特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

酔話

2012-01-30 10:25:04 | 特殊清掃
「ありがたいなぁ・・・」
酒を飲みながら、しみじみ思う。
一庶民の質素な晩酌だけど、それは、多くの幸いがあって成り立っているものであることを。

身の回りが平和であること、
買うためのお金があること、
稼ぐための仕事があること、
働くため・飲むための身体と健康があること、
酒をつくってくれる人がいること、
それを運んでくれる人・売ってくれる人がいること等々・・・
・・・感謝の念を持たずにはいられない。


私の休肝日は、心身の調子がヒドく悪いとき、帰宅がかなり遅くなったときくらい。
日々に生活において晩酌をほとんど欠かさない。
仕事も肝臓も、休みは少ないのである。

定番はビール。
値段が安いから“発泡酒”や“新ジャンル”にしていた時期もあったけど、やはり、口が納得せず。
「ビールとは別種の酒」と思って飲めばいいのかもしれないけど、下手に味が似ているものだから割り切れない。
結局、今は、ビールに戻している。
好みは、麦芽100%。
これは、学生の頃、味もロクにわからないクセに大人のウケウリで飲み始めたもの。
少しは味がわかるようになって、“ウケウリ”は“好み”に変わり現在に至っている。

この冬は、何年ぶりかに“にごり酒”が復活している。
やはり、うまい!
昨秋、口に合う味を求めて、わりと高いものから安いものまで何種類か買ってみた。
中には、大量の米粒が原型に近い状態で入っており、「飲む」というより「食べる」といった感のものもあり(限定品で値段は高め)、勉強になった。
やはり、糖類・酸味料が添加されているものはダメ。
あと、できることなら、醸造用アルコールも入っていないほうがいい。
そんなこんなで、結局のところ、以前に飲んでいたモノに落ち着いている。

逆に、飲まなくなったものもある。
缶チューハイをやめた。
味は飲みやすくビールに比べると値段も安いので、長年の友としてきたけど、知人から「糖分が高いから太る」「人工合成物がたくさん入ってるから身体に悪い」と言われたのだ。
しかも、これを複数の人から言われたものだから、飲む気が失せてしまったのだ。
しかし、健康にいいのは、酒をやめること。
飲むモノの毒を考えて飲むことの毒を考えないなんて“愚の骨頂”かもしれない。

日本酒は、福島県の酒を飲んでいる。
被災地支援のつもりは少しもなく、ただ、「口に合う」「値段も手ごろ」という理由のみ。
特徴のある味(濃厚甘口)で、口に合わない人にはとことん不味く感じるかもしれない。
言うまでもなく“高い酒=いい酒”“有名酒=銘酒”とはかぎらない。
そして、私には“山田錦信仰”や“吟醸信仰”はない。
無名だろうがファンが少なかろうが、口に合えばそれは「いい酒」。
ま、これは誰にとってもそうだろう。

ワインは飲まない。
今まで、いいワインを飲んだことがないせい、また、飲み方を知らないせいかもしれないけど、「美味しい」と思ったことが一度もない。
あと、一緒に飲んだ相手が悪かったせいもあるだろう。
“ワイン好き”は、やたらとソムリエを気取る。
話す方は気分よさそうにウンチクをたれるけど、聞かされる方はつまらなくて仕方がない。
(そういう私も、ここでウンチクをたれてるんだけどね。)

焼酎は、ごくたまに飲む程度。
味や香りが好みに合わないものが少なくなく、また、芋・麦・米など種類が多くて良し悪しがわかりにくい。
だから、いただき物を飲むくらいで、自分ではまず買わない。
もちろん、美味い焼酎は世の中にたくさんあると思う。
そして、今までに何度か「美味い!」と思う焼酎に出会ったこともある。
そのひとつは、ウイスキーに似た風味だった。
ただ、やはり、本物のウイスキーには劣っていた。

大のウイスキー嫌いだった私が、急にウイスキー好きになった経緯は、しばらく前に書いたことがあると思う。
そう、今もウイスキーは好んで飲んでいる。
好きなのは、スコッチと国産。
ウイスキーは、舌にまとわせたときの甘味が格別。
何より、香りが抜群。
酒が飲めない人でも、この香りが好きな人はいるんじゃないだろうか。

