特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

臨時更新

2011-03-28 17:27:08 | Weblog
これは、「人間注意報」に書き込まれた公開コメントに対する臨時更新である。

“よっちゃん”は、何年も前から「特殊清掃 戦う男たち」をもとにmixiをやっている人物。
それは私も承知している。
また、“よっちゃん”によると、mixi上で質問を受けた場合、自分が隊長本人ではないことはハッキリ伝えているとのこと。
とにもかくにも、mixiにいる“よっちゃん”は特掃隊長のニセ者ではない。
(ちなみに、私はmixiなどのSNS類は一切やっていない。)

では、“よっちゃん”とは何者?
彼は、私が所属するヒューマンケア㈱のスタッフ。
つまり、私の同僚。
更にいうと、本ブログの管理人である。

正直いうと、私は、“よっちゃん”がニセ者扱いされておかしかった。
しかし、当の本人は困惑。
「書き込まれたコメントを削除したい」と慌てて私に電話してきた。
しかし、私はこれを拒否。
せっかく“よっちゃん”がやっているmixiの宣伝にもなるし、慌てる“よっちゃん”も面白いので、このままにしておくよう指示した。
(善意で書き込んでくれた方、申し訳ない。)

なお、以降の誤解を回避するため、本日をもってニックネームを“よっちゃん”から“ブログ管理人”にあらためたとのこと。

今後とも、本ブログともども、旧“よっちゃん”のmixiをヨロシク(お騒がせしました)。



公開コメント版はこちら
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間注意報

2011-03-24 12:17:11 | Weblog
大地震から間もなく二週間が経とうとしている。
それは、それまで“当り前”だと信じていたことが当り前じゃなくなるショックを現実に引き起こした。
そして、それは今も、平安を求める人々の心を、既成の価値観を、余震のように揺さぶり続けている。

温かい食べものがある。三食が当り前にある。糧となる仕事がある。
汗垢を流せる風呂がある。夢に入れる床がある。雨風しのげる家がある。
家族・知人が無事にいる。少しは他人を思いやれる自分がいる。
被災地や被災者の苦境に対する反射的幸福感ではあるけど、そのありがたさが身に染みる。

私の生活圏は、日常を取り戻しつつある。
スーパーやコンビニには商品が戻りつつあり、一昨日あたりからはGSの列も見られなくなった。
地震前には当り前だった光景なのに・・・なんだかホッとさせられるものがある。
とりわけ、私はガソリン不足に神経を尖らせていたため、通常営業しているGSを見ると喜びさえ感じる。

しかし、まだ、ほとんどの店は照明を暗くしている。
多くの人が節電の重要性を理解しているのだろう・・・今や、節電は、世間を漂う当り前の空気になっている。
薄暗くなった世の中を象徴しているように見えるのが難点だけど、これは、非常にいいことだと思う。
自然環境にも優しいし、停電防止にも効果があるだろうから。
私も、暖房を使わないようにしたり早く寝るようにしたりと、ささやかながら節電を心がけている。
皮肉にも、このところ時節に合わない寒さが続いているけど、厚着してしのいでいる。

その甲斐あってか、今のところ、不慮の停電は起こっていない。
ただ、やはり計画停電は避けられない様子。
「夏までで終わらず、冬まで続く」などといった情報もある。
ただ、一日に三時間程度、それが一回か二回あるくらい。
何日も続く停電はキツイけど、それくらいなら我慢できる。
経済への悪影響が懸念されるけど、これも復興の一助になるのだろうから、不平不満は後回しにして積極的に協力したい。
大きな負担は、一人一人が小さく分け合えばいい。
今は、全体の利益(国益)のために、個々が辛抱するべきときだと思う。
その昔、泣き虫の滝沢先生が言っていた「One for all  All for one」の精神だ。

