気がした。

「早速ですが、中を見せていただけますか?」
挨拶を済ませた私は、男性の足元を確認。
靴を脱いで上がるべきか、履いたまま上がるべきか、判断する材料を拾った。

「失礼しま~す」
私は、男性が裸足であることを確認。
ともなって、ちょっとした抵抗感を覚えながらも靴を脱ぎ、中に上がり込んだ。

「なるほどぉ・・・」
中は、玄関からゴミだらけ。
床は一部たりとも見えておらず、ゴミ野は家の中に向かって広がっていた。

「なるほどぉ・・・」
“なるほど・・・”は、私の口癖。
黙ったままだと失礼だし、かと言って、コメントするにも困ってしまうような現場で重宝するつなぎ言葉なのだ。
私は、その言葉を何度も使いながら、歩を進めた。

「でも、それほどでもありませんね・・・」
ゴミは、そんなに高くは積もっておらず。
現場によっては、身を屈めないと中に入れないくらいにゴミが溜まっている部屋もあるので、私は、そう言って男性をフォローした。


もともと、男性は、実家で両親と同居。
子供の頃から20代まで、そうして生活していた。
しかし、30代になると、心境が変化。
将来設計を考えるようになり、実家からの独立願望が芽生えてきた。
そんな中で、実家近くにある親戚の家が空家に。
“絶好のタイミング”と、その家を買い取り、念願の一人暮らしを始めたのだった。

しかし、描いていた一人暮らしと現実の一人暮らしは違っていた。
掃除・洗濯・食事の用意・片付け・日用品の買い物etc・・・生活する上での雑用はすべて自分一人でやらなければならず・・・
最初のうちは頑張ってやっていたが、そのうち、面倒になり・・・
結果、掃除・洗濯・片付けの類を一切やらないことが、男性の生活スタイルになってしまった。

弁当容器・空缶・ペットボトル等は、用が済んだら部屋に放置。
そうして、食事のたびに、ゴミは増えていき・・・
衣類も繰り返し着て後、汚れて着られなくなったら部屋に放置。
そうして、新しい衣類を買ってくるたびに、古いものはゴミとなり・・・
新聞・雑誌も、読み終わるとそのまま部屋に放置。
そうして、新聞紙は、ゴミとして、毎日確実に増えていき・・・
結果、“悠々自適”なものと思っていた一人暮らしは、“憂々自敵”の状態に。
床は次第に姿を消し、ゴミは厚さを増していったのであった。

現地調査から数日後、家の中はきれいに片付いた。
ゴミらしきゴミは全て撤去搬出され、所々にわずかな汚染痕が残るだけとなった。
しかし、男性はどことなく浮かない感じ。
ゴミが片付いてスッキリした反面、触られたくなかった内面まで否定され、ゴミと一緒に片付けられてしまったように感じたのかもしれなかった。


男性の生活ぶりは、“非常識”なものだったかもしれない。
多分、多くの人はそう感じるだろう。
この私も、無意識のうちに男性のことをそう見ていたように思う。
しかし、男性は、ゴミを溜めたことによって誰かを不幸にしたわけではなかった。
借家でもなく、異臭を漏らし、また、外にまでゴミを放置して地域の景観を損ねているわけでもなかった。
なのに、男性のような人は、“非常識”のレッテルを貼られてしまう。
世間一般が常識とするところから外れているだけ、もしくは、世間一般の価値観に合わないだけで。

人々を縛る“常識”とは、一体、何だろう・・・

長年の習慣が、常識になることがある。
人の良識が、常識になることがある。
多くの意見が、常識になることがある。

昔の常識が、今では非常識であることがある。
ある地域の常識が、違う地域では非常識であることがある。
ある人にとっての常識が、別の人には非常識であることがある。

物事を判断するうえで、常識は必要。
人を律するうえで、常識は必要。
社会をまとめるうえで、常識は必要。

しかし、常識を構成する人間は、小さい・・・
そして、常識は、社会的・歴史的な権威があっても、悠久の時のうえでは一時的・・・
極めて脆いものなのである。


今でこそ、少しは世に認知されるようになってきた私の仕事。
私が就業した十数年前は、業者数も少なかった。
特に、特殊清掃業者においては、つい2~3年前までは数えるほどしかなく、それに従事する人間も極めて少なかった。
だから、私の仕事は、世に珍しい職業とされていた(まだ、されている?)。
そのため、他人から奇異に思われたり、更には、他人に嫌悪感を抱かれたりすることが少なくなかった(ない)。
何人かの会食の席で、「その手(死体を触った手)で、自分が食べる物を触ってほしくない」とまで言われたこともある。冗談じゃなく、ホントに。
そんな具合に、非常識な人間のように扱われたこともあり、気落ちすることもあった(ある)。
しかし、いわれなく人に“非常識”のレッテルを貼り、蔑視し嫌悪感を抱くのは、他人ばかりではない
本件の男性に対して抱いた感情を思い出してみると、自分も同様であることに気づかされる。

人間(私)という生き物は、自分を標準とした常識をもって他人を測る傾向を持つ。
それなのに、自分が他人から同様のことをされると、著しい抵抗感を覚える。
・・・そんな自己矛盾を内包しているのである。
それでも、私は、自分のことを、人格や教養に欠けるところはあっても、常識には欠けていない“常識人”だと思ってしまっている。
それが、愚を通り越して滑稽なのか、滑稽を通り越して愚なのか分からないけど、何やら良からぬことであることには間違いがなさそうだ。


何はともあれ、こんな能書きをたれてても何も変わらない。
まずは、自分の常識を疑うこと・・・自分を常識ある人間だと思わないこと。
それが、真の常識人になるための第一歩なのだろうと思う。






公開コメントはこちら


特殊清掃プロセンター
遺品処理・回収・処理・整理、遺体処置等通常の清掃業者では対応出来ない
特殊な清掃業務をメインに活動しております。

◇お問い合わせ先◇
0120-74-4949(24時間応対いたします)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 春近し | トップ | 夢中旅行 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事