昨年末、いいウィスキーを何本ももらった。
自分では手が出せないようなブレンド品や17年モノ・18年モノ・25年モノなど。
ケチな性分だから、中でも一番安そうなものから手をつけている。
ただ、私はロックで飲むタチなので、寒い今はかなりスローペース。
肌寒い部屋で飲むには、ちょっと冷たい。
季節が暖かくなったらペースも上がるだろう(上げる必要ないけど)。

つかう器にも自分なりの“決まり”がある。
(「こだわり」というにはあまりにお粗末すぎるので「決まり」としておく。)
ビールは缶のまま、日本酒は白地の湯呑(by¥100ショップ)、にごり酒は黒地の湯呑(by¥100ショップ)、ウイスキーはイタリア製のロックグラス(by酒屋の景品)。
やっぱ、普通のコップやカップじゃ味気ないからね。
ケチ男としては、全部が頂き物と安物であることに満足しているわけである。


私と酒の関係は、子供の頃にまでさかのぼる。
その頃、母親は、冬になると甘酒をつくってくれた。
これが実にうまかった。
つくり方は簡単で、そのうち、自分でつくって飲むように。
自分でつくるからには、好きなようにつくらない手はない。
私は、酒粕を多めに入れた濃い甘酒をつくった。
しかし、しばらく飲んでいると、その味にも慣れてきてモノ足りなくなってきた。
そこで登場したのが、父親の日本酒。
これを甘酒にブレンドすると、その味は格段に向上。
感動モノの味に仕上がった。
それ以降、私の甘酒には、隠れていない隠し味として日本酒が入るように。
そして、加える日本酒が次第に増えていったことは言うまでもない。

また、当時、自宅には自家製の梅酒があった。
もちろん、子供がこれを飲むことを親は許さなかった。
ただ、中にある梅を食べることはスンナリ許してくれた。
食べてみると、これまた実に美味。
梅酒の味を知ってしまった私は、梅を食べることを口実に酒も一緒にすくい取って飲むようになったのだった。


私が幼少の頃に亡くなった父方の祖父も、酒好きだった。
ご飯に日本酒をかけ、お茶漬けのようにして食べていたというくらい。
結局、最期は肝臓の病で逝ってしまった。
その息子(私の父親)も無類の酒好き。
ケンカ、車の事故、“小指”の問題など、今なら“お縄”になってもおかしくないような武勇伝はいくつもある。
ただ、思うところがあるみたいで、老年になった今はほとんど酒をやめている。
そのまた息子(私)も酒好き。
遺伝のせいにしてはいけないか、遺伝なのかもしれない。
ホドホドにしておきたいと思いつつ、ホドホドにできないまま現在に至っている。

ちょうど30歳の頃だったか、肝ガンか肝硬変が疑われたことがあった。
健康診断ででた数値が、かなりの異常値だったのだ。
「沈黙の臓器」といわれるだけあって、自覚症状は皆無。
私は、医師の脅しに冷や汗をかきながら精密検査を受診。
検査結果がでるまでの約一週間、ブルー気分で過ごしたのを憶えている。
幸い、原因は肝ガンでも肝硬変でもなかった。
ただ、私の肝臓は相当に弱っており、しばらくの禁酒を余儀なくされたのだった。

当時、その出来事はいい薬になった。
キッパリ酒をやめ、ついでに減量にも励んだ。
だが、咽元すぎればなんとやら。
それを機に少しは肝臓のことを気にかけるようになったものの、近年はかなりルーズに。
効いているのかいないのかわからないサプリメントを傍らに、節制なく飲んでいる。
毎月の酒代を服や持ち物につかったら、もうちょっとマシな格好になるだろうに、それがそういかない。
ま、人に迷惑をかけているわけじゃないからヨシとしている。


いい意味でも、悪い意味でも、酔いにはコミュニケーション能力を高める働きがある。
酔いは、人の本性を剥き出しにし、感情を曝け出させ、本音を吐き出させる。
泣いたり笑ったり、熱く語ったり、時にはケンカしたり・・・酒の席では、こんな光景をよく見かける。
酒の交わりを機に親しみが増したり、逆に、本性がバレて疎遠になったりすることもある。
“飲みニケーション”が好きな人の中には、「酒を飲まない人間は信用しない」とまで言う人もいる。
諸手を挙げては賛成できないけど、その趣旨には賛同できるものがある。
人と会話することが不得意な私も、以前は、よく酒の力を借りたもの。
そこで、足がよろめくほどに飲み、熱く語り、笑い、ときに泣いたものだ。