原発の問題は、相変わらず深刻。
現地で作業する人達、問題解決に死力を尽くしている人達には、頭が下がる。
そんな人達の尽力を知ってか知らずか、放射性物質に関するデマは、身近なところにいる知人からも涌いてでた。
露になったその本性は、残念を通り越して不快なものだった。
「まず、その口を閉じろ!」「そんなに恐けりゃ勝手に逃げりゃいいだろ!」
私は、そう言いたくてたまらなくなった。

有事のときこそ、その人間性は際立つもの。
問題は、事の真偽ではなく、その人格だ。
ただ、そんな人を批難することもまた、生産性のない感情を浪費するだけ。
今、やるべきことはそんなことではない。
良心を行動に変えて励んでいる人は、人の批難なんかせず、今やるべきことに没頭している。
人間を見ず、善行を見て、見習うべきところは見習いたい。


今、多くの国民が復興を志して、それぞれの役割をこなしている。
列島には、人の善意や善行があふれている。
そんな中にあって、残念なニュースもでてきた。
デマの吹聴や批難意見の展開だけならいざ知らず、地震便乗商売、義援金詐欺、震災泥棒etc・・・
よくもまぁ、こんな時にそんなことができるものだ。
たいして善人ではない私でも、そんな輩には憤りを覚える。
一体、どういう神経をしているのだろうか。

そうは言いつつ、同時に、人間という生き物の悪性をあらためて思い知らされている。
人間は善いこともできるけど、悪いこともできてしまうもの。
行動に移すか移さないか違うだけで(これが大きな違いだけど)、人間は、その内面に如何ともしがたい悪性を抱える。
決して、他人事ではない。
他人の悪に目がいきがちだけど、自分の中に潜む悪性を省みることもまた、善性を育むにあたって大切なことだと思う。


大災害の話題に続けるには、あまりに小さなことで恐縮だが・・・
どこかに、特掃隊長のニセ者がいやしないだろうか・・・???
非公開コメント欄に入ってくるコメントに、私の他に特掃隊長がいることを疑わせるものが入ってきているのだ。
私や管理人の考えすぎか当人の妄想か空想かであればいいのだが、どう読んでも、やはり、読者の誰かが「特掃隊長」を騙る誰かに騙されている、もしくは、関係のない誰かを特掃隊長と勘違いして傾倒している感が否めない。
この類は文章が盗用されるのとはわけが違うから、自意識過剰を承知のうえで、今回、注意を喚起することにした。

ブログを書くようになってから5年が経とうとしているけど、私は、読者の誰かと個人的に知り合いになったり、プライベートな関わりを持ったりしたことはない。
奇特なことに、個人的な付き合いを希望してくれる人もいたけど、管理人を通じて丁重に断っている。
また、特定個人のホームページやブログを見る習慣もない。
当然、誰かのブログにコメントを入れることもない。

活動範囲は、ほとんど首都圏を中心とした関東圏。
ごくたまに、甲信越・東北地方に行くことはあるけど、北海道にまでは行かない。
また、東海・北陸から西は他支店がカバーしているため、私が出向くことはない。
仕事の依頼者や関係者の中にブログ読者がいたことは何度かあるけど、それでも、自分が特掃隊長であることは否定してきている。
「隊長に来てほしい」と指名を受けた場合は、先入観が重荷になって動きにくくなるので、完全に他の者に任せるか、または自分が主担当に就かないようにしている。
今まで、自分が特掃隊長であることを外に認めたのは、取材を受けた際の雑誌社や出版社、一部のメディアくらい。

私は、実社会の人間関係と同じで、書き手と読み手の間にも適度な距離感があった方がいいと思っている。
顔も名前を知らない間柄だからこそ、照れも、見栄も、体裁も、羞恥心も薄めることができるわけで、そういう関係だからこそ、共有できる何かがあるから。
だから、もう一人の私である「特掃隊長」はブログ上にのみ存在する者とし、そこら辺の実社会には常駐させていないのである。
そして、これからも、このスタンスが変わることはないだろうと思っている。

とにもかくにも、地震便乗商法・義援金詐欺・震災泥棒、そして、いるかもしれないニセ特掃隊長と自分の中の悪人には、くれぐれも注意されたし!



