特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

生きじまい

2017-01-17 08:10:18 | 生前相談
ある年の晩秋、空気が涼から冷に変わりはじめた頃。
私は、都会の喧騒遠い閑静な住宅地に建つ依頼者宅を訪れた。
依頼者は、高齢の女性。
病気を患っており、病院や老人施設を転々としながらの療養生活。
依頼の内容は、家財生活用品の処分・・・いわゆる生前整理について。
老いには逆らえず、身体は徐々に弱まっており、人生をしまう仕度をしようとしているのだった。

女性宅のエリアは、区画整理された住宅地。
だいぶ前の分譲地で、一帯は古い建物ばかり。
しかも、人影や車の通りもなく、寂しい雰囲気。
その中にある女性宅は、一段と寂れた様相。
庭や外周の手入れも行き届いておらず荒れ気味で、また、建物のメンテナンスもキチンとされておらず。
空き家っぽい雰囲気・・・生活の体温が感じられない冷えた佇まい(たたずまい)で、周囲の家とは趣を異にしていた。

私は、指定されていた時刻ピッタリにインターフォンをプッシュ。
すると、玄関ドアの向こうから「どうぞ~」と声が聞えてきた。
その返事を“入って来て下さい”の意と汲んだ私は、「こんにちは~・・・」とドアを引き、「失礼しま~す・・・」と玄関に足を踏み入れた。
そして、近づいてくるスローな足音を聞きながら、女性が出てくるのを待った。

女性は、ゆっくり ゆっくり、一歩一歩が前に出ているか確かめるように歩いてきた。
老齢病弱ということは先に聞いていたので、そのスローペースにも特に違和感は持たなかったが、女性は気になるものを身に着けていた。
それは、何かのボンベらしきものがついた機材。
そして、そこから伸びた管が鼻孔につながり固定されていた。
女性は、キャスター付のそれを傍らに引きずりながら出てきたのだった。

女性は特に苦しそうにしていたわけではなかったが、その装置は見た目に重々しく、それだけで、その場の雰囲気は重苦しいものになった。
が、女性はそんな私の小驚など気にもせず、やや苦しそうに息をしながらも丁寧な言葉で私を居間に招き入れ、ソファーに座るよう促した。
そして、
「病院からの一時帰宅なものですから、何のお構いもできなくてスミマセン・・・」
「買ってきたもので申し訳ないんですけど、どうぞ・・・」
と、傍らのレジ袋からペットボトルのお茶を出し、私の前に置いてくれた。

いつもの私なら、
「どこを悪くされているんですか?」
「それは何のための機械なんですか?」
等と、余計なことを根掘り葉掘り訊いていくのだが、医学に見識のない私でも、その病気が軽いものではないことは察せられた。
しかも、治る見込みも低そうに見えたため、私は、女性の病気や機材については何も触れなかった。
そして、その後、女性の口からは、“病気について触れなくてよかった”と思うような話が出てきたのだった。


女性には夫がいたが、その夫は数年前に先逝。
家族としては息子が一人いるのだが、息子のほうも重い病気と障害を負っており、長く施設で生活。
将来、社会にでて自立生活できる可能性は、極めて低かった。
となると、女性がいなくなった後、もうこの家は用なしに。
しかも、土地家屋や家財を置いたまま逝った場合、息子に負担がかかってしまう。
しかし、女性の身体は衰えるばかり。
生前にどうにもできないことは息子の成年後見人に頼むとしても、頭がシッカリしているうちに、身体が動かせるうちに家財を始末し、残して逝く息子のために家を金に換えておこうと算段。
そして、その一助になればと、私が呼ばれたのだった。

愛着ある品々も、想い出がタップリ詰まった家も、天国に持って行くことはできない。
それは、誰にだって、すぐわかること。
しかし、実際にそれを手放すとなると、なかなか理屈通りにはいかない。
懐かしい想い出や深い思い入れが邪魔をする。
それが、自分の死をリアルに悟れない時期であるなら尚更。
しかし、女性は、自分の死をリアルに想像していた。
そう遠くない将来にやってくるであろうこと悟っていた。
だから、自分の持ち物を始末することについて迷いはなく、感銘を受けるほど潔かった。