そんな私だったが、いつの頃からか飲み会が嫌いになっている。
人の顔色をうかがいながら、場の雰囲気を読みながら酒を飲むなんて、面倒臭くてたまらない。
幸い、仕事上で必要な酒の付き合いはほとんどない。
酒は、人のために飲むものではなく自分のために飲むもの、明日のために飲むものではなく今日のために飲むもの。
好きな肴と好きな酒を用意して、自宅でゆっくり手酌酒・・・これが一番いい。



特殊清掃は、基本的に一人でやる作業。
現場には自分のほかには誰もいない。
感情を移入する先はない。

人目を気にする必要はない。
恥じも外聞も関係ない。
弱音を吐き、愚痴をこぼし、ときに泣く。

目眩がするくらい凄惨な光景に遭遇することがある。
強い遺志に圧され、足がよろめくことがある。
剥き出しの自分がその身を支える。

残っているのは“死の痕”ではない。
残っているのは“生の痕”。
そこに問う・・・生と死と人生と、その意味と理由と目的を。

すぐにくる返事もある。
しばらく後にくる返事もある。
いつまでたっても返事がこないこともある。

死体業は嫌いだ。
人から奇異に思われ、人から気持ち悪がられる。
何かに酔わなければやりきれない。

業に酔い、感傷に酔い、自分に酔う。
酔わずにはやれないこと、酔わずには言えないこと、酔わずには考えられないことがあるから。
しかし、酔えば、目を覆いたくなるような自分の愚かさが見え、耳を塞ぎたくなるような自分の嘆きが聞こえてくる。

この仕事に携わるようになって20年目。
もうじき“大人”、酔っていい歳、酔い方がわかっていい歳。
自分は、何がわかったのか、何を知ったのか、少しは強くなったか、少しは賢くなったか・・・

今宵も、私は、心の想いを頭でさばき、それを肴に妙味の酒を飲むのである。



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素直になれなくて

2012-01-23 09:21:43 | Weblog
「素直じゃない!」
子供の頃、親によくそう言われた。
「屁理屈を言うな!」
これもまたよく言われた。
私は、親のいうことをすぐにきかない、何かにつけ口ごたえの多い(可愛げのない)子供だったのだ。

ただ、そんな風に言われても、当の私はピンとこず。
親の言う「素直」の意味がいまいちわからなかったのだ。
そんな中で得た結論は“従順=素直”。
つまり、“親に従順=素直”だと解釈した・・・というか、そう解釈しないと自分の中で整理がつかなかった。
しかし、人間の性分なんてそう簡単に変わるものではない。
とりあえず、“素直”の意味を呑み込みはしたけど、実際に親に従順になることはなかった。
結局のところ、“親に従順=素直”という解釈がうまく消化できずにいたのである。

今は、「人に従順=素直」という認識はない。
“素直”とは“自分に従順・正直であること”と理解している。
では、“自分に従順・正直”とはどういうことか・・・
ちょっと考えてみた。

「自分に正直」「自分らしく生きる」というと、何とも聞こえがいい。
素晴らしい考え方・生き方のように感じさせる響きがある。
しかし、そんな表には裏がある。
解釈によっては、ワガママ・自己中心的思考・利己主義などを肯定し助長してしまう。
自律や自制を否定することにもなりかねない。
だから、単に「自分に従順」「自分に正直」なだけでは不充分なのである。

自問自答してみる・・・
Q:自分っていい人間だと思う?
A:いい面もあると思うけど、いい人間だとは思わない。
Q:自分のこと好き?
A:好きなところもあるけど、嫌いなところの方が多い。
Q:自分のことが信じられる?
A:信じたいけど信じきれない。
・・・“自分”なんて、所詮、こんなもの。
「はたして、こんなダメな自分に従順・正直であることが“素晴らしいこと”と言えるだろうか・・・」
と疑問に思うのである。

しかし、悲観してばかりでは能がない。
楽観できる要素もある。
どんなに人間にも生まれもっての悪性があるのと同じように、生まれもっての善性がある。
それを具現化した“良心”というものを持つ。
人は、それら善性や良心に正直に従うこともできると思う。
そして、それが、あるべき“本来の人の素直さ”なのではないかと思う。
そんな考えを持つに至った現在、私は、かつての「親に従順=素直」を「良心に従順=素直」に変化させて消化吸収している。