公開コメント版はこちら
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和魂

2011-03-19 17:26:45 | Weblog
2011年3月11日(金)14:46・・・
そのとき、私は、会社の敷地内にいた。
ちょうど現場から戻ってきたところで、仲間と二人で積んできたゴミを倉庫に降ろしているところだった。

その揺れは、今までに経験したことのない大きなもの。
二本足だけでは立っていられないほどで、それが地震であるのかどうかさえわからなくなるほど頭の中は真っ白に。
ただただ車につかまって、ザワザワと不気味に揺れる景色にうろたえるばかりだった。

大変なことが起こったことを直感した私は、揺れがひと段落ついたところで、車のTVをつけた。
すると、どのチャンネルも緊急ニュース。
地震の報道に加え、太平洋岸に大津波警報がでていることを慌ただしく伝えていた。

その後の惨状は、誰もが知るところ・・・
未曾有の災害に、多くの犠牲がでている・・・
人を亡くし、家をなくし、仕事をなくし・・・
足りないものだらけの避難生活が、どれほど辛くて不安なものか・・・
人の痛みに対する感受性が乏しい私にはそれらを想像することしかできないけど、それでも、気の毒に思えてならない。


あれから8日が経った。
身体は無事なのだが、精神がいまいち。
社会全体の雰囲気だから仕方がないのかもしれないけど、明るい気分になれない。
また、冷静なつもりでいても、真に冷静さを取り戻しきれていない自分がいるように思う。
それに関係してか、不眠症も悪化。
「緊張感が足りない」「平和ボケ」と言ってしまえばそれまでだが、一日中、軽い睡魔に襲われているような始末である。

余震は、今もなお続いている。
首都圏にも、震度3~4程度の揺れがくることがある。
スーパーやコンビニの品揃えは回復基調にあるが、ガソリンは依然として不足感がある。
休業しているところが目立ち、営業していても長蛇の列で給油量も制限されている。
私も、給油の列に並ぶのが日課にようになっている。

停電による影響も小さくない。
とりわけ、公共交通機関の影響は大きく、通勤通学の足を乱している。
電力会社の停電計画も試行錯誤の中でひねり出されているようで安定しない。
それでも、多くの人々は、良識をもって社会のルールを守り、負担を分かち合っている。

また、こうしている間にも、福島原発には命がけで作業している人達がいる。
被災地には、命がけの生活に耐えている人達がいる。
それを救援するため困難な作業に挑んでいる人達がいる。
そんな方々に対する、感謝と敬意と励ましの念を絶やしてはならないと思う。


自分は、これまで、いかに贅沢で独り善がりな生活を送ってきたか・・・
甘やかされた価値観を、このまま持って生きていっていいものか・・・
目に見えるかたちで現れている人の善意と勇気を、ただ眺めているだけでいいのだろうか・・・
他人の不幸を反射的に捉えるのは好きではないけど、この震災を通じて気づかされることはあまりに多い。

社会における一人一人には、自分の持ち場と役割がある。
こんなちっぽけな私でさえも、社会の一員であることに違いはない。
だから、直接的な何かができなくても、間接的にできることはたくさんある。
大金を寄付できなくても、ボランティアに参加できなくても、自分にできることはある。

省エネすること。
デマに乗らないこと。
批難するばかりの評論家にならないこと。
先の支援のために備えること。
人を想い、国を想い、祈ること。


今、日本人の真価が問われているような気がする。
今だからこそ、考え直すべきことがあるように思う。

失いかけていた大和魂を取り戻すべきときがきているのではないだろうか・・・
一人一人が、それを燃やすべきときがきているのではないだろうか・・・

そんなことを考えながら、私は、地震後の数日と与えられている今を噛みしめているのである。




公開コメント版はこちら
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

vs 先入観

2011-03-10 18:33:17 | Weblog
三寒四温って今の時季をいうのだろうか、寒暖の中に春が感じられるようになってきた。
春になったからって別に何があるわけでもないのだが、この季節には何となく気持ちが和まされる。
あと、ひと月もすれば桜が咲く・・・。
宴会の予定はないけど、街のあちこちに映る桜色が、この冷えた気持ちを温めてくれるのだろう。