「もう、この家には、二度と戻ってくることはないでしょうから・・・」
「苦労は色々ありましたけど、過ぎてみると人生なんて短かいものですね・・・」
「もうじきこの人生が終わると思うと、寂しい気がしますよ・・・」
「楽しくないことが多くても、それでも、人生は楽しいものですね・・・」
少し前の女性が複雑な心境であったことは、容易に察せられた。
特に、病弱な息子を残して逝かなければならないことを思うと、胸が張り裂けそうになったかもしれない。
しかし、その類のことは相当の覚悟をもって片づけたのだろう、この時の女性は、穏やかな笑みを浮かべていた。
そして、外見は老い衰えた女性だったけど、その内面は、生気にも似た輝きを放っていた。

そこには、死を受け入れざるを得ない者の弱さと、終焉の閑寂があった。
死を覚悟した者の強さと、人生の輝きがあった。
そして、私にとっては、そのことを決して他人事として済ませてはいけない機会があった。
私には、とてもその境地に至ることはできなかったけど、できるかぎり自分に当てはめてみたかった。
銭金のためにやっている仕事だけど、銭金では買えないものを手に入れたかった。
せっかくの自分の人生、せっかくの人の死。
後悔の念にとらわれながらも 頑張っている仕事、人生の多くの時間を費やし 続けている仕事なのだから。



2015年の日本人の平均寿命は女性87.05歳、男性80.79歳で、いずれも過去最高を更新したとのこと。
うちの会社には「エンゼルケア事業部」という遺体処置(死後処置、死化粧、身体の清め、着せ替え、納棺など)を担う部署がある(かつて、私もここに所属していたこともあったけど、近年は「ライフケア事業部」いう部署に所属して活躍?している)。
そこで扱う遺体の多くは、やはり70代・80代の故人。
もちろん、もっと高齢の人もいるし、もっと若い人もいるけど、上数値を反映して高齢者が多い。

もちろん、皆、赤の他人。
見ず知らずの人、生前の縁は皆無。
だから、これといった情もなく、悲哀を感じることもない。
ただ、
「一人一人の人生が終わっていってるんだな・・・」
しみじみそう思う。
そして、
「俺の人生も終わりに向かってるんだよな・・・」
と、再認識する。

また、仕事のせいか性質のせいか、私は、
「“死”というものを想わない日はない」
と言っても過言ではないくらいの毎日を送っている。
「俺、死ぬんだよな・・・」
しみじみと そう想い、同時に不思議にも想う。
また、街の雑踏を眺めながら、
「この人達、いつか皆 死んでいなくなるんだよな・・・」
と現実的かつ不気味なこと?を想う。

生と死は常に隣あわせで、死の機会は、老若男女を問わず、万民平等。
すべての死は不可抗力。
この摂理は、多くの人が知っている。
しかし、平均寿命というデータによって、一般的には“若者より高齢者のほうが死に近い”と考えることが多い。
しかし、あくまで、それは全体的・相対的な数値。確率の問題。
人間個々で考えると、まったく当てはまらない。
幼少・若年で亡くなる人も多くいるわけで、だからこそ、“人生の終わり”を意識すること、考えることは、誰にとっても必要なことなのである。

“死”に教わること、“死”に気づかされることってたくさんある。
が、“死”というものは、かなりデリケートなもの。
揚々としたときには怖れ、欝々としたときには憧れたりもする。
人生を輝かせる遠因にもなれば、暗くする原因にもなる。
そして、“死”それ自体は、なかなかポジティブに捉えられるものではない。
そこから派生する思想や価値観は、容易にポジティブなものになりうるけど、死そのものはそうならない。
未知の恐怖、消滅の寂しさ、有限の切なさ、無力の虚しさ等、ネガティブなものが多く浮かんでくる。
気分の位置によっては、悲観的・短絡的な志向に傾いてしまうから難しい。

老齢や病など、自分の死をリアルに悟る時がきたとき、どういう心境になり、そういう心情になるだろう。
何を考え、何を想うだろう。
悲哀か、緊張か、恐れか、未練か、寂しさか、虚しさか、後悔か、諦めか・・・
それとも、笑顔の想い出か、安堵か、平安か、希望か・・・
そして、何をするだろう。
慌てて遺言を書くか、焦って生前整理をするか、別れを告げに誰かに会いに行くか、懐かしの地を訪れるか・・・
それとも、お金も人目も気にせず、楽しみに興じるか・・・
具体的には想像するのは難しいけど、理想は、穏やかな笑みを浮かべながら生きてきた道程を回顧し、また、天国に希望をもつこと。

死に対してどう向き合うか、どう備えるか、答をだすのは簡単ではない。
生きることとどう向き合うか、どう生きるか、それも同じ。
死を想うことは、生の力を削ぐものではない。
死を想うことは、生を力づけること。
死の準備は時間の密度を上げる。
そして、自分の人生を熱くするエネルギーが宿る。

“死を想いながら生きること”は、“人生を充実させること”“力強く生きること”の基となる。
本ブログにもしつこく書いているけど、私は、それを愚弱な自分に訴え続けていこうと思っている。
人生をしまう日がくるまで。



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難儀談義

2017-01-10 08:44:20 | 特殊清掃
「全滅・・・」
汚腐呂の扉を開けた私は、呆然と立ち尽くした。

賃貸マンションの浴室で住人が死亡。
そして、そのまま約一ヵ月が経過。
故人(遺体)は、湯(水)に浸かったまま溶解し白骨化。
浴槽には、暖色の腐敗粘土が大量に溜まり、底は見えず。
また、遺体(遺骨)が引きずり出された痕の汚染も残留。
更に、発生した虫によって侵された天井・壁・洗場は原色をとどめておらず。
黒茶・黄色・緑色に変色し、夜空に輝く満天の星のごとく(表現がミスマッチ?)涌いたあとの虫殻も無数に付着していた。

悪臭は浴室内にとどまらず、部屋全体に充満。
しかも、部屋死亡の腐敗臭に比べて風呂死亡の腐敗臭は生臭さが強い。
それは、玄関を開けただけで「風呂死亡」とわかるくらい。
さすがに、私は、吐気をもよおすことはなくなったけど、慣れていない人だと吐くかもしれない(慣れている一般人なんていないけど)。
空気を肺に入れたくなくなるような、何とも不快な臭気なのである。

故人に身寄りはなし。
賃貸借契約を保証したのは個人ではなく保証会社。
そして、家財生活用品の撤去処分はそこが担うことになっていた。
が、保証会社から委託されて出向いた業者の作業員は、あまりの臭いと凄惨な光景にダウン。
特殊清掃・消臭消毒なくして撤去作業を行うことは不可能と判断。
そこで、管理会社を通じたやりとりが行われ、私が出向くことになったのだった。

腐乱死体現場なんて、一般の人が具他的に想像できるものではない。
だから、大家は、この風呂も掃除をすれば復旧できると考えていた。
もちろん、それが可能な場合もある。
しかし、この風呂はかなりの重症。
私が言うところの“スーパーヘビー級”。
各所にシミや変色が残る可能性が高いし、何より、悪臭が残留する可能性が高かった。
妙な変色や、何となくでも異臭を感じる風呂を誰が使いたがるだろうか・・・家賃を格安にすればどうかわからないけど、通常なら、好んで入居する人はいないはず。
とりわけ、遺体が一ヶ月も放置されていた風呂なんて、通常、掃除したくらいでは使いものにならない。
設備の交換(解体撤去と新設)が必要となる。
その他の改修や修繕を含めると相応の費用がかかる。
賠償を求める相手がいない上、保険もきかなければ、原状回復工事にかかる費用はすべて大家負担になる。
それを避けるため、掃除だけで部屋を原状回復させようと考えるのは自然なこと。
しかし、現実的にそれはかなり難しい。
私は、後々トラブルになっては困るので、“原状回復を保証するものではない”ということを重々承知してもらった上で、特掃を請け負った。
そして、作業前の現場を、画像や人聞きの話とかではなく、直接 自分で確認してもらうことも要望した。

別の日。
私は、大家と現地で待ち合わせた。
はやり、大家は、腐乱死体現場を具体的に想像できていなかった。
もちろん、具体的に想像しようがないのだけど、それを言葉で理解させるのは難しい。
もっと言うと、画像でも肝心なところは伝わらない。
半透明の脂やゴマ粒大の虫殻は画像には写らない。
また、画像では、汚物や汚染の重量感や質感はまったく伝えられない。
凄まじい悪臭も、まったく表すことができない。

大家は、相当に困惑。
部屋を原状回させるには、相当の費用がかかる。
そして、それを請求する相手がいない以上、自己負担になる。
さらに、新たに入居者を募集する場合、地域の相場より家賃を下げる必要がある。
それでも、人が入る保証はどこにもない。

不動産賃貸業を営むうえのリスクは色々あるけど、一般的に気にするのは、空室率や家賃の滞納くらい。
ゴミ部屋、ペット部屋、住人の孤独死や自殺、その後の腐乱等々、部屋に重汚損が生じるリスクはあまり想定されていない。
しかし、現実には、そう珍しくないことなのである。

「まさか、自分の身にこんなことが起こるとはね・・・」
大家は、不愉快そうにそう言いながら、気休め程度の効果しかない紙マスクをつけた。
そして、私が引き開けた玄関ドアから、恐る恐る室内をのぞき込んだ。
その瞬間、言い表せぬほど不快な悪臭が大家の鼻を突いた。
と同時に、大家は仰天の表情を浮かべ、一歩・・・二歩・・・とジリジリ後退していった。

「うぁぁ・・・」
大家は、自分が これまでの人生で体感した最も臭いニオイを想像して来たのだろうが、実際のニオイは、それをはるかに超越。
それまで嗅いだことのない悪臭、想像を絶する悪臭を受け、大家は、掃除くらいではどうにもならないことを理解したよう。
想像もしていなかった災難に顔を曇らせ、消沈した。

「写真で見たほうがいいかな・・・」
あまりの悪臭にショックを受けた大家は、中に入ることを躊躇。
無理矢理 浴室を見せて精神を害されては困るし、そもそも責任がとれない。
私は、一人で中に入り、ケータイに写真を数枚撮影。
そして、顔を顰め(しかめ)ながら私の説明を聞く大家に、それを一枚一枚みせた。

「もう、この部屋は諦めます・・・」
結論はすぐにでた。
頭で計算しただけで判断できたよう。
改修工事代を家賃で回収するには何年もかかる。
しかも、家賃を地域相場よりも安くしなければならないし、それで人が入居する保証もない。
つまり、高額な費用をかけるだけのメリットが見出せないわけ。
これによって、空室率は一部屋分上がってしまうけど、全体の空室率や築年数(経費の償却)を勘案すると飲み込める範囲の負担で治められる算段だった。

「最低限 必要なことをお願いします・・・」
幸い、この件で、出て行った住人もいなければ、出て行きそうな住人も見受けられず。
だからと言って、先はどうなるかわからず、汚部屋のまま放置するのは得策ではないことは、大家の目にも明らか。
したがって、他に住人に出ていかれないための処理・・・浴室の特掃、消臭消毒、家財撤去まで行い、その後はクローズすることに。
その方針が定まると難儀なプレッシャーから開放されたのだろう、暗くなっていた大家も少しは明るさを取り戻した。

しかし、難儀だったのはそれから。
私にとって、本件のメインイベントは浴室の特掃。
そう大袈裟なことを言っても、作業自体は単純。
掬い取る、削り取る、拭く、磨く、洗う・・・その繰り返し。
高等の技術や相当の体力が要るわけではない。
ただ、対象が遺体系汚物であり、汚染は重度であり、恐ろしい悪臭と人の死が充満する中での作業であるところが並の掃除とは異なる。
根性とか忍耐力とかがどれだけ要るものかわからないけど、酷な作業であることに間違いはない。
だから、さすがの?私も気分が重くなった。
それを少しでも軽くするために、その日が来るまでに現場の画を思い出し、作業手順を何度もシミュレーション。
「余計なことを考えず、一つ一つ片付けていこう」
「たった数時間の辛抱!」
と自分を励ました。

