私は、三兄妹の次男。
一つ上の兄と、二つ下の妹がおり、もう皆50代。
兄は同じ首都圏に在住、妹は関西にいる。
子供の頃はよく一緒に遊んでいたが(ケンカもしたが)、成長するにつれ関係は希薄に。
何かトラブルがあったわけでもないのだが、電話やメールをはじめ、一年以上も連絡を取り合わないこともフツーにあった。
特段、仲がいいわけでも悪いわけでもない兄妹である。
近年は、平時なら数か月に一回くらい、用件によって日ごと週ごとに連絡を取り合っており、若い頃に比べると格段に多くなっている。
ネタで多いのは、やはり老親や実家のこと。
両親とも80代ながら健在で、持病や老い衰えと戦いながら、介護保険の世話にもならず自立して生活している。
ただ、さすがに寄る年波には勝てず、身体のことや生活のこと、そして亡くなった後のこと等、思案しなければならないことが山積。
一つ片づけば また一つ、課題や問題は次から次へと涌いている。
そして、我々兄妹は、“生老病死”には抗えないことがわかっていても悩んでしまう。
この高齢化社会にあって、私と同じような悩みを抱えている人は多いのではないだろうか。
子供の頃、私の母は、「兄妹は他人の始まり」という諺をよく口にしていた。
母が何を意図していたのか、今でもよくわからないけど、当時の私は、「兄妹で仲良くしても仕方がない」「いずれ他人になるのだから、そのつもりで付き合っていた方がいい」みたいに乾冷な捉え方をしていた。
ただ、その後、それぞれ自分の道を歩き出し、自立していくと、いつの間にか“他人”になっていたのが実情。
そうして、それぞれの人生を過ごして半世紀。
夫婦にとって「子は鎹(かすがい)」と言われるのと同じように、子供達にとって親は鎹。
“他人”だった我々兄妹が、親のことで再び“兄妹”になろうとしている。
ちなみに、私は、この歳になっても兄のことを「兄ちゃん」と呼んでいる(メールでは「〇兄」と表記)。
この呼称は、子供の頃からずっと変わっていない。
ただ、人に話すときは「私の兄・・・」とか「俺の兄貴・・・」と言っている。
さすがに、「私の兄ちゃん・・・」とは言わない。
服に“よそ行き”があるように、言葉にも“よそ行き”がある。
ある種のTPOだね。
訪れた現場は、街中に建つ古いアパート。
その二階の一室で、住人だった高齢の男性が孤独死。
故人は、無職の生活保護受給者で、社会とのつながりは希薄。
で、発見されるまで、しばらくの日数が経過。
季節的な高温多湿の影響もあって、遺体は相応に腐敗。
周囲を汚染しながら、悪臭やウジ・ハエも発生。
安否確認や生活状況の把握など、対象者(故人)と密に接していくのも役所担当者の仕事のうちだが、生活保護受給者をはじめ、相談者や申請者が増える一方の時世においては、そこまで手が回らないのが実状。
役所の怠慢でもなんでもなく、日常の生活を無難に送っている対象者は放っておかれやすい。
ともない、本件も、大家から連絡が入って、はじめて担当者が訪問したような状況だった。
間取りは1R、ごく一般的な造り。
玄関を入った左にキチンシンク、右にユニットバス、その奥隣に半間のクローゼット。
そして、部屋の突き当りに外光差し込む窓。
家財は極めて少量、家電は一式揃っていたが、どれも小型で古いモノばかり。
残されていた調理器具や食品・調味料もわずかで、「必要最低限のモノで生活していた」といった感じ。
同じ生活保護受給者でも、節操なく酒を飲みタバコを吸い、ギャンブルまでやる人も珍しくない。
しかし、故人はその類でなし。
“弱い者いじめ”のように思われるかもしれないが、それは、生活保護受給者として然るべき姿。
ささやかな楽しみはあったのかもしれなかったが、憲法保障の「健康で文化的な“最低限度の生活”」を地で行くような生活をしていたように思われた。
と同時に、生活保護を受給するに至った経緯を知る由もない中で、誰の人生にもドラマがあるのと同じで、故人の人生にも紆余曲折や苦悩があったことが想像された。
数年前、故人は、このアパートに地元区役所生活援護課からの紹介で入居。
その時点で妻子はなく独り身。
近しい身寄りとしては、少し離れたところに暮らす兄と妹がいた。
二人ともアパート賃貸借契約の連帯保証人にはなっておらず、相続も放棄。
行政主導で執り行われた火葬の費用負担と、遺骨の引き取りは承諾したものの、部屋の始末については関知せず。
血を分けた兄妹として「無責任」とか「薄情」と非難されても、その責を負うために必要な経済的余裕がないことが想像された。
発見のきっかけは、大家による役所への連絡。
大家宅はアパートの地続きにあり、買い物などで外出する故人の姿を見かけることが時々あった。