そんなこの季節も、いいことばかりではない。
花粉症の人にとっては、つらいものがあると思う。
身近なところにも、クシャミ鼻水に悩まされ、涙目を赤く腫らしている人がいる。
また、鼻をつまらせて、会話をするにも苦しそうにしている人もいる。
見ていると、つらそうだ。

幸い、私は花粉症ではないけど、風邪などからくる鼻づまりは何度となく経験している。
鼻孔がふさがれると、当然、呼吸が苦しくなる。
そのうち気分がイラついてきて、鼻の穴に棒を突き刺したくなるような衝動にかられる。
また、鼻が利かないと、食べ物の味も落ちる・・・というか、味を感じなくなる。
「香りも味のうち」と言われる由縁を痛感する。
そうは言っても、すべての食べ物がいい匂いであるとは限らない。
食べ物のニオイって微妙なもので、生モノや発酵系食品には、「いい香り」とは言えないものが少なくない。

私の場合は、食べ物に腐乱死体臭を感じてしまうことがある。
一種の職業病か?・・・
以前、腐乱死体臭に酷似したニオイのするチーズに困惑した経験を書いたことがあるけど、似たようなことは日常に起こる。
つい最近も、サラダのドレッシングにそれを感じてしまい、困ってしまったことがあった。

街中にいて腐乱臭に近い異臭を感じることもたまにはあるけど、ケースとして多いのは、やはり食事中。
“腐る”という共通要素があるからかどうかわからないけど、そのニオイのほとんどは食べ物に起因する。
そんな時、食事の箸は自然と止まる。
そして、「今、俺が口に入れているものは、本当にfoodか?」と、食器にあるものをマジマジと見つめ、それが間違いなくfoodであることを確認する。
同時に、脳裏に浮かんでくる現場の光景と鼻が覚えた先入観を強制消去する。
それから、悪夢から目醒めたときのような気分をともないながら、食事を再開するのである。



晩夏のある日、特掃の依頼が入った。
依頼者は、アパートの大家を名乗る年配の女性。
「死後二ヶ月」「ヒドイ悪臭」「中に入れない」
私は、女性が話す断片的な情報をつなぎ合わせて、頭の中に一つの光景を作り上げた。
そして、極上のウ○コ男ができあがることに頭を悩ませつつ、現場に向かって車を出した。

現場は、大家宅から歩いて行けるところに建つアパート。
軽量鉄骨造りの二階建。
間取りは2DK。
整理整頓された一室には座り心地のよさそうなローソファーのセット、大型TVと本格的なステレオのセットがあった。
もう一室には、セミダブルのベッド、洋酒や本が並べられた棚など。
それらは、私に、故人の悠々自適な暮らしぶりを想像させた。

部屋は、全体的にきれいにされており、余計なところを見なければ“正常”。
しかし、“異常”を視界から除くことはできず。
ハイレベルの悪臭が充満していたのはもちろんのこと、床には無数のウジ殻(ハエの蛹殻)、窓際には無数のハエの死骸、壁と窓に無数の黒点(ハエの糞)・・・
更には、ソファーに付着した黒い汚れ。
コーヒーか何かをこぼした跡のようにも見えたが、そうではないことはすぐに判明。
それは血・・・故人が吐血した痕のようだった。
目を引いたのは、ベッドの敷布団に浮かび上がっていた暗黒色の人型。
そう・・・故人は、ベッドに横になった状態で息絶え、そして、ベッド下の床に垂れるまでに朽ちたのだった。