実際の作業も予定通り進行。
ただ、予想通り、楽な作業にはならなかった。
予想通りに身体は汚れ、予想通り身体は臭くなり、予想通り気分は浮かなかった。
が、故人のことを想うと、次第にそれも気にならなくなった。
死を予期できないのは不可抗力であり・・・
浴室死亡の場合、故人は苦しむことなくポックリ逝った可能性が高く・・・
のんびりと温かい湯に浸かり、バスタイムを気持ちよく過ごしたように思え・・・
そんな最期の様が、現場の凄惨さを中和してくれ、精神面で私を助けてくれたのだった。


毎年のこととはいえ、このところ陰鬱な気分に苛まれている。
それでも、昨年までは、たいして重症ではなかったが、元旦の朝以降、症状は深刻に。
疲労感、虚無感、倦怠感etc・・・特に、朝目覚めてから仕事に行くまでがキツい。
何か因果関係があるのだろう、とりわけ、酒を飲んだ日の翌朝は重い。
だったら飲まなきゃいいのだけど、肉体労働に勤しんだ日や嬉しいことがあった日とかは飲みたくなる。
休肝日にしていない日は、その辺の葛藤を経て飲んだり飲まなかったり・・・
そうして、朝になると、自分の愚かさや自分の弱さを悲しく思いながら、自分の愚かさや自分の弱さに腹を立てながら、重い身体を引きずり起こすのだ。

思い起こされるのは三年前の冬。
症状は今よりもっと深刻で、発狂しそうなほど苦しんだことを憶えている。
寒いのに身体は熱く、脂汗でジットリ。
身体を動かしているわけでもないのに息は荒く、頭は朦朧(もうろう)。
横になっていることもままならず、布団に正座した状態で上半身を前に倒し、頭を抱え込んだまま起き上がらなければならない時がくるのを待つような始末だった。

人生において、日常の生活において、軽いものから重いものまで悩みや苦しみはいくらでもある。
もちろん、それらを喜んで受け入れることはできない。
できることなら、無縁でいたい。
それでも、“それらも人生を彩る味わいの一つ”と認めることができている。
ただ、心底で開き直れない自分がいる。
無力と知りつつ抗(あらが)おうとする自分がいる。
そして、それが、新たな苦悩の生んでしまう。

以前、親しい知人に「気難しい」と評されたことがある。
自分でも心当たりが充分にあるため、私をよく知る人にならそう思われても仕方がないと思う。
しかし、「それが俺」と開き直ったり、諦めたり・・・
そういうことだけは すぐ開き直ったり諦めたりできる私・・・
そのクセ 気が難しくなるようなことは、いつまでも思い悩まずにいられない・・・

そんな難儀な性格に難儀している私は、それを憂いて泣きつつも、それを味わい笑っているのである。



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幸せのドン底

2017-01-04 09:19:25 | その他
2017謹賀新年。
古来より何ら変わることがないスピードで時は過ぎ、また新たな年が明けた。
そして、正月三が日も終わり、街は祝の余韻を残しながら乾いた日常に戻りつつある。

世の中には、私のように、年末年始関係なく働いた人もいれば、休暇を楽しんだ人もいただろう。
そして、晴々した気分で仕事始めを迎えた人もいれば、欝々とした気分で仕事始めを迎えた人もいるだろう。
私の場合、元旦の朝、快晴の空とは裏腹にちょっと欝っぽくなってしまった。
寒いはずなのにジットリと脂汗がでて、夜が明けることに疲れを覚えた。
長年の付き合い・・・慣れた症状とはいえ、なかなかしんどいものがある。
何はともあれ、こうして新年を迎えることができたことに感謝!感謝!

そんな年末年始、多くの人が財布の紐をゆるませたことだろう。
私の財布の紐も少しはゆるんだけど、ほんの少しだけ。
質素倹約生活が身に滲みついているため、そんなに出費はかさまなかった。
また、仕事柄、複数日の旅行や遠出のレジャー等に出かけられないわけで、それも出費が抑えられた要因になっていると思う(嬉しいような、嬉しくないような・・・)。

とにもかくにも、お金は、得難く、使い易いもの。
気を抜いていると、アッという間に、しかも無尽蔵になくなっていく。
だから、細かいところも意識して、質素倹約を心掛ける必要がある。
いい年した社会人のクセに、一円もお金を遣わない日だってザラにある。
自分で言うのもなんだけど、その倹約ブリ(ケチぶり)は自慢してもいいくらいのレベルだと思う。
だけど、バカ丸出しになってしまうから、あまり細かな話は差し控える。

私の場合、日常生活では、口に入れるもの(飲食料費)に費やすコストが他のコストに比べて圧倒的に多い。
もちろん、飲食しないと身体を維持できないわけだから、これは、必要経費として仕方がない。
しかし、その中身を工夫することはできる。
そして、それがもたらす節約効果は、他のモノに比べるとかなり大きい。

ただし、食欲を満たすこと、“飲む”“食べる”という行為は、大きな幸せの一つ。
これを犠牲にすることは生きる楽しみを削ぐことにもなる。
そうは言っても、不摂生は、経済的にも身体的にも害となり、場合によっては精神まで害する。
不摂生もよくなければ、過度の摂生もよくない。
自分にとって最良と思われる芯を見出して、それを軸に生活するのが肝要だと思う。

私の場合はこんな感じ・・・
原則として、定価売りのコンビニや自販機は利用しない。
また、スーパーとかに行っても、目的のモノ以外は買わない。
誘惑も多いし、ついつい買ってしまいそうになるから、目的外のモノは見もしない。
飲食料については、安いモノ、安い店を探して、まとめ買いする。
その他の買い物も、ほとんど生活必需品のみとし、余計なモノは買わない。
酒は「余計」と言えば余計だけど、安い国産ウイスキー(味は充分に美味い)で済ませている。

「質素倹約」「節約生活」と聞くと、すぐに「我慢」「忍耐」「ストレス」といったものが思い浮かぶかもしれない。
しかし、ほとんどストレスは感じていない。
それどころか、「充実感を感じる」というか、「軽快さを感じる」というか、意外と快適。
私が“筋金入りのケチ”だからそう感じるのかもしれないけど、結構 楽しいものだったりしている。
また、金銭的メリットだけでなく、結果的にカロリーの過剰摂取リスクも低減でき、適正体重維持にも貢献。
まさに、一石二鳥・三鳥。
ま、こんな小器生活は、人にバカにされるかもしれないし、女性にはもてないだろうけど、誰かに迷惑をかけているわけでもないから、堂々と続けている。

常日頃はそんな私だけど、この正月はちょっと贅沢をした。
昨年12月上旬、ひいていた風邪が治りかけた頃 無性に飲みたくなり、いつまでたってもそれが治まらなかったため、超久しぶりに にごり酒と清酒を買ったのだ。
しかし、ウイスキーに比べると、清酒・にごり酒はかなりコスパが悪い。
また、糖質も気になる(“日本酒の糖質問題に科学的根拠はない”という説もあるが・・・)うえ、私の体質だと、蒸留酒に比べて翌日まで残るリスクが高いのである。
だから、ここ何年か飲むのは控えていた。

「飲みだしたらキリがない・・・金の無駄・・・」
「ウイスキーで充分じゃないか! 我慢! 我慢!」
私は、自分なりに一生懸命 自制心を働かせて、誘惑に負けて店に向かおうとする足を何度となく止めた。
しかし、そんなことが何度か続くと、自制心も疲弊してくる。
「普段は質素倹約に努めているわけだし・・・借金して買うわけじゃないし・・・正月くらいいいかな・・・」
と、徐々に挫け(くじけ)はじめた。
そして、結局、誘惑に負けてしまった。
ちなみに、にごり酒も清酒も、自分が気に入っている銘柄がある。
それぞれ違う店で売っているのだが、誘惑に負けた私は、
「今年もがんばったし、来年もがんばんなきゃいけないんだから・・・」
と開き直り、時間も手間も惜しまず いそいそと買いに出掛けたのだった。

何年ぶりかに飲むそれは、ニヤけてしまうくらいの美味。
だから、少しずつ飲めば長く楽しめるものを、どうしても多く飲んでしまう。
大晦日の夜も、自分なりに ささやかな贅沢を楽しんだわけだけど、やはり飲みすぎてしまった。
そして、それが翌朝にまで残り、若干 二日酔い気味に。
で、それが欝を重くさせる一因となってしまったのだった。


