世の中の景気は少しずつ良くなっているような空気が感じられる中、相変わらず、物価高や実質賃金の低下を伝えるニュースが流れ続けている。
一部、大幅な給与アップで余裕がでてきた人をよそに、大方の人の家計は苦しいまま。
入ってくるお金が増えても、出ていくお金がそれ以上に増えているわけで、そうなるのは当然。
中小零細企業や非正規の労働者など、入ってくるお金が増えない人は尚更キツイ。
もう、生活のレベルを下げてでも出ていくお金を減らすしかない。
ターゲットにしやすいのは、食費・水道光熱費・日用品費・通信費・交際費・趣味娯楽費などの流動費。
これは、工夫したら工夫しただけ、我慢したら我慢しただけ抑えることができる。
ただし、やり過ぎるとメンタルをやられるおそれもある。
場合によっては身体の健康を害することも。
“生活のための倹約”が“倹約のための生活”みたいになってしまっては元も子もないので、その辺の塩梅をうまく匙加減しないといけない。
質素倹約生活については、私も自慢できる(恥ずかしい?)くらいの達人であることを自負している。
この分野に“級”や“段”があったら、結構な有段者になれるはず。
本当なら、いちいちここで紹介(自慢にならない自慢を)したいところだけど、“ドン引き”されるのがオチなのでやめておく。
とにかく、私は、衣食住で余計な金は使わない(酒は別)。
周りからは、“どケチ貧乏”に見えるだろうけど、これはもう完全に定着したライフスタイルになっているので、それで虚無感を覚えたり惨めな気持ちになったりすることはほとんどない。
うまくやるコツは、サバイバルゲームや野生キャンプでもやっているかのような“遊び心”を持つことと、時々はプチ贅沢(“それが贅沢?”と笑われそうなことだけど)をすること。
あと、大まかにでも家計簿をつけて自己チェックしながら達成感を得ること。
もちろん、多少の(多大な?)難はあるけど、誰に迷惑をかけるわけでもなし、バカにされることに慣れている私は、そんな風に淡々と生活している。
出向いた現場は公営団地の一室。
そこで暮らしていた高齢の女性が孤独死。
発見されるまで数日が経過。
暑い季節でもなかったものの、遺体は相応に腐敗。
遺体痕は2DKの間取りの中のDKにあり、突然に倒れたことが伺えた。
何かを訴えようとするかのごとく床に貼りついた人型の残留物からは、意思を持ったかのような異臭が放たれ、それが部屋中に充満していた。
特殊清掃の依頼者は、故人の姉と妹。
夫や子供のいない故人にとって、この二人が最も近い血縁者だった。
三人姉妹は、それぞれ別の公営団地で一人暮らし。
“公営団地での高齢独居”、姉妹で示し合わせたわけでもないだろうに、皆、似たような境遇で生活。
三人とも病気や介護の不安があり、頭の隅では孤独死に対する不安もチラホラさせていた。
イザとなって頼れるのは互いしかいなので、姉妹間で、安否確認の意味も含めてこまめに連絡を取り合うことを心掛けていた。
ただ、難しいのはスマホの扱い。
SNSをやらない高齢者は、電話をかけるときか電話を受けるときくらいしかスマホを開かない。
そのため、着信音が消されていると、着信があったことに気づくのに何日もかかることがある。
そんな中、操作ミスなのか何なのか、以前、故人のスマホの着信音が消えていたことがあった。
で、「連絡がとれない」と一騒動に。
それに懲りた姉妹は、以降は、連絡がとれなくなっても数日は待つように。
しかし、今回はその教訓が仇となり、連絡がとれなくなって数日後に故人宅を訪れたとき、故人は既に異様な風体に変わっていたのだった。
故人は、元来 用心深い性格で心配性。
更に、30~40代の頃、結婚を諦めた頃からそれがエスカレート。
両親や姉妹に対し、将来の不安をよく口にするようになっていった。