亡くなったのは40代の男性。
死因は、自然死(病死)。
推定・死後二ヵ月・・・
それは、血肉が腐り溶けるには充分の時間・・・
二ヶ月もの間、誰にも気づかれなかった原因を見つけることはできなかったが、現実に二ヶ月ほどの時間が経っていることは私の目にも明らかだった。

発見したのは、本件の依頼者である大家女性。
故人の部屋に異常を感じた他住人が、大家に知らせたのがきっかけだった。
女性は、玄関ドアを開ける前から悪い予感を持っていた。
しかし、放っておくわけにもいかずに開錠。
そして、開けたドアの向こうから噴出した凄まじい悪臭に腹と精神をえぐられたのだった。


特殊清掃・家財生活用品撤去・旧内装の剥離撤去・消臭消毒・・・
任せられた作業は、障害らしい障害もなくセオリー通りに進んだ。
床フローリングを剥がし、天井壁クロスを剥がしてもなお異臭は残留したが、それも一ヵ月程度の消臭作業でなくなった。
そして、あとは内装の新装復旧工事を残すのみとなった。

ただ、新装復旧工事前の臭気判定は慎重を要するもの。
臭覚は人によってまちまちで、好みも違えばその感度も異なる。
したがって、臭気判定を単独で行うのはタブーであり、急いてはいけないのだ。
私は、会社の仲間、遺族、管理を受託している不動産会社、それぞれ立場の違う人達に臭気確認を依頼。
判断の公正さを担保するため、複数の客観的意見を収拾した。
結果、臭気確認を依頼した人すべてが、「異臭は感知せず」「問題ない」と回答。
それに確信を得た私は、後日、大家女性とアパートで待ち合わせる約束を交わした。

当日、女性は、暗い面持ちでやってきた。
やはり、部屋に入るのは気がすすまない様子。
私は、大家女性による臭気確認は業務上必要なプロセスであることを伝え、同時に詫びながら玄関を開けた。
玄関に足を踏み入れた女性は、すぐさま「まだ少し臭いますね・・・」とポツリ・・・
返事に困る私に向かって、「気のせいじゃなく、本当に感じるんです・・・」と言葉を続けた。

人間の感覚は、他人が否定できるものではない。
女性が「臭う」と言うものを「そんなはずない!」と否定することはできない。
ただ、私は、大家女性には腐乱死体臭ショックで刻まれた先入観があることを察知。
他に策がなかったわけはなかったが、“精神的な臭い”をとるには時間がかかることは承知していたため、“消臭作業をやり直し”を名目にしてしばらく様子をみることにした。

大家女性が消臭完了を了承したのは、それから約二ヶ月後のこと。
中途半端な状態で部屋を空けておくことで出はじめた悪影響に対処するため、不動産会社が大家女性を説得した様子。
女性は、「まだ臭うような気がするけど、気のせいかもしれない・・・自分でもよくわからない」と困惑しつつ消臭作業の完了を了承。
その口調は重く、“精神的なニオイ”が完全に消えていないのは明らかで、私には、そんな女性が気の毒に思えたのだった。



先入観というヤツは、巧みに実体のフリをする。
知恵のない人間(私)は、それにコロリとやられてしまう。
結果、先入観と実体とを混同して心に植え込んでしまう。
そして、その先入観は、人の思考から自由を奪い、その行動を縛りつけてしまう。

苦悩が尽きないのは、現実の問題があるからだろう。
しかし、その“現実の問題”は、100%実体のあるものだろうか。
そこには、少なからずの・・・いや、多くの先入観が混ざっているのではないだろうか。

いつまで経っても悪い予感が消えないのは、マイナスの先入観が自分の心に根を張っているせいではないか・・・
明るい未来が描けないのも、そのせいではないか・・・
抱えている心配事のほとんどは、実体のない先入観がつくり上げた風船怪物なのではないか・・・

今また、つまらない先入観を捨てられないで不自由している自分にそんな疑問を投げかけている私である。




公開コメント版はこちら
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする