2022年大晦日、今年も今日でおしまい。
世間は、正月に向けて賑やかに華やかになっている。
ただ、そんな祝賀ムードに反して、コロナ禍が、再び暗い影を落としている。
まさか、こんなに長い戦いになるとは・・・
「もう、大きな波はこないのではないか・・・」
七波が過ぎた頃、何の根拠もない中で、私は、何となくそんな風に思っていた。
しかし、現実はこの通り。
再び、大波が押し寄せている。
ただ、世の中に漂う不安感は、それほど大きくない。
特段の行動制限もないうえ、メディアも、以前のような不安を煽るような?報道もしていないような気がするし。
また、外国人観光客も戻りつつあるようだし、気持ちにも財布にも余裕がない私には縁のない話だけど、TVをつけると、家族や友人を連れ立ってショッピングやレジャー、行楽や旅行、趣味や飲食を楽しむ人の姿が多く映し出される。
良し悪しは別として、“withコロナ”が定着しつつあるのだろう、慣れてしまった感が強い。
当初は、ワクチンを打たない人は少数派で、時には、非難の的になることもあった。
が、接種回数が進むにつれ、接種率も低下。
副反応のツラさや重症化率・死亡率の低下が影響しているのだろう、私の周りにも、「面倒くさいから」と、四回目を打たない人がでてきている。
私もその一人なのかもしれないけど、多くの人が、良くも悪くも危機感が低下、良くも悪くも無関心になっているような気がする。
しかし、この第八波、感染者数だけみると、第七波を超えて最大の波になりそう。
依然としてコロナの感染力は強いわけだし、危惧されていたインフルエンザとの同時流行も現実化しつつある。
重症化率や死亡率が高くないとはいえ、重症化している人や亡くなる人が絶えているわけではない。
事実、一日の死者数は400人を超え、過去最悪を記録。
病院への見舞いが制限される中で、淋しく亡くなっている人も少なくないはず。
更に、今が八波のピークではないわけで、重症者や死亡者はまだまだ増える。
高齢者じゃなくても基礎疾患がなくても、油断は禁物。
後遺症に苦しんでいる人も多いようだし、「他人事」として済ませるわけにはいかない。
そうは言っても、今更、行動制限をかけるのは困難。
ここまできての行動制限は、感情的に不満を覚え、感覚的に違和感を覚え、経済的に厳しさを覚える。
医療関係の方々には申し訳ないが、行動制限によるメリットよりもデメリットの方が大きいような気もするし、今更の行動制限が“焼け石に水”になるのは明白。
となると、我々は、コロナに対して無関心にならず、できることをやるしかない。
まずは、基本的な感染対策の励行。
あと、打てる人はワクチンを接種すること。
旅行や飲食は中止しないにしても、責任ある行動と周りへの配慮は大切にしたいものだ。
ある日の夜、とある不動産管理会社から電話が入った。
依頼の内容は、
「管理物件で孤独死が発生」
「発見されるまで時間がかかった」
「苦情がきているわけじゃないが、マズイ状態」
というもの。
話の内容から、私は、ヘビー級の汚染の想像。
次の日の朝一で現場に出向く約束をした。
出向いた現場は、かなり古いマンション。
私は約束の時間より少し早く現場に到着。
建物に間違いがないか確認するため外壁に建物名を探したが、それより先に、私の視線は一室の窓に引き寄せられた。
その部屋の窓には、でっかく成長した無数のハエが・・・
「ここかぁ・・・」
建物名や部屋番号を確認するまでもなく、私は、そこが現場であることを確信し玄関の方へ。
「かなり臭うな・・・」
慣れたことだから、不快に思ったわけでも緊張したわけでもなかったが、それでも、私の眉間にはシワが寄ってしまった。
担当者は、約束の時間通りにやってきた。
見た感じ、歳は三十前後か。
不動産管理の仕事に就いて数年が経っていたが、こういった現場に遭遇した経験はないそう。
にも関わらず、会社からは「一人で行ってこい」と指示されたよう。
孤独感と心細さのせいか、その表情は硬く、やや強ばった感じ。
普段はスーツを着て仕事をしているのだろうに、その時は、作業着のような私服姿。
“腐乱死体現場”とはいかなるものか、インターネットで下調べをしたそうで、自分なりに考えて、部屋に中に入るための対策を講じているようだった。
ただ、実際のところ、部屋に入るだけでは服が汚れたりはしない。
もちろん、汚れたところを踏んだりすれば靴が汚れてしまうけど。
飛び回るハエだって、わざとぶつかってくるようなことはないし、這いまわるウジだって、わざわざ近寄ってくるようなこともない。
むしろ、逃げようとするばかり。
だから、部屋を見るだけなら汚れを心配する必要はない。
問題なのはニオイ。
短時間でも、服や髪に付着する。
ちょっと長い時間になると、露出した皮膚にまで付着する。
ヘヴィー級の現場で特殊清掃なんかやったりすると、ヒドいことになる。
このブログで たまに登場する「ウ〇コ男」の状態になるわけ。
当然、そのまま、電車やバスに乗ったり、店に入ったりすることはできなくなる。
咎められることはないかもしれないけど、人に不快な思いをさせ顰蹙を買うことは間違いない。
だから、マナーとして“ウ〇コ男”は、公の場に姿を現してはいけないのである。
担当者は、窓に集るハエと、玄関前に漂うニオイと、インターネット情報に脅されて及び腰。
明らかに部屋に入りたくなさそう。
ただ、凄惨な部屋に私一人を突っ込むことに罪悪感みたいなものも覚えているよう。
「私も一緒じゃないとだめですよね?」
と、ちょっと気マズそうに訊いてきた。
一方、その心情を察した私は、
「大丈夫ですよ!ニオイもつくしトラウマになるといけないから、○○さん(担当者)は入らない方がいいかもしれませんよ」
と、“ドンマイ!ドンマイ!”といった雰囲気で明るく返答。
ホッと安堵の表情を浮かべる担当者から鍵を受け取り、高濃度の異臭とハエが飛び出してくることを警戒しながら鍵を開け、ドアを最小限に引きて素早く身体を滑り込ませた。
間取りは1DK。
玄関を上がった脇に浴室とトイレ。
その隣がDKで、更に奥が居室。
部屋には布団が敷かれており、遺体汚染は、そこを中心に残留。
汚染具合は重症で、敷布団には身体のカタチがクッキリと浮かび上がっており、掛布団も酷い有様。
腐敗体液をタップリ吸い込んだ状態で、グッショリと茶黒く変色。
その中には、丼飯を引っくり返したようなウジ群がウヨウヨ。
また、枕は、頭のカタチに丸く凹んでおり、カツラのごとく頭髪も残留。
もちろん、高濃度の異臭も充満。
私の出現に気づいた窓辺のハエも、狂気したように乱舞。
故人にその意図がなかったことは当然のことながら、
「どうして、ここまでになるまで放って置かれたかな・・・」
と、私は、何かに対して不満を覚えた。
現場は、結構な老朽建物。
建物としての寿命も過ぎており、修繕やメンテナンスの費用を考えると、不動産運用の旨味はなし。
取り壊しになるのも時間の問題で、部屋が空室になっても積極的に入居者を募集することもしていないようだった。
本来なら、隣や上の部屋にニオイの影響があってもおかしくない状況だったが、そんな事情もあり、故人宅の隣室も上室も空室。
また、故人宅は角部屋でもあり、玄関前を歩く人もおらず。
それでも、風向きによっては、故人宅から発せられる異臭は感知できたはずだし、何より、おびただしい数のハエが集る窓は異様な光景となっていたわけで、そこに関心を寄せないことも、やや不自然に思われた。
が、何事においても余計なことに関わりたくないのは人の性。
他の住人が「見て見ぬフリ」をしていたかどうかは不明ながら、その心情がわからなくはなかった。
“近所付き合い”なんて、積極的にしなくても支障はない。
本件のような単身者用の賃貸物件なら尚更。
町内会や管理組合等の縛りがあるわけではないし、顔を合わせたとき、一言、挨拶を交わすだけで礼儀は守れる。
昨今では、隣室などに引っ越しの挨拶をしないのも失礼にあたらず、むしろ当り前のよう。
事実、隣にどんな人が住んでいるのか知らないケースも多いのではないだろうか。
他人に無関心でいることは、ある意味、プライバシーを守るための自己防衛であり、相手に対するマナーであったりもする。
ただ、この社会を生きていくうえでは、人づき合いは不可欠。
そして、「人付き合い」って、楽しいことも多いが煩わしいことも多い。
とりわけ、仕事上では、気の合う人とだけ、好きな人とだけ付き合えばいいということにはならない。
気の合わない人や嫌いな人とも付き合っていかなければならない。
となると、お互い、“いい人”でいるために一定の距離が必要になる。
とりわけ、相性の悪い相手だと、お互いで本音と建て前を使いわけ、愛想笑いの裏で腹を探り合いながら付き合っていくことが求められる。
そんな、必要最低限、上辺だけの社交辞令だけで付き合いきれなくなると、「親しき仲にも礼儀あり」といったルールが崩れ、“いい人”ばかりではいられなくなる。
相手の一挙手一投足にストレスを感じるようになり、そのうち、陰口を叩くようになってきて、それが態度や表情に表れはじめ、幼稚な争いに発展してしまうこともある。
それで絶交できればいいのだが、現実的にそれができない場合、最悪、自分を殺して付き合うしかなくなってしまう。
ちなみに、私の個人的な感覚なのだが・・・
耳障りがいいからか、意味が曖昧で使いやすいからか、一文字の字面がいいからか、東日本大震災が期だったように記憶しているが、「絆」という言葉がもてはやされるようになって久しい。
私が、人付き合いが苦手で下手なせいか、あちこちで多用されるこの言葉には、何とも言えないムズ痒さを覚える。
「詭弁」とまでは言わないけど、「言葉と現実が乖離している」というか、「人の都合で強弱が変わる」というか、大なり小なり、ある種の共喰いや同士討ちがやめられない性質を持つ人間にはシックリこないような気がするのだ。
人付き合いを好む好まざるを問わず、高齢化が著しい社会の中では、社会との関りや人との繋がりを失った独居老人が増えている。
また、経済事情の厳しさや価値観の変化から、結婚願望を持たない若者も。
つまり、「私生活は一人」という人は多く、また、増えていくということ。
となると、「孤独死」も増えていくということか。
「孤独死」というと、「淋しそう」「かわいそう」等といった否定的な感情や暗い印象を抱きやすい。
しかし、「一人でいる」って、明るい一面もある。
何より、気楽。
誰かに干渉されることもなく、誰かを干渉する気を持たずにも済む。
事実、淋しさや孤独感を覚えることなく、一人を楽しんでいる人も多いと思う。
一人で生きるのが淋しい人生とは限らないし、多くの人に囲まれて生きる人生が淋しいものであることがあるかもしれない。
もちろん、淋しさに耐えながら、仕方なく一人でいる人もいると思うけど、それでも、そういう人を一方的に憐れむのは、軽率なことのように思う。
最期が孤独死だったからといって「淋しい人生だったのではないか」と、浅慮な早合点をしてはいけない。
とにもかくにも、人が一人で死んでいくことは自然なこと。
そして、その身体が朽ち果てるのも。
ただ、人間は社会的動物なわけで、死後、放置されることは、世間から自然なこととは受け止められない。
時に、それは、過剰な悲哀や嫌悪感を誘う。
肉体の腐敗が進み、現場が凄惨なものになると尚更で、故人の何もかもが否定的に捉えられやすくなってしまう。
しかし、現実の孤独死の現場では、
「どんな人生でしたか?」
と、世間が否定しがちな人生を肯定的に受け止めようとする気持ちが湧いてくる。
また、自殺現場では、
「必死に戦ったんですよね・・・」
と、世間が否定しがちな人生を労う気持ちが湧いてくる。
生前からの汚部屋やゴミ部屋では、
「どうしてこんなことしちゃったかな・・・」
と、非難に近い疑問を覚えることはあるけど、それでも、その人生を蔑むことはない。
「愛」の対義は「無関心」とも言われる。
確かに、一理も二理もあると思う。
世界や社会の諸問題、弱者や困窮者に関心を寄せないのはよくないことだろう。
しかし、「無関心=非情」とは言い切れないとも思う。
無益なことを知らずに済み、余計なことを考えずに済むから。
無用な争いを引き起こさずに済み、誰かをキズつけないで済むから。
無関心が孤独死の発見を遅らせ、遺体を腐らせ、人々の嫌悪感を膨らませ色々なところに害を及ぼしてしまうという事実はあるが、人が平和に生まれ、平和に生き、平和に死んでいくため、世間が大らかに受け止めることも大切になってくるのではないかと思う。
「愛のある無関心」と「淋しさのない孤独」
これからの時代、今までにはなかった概念や観念が必要とされ、今までは持ち得なかった価値観や感性が重宝されていくのかもしれない。
“一人”は“一人”なりに、楽しく幸せに生きていくために。
今年も色々あった、色々なことがあり過ぎた。
「人生、悪いことばかりじゃない」と言い聞かせながらも、良いことを探しあぐねた一年。
そんな一年も今日で終わる。
明日からの2023年が、一人一人にとって、よい年になるよう願うばかりである。