そんな感じで精神や身体に不具合を起こすことが少なくない私。
とりわけ、昨年は、体調を崩しまくった。
蕁麻疹や目眩など、初めて経験する不調もあり、ちょっとビビッたりもした。
それでも、私は、これまで、大病を患ったり、大ケガを負ったりしたことはない。
救急車に乗ったことも、病院に入院しなければならないくらいの重症に陥ったこともない。

別な視点で見ると、贅沢な暮らしはできないながらも、喰うに困っているわけでもない。
もう何年も、一般的な生活を維持できるくらいの糧を得ることはできている。
お金があっても物がなければどうにもならないけど、衣食住、日常生活に困らないくらいの物資にも恵まれている。

にも関わらず、心に湧いてくるのは、後悔・不満・不安ばかり。
人生は思い通りにならないことが常であることを悟ったつもりでいても、所詮、それは心底からでたものではなく、自分で外側だけを拵えた(こしらえた)作り物。
だから、鬱憤はシッカリたまっていく。
そして、それらは、
「幸せを感じることが少ない」
「不幸というほどでもないけど、幸せではない気がする」
等といった、漠然とした不幸感となって心を覆う。

確かに、生活をしていく上で、仕事をしていく上で大変なことはたくさんある。
時には、逃げ出したくなるような現実が、目の前に立ちはだかることもある。
悩みや苦しみは尽きることがない。
そして、それは、自分が不幸の中にいるような、そして、そのドン底に落ちていくような錯覚を覚えさせることも多い。

そんな私は、一体、どこにいるのだろうか・・・
本当に不幸の中にいるのか? 不幸のドン底に落ちているのか?
・・・そんなことはないはず。
私は、不幸の中にいるのではない。
社会的に、経済的に低いところにいても、不幸の中にいるのではない。
少なくとも、不幸の中ではなく、幸せの中にいるはず。
幸せを感じられることが皆無なわけではないし、また、目の前、身の回りには、数え切れないほどの幸せがあるのだから。

問題なのは、不幸に敏感で、幸せに鈍感である私の心。
幸せがあることに気づかない、幸せに気づけない私の心。
皮肉なもので、私の心は、幸せを欲しながらも不幸の種ばかりを集めてしまう性質がある。
そればかりに気が向き、そればかりに気をとられる性質がある。
それをバラバラに壊して、つくり直すことができればどんなにいいか・・・


始まったばかりの2017年。
今年も、色々と大変なことがあるだろう。
凄惨な光景に顔を歪める日々が待っているだろう。
過酷な作業に涙汗をかく日々が待っているだろう。
そして、相も変わらないことに苦悩することだろう。
楽に生きさせてはもらえなそうだけど、それでも、こうして自由な意志をもって生きていられることは幸せなこと。

ケガや病を抱える人や、心身に障害を持つ人と比べるつもりはないけど、私には、考えられる頭があり、見える目があり、聞える耳があり、話せる口があり、持てる手があり、歩ける足がある。
貧困にあえぐ人と比べるつもりはないけど、私には、生活の糧となる仕事もある。
何気ないことかもしれないけど、これは、とても幸せなこと。

地には春夏秋冬それぞれの美が現れ、空には晴曇雨雪それぞれの趣がうまれる。
浮世には人それぞれの愛が現れ、社会には人それぞれの機微がうまれる。
ありきたりのことかもしれないけど、これらが与えられていること、感じられることもまた幸せなこと。

贅沢な暮らしができるに越したことはないかもしれない。
しかし、質素倹約生活にも それなりの楽しさがある。
贅沢暮らしでは味わえない美味がある。
それと同じように、苦労多き人生の中にも幸せはある。
私の心が、それにどう気づいていくか・・・
そして、残り少なくなってきた人生をどう楽しんでいくか・・・

私は、“幸せのドン底”にある自分の心を少しでも上にもっていくため、目の前にある幸せを、身の回りにある幸せを、一つ一つ数えているのである。



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