特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

察心

2014-03-27 12:10:33 | 特殊清掃 消臭消毒
仕方がないことと諦めつつも、なかなか割り切れないことがある。
それは、うちのチビ犬のこと。
正確な年齢はわからないものの、身体の具合からみて、もう結構な高齢であることは間違いない。
ここのところ、加齢が原因と思われる身体機能の衰えが顕著に現れてきているのだ。

足腰はだいぶ弱り、飛び跳ねることはもちろん、もう走ることさえしない。
更に、今では、あまり長い距離は歩かなくなっている。
つい、一年くらい前までは、散歩にも喜んで出掛けていたのに・・・
少し前のことなのに、一緒に歩いたあたたかい日々が懐かしく思える。

両眼球は白く濁り、片目は完全に失明。
もう片方の目も、あまりよく見えていないよう。
歩いていて、壁や物にぶつかることも珍しくない。
それが不安なのか、夜もあまり安眠できていないよう。
たまにだけど、夜中や早朝に鳴く(泣く?)こともある。

食欲はあるけど、以前に比べて明らかに食べる量は少なくなった。
だから、体を触ると、皮膚の下にすぐ骨を感じるくらいに痩せてしまっている。
出会った頃は、メタボ気味だったのに・・・
この頃は、少しでも体重が増えるように、できるだけ好きなものを与えるようにしている。

トイレの失敗もよくするようになってきた。
以前は、回数も少なかったし、躾のつもりで、いちいち叱っていた(かなり甘い叱り方だけど)。
しかし、今は、もう許している。叱ったりしない(たった一犬の糞尿掃除なんて、特掃隊長にとっては朝飯前だし)。
当人(当犬)だって、わかっていると思うから。
思うようにできないことで、悲しい思いをしているかもしれないから。

とにもかくにも、その様はちょっとツラい。
余計に手がかかることが負担になってきたのではない。
世話をしてやることが重荷になってきたのではない。
とにかく不憫、可哀想に思えて仕方がないのだ。

有限は万物の宿命。
生き物に生老病死はつきもの。
寄る年波に勝てないのは犬ばかりではない。
動物に比べて賢いとされる人間だって同じこと。
それを割り切り諦めるしかない。
それを理解し納得するしかない。
それでも、悲しいものは悲しいし、寂しいものは寂しい。

コイツが死んでしまうことを想像すると、目が潤んでくる。
“ペットロス”・・・私は、モロそれに陥りそうだ。
もちろん、私の方が長生きする保証はどこにもないのだけれど。
どちらにしろ、老い先は長くなさそう。
だから、今のうちにその姿を目に焼き付け、一緒に過ごす時間を心に焼き付けたい。

どう案じても、犬は言葉が話せない。
その気持ちを察してやるしかない。
もちろん、限界はある。
当人(当犬)にしかわからないこと、他人にはわからないことは多いはず。
それでも、できるかぎり相手の立場になってものを考えようとすることは大切だと思う。
独り善がりにならないように、親切の押し売りにならないように気をつけながら。
犬のためを思ってしていることが、実際は自分のためであることも忘れないようにしながら。



呼ばれた現場は、郊外に建つ普通のアパート。
軽量鉄骨造の極めて庶民的なもの。
その一室の中の浴室で、住人が死亡。
「浴室死亡」とだけ聞いて行った私は、汚腐呂ばかりを想像。
しかし、玄関を開けると、特に異臭は感じず。
普通の人ならニオイがすることに違和感を覚えるところ、私はニオイがしないことに違和感を覚えながら、すぐ脇にある浴室の扉を開けた。

幸い、遺体は死後半日で発見。
しかも、寒冷の季節であり、湯に浸かっていたわけでもなく、遺体には、特段の腐敗現象は現れていなかった。
そのため、目の前に現れた浴室は、きれいそのもの。
一般的な生活汚染が多少あるものの、遺体がらみの汚れやニオイは皆無。
そんなノーマルな浴室に、特掃魂の着火準備を整えていた私は少し拍子抜けしてしまった。

それでも、大家は、浴室の造り替えを要求。
清掃復旧は容認しない構え。
しかし、一般的なユニットバスでも、新しく造り直すには数十万円もかかる。
清掃・消毒なら高くても数万円。
その差は歴然だった。

依頼者の男性(故人の息子)は、大家の要求が納得できず。
浴室は、特別の汚損が発生したわけではなし。
ただ、故人が最期を迎えたのが浴室だったというだけ。
にも関わらず、大袈裟な工事を要求され、男性は、困惑を通り越し、憤りさえ覚えているようだった。

男性は、「大家に特掃作業の内容と使う薬剤を説明してほしい」という。
私が呼ばれた理由の核心はそこにあった。
そこには、「浴室改修を考え直すよう、大家を説得してほしい」という意図が見え隠れ。
その打算を察した私は、大家と話すことに対して気分が乗らず。
浴室を改修しないことになってもすることになっても、結局は、どちらかに加担するかたちになり、どちらかに恨まれ、責任を転嫁されることになるかもしれなかったからだ。

そんな気分を無視するかのように、少しすると大家が現れた。
その表情はやや憮然。
それを見た私の気分はますます後退。
それでも、無理矢理に愛想笑いを浮かべて、大家の気持ち解きほぐそうと努力した。

私は、大家に、この浴室はキチンと掃除と消毒を行えば通常使用できる旨を説明。
大家は、私の話を黙って聞いてはいたものの、「そんなの関係ない」と、内心では聞く耳を持っていない感じ。
その心情を察した私は、今度は男性に、死の現場では物理的な問題が解決しても精神的な問題が解決しないことが多いことを説明。
その上で、当浴室も、物理的に使用できるか否かを問わず、精神的に使用を困難とする人が少なくないはずであることを説明。
すると、今度は男性の表情が憮然となり、気マズイ雰囲気に。
結果、私が悪者のようになってしまい、頼まれて来たのに“お呼びでない”状態になってしまった。

人口減少の時勢にあっては、ただでさえ空室を埋めるのは楽じゃない。
死人がでた部屋なら尚更で、新たな借り手はつきにくい。
その策としては、家賃を地域相場より低く設定するほかない。
場合(風評等)によっては、その部屋だけではなく、アパート全室の家賃を下げざるを得ない状況に陥ることだってある。
大家にとって、浴室交換は、予想される経済損失を少しでも小さくするための最低限の必須策だった。

もともと、賃貸物件では、退去後の原状回復についてトラブルが起こりやすい。
部屋を使用すれば、ある程度の汚損が発生するのは当然のこと。
長く住めば、経年変化や損耗も発生する。
この復旧に関する責任の所在について、賃貸人と賃借人の間でトラブルが起こるのは珍しくないことなのだ。

故人は、借り物の自宅で、ただ亡くなっただけ。
特段の罪を犯したわけではない。
自殺は意図的な行為だから賃借人に重過失が認められる場合が多いけど、自然死の場合は賃借人に過失が認められにくい。
法的に、事故死・事件死・自殺等が過失死と解釈されるケースはあるけど、病死・老死・自然死等は過失死と解釈しようがないから。
それでも、そんな理屈に関係なく、大方の人は本能的に死を忌み嫌う。
そして、それがトラブルの素になる。

どちらにしろ、全て責任を賃借人が負うのはバランスが悪い。
そうは言っても、賃借人に契約違反、故意、過失、良識を逸脱した使用、善良なる管理者の注意義務不履行等がある場合にも賃貸人が責任を負うのはおかしい。
やはり、社会通念に照らし、状況によって賃貸人・賃借人双方がバランスよく責任を分担するのが望ましい。
(国土交通省がガイドラインをだしてはいるけど、明確な基準や法的拘束力はない。)

男性の気持ちはわかった。
大家の気持ちもわかった。
また、二人も、お互いの気持ちを察することができないわけでもなさそうだった。
ただ、私には、本件を裁定する見識も権限もない。
更に、この件に首を突っ込むのは、自分のためにならないと判断。
考えた末、浴室改修工事にかかる費用を大家と男性で折半することを提案。
そのうえで、もう一度、よく話し合うこと、そして、それでも決着がつかない場合は、専門家に相談し公の場に出ることを勧めた。


本件の私の動きは、現地調査。
そして、結論がでないため、清掃消毒作業は依頼されず。
したがって、代金は発生せず、ただのタダ働きに。
しかし、男性も大家も、私のことを“役立たず”と思ったのか、「ご苦労様」「ありがとう」の一言も口にせず。
それどころか、一通りの話が終わると、「もうアンタに用はない」といった雰囲気を漂わせながら黙り込んだ。

私の内心には、そんな二人に対する不満が沸々・・・
しかし、その捌け口はどこにもなく・・・
私は、人の気持ちを察した疲れと、自分の気持ちを察してもらえなかった悔しさを抱えたまま、黙って帰途についたのだった。



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Negative speaker

2014-03-19 09:15:09 | 特殊清掃 自殺
年柄年中、あちこちの街に出かけている私。
ある時、ある街で、妙な看板が目についた。
そこには、
「ネガティブスピーカーと楽しく会話」
と、デッカイ文字。

「ん? ネガティブスピーカー!?」
「ネガティブスピーカーと楽しく会話なんてできんのか?」
と、私は、少し驚いて頭を傾げた。
そして、自分の仕事を棚に上げて
「世に中にはヘンテコな商売があるもんだな」
と感心しながら苦笑。
しかし、その看板をよく見ると、「ネガティブスピーカー」ではなく「ネイティブスピーカー」と書いてある。
それは、どこにでもある、英会話教室の看板だった。

“ネガティブスピーカー”と“ネイティブスピーカー”はまったく別物。
そもそも“ネガティブスピーカー”なんて言葉、聞いたことがない。
「“ネイティブスピーカー”を“ネガティブスピーカー”と読み間違えるなんて、何とも俺らしいや」
マイナス思考が服を着たような人間である私は、再び苦笑したのだった。


故人は50代の男性。
死因は縊死。
現場は、一時代前のアパート
間取りは2DK。
死後、結構な日数が経過しており、深刻な汚染と異臭があった。

入室して、まず目指したのは遺体汚染痕。
それは、和室の押入れの前に残留。
畳は何枚もの新聞紙に覆われ、更に、その新聞紙は大量の腐敗液に覆われていた。
上を見上げると、押入れの天井板は外され、梁が露出。
故人は、押入れの天井裏の梁を使って首に体重をかけたよう。
そして、そのままの状態で何日もの時間が経過したようだった。

警察がその辺にある新聞紙・タオル・毛布などを腐敗液の上に敷くことはよくある。
自分の靴が汚れないようにするために。
そして、この現場の床にも、多くの新聞紙が敷かれていた。
しかし、それは、故人が敷いたもの。
それが、腐敗液発生の後に敷かれたものであるのか、その前に敷かれたものであるのか、汚染状態を見てすぐにわかった。

故人は、自分なりに後のことを考えたよう。
それを気にかけるようだから、多分、故人は決行前に用を足したはず。
それでも、糞尿が少しは垂れることを想定したのだと思う。
しかし、その用意も虚しく、遺体は著しく腐敗し、新聞紙では到底まかないきれないほどの汚物を発生させたのだった。

特掃作業は、特に困難なものではなかった。
フローリングとは違い、畳の場合、必要な作業は、「掃除」というより「撤去」。
汚れた畳は、そのまま撤去すれば済む。
あとは、敷居や柱に着いた腐敗液を除去すればいいだけ。
ただ、パックリと口を開けた押入の天井は、まるで処刑台の下にいるかのように錯覚するくらいの寒々しさがあった。
そして、それが作業の邪魔になりそうに思えた私は、まず先に押入の天井板を元に戻し、その光景を自分の視界から消した。

結局、作業自体は、身体的に重いものにはならなかった。
ただ、私には、別のものが重くのしかかった。
それは、故人が残したメモ・・・
同じことが書かれた何枚ものメモが、部屋のあちこちに散乱。
警察は、それらを遺言・遺書の類とみなさなかったのか、そのまま放置。
それが、私の精神に重くのしかかってきたのだった。

「金も仕事も家もない」
「人生50年 余分に生きてしまった」
何枚ものメモには、すべてそう書いてあった。それだけしか書いてなかった。
そこからは、故人が、経済的にも社会的にも困窮していたこと、そして、明日に対して夢も希望も持てなくなっていたことがハッキリうかがえた。
そして、故人は、今に疲れ、将来を悲観し、生きることをやめた・・・

故人は、どんな気持ちでメモを書いたのだろうか・・・
何故、同じものを何枚も書いたのだろうか・・・
死にたがる自分が納得するためだったのだろうか・・・
生きたがる自分を説得するためだったのだろうか・・・
新聞紙を敷くときの気持ちはどんなものだったのだろうか・・・
・・・私の頭には、そんな思いばかりが過ぎった。
そして、私は、悲しい、寂しい、虚しい、同情・・・そんな言葉では片付けられない重苦しい心境に陥った。
同時に、思いたくなくても、それが自分のことのように思えてしまい、重苦しい気分は下へ下へと引きずり下ろされていったのだった。


少子高齢化
経済格差・教育格差・拡大する貧困層
上がるばかりの税金・社会保険料等
下がるばかりの年金・医療費等
不景気・財政赤字
就職難・結婚難
環境破壊、大地震の想定
あたたかみのない競争社会
殺伐とした人間関係etc・・・
残念ながら、将来を悲観しようと思ったら、その材料はいくらでもある。
そんな中にあっては、夢や希望を持つことは簡単なことではない。

とりわけ、私のような、何の取り柄も能力も経歴もない中高齢者はそう。
特に、私は、右に出る者が他にいないくらいのネガティブ人間(かなり重症)。
何事も悲観すること、マイナスに考えることが大得意。
大方の事について、ポジティブに捉えることを苦手とし、楽観すること、プラスに考えることができない習性を持つ。
だから、何の根拠もなく将来を楽観してポジティブに考えることなんて、簡単にはできない。

病死、孤独死、自殺、事故死、事件死・・・
私は、それらを作り事ではない現実として体感している。
時に励まされ、時に奮い立たされ、時に精神を立て直すチャンスが与えられる。
ただ、そこで受け取り、自ら発生させるものは、プラスのものばかりではない。
時に不安感を煽られ、時に虚無感に襲われ、時に疲労感に苛まれる。
一人一人の死から感じたことをプラスに転じることが故人に対する礼儀みたいに思いながらも、それができなくてマイナスに落ち込むことも少なくない。

だから、自分自身のことについては、愚痴や弱音、暗い話や悲観的な話が多い。
ブログの上でも、連々脈々と似たような陰鬱話を繰り返してしまうのだ。
ただ、それは、自分にできるかぎり正直に書こうとしていることの現れでもある。
もちろん、誰かに読まれていることを意識して、汚い部分に蓋をして、きれいな結論に向かおうとする自分・向かう自分がいないわけではない。
また、ときには、無理矢理、ポジティブなキャラクターを作りあげたりもする。
誰かにいいカッコしたいがために。自分を叱咤激励するために。

自分を肯定するために、自分を否定する。
人から肯定してもらいたいから、自分を否定する。
自分を善人にするために、偽善者を自称する。
人から善人にみてもらいたいから、偽善者を自称する。
本質(事実)を非難されることを嫌い、上辺だけでも賞賛されることを好む。
これが私の器。
これが私の限界。
これが私。

私は、ポジティブな話をたくさんしたいけど、多分、できない。
ポジティブな人間になりたいけど、多分、なれない。
自分ではどうしようもできない苦悩の人生を歩いているから。
弱い自分を自分ではどうしようもできないから。
それでも、私は、生きなければならない。理由はどこかにある。
だから、こうして生き、そして、その生苦をこうして吐露しているのである。


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残された時間

2014-03-13 06:51:45 | ゴミ屋敷 ゴミ部屋 片づけ
「ゴミの片付けと清掃をお願いしたい」
と、ある女性から相談が舞い込んだ。
現場は、女性の自宅。
それなりの経験がある私は、女性がくれる情報を組み立てて、頭の中で女性宅を映像化。
そして、それを分析し、その片付け・清掃に要する作業内容と費用を伝えた。

私が提示した概算費用は、女性が想像していた金額とはかなり乖離。
「てっきり、○万円くらいで済むと思ってたんですけど・・・」
と、具体的な金額を明かしてきた。
しかし、それは、予想されるこの仕事にはまったく合わない金額。
私は、不親切な人間と思われることを承知で
「多分、その費用ではやれないと思います」
と難色を示した。

あたたかい人間でありたいとは思うけど、私は、結構、冷たい人間。
この仕事だって、基本的には“ビジネス”と割り切っている。
しばらく前の「痩心」に書いた通り。
だから、こちらが見積もる料金と依頼者が心積もる料金が、まったくかけ離れた金額だと、現地調査を断ることもある。
現地調査に行くだけでも、それなりの移動交通費・駐車場・人件費等がかかるわけで、仕事にならないとわかってしまっては現場に行きようがない。
私自身も気が進まないし、会社もそれを許可しない。
本件も、まったくのそれで、私は「行くだけ無駄だな」と思い、遠まわしに現地調査は不可能であることを伝えた。

そんな冷たい私に対しても、女性は電話を切ろうとせず。
「色々と要望がありまして、場合によっては予算を増やすこともできますけど・・・」
と、意味深なことを言ってきた。
そうなると話は変わる。
金になる可能性もでてくるわけで・・・
「現場を見せていただかないと何も始まりませんから・・・」
と、私は、手の平を返したように調子のいいことを言って、女性の希望する日時を訊いた。
そして、
「できるだけ早く来て下さい!」
という女性の要望を聞いて、その日の午後、予定を変更して女性宅を訪問した。

訪れた家は、静かな住宅街に建つ一般的な一戸建。
インターフォンを押すと、女性はすぐに玄関を開けてくれた。
早速に招き入れられた室内は、ほぼ想像通り。
床が見えていないほどではなかったが、玄関からゴミが散乱。
靴を脱いで上がると、どこを踏んでも足の裏に異物感を感じるような状態。
また、階段の隅々には、毛髪とホコリが大きな塊を掬っていた。
特に酷かったのは、レンジ回り、換気扇、キッチンシンク。そして、浴室・トイレ。
いわゆる“水廻り”といわれる箇所で、どこもかしこも重汚染が付着し、日常で使用していることが信じられないくらいの状態になっていた。

女性は、夫と子供二人の四人家族。
掃除や整理整頓は家族の誰もが苦手。
そもそも、子供はその躾を受けていない。
掃除や片付けをするのは、気が向いたときぐらい。
ただ、女性は専業主婦。
「家事は女がやるもの」なんて古い考えは持っていないつもりだけど、生活上の役割を考えると、4人の中で女性の責任は最も重いように思えた。

掃除が必要になったキッカケは、遠くに住む義父母の来宅予定。
それまでにも何度か義父母が遊びに来る話はあったが、その時々でテキトーな理由をつけではのらりくらりとかわしてきた。
しかし、業を煮やした義父母には、もう、その手は通用せず。
義父母は、半ば強引に息子宅の訪問を決めたのだった。

やはり、女性の予算では、仕事を請け負うことは不可能。
私は“足元はみてない”ことを強調したうえで、必要な作業内容とコストを説明。
そして、見積った金額の根拠を示した。
すると、女性は私の説明を理解したよう。
意外なほどアッサリと、私が提示する金額を承諾。
その代わり、作業時間について条件を付けてきた。
それは、依頼した作業を翌日中に完了させるというもの。
費用を増額してもらったとはいえ、私にとっては、なかなか厳しい条件だった。

そこからの作業が、結構な緊張感をともなうドタバタ仕事になったことは言うまでもない。
とにかく、時間がない。
与えられた時間内に家中をきれいにするのは無理。
とりあえず、義父母対策ができればいいわけだから、片付ける対象に優先順位をつけることに。
義父母が立ち入らないはずの子供部屋と夫婦の寝室がある二階部分は後回し。
逆に、義父母が使う一階部分や水廻りを優先。
とりあえず、二階の子供部屋を物置代わりにすることにし、必要な物や捨てたくない物は、一時的にそこにまとめて収納。
そして、残るであろう大半のゴミや不要物は、翌日、梱包して搬出することにした。

一番の課題は水廻りの清掃。
風呂、洗面台、トイレ、そしてキッチンシンク
どこもかしこもヒドく汚れ、一朝一夕にはどうにもならない
しかし、先にそこをやっつけておかないと、落ち着かない。
私は、水廻りの掃除がある程度終わるまで帰らないことを女性に伝え、その作業に着手した。

幸いにも(不幸にも?)、私は特清隊長。
もっと酷いところを掃除した経験をいくつも持つ。
そのためだろう、実際やってみると、この家の掃除なんて、そう難しいものではなかった。
だから、一般の人がやるよりもはるかに早いスピードで掃除は進行。
結局、抱えていたプレッシャーがウソのように、その掃除はスムーズに完了し、私は胸をなでおろした。
そして、翌日の作業を頭でシミュレーションしつつ、また、残された時間の少なさに緊張しつつ、その日は帰途に着いた。

何事も協力しあってやることは大事。
仲間(同僚)にもここの作業を優先してもらい、翌日は、朝早くから作業開始。
梱包したゴミは家から搬出し、家の前にとめたトラックに積載。
必要な物、捨てたくない物は、袋に詰めて二階の子供部屋へ。
ひたすら、それを繰り返した。

結果、二階の子供部屋は、ほとんど物置状態に。
しかし、一階は余計な物がなくなりスッキリ。
水廻りも結構ピカピカ。
夕方までかかることも覚悟していたが、作業は、午後の明るいうちに終了。
女性は、嫁としての面目を潰さずに済んだことに安堵したよう。
「さすがですね」
と、笑顔で我々の作業を褒めてくれた。
そうして、限られた時間の中で作業手順や作業対象に優先順位をつけたことが功を奏し、ドタバタの作業は期日内になんとか終了したのだった。


誰もが、期限付きの人生を生きている。
誰しも、残された時間は限られている。
10年生きるとしたら、あと3,700日程度
20年生きるとしたら、あと約7,300日程度
30年生きるとしたら、あと10,000日余
日数に換算すると「たったそれだけか・・・」と思う。
そんな中で、一日一日は確実に過ぎている。
泣いても笑っても、喜んでも悲しんでも、一日ずつ死期は近づいている。

この残された時間をどう使うか・・・
使い方は複数、だけど身体は一つ。
これまでやってきた物事の優先順位を見直すだけで、時間の密度が高まるかもしれない。
しかし、この人生、やりたいことだけやって生きていくことはできない。
やりたくないことでも、やらなければならないことがたくさんある。
時間の使い方において、自分の希望通りの優先順位なんてなかなかつけられないのも現実。

しかし、考えることはできる。
そして、ささやかながら実行に移せることもある。
日々の生活において大切にしているもの・大切にしていることが、人生にとって・人として大切なものとは限らない。
だから、この再考は大きな意味を持つ。


あの大震災から三年・・・
アノ時、少しは変わったかもしれなかった自分の価値観・・・
しかし、結局、元に戻ってしまった自分の価値観・・・
今、それを思い返しながら、大切にすべきものの順位を探っている私である。


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初志甘徹

2014-03-08 08:48:35 | ゴミ屋敷 ゴミ部屋 片づけ
一月が行き、二月が逃げ、もう三月。
あれから、一年が経った・・・
そう、私が週休肝二日を始めてから。
昨年の三月からはじめて、何とか一年を通すことができた。

ルールは、一年前のブログに書いた通り。
日曜~土曜の間、任意で二日以上、酒を飲まない日をもうけるというもの。
簡単なルールだけど、これをやり通すのは、なかなか簡単ではなかった。

たった週二日、されど週二日。
現場がキツくて咽が渇きやすい春・夏は苦戦。
相当意識したため、何とか二日は死守することができた。
逆に、秋・冬は楽勝。
精神の低迷のため、飲みたい気持ちも高まらず、自然と飲まない日が多くなった。

飲まなかった日は、カレンダーに赤○印。
週の前半に赤丸を一つでもつけておかなければ、後半にプレッシャーがかかってくる。
何事もプレッシャーを嫌う私は、とにかく、週末になる前に週休肝二日を達成するよう努めた。
そして、赤丸が多くなるほど、達成感も増していった。

害といえば我慢のストレスくらいで、身体(健康)のことを考えると利のほうが大きい。
ただ、ストレスを侮ってはいけない。
これはこれで不健康の原因になる。
だから、ノンアルコールビールや炭酸水等の力を借りながら、少しでもストレスを抱えないで済むよう工夫しながら、これからも続けていくつもり。

そもそも、何かをやり通すことが苦手な私。
思い返してみると、三日坊主で放り出したこと、ちょっとした困難で挫折したこと、怠け心に負けて逃げたこと・・・キリがないくらい挙がる。
もっと、自分に厳しく、努力と忍耐ができる人間だったらよかったのに・・・
これまで、何度、自分で自分を恨めしく思ったことか。
だからこそ、誰に威張れることじゃないけど、週休肝二日をやり通せたことに満足している。


依頼者は、30代の男性。
依頼の内容は、部屋に溜めたゴミの片付けと清掃。
現場は、1Rのマンション。
男性の自宅だった。

約束の日時、男性は自宅で私の到着を待っていた。
部屋からでてきた男性は、何かの不安を抱えてか、羞恥心が膨らんでか、少し緊張オドオド気味。
それでも、私を部屋に入れなければ何も始まらないわけで、男性は、
「靴のままで構いませんから」
と、申し訳なさそうに私に通路を空けた。
しかし、部屋の状態は、私の予想よりも軽症。
床はゴミに覆われ一部たりとも見えていなかったが、ゴミにたいした厚みはなく、また異臭も軽度。
土足のまま上がるほどの惨状ではなかったため、私は靴を脱ぎ「失礼します」と一般の御宅と同じに上がり込んだ。

ゴミ部屋を片付けようと思い立つにあたっては、色んな動機(きっかけ)がある。
事例として多いのは、
家族・大家・不動産会社等の第三者に見つかってしまった
設備の点検等で第三者が部屋に入る事情が発生した
転勤・転職等で引っ越すことになった
というもの。
そんな中で、男性には急務の事情はなかった。
転職や転居の予定はなく、誰かが部屋に入る予定もなければ誰かに見つかったわけでもなかった。
ただ、
「このままだマズいことになると思いまして・・・」
とのこと。
やったことは賢明ではなかったが、その考えは賢明だった。

これまでのブログで何度となく書いてきた通り、ゴミ部屋は、放置すればするほど、長期化すればするほど状況は悪化し、その後始末が大変なことになる。
場合によっては、内装建材に深刻な汚損をもたらし、大きな工事が必要になることもある。
しかし、ある程度のところで行動を起こせば、後始末も軽易にすみ、内装建材も清掃で復旧できる。

幸い、男性の部屋は後者。
ゴミの中に食べ残しの食品や飲料はなく、作業は、比較的、軽易に済んだ。
また、内装の汚損も軽症。
建材に損傷はなく、簡単な拭掃除できれいになった。
キッチンシンク・風呂・トイレ等の水廻りは、結構な汚さだったが、何とかこれも清掃で復旧。
大事になることなく原状を回復させることができた。

「きれいにしてもらって助かりました」
「これからは、キチンとやります!」
と、男性は、明るい表情で私に代金を差し出した。
そして、深々と頭を下げた。

「そうですね・・・」
「二度とお目にかかるようなことがない方がいいですけど、またお役に立てそうなことがあったら呼んで下さい」
と、私は、代金を受け取りながら冗談を飛ばした。
そして、どこの現場にもある一期一会の余韻に浸りながら、現場を後にした。


それから、しばらくの月日が経ち・・・
ある日、憶えのない番号を映しながら私の携帯電話が鳴った。
「一年ほど前に部屋を片付けてもらった者ですけど、おぼえておられますか?」
電話の向こうは男性の声。
場所を告げられた私は、すぐに記憶を回復。
男性のことも部屋のことも、まるで昨日のことのようにリアルに思い出すことができた。

「またやっちゃいまして・・・」
男性は、せっかくきれいになった部屋に、またゴミを溜めてしまったよう。
一度目の作業で懲りたはず・・・
生活習慣をあらためることを決意したはず・・・
にも関わらず、再び、自宅をゴミ部屋にしてしまったようだった。

男性は、私の携帯番号を登録しておいたよう。
二度と関わるつもりがなければ、わざわざ登録はしないはず。
なのに、私の携帯番号をとっておいたわけで・・・
そこところに、私は、自分と類を同じくする人間味を感じ、そして、何ともいえない親しみを覚えた。

再び訪れた男性の部屋。
一年前と同じ部屋。当然、男性も同一人物。
ただ、前回とは違い、作業についてのこと細かい説明は省略。
男性も、質問らしい質問はほとんどせず、
「あとはヨロシクお願いします」
「終わったら電話ください」
と、旧知の友に頼み事をするかのように、アッサリと私に部屋を解放し、どこかへ出掛けて行った。

前回も重症ではなかったが、今回は、更に軽症。
ゴミの種類も前回同様で、特別な汚物はなし。
水廻りの汚染も、前回ほどではなかった。
ともない、作業は比較的短時間のうちに原状を回復させることができた。

「ありがとうございます・・・」
「今度こそ、キチンとやるつもりです・・・」
と、男性は、自身なさそうに私に代金を差し出した。
そして、深々と頭を下げた。

「そうですね・・・」
「もうお目にかかるようなことがなければいいですけど、また必要があったら呼んで下さい」
と、私は、代金を受け取りながら半分本気の冗談を飛ばした。
そして、この現場にしかない、人との関わりに心をあたためながら、現場を後にした。


二回目の作業から、もう一年半が経つ。
あのとき、
「また一年後に来ることになるのかな・・・」
と思う私だったが、今のところ、男性から連絡はない。

二度の片付けで懲りた男性は、気持ちを入れ直して生活をあらためたのかもしれない。
面倒臭がらず日々のゴミを分別して、キチンと出すようになったのかもしれない。
男性にとって、それは幸いなこと。
そのことを思うと嬉しくもあり、また、正直なところ、少し寂しいような気もしている。
が、まぁ、それでいいのだと微笑んでいる。


決意を貫けば、多くの甘味がもたらされる。
成功、成果、達成感、満足感、優越感、精神力etc・・・
しかし、人間というものは弱いもの。
そして、人生には、試行錯誤、紆余曲折、挫折頓挫、一進一退がつきもの。
理性に従うことが難しいときがある。

決意を貫けないのも人間。自分に甘くなるのも人間。
そして、決意を貫けないことにも味わいがある・・・甘味にはない妙味がある。
失敗、反省、後悔、不満、劣等感etc・・・そして、その後の向上心と自己革新。
そう・・・人生には、初志貫徹できたときの甘味と、初志貫徹できなかったときの妙味がある。

そう開き直らないと、私のような暗い人間には陽が差さない・・・
そう考えないと、私のような弱い人間は強くなれない・・・
そう信じないと、私のような甘い人間は辛い人生を生きていけないのである。



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腐条理

2014-03-02 12:23:41 | 生活保護
4月から消費税が上がる。
たった3%、されど3%。
塵も積もれば山。
これが庶民の家計を圧迫するのは、目に見えている。
収入は増えず支出だけが増えるのだから、とりあえず、節約しやすい食費や遊興費を抑えて収支を合わせるしかない。
(メタ坊とカン臓君にはいいことかも。)

消費税に限らず、見回してみると、身の回りは税金だらけ。
直接的に、間接的に、気づいているところで、気づいていないところで諸々課金されている。
ただ、国民は法律の定めるところにより納税の義務を負う(憲法30条)。
生活がきつかろうが、課されたものは納めなければならない。

もちろん、納めただけの恩恵に与れるのなら文句は言えない。
ただ、実際は、そうではない(らしい)。
少なからずの税金が無駄遣いされている(らしい)。
特に、利権を持つ一部の特権階級に金銭が流れているというニュースを聞くと不条理を感じる。
しかし、力なき一庶民には、手出しも口出しもできない。
ただただ、これ以上、税金が上がらないことと、無駄遣いが少なくなることを願うことしかできない。


以前、仕事で、とある役所の福祉課に行ったことがあった。
生活保護の受給者が孤独死した現場で、その部屋の始末を請け負った際の用向きで出向いたのだ。
そのカウンターには、役所の担当者と向かい合うかたちで何人かの相談者が座っていた。
その後ろには、相談待ちの人達が座る椅子があり、既に何人かの人が自分の番がくるのを待っていた。
生活保護の相談に来たわけではない私は、そこに混ざって座るのに抵抗があったため、更に後ろの方に立って担当者の手が空くのを待った。
しかし、担当者は相談業務で大忙し。
なかなか私の用に時間をとることができず。
立ったまま待つ私に「時間がかかりそうですから・・・」と、椅子に座るようすすめてくれた。
断るのも失礼かと思い、私は、仕方なく生活保護の相談に訪れた人達に混ざったのだった。

そこは、相談カウンターのすぐそば。
聞き耳を立てなくても、相談内容が聞こえてくる。
聞いては失礼と思いながらも、耳に入ってくるものを拒むことはできず。
野次馬に見られたくなかった私は、携帯電話をいじりながら下を向き、一方的に入ってくる話し声を耳に受け入れた。

相談の内容は、生活保護受給申請について。
それに対して役所の担当者は、生活保護制度の趣旨やルールを説明。
相談者がきちんと理解できるよう、わかりやすい言葉で丁寧に話した。
その内容は、いちいちごもっとも。
昨今は、役所の冷たい対応が不条理であるかのように報道されがちだけど、私はそう感じず。
「もっと厳しいこと言っていいんじゃないの?」
と思うくらい。
もちろん、この役所、この担当者がたまたまそうだっただけなのかもしれないけど、担当者からは違和感を覚えるような話はなく、相談者に対して冷たい態度をとっているようにもみえなかった。

生活保護受給者数は年々増加し、近年は、過去の最高値を更新し続けているらしい。
もちろん、それにかかる費用も同様。
ただでさえ逼迫している公の財政に更に負担をかけている。
直接の生活保護費はもちろん、生活保護制度を運用するための経費全般を入れると、莫大な額の税金が消えているのだろう。

私は、長くこの仕事をしているわけで、生活保護受給者の部屋を片付けたことが何度となくある。
そして、少なからずの現場で、違和感を覚える光景を目にしたことがある。
漫画・雑誌・DVD・ゲーム類だけでなく、ブランド品・酒・タバコetc・・・
「贅沢品」というには大袈裟だけど、生活保護費の使途としては、いささか不適切と思われるようなものがあるのだ。
あくまで個人的な憶測だけど、不正受給者はもちろん、不適切な浪費をしている人も少なくないのではないかと思う。
今の生活保護制度は、「保護を求める人」と「保護を必要とする人」が区別なく混同されて正しく運用されていないような気がして、なんともいえない不条理を感じる。

人間社会において、共同連帯・相互扶助の精神はとても大切。
国の制度を活用することが悪いわけではないし、保護が必要な人を助けることに異論があるわけではない。
全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する(憲法25条)わけで、生活保護受給者にも、幸せに暮らす権利はあり、楽しみを味わう権利もある。
たまには、酒を飲み、タバコを吸い、レジャーを楽しむことがあってもいいだろう。
ただ、その裏には、飲みたい酒を我慢し、吸いたいタバコを我慢し、レジャーを我慢しながら暮している多くの納税者がいることを忘れてはいけないと思う。
原資は、その税金なのだから、使途には一定の良心とモラルが必要だと思う。


出向いた現場は、郊外に建つマンション。
駅から徒歩圏内にあり、近くに商店も多く、生活の便は悪くない立地。
間取りは1R。
決して広くはないながらも、きれいな部屋で、生活に必要な設備はすべて完備。
一人で暮らすには遜色のない物件だった。

生活保護受給者は、風呂もないような老朽アパートやボロ家屋で暮しているようなイメージがあるかもしれないけど、今は、決してそんなことはない。
自己所有の家に暮らす人はほとんどいないと思うけど、普通のマンションやアパートに暮している人が多いと思う。
ワーキングプア状態の納税者よりも、いい家に住んでいる人も少なくないと思う。
まさに、この部屋もそうだった。

故人は、50代の男性。
生活保護受給者。
どういう経緯でそうなったのか知る由もなかったが、仕事には就いていなかったよう。
部屋にある家財生活用品は、多からず少なからず。
贅沢な家具・家電は目につかなかったが、そこには、私に違和感を覚えさせる酒の空瓶やタバコの吸殻が残されていた。
そして、更に私の違和感を増幅させるものがあった。
それは、ギャンブルの購入券。
部屋には、大量の券が残されていた。

一体、どれくらいの金額をギャンブルに費やしていたのかわからないけど、その数からみて、故人は、少なからずの金銭を費やしていたと思われた。
「金さえあれば・・・」
と、故人は、一攫千金を、一発逆転を夢みたのだろう。
私もお金が大好きなので、その気持ちはわかる。
しかし、故人の収入源は生活保護費。
そんなことに費やしていいものとは、とても思えなかった。

私は、そこに、何とも言えないストレスを感じた。
働く者が働かない者を支えることに不条理を感じた。
(故人は、“働かない者”ではなく“働けない者”だったのかもしれないけど。)
そして、故人を非難する気持ちが沸いてきた。
そこには、故人の死を悼む気持ちも、その人生を顧みようとする気持ちもなかった。
私は、そんな自分を「正しい」と思っていた。

私は、人間的・人格的には半人前かもしれないけど、社会的・経済的にはとりあえず一人前(のつもり)。
世間や他人に余計な迷惑や負担をかけていないと自負している。
しかし、結局のところ、私は、社会や誰かに世話されて生きている。
社会や誰かに守られながら生きている。
それがないと生きていけない。
そんな私が、困窮者や社会的弱者の立場や事情を真に理解しないまま、表面上のことだけをとらえて安易に裁断していいものか・・・

「生活保護を受けず餓死・・・」
たまに、そんなニュースを耳にする。
また、生活保護の申請をすることなく自殺した人々を目にしてきた。
そして、そんな人達のことを、「立派」「潔い」みたいな感覚で受け止めてしまっている自分がいる。
常々、生きることの大切さを訴えておきながら・・・
苦しくても頑張って生きなければならないと言っておきながら・・・

残念ながら、私の条理はどこかで腐っているのかもしれない・・・
ならば、腐った部分を取り除くため、卑屈にならず過信せず、卑下せず高ぶらず、自分の立ち位置を確かなところへ移さなければならない。
そして、自分が抱える腐条理を、条理をもって片付けるよう努めなければならない。
この狭い人生を広く生きるため、この猥雑な人生を清々しく生きるために。


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