第一の心配事は、やはりお金のこと。
それを少しでも解消するには経済力をつけるしかない。
基本は、勤勉に働き、貯えること。
老後を見据えてキチンと年金を掛けることも怠ってはいけない。
そのため、故人は、質素倹約を心掛け、贅沢や無駄遣いとは無縁の生活を送った。
第二の心配事は心身の健康。
ケガや病気が、人生プランを大きく狂わせることはよくある話。
だから、故人は健康管理にも重きを置いた生活をした。
適度な運動を心掛け、食事にも気を配った。
往々にして口に美味いものは身体にマズイことが多い中、素食は、故人にとって節約にもなるし身体にも悪くないし、まさに一石二鳥だった。
現役を退いて収入が激減すると家賃の安い公営住宅へ転居。
水道光熱費も「大丈夫?」と心配になるくらいセーブ。
スーパーで買い物をするにしても値引品や特売品が主。
日用品のほとんどは100均で入手。
出掛ける先も公園や図書館など、金のかからないところばかり。
外出時に携行する飲み物も、自分で煎れたお茶を空のペットボトルに詰め替えたもの。
身なりも質素で、何年も同じ服を着回し。
流行を追ったり、オシャレをしたりする習慣もなし。
かなりの徹底ぶりだったが、故人は、そんな生活を苦にしていた風でもなかったよう。
「とにかく、お金を使わない人だった・・・使いたがらなかった人だよね・・・」
姉妹は、溜息まじりの浮かない表情でそう呟いた。
“ケチだった”と非難したかったわけではなく、ただ、故人のことを想い出すと、まずその印象が浮かぶようだった。
姉妹からの依頼は、
「遺品チェックをしたいので部屋に入れるようにしてほしい」
というもの。
私の感覚ではライト級の汚染異臭でも、一般の人にはヘヴィー級。
しかも、遺体のカタチがクッキリと浮き出た汚れ方でグロデスク。
そんな光景を目にしたくないのは当然で、ニオイを嗅ぎたくないのも当然。
「そんなに時間はかからないと思います」
と、玄関前に姉妹を残し、私は一人、作業に着手。
作業は順調に進み、程なくして完了したものの、フローリング材が腐食しており人のカタチが残留。
そのため、防臭と目隠しのためのフィルムを貼り付けた。
また、一次的な処理しかできなかったため、ある程度の異臭も残留。
ただ、近隣に迷惑かかからないレベルにまでは低減できたので窓を開けて中和させた。
作業を終えると、姉妹は、
「もう終わったんですか?」
と驚き気味に喜んでくれた。
そして、前人未踏の地に赴くかのように恐る恐る入室。
それから、玄関を入ってすぐのDK、故人が倒れていた床に向かって合掌。
次に、遺品チェックのため奥の部屋へ。
ただ、そこは故人のプライバシーがタップリ詰まった“他人”の家。
勝手に入り込んで家財に手を出すことに戸惑いを覚えているようだった。
が、当の故人かいない現実において遺品は誰かが整理し片付けなければならない。
姉妹は、躊躇いがちな気持ちを振り払うように、部屋のあちこちを探り始めた。
財布・携帯電話・鍵などの手回り品は警察が一旦部屋から引き揚げ、後日、姉妹に引き渡されていた。
キャッシュカードも財布に入っていた。
慎ましい生活をしていた故人の部屋にブランド品や高価な宝飾品はあるはずはなし。
財産らしい財産は預貯金のみ。
そして、それを裏付けるのは預金通帳。
姉妹がもっとも探し出したかったのは、その通帳と印鑑だった。
通帳探索の目的は預金残高の確認。
夫や子がおらず両親も他界している故人の遺産を相続する権者は姉妹の二人のみ。
他に首を突っ込んでくるような者はおらず、相続手続きに障害はなし。
そして、生前の故人は、姉妹に貯金の大切さを説きながら自分が貯金に励んでいることも口にしていた。
また、姉妹は、故人の徹底した倹約生活も見知っていた。
そんなところから、まとまった金額が残されていることは容易に想像できた。