ただ、残念ながら、“頭の理解”と“心の会得”は別物。
上記のような“本来の素直さ”を実際に持つのは簡単なことではない。
私の場合、そのために必要な自律心・自制心と、忍耐力・自己管理能力がまったく足りていない。
だから、私は、未だ素直な生き方ができないでいる。
素直な人間になれないまま生きている。
その結果として、人生を正しく歩めないでいる。
にもかかわらず、こんなブログを連々と綴っている・・・
その昔、世を騒がせた“口裂女”をパクって「口先男」とでも名乗ったほうがいいくらいかもしれない。



ある平日の昼下がり、私は、とあるマンションに出向いた。
依頼の内容は、部屋にたまったゴミの始末。
依頼者は、このマンションの一部屋に住む男性とその姉である女性。
約束の時刻を少し前に到着すると、それを見計らっていたかのようの依頼者の二人も姿を現した。

「やっちゃいまして・・・」
男性は、そう言い、恥ずかしさをごまかすかのように笑顔を浮かべた。
「驚かれると思いますよ」
女性は、そう言い、憤りを通り越したような呆れ顔を浮かべた。


男性は40代、独身。
いい大学をでて大手企業に勤務。
勤勉で給料も悪くなく20代でこのマンションを購入。
身体も健康、仕事も順調。
「結婚への縁がないことを除いて問題らしい問題はない」と、女性ら家族はそう思っていた。

中がゴミ部屋になっていることは近隣住民や管理会社にもバレバレ。
溜めはじめてからの数年はごまかすことができたものの、増える一方のゴミをいつまでも隠し通せるわけはなく・・・
男性が玄関を出入りするときの様は明らかにおかしく、他の住人が何度かそれを目撃。
不審に思った住人は、管理組合にそのことを相談。
協議の中、管理組合には複数の証言が集まり、男性は注意勧告を受けるハメになった。

しかし、再三にわたる勧告にも、男性は聞く耳を持たず。
「部屋は自己所有だし、まわりに迷惑はかけていない」と、いつまでたっても片付ける気配をみせず。
ただ、いくら自分の部屋とはいえ、中で何をやってもいいというわけではない。
住人各自は管理規約を遵守しなければならない。
業を煮やした管理組合は実家に連絡し、男性が起こしている事態を知らせたのだった。

当初、家族は管理組合の言うことが信じられず。
「細かなことにうるさいマンションだな」と、不快に思ったくらいだった。
しかし、長年の間、男性の部屋に家族が立ち入っていないことも事実。
また、本人に訊いても生返事で真っ向から否定はしなかった。
そこで、老いた両親の代わりに姉である女性が部屋を確認することに。
半信半疑で、はるばる遠方から足を運んできたのだった。


玄関ドアを開けると、いきなり断崖絶壁。
長年に渡って蓄積されたゴミは、厚い層をもって高い壁を形成。
天井にまで達する勢いで、私に行く手に立ちはだかった。
もはや、そこは「入る」というより「登る」といった動きが要求される状況。
それを見た私の中には、不思議に思う気持ちと驚きを通り越した“感心”に近い感情が湧いてきた。

私は、玄関前でしばし呆然。
しかし、感心ばかりしていても仕方がない。
そうはいっても、次に起こすべきアクションが思い浮かばず。
キョロキョロと視線を泳がせて困惑していると、「いつもはこうやってるんです」と、男性はお手本を見せてくれた。
さすがに男性は慣れたもの、ゴミひとつ崩さず器用に中に入り、そして出てきた。
私は、その様を真似てチャレンジ。
しかし、悲しいかな、この部屋に対しては素人。
積み上がったゴミをドアの外に崩しながら、チャレンジしては断念、断念してはチャレンジを繰り返し、なんとか室内にもぐり込んだ。

断崖の次は洞窟。
前後左右、全部ゴミ。
天井は、頭スレスレの位置。
空間が狭すぎて、二足歩行は不可能。
私は、四足歩行で前進しながら限られたスペースを観察。
部屋の奥は、ちょっと油断をすると、一体、自分がどこにいて何をしているのかさえ忘れてしまうようなインパクトのある光景。
私は、妙な好奇心を抱き、冒険心を妙にくすぐられたのだった。

部屋の調査を終えた私は、玄関の外に帰還。
それから、わかりきった部屋の状況を二人に報告し、対処方法を説明。
自分の家のことにも関わらず、男性には選択肢が与えられず。
女性は全権を掌握し、男性が何か口答えしようとすると、「アンタは黙ってお金だけ払えばいいの!」と一蹴。
それでも、「必要なものがたくさんある」と男性はしぶとく抵抗。
しかし、社会通念と管理組合を前に男性は丸腰にされ、女性主導でゴミ撤去の手はずは整えられた。

「この人、ホント、人のいうことをきかないんです」
「昔から素直じゃないんですよね」
女性は、溜息まじりに愚痴をこぼした。
心当たりがあるのだろう、一方の男性は、気マズそうに沈黙。
私の目には、消沈した男性の姿がなんども気の毒に映った。
そして、そんな男性でも何とか助けようとする家族の絆にあたたかいものを感じた。

女性が男性に吹かせた姉貴風には懐かしいニオイがあった。
そして、女性が口にした「素直じゃない」という言葉に、私は、その昔、両親が私に対して言ったときと同じ意味を感じた。
両親は、私が親に従順であることを求めていたのではなく、私の幸を願い、私が正しく生きることを望んでいたのだと思う。
それで、未成熟で分別のない私の良心を推し述べていたのではないかと思う。


「もっと親の言うことをきいていればよかった・・・」
社会に出て、何度そんなことを思っただろう・・・
考えても仕方のないことなのに、今でも思うことがある。
学業や職業をはじめ、後悔していることはたくさんある。
しかし、もう手遅れ、過ぎた時間は返らず・・・ダメな自分に服従して生きてきた結果がこれ(今)なのである。

それでも・・・
「素直になるチャンスは死ぬまである」
そんな風に思って、ちょっとした希望も持っている。

命の幸を思い出すため・・・
生きることの楽しさを感じるため・・・
自分が自分であることの喜びを知るため・・・
今を快く受け入れるため・・・
「もっと、もっと生きたい」と素直に思える自分を現すために。




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生きてるよ

2012-01-09 15:46:27 | Weblog
遅ればせながら、2012謹賀新年。
前回の更新は昨年10月10日だったから、三ヶ月ぶりの更新になるのか・・・過ぎてしまえば時間が経つのははやいもの。
ありがたいことに、この身を心配してくれる人もいるようだが、大丈夫、なんとかこうして生きている。

この三ヶ月、相変わらずの毎日を過ごしていた。
例によっての多忙少休、世間の非日常に私の日常を重ねていた。
一般の人にとって珍しいことはたくさんあったけど、私にとって特段に変わったことはなかった。

変わったことといえば、年末年始の暴飲暴食が祟って腹回りが太くなったことくらい。
クリスマスから正月にかけ、おいしい料理を食べ、うまい酒を飲んだせい。
一年間、汚仕事に這いずり回った自分への褒美のつもりで、つい調子に乗りすぎた。

ただ、クリスマスを祝い、めでたい正月を迎えられなかった人のことも頭の隅にある。
思い浮かぶのは、大地震の被災者。
ありきたりのことしか書けないのでコメントは差し控えるけど、あらためて、人の生と死を考えさせられている。

私(人)はいつ死ぬかわからない、いつ死んでもおかしくない。
その中で、限られた時間を生きている。
常に選択に迫られ、大小の岐路に立たされ、今、何を優先すべきか、深い思慮を求められながら深い思慮ができずに生きている。



訪れた現場は老朽アパートの一室。
待ち合わせた依頼者は、30代の女性。
どことなく気恥ずかしそうな、気マズそうな物腰だった。

部屋の主は、一人暮らしをしていた女性の父親。
その父親は、過日、入院先の病院で逝去。
部屋には、遺品となった家財が残された。

そんな中、女性は知人のツテで遺品整理の業者を手配。
相応の費用をかけて家財を処分し、部屋を空にした。
しかし、部屋を引き払うために片付けなければならない問題は他にもあった。

男性が一人で暮す部屋がきれいに維持されているケースは少ない。
汚部屋になっていることがほとんどで、特に水回りがヒドイことになっているケースは多い。
そして、この部屋も例外ではなかった。

女性は、当初、一般のハウスクリーニング業者に相談。
しかし、現場を見るや否や、業者は仕事を辞退。
ねばり強く、あちこちの業者に相談してみたが、結果は同じことだった。

女性は困り果て、自分でやることも考えた。
でも、それを考えると泣きたい気持ちに駆られ、どうしても踏み出せず。
そうして後、巡り巡って当社にたどり着き、清掃を依頼してきたのだった。

風呂やキッチンシンクもだいぶ汚れてはいたが、特にヒドかったのは便所。
旧型の和式で「トイレ」というより「便所」といった方がシックリくる造り。
その便所は、ほぼ全体を糞尿が原因と思われる黒や茶色の汚れが被い尽くしていた。

ただ、便器周辺の汚れは、騒ぎ立てるほどのことではなかった。
似たような便所は何度となく経験済みだったし。
私を怖れさせたのは周辺の汚れではなく、便器そのものだった。

はじめ、便器の上には新聞紙がかけられていた。
見かねた女性が便器を覆うためにかけたものと思われた。
「ま、いつもの感じだろ」と、中途半端な覚悟で、私はその新聞紙をめくり取った。

「???」・・・姿を現した便器を見た私の目は点に。
何がどうなっているのか瞬時には判断がつかず。
「まさか?」と思いながら、私は顔を近づけて便器を凝視した。

疑義は的中。
便器の中は、ウンコが満杯のテンコ盛り状態。
それは、百戦錬磨?の私も自信を喪失するくらいにへヴィーな光景だった。

女性は、かかる費用のことよりも私が清掃を請け負うかどうかを心配していた。
一方の私は、「断ったほうがいい」という頭と「やれるだけやってみろ」という心が対立して困惑。
結局、“成果保証なし”“料金は出来高で決定”を条件に請負契約は成立となった。

すると、今度は、“効率が悪くても何らかの道具を使うことを薦める本性”と“さっさと片付けるため自らの手を道具にすることを薦める理性”とが頭の中で対立。
結局、気持ちが慣れるまでは道具を使い、慣れてきたら手を使うということで両者を説得。
私は、作業の準備を整えながら特掃魂の暖気運転を始めた。

予定通り、最初は、代用の道具(専用の道具なんてないけど)を使ってモタモタとウンコを掻き出していった。
しかし、悲しいかな、所詮、代用道具は代用道具、柔軟な動きは無理。
後半は、手を汚すしか方法がなく、これまた予定通りの覚悟を決めて、私は便器に手を突っ込んだ。

どこの現場でもそうだけど、一線を越えてしまえば怖れは薄らぐ。
一度ウンコにまみれた手は、それ以降、何度便器に手を入れようが、それ以上に汚れることはない。
それまでの恐怖心がウソのように開き直れて、大胆かつ効率よく作業を進めることができ、そしてまた、時間が燃焼し、生きている実感が湧いてくるのである。

作業に要した時間は、約二時間。
頑張った甲斐あって便器は白くピカピカ。
また、周辺は新築同様にまではならなかったけど、フツーに使えるくらいの姿を取り戻した。

作業終了の後、私は、現場から離れていた女性を呼び寄せた。
そして、自慢したい気持ち満々で、便所の扉を開けてみせた。
すると、女性は目をまるくし、そして、泣きだした。

「ごめんなさい・・・悲しいんじゃなくて感動してるんです」
女性は、私にそういい、しばらく泣き続けた。
そんな女性の涙は、私への同情心が混ざっているようにも感じられ、私に寂しい喜びを与えてくれた。


キツイ仕事やツライ作業に従事しているとき、私は自分が生きていることを強く実感する。
この様を「ホントの苦労を知らぬヤツ」と言う人がいるかもしれない。
この感覚を「変態」と呼ぶ人がいるかもしれない。
しかし、私にとって、これらは“人生の薬味”。
それだけでは、辛いばかり・苦いばかりのものだけど、人生が旨味を増すために必要な味(薬)なのだろうと思っている。

そうは言っても、辛味や苦味なんて、できることなら味わいたくない。
しかし、これらは、“味わいたい”とか“味わいたくない”と分別できる次元のものではない。
人間が生きるために、幸を得るために必要な味なのではないだろうか。
少なくとも、この私には必要な味、この私が生きるために必要な味、この私に幸福をもたらす味・・・もっと言うと、私にとって“幸福そのもの”なのかもしれないと思っている。


「“感動する便所掃除”ってバカバカしいけど、わるくはないな」
そんな風に思いながら、私は生きていることを実感したのだった。
そして、そんなことを重ねながら今日も生きている・・・生かされているのである。




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