その際、視線が合えば「こんにちは」と短い挨拶と会釈を交わすくらいで、その他に言葉を交わすような間柄ではなかった。
そんな中、ある時から急に故人の姿が見かけられなくなった。
当初は、「たまたまのこと」と気に留めず。
しかし、しばらくの日が経つと妙に思うように。
そして、意識して観察してみると、夜になっても、故人の部屋には照明が灯らないことに気づいた。
また、下室の住人に訊いても、「しばらく前から足音や水が流れる音などの生活音がしなくなった」とのこと。
長い旅行ができるような経済力があるとは思えず、実家があるわけでもなく、さすがに大家は不審に思い、役所に連絡を入れたのだった。
フローリングの床には遺体汚染が発生。
そこには、警察が放っていった白髪交じりの頭髪や皮膚が残されていた。
ただ、私にとって、その汚れはライト級。
特掃に大した難しさはなく、粛々と作業。
床材には遺体のカタチを連想させるような変色が残ったが、悲惨さを感じてしまうような汚れは取り除くことができた。
また、何分にも家財は少量のため、遺品整理も軽易なものに。
財産らしい財産もなく、貴重品らしい貴重品もない遺品は、冷たく言うなら「ただのゴミ」。すべて処分するほかなく、それほどの神経を使って丁寧にやることは求められず、特掃と同じく作業は淡々とすすめられた。
そんな中、押入の布団の下から、ヘソクリを隠すかのようにしまい込まれた一枚のハガキがでてきた。
「文字を読む」ということは、「つい見てしまう」といったものに比べると、意識性が強い行為のような気がする。
しかし、走り始めた野次馬を止めることはできず・・・
他人のプライベートを覗き見するような気マズさを覚えながらも、私は、そこに記された文字に目をやった。
裏面に書かれた差出人は故人の妹、念のため確認した表面には、ここの住所と故人名。
故人の年齢から考えると妹は60代か。
すべて手書き、遠慮のない乱筆で、お世辞にも達筆とは言えず。
文章も“ですます調”ではなく、幼稚に思えるくらいの話し言葉。
また、歳はとっても兄妹の関係性は子供の頃から変わらぬままのよう。
故人のことも「お兄さん」「○○兄」とかではなく「兄ちゃん」と書いてあった。
コミュニケーションツールとして手っ取り早いのは、電話やメール。
今は、SNSか。
故人もSNSまではやらないにしても携帯電話くらいは持っていただろう。
しかし、何を意図してか、妹は、手間も時間も金もかかるハガキを利用。
ただ、手紙でしか伝えることができないこと、デジタルでは伝わらないことってある。
絵文字もイラストもない、単なる紙と文字だけなのに、そこからは、肉親の心温と情愛が滲み出ていた。
しかも、「兄ちゃん」という呼び方が自分と重なった私、故人と同じく三人兄妹の次男である私は、見ず知らずの兄妹に対して大きな親近感を抱いた。
内容は、時候の挨拶と亡母の墓参の予定を確認するもの。
故人達兄妹の母親が亡くなったのは三年前で、三回忌に合わせて墓参りすることは既に約束されていたよう。
「正式な法要はできないけど気持ちが大切」
「亡父・亡母も喜んでくれるはず」
「その後、一緒に食事でもしよう」
「話したいこと、聞きたいことがたくさんある」
「久しぶりに三人で会えることを楽しみにしている」
そういった旨のことが綴られていた。
ハガキに記されていた墓参の日は、私が特殊清掃に入った当日。
もちろん、その何日も前に故人は亡くなっている。
ただ、ハガキは、ポストに放置されていたのでははく布団の下にしまわれていたわけで、生前のうちに届いていたのは明らか。
そして、故人は墓参も予定していたに違いなかった。
兄妹に会えるのを楽しみにしていただろうに・・・
しかし、その日を迎えることなく逝ってしまった・・・
そのことを想うと、床の遺体痕に、まだ少しの命が残っているような気がして、
「人生って思い通りにならないことだらけですよね・・・お疲れ様でした・・・」
と、自らの愚痴をこぼすように心の中でつぶやいた。
故人の遺骨は亡父母と同じ墓に納められたか・・・
本来は兄妹三人で参るはずだった墓に手を合わせたのは兄妹二人だけ・・・
それとも、それぞれの家族も一緒に行ったか・・・
その後、二人で食事をしながら、静かに故人を偲んだか・・・
それとも、子や孫も含めて、家族大勢で賑やかに故人を偲んだか・・・
私は、墓参する側だったはずの故人が、墓参される側になったことに、現世の意地悪さ、皮肉のようなものを感じた。
と同時に、その淋しさと切なさに心が寒々としてしまった。
ただ、生と死は、人知を超えたところにある。
「一人は目に見えない存在になってしまったけど、ある意味、三人兄妹は集うことができたのかもしれないよな・・・」
そう想って、私は冷えた心をあたため直したのだった。