無論、姉妹はそれを相続するつもりで、気になるのは どれくらいの貯金があるか。
だから、具体的な金額を把握するべく預金通帳を確認しようとしていたのだった。
家財量も少なく整理整頓が行き届いた故人の部屋で通帳と印鑑を見つけるのは容易いことだった。
出てきた通帳は二通。
姉妹は、残高確認を目当てに、そそくさとページをめくった。
そうして現れた最終ページに記された金額は、姉妹が想像していたものよりもはるかに大きいものだったよう。
驚き・戸惑い・喜び、そんな感情が入り混じって化学反応でも起こしたかのように、通帳を見入る姉妹の目はにわかに輝きを帯びた。
しかし、それは肉親の死に起因するもの。
しかも、親から子へ“順当”に引き渡されるものではなく姉妹間のもの。
“横取りする”みたいな感覚がしないでもない。
姉妹は、露骨に喜ぶのは不謹慎、故人に申し訳ないと思ったのだろう、また、傍らにいる私に対してバツが悪かったのだろう、笑みがこぼれそうになった顔を意識的に神妙なものにつくり変えた。
が、互いの腹の中はバレバレ。
笑みを堪える姉妹と その心中を読んでしまった私のいるその場には微妙な空気が流れた。
ただ、姉妹は、故人の死を喜んだわけではない。
単純に、“棚から牡丹餅”を嬉しく思っただけ。
だから、私は、遺産に喜びを覚える姉妹の人間らしさに不快感は抱かなかった。
姉妹二人も、それぞれ公営団地での一人暮らし。
その生活には病気や介護問題が並走しており、故人同様、孤独死の可能性も低くはない。
更に、主な収入はかぎられた年金で、暮らし向きは楽ではないはず。
だから、相続した遺産は、そんな生活を大きく支えるものとなったはず。
ちょっと気になったのは、故人がそれをどう思うか・・・
「“もっと使っておけばよかった”と後悔しながらも、姉妹の役に立てて嬉しく思うかな・・・」
私はそんな風に思った。
と同時に、姉妹は、故人の生き様を振り返り、故人の想いを大切しながら、もらった遺産を大事に使っていくものとも思った。
現代社会において、「宵越しの銭は持たない」といった気質は通用しない。
一方で、わざわざ「“生涯において死ぬ間際が一番金持ち”なんて愚か」という意見が出ることも、貯め込んでいる高齢者が社会に多いことを危惧しているわけで、つまるところ、現代社会の生きづらさや不安の多さを表しているものでもある。
結局のところ、金勘定だけでみると、故人の質素倹約人生は姉妹のために費やされたみたいになってしまった。
そんな人生は、他人は「もったいない」「一人でバカをみた」等と思うかもしれないけど、それも故人なりの生き方。
遊びたければ遊べたはず、贅沢したければできたはずの故人は、気楽にゲーム感覚でやっていたのかもしれず。
故人にとっては、それも一つの“楽しみ”になっていたのかもしれなかった。
“負け犬の遠吠え”のように聞こえるかもしれないけど、身の周りには金で買えない幸せや楽しさがたくさんある。
だが、私も含め、幸せや楽しさに対する人々の感度は著しく鈍化・麻痺してしまっている。
金をかけた物品やサービス、刺激的な遊びや時間にしか喜びを感じない。
あとは、「あって然り」とばかり完全スルー、気づきもしないし気づこうともしない。
しかし、この命も、この五体も、この心も、自分の長所や美点も、人の情愛や優しさも、五感に感じる自然の恵みも金で買ったものではない。
頂いたものであり、幸・楽・喜の種として気づくものである。
転ばぬ先の杖で石橋を叩いて渡った故人。
そして、その道程と足跡を垣間見た私。
この故人もそうであったように、姿なく触れ合う名もなき先人は、言葉なく 私に何かを教えてくれる。
私の質素倹約生活は、これからも続く。
小銭に一喜一憂しながら、大切な何かに気づかされながら。