特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

無関心と孤独

2022-12-31 09:52:14 | 腐乱死体
2022年大晦日、今年も今日でおしまい。
世間は、正月に向けて賑やかに華やかになっている。
ただ、そんな祝賀ムードに反して、コロナ禍が、再び暗い影を落としている。
まさか、こんなに長い戦いになるとは・・・
「もう、大きな波はこないのではないか・・・」
七波が過ぎた頃、何の根拠もない中で、私は、何となくそんな風に思っていた。
しかし、現実はこの通り。
再び、大波が押し寄せている。

ただ、世の中に漂う不安感は、それほど大きくない。
特段の行動制限もないうえ、メディアも、以前のような不安を煽るような?報道もしていないような気がするし。
また、外国人観光客も戻りつつあるようだし、気持ちにも財布にも余裕がない私には縁のない話だけど、TVをつけると、家族や友人を連れ立ってショッピングやレジャー、行楽や旅行、趣味や飲食を楽しむ人の姿が多く映し出される。
良し悪しは別として、“withコロナ”が定着しつつあるのだろう、慣れてしまった感が強い。

当初は、ワクチンを打たない人は少数派で、時には、非難の的になることもあった。
が、接種回数が進むにつれ、接種率も低下。
副反応のツラさや重症化率・死亡率の低下が影響しているのだろう、私の周りにも、「面倒くさいから」と、四回目を打たない人がでてきている。
私もその一人なのかもしれないけど、多くの人が、良くも悪くも危機感が低下、良くも悪くも無関心になっているような気がする。

しかし、この第八波、感染者数だけみると、第七波を超えて最大の波になりそう。
依然としてコロナの感染力は強いわけだし、危惧されていたインフルエンザとの同時流行も現実化しつつある。
重症化率や死亡率が高くないとはいえ、重症化している人や亡くなる人が絶えているわけではない。
事実、一日の死者数は400人を超え、過去最悪を記録。
病院への見舞いが制限される中で、淋しく亡くなっている人も少なくないはず。
更に、今が八波のピークではないわけで、重症者や死亡者はまだまだ増える。
高齢者じゃなくても基礎疾患がなくても、油断は禁物。
後遺症に苦しんでいる人も多いようだし、「他人事」として済ませるわけにはいかない。

そうは言っても、今更、行動制限をかけるのは困難。
ここまできての行動制限は、感情的に不満を覚え、感覚的に違和感を覚え、経済的に厳しさを覚える。
医療関係の方々には申し訳ないが、行動制限によるメリットよりもデメリットの方が大きいような気もするし、今更の行動制限が“焼け石に水”になるのは明白。
となると、我々は、コロナに対して無関心にならず、できることをやるしかない。
まずは、基本的な感染対策の励行。
あと、打てる人はワクチンを接種すること。
旅行や飲食は中止しないにしても、責任ある行動と周りへの配慮は大切にしたいものだ。



ある日の夜、とある不動産管理会社から電話が入った。
依頼の内容は、
「管理物件で孤独死が発生」
「発見されるまで時間がかかった」
「苦情がきているわけじゃないが、マズイ状態」
というもの。
話の内容から、私は、ヘビー級の汚染の想像。
次の日の朝一で現場に出向く約束をした。

出向いた現場は、かなり古いマンション。
私は約束の時間より少し早く現場に到着。
建物に間違いがないか確認するため外壁に建物名を探したが、それより先に、私の視線は一室の窓に引き寄せられた。
その部屋の窓には、でっかく成長した無数のハエが・・・
「ここかぁ・・・」
建物名や部屋番号を確認するまでもなく、私は、そこが現場であることを確信し玄関の方へ。
「かなり臭うな・・・」
慣れたことだから、不快に思ったわけでも緊張したわけでもなかったが、それでも、私の眉間にはシワが寄ってしまった。

担当者は、約束の時間通りにやってきた。
見た感じ、歳は三十前後か。
不動産管理の仕事に就いて数年が経っていたが、こういった現場に遭遇した経験はないそう。
にも関わらず、会社からは「一人で行ってこい」と指示されたよう。
孤独感と心細さのせいか、その表情は硬く、やや強ばった感じ。
普段はスーツを着て仕事をしているのだろうに、その時は、作業着のような私服姿。
“腐乱死体現場”とはいかなるものか、インターネットで下調べをしたそうで、自分なりに考えて、部屋に中に入るための対策を講じているようだった。

ただ、実際のところ、部屋に入るだけでは服が汚れたりはしない。
もちろん、汚れたところを踏んだりすれば靴が汚れてしまうけど。
飛び回るハエだって、わざとぶつかってくるようなことはないし、這いまわるウジだって、わざわざ近寄ってくるようなこともない。
むしろ、逃げようとするばかり。
だから、部屋を見るだけなら汚れを心配する必要はない。

問題なのはニオイ。
短時間でも、服や髪に付着する。
ちょっと長い時間になると、露出した皮膚にまで付着する。
ヘヴィー級の現場で特殊清掃なんかやったりすると、ヒドいことになる。
このブログで たまに登場する「ウ〇コ男」の状態になるわけ。
当然、そのまま、電車やバスに乗ったり、店に入ったりすることはできなくなる。
咎められることはないかもしれないけど、人に不快な思いをさせ顰蹙を買うことは間違いない。
だから、マナーとして“ウ〇コ男”は、公の場に姿を現してはいけないのである。

担当者は、窓に集るハエと、玄関前に漂うニオイと、インターネット情報に脅されて及び腰。
明らかに部屋に入りたくなさそう。
ただ、凄惨な部屋に私一人を突っ込むことに罪悪感みたいなものも覚えているよう。
「私も一緒じゃないとだめですよね?」
と、ちょっと気マズそうに訊いてきた。
一方、その心情を察した私は、
「大丈夫ですよ!ニオイもつくしトラウマになるといけないから、○○さん(担当者)は入らない方がいいかもしれませんよ」
と、“ドンマイ!ドンマイ!”といった雰囲気で明るく返答。
ホッと安堵の表情を浮かべる担当者から鍵を受け取り、高濃度の異臭とハエが飛び出してくることを警戒しながら鍵を開け、ドアを最小限に引きて素早く身体を滑り込ませた。

間取りは1DK。
玄関を上がった脇に浴室とトイレ。
その隣がDKで、更に奥が居室。
部屋には布団が敷かれており、遺体汚染は、そこを中心に残留。
汚染具合は重症で、敷布団には身体のカタチがクッキリと浮かび上がっており、掛布団も酷い有様。
腐敗体液をタップリ吸い込んだ状態で、グッショリと茶黒く変色。
その中には、丼飯を引っくり返したようなウジ群がウヨウヨ。
また、枕は、頭のカタチに丸く凹んでおり、カツラのごとく頭髪も残留。
もちろん、高濃度の異臭も充満。
私の出現に気づいた窓辺のハエも、狂気したように乱舞。
故人にその意図がなかったことは当然のことながら、
「どうして、ここまでになるまで放って置かれたかな・・・」
と、私は、何かに対して不満を覚えた。


現場は、結構な老朽建物。
建物としての寿命も過ぎており、修繕やメンテナンスの費用を考えると、不動産運用の旨味はなし。
取り壊しになるのも時間の問題で、部屋が空室になっても積極的に入居者を募集することもしていないようだった。
本来なら、隣や上の部屋にニオイの影響があってもおかしくない状況だったが、そんな事情もあり、故人宅の隣室も上室も空室。
また、故人宅は角部屋でもあり、玄関前を歩く人もおらず。
それでも、風向きによっては、故人宅から発せられる異臭は感知できたはずだし、何より、おびただしい数のハエが集る窓は異様な光景となっていたわけで、そこに関心を寄せないことも、やや不自然に思われた。
が、何事においても余計なことに関わりたくないのは人の性。
他の住人が「見て見ぬフリ」をしていたかどうかは不明ながら、その心情がわからなくはなかった。

“近所付き合い”なんて、積極的にしなくても支障はない。
本件のような単身者用の賃貸物件なら尚更。
町内会や管理組合等の縛りがあるわけではないし、顔を合わせたとき、一言、挨拶を交わすだけで礼儀は守れる。
昨今では、隣室などに引っ越しの挨拶をしないのも失礼にあたらず、むしろ当り前のよう。
事実、隣にどんな人が住んでいるのか知らないケースも多いのではないだろうか。
他人に無関心でいることは、ある意味、プライバシーを守るための自己防衛であり、相手に対するマナーであったりもする。

ただ、この社会を生きていくうえでは、人づき合いは不可欠。
そして、「人付き合い」って、楽しいことも多いが煩わしいことも多い。
とりわけ、仕事上では、気の合う人とだけ、好きな人とだけ付き合えばいいということにはならない。
気の合わない人や嫌いな人とも付き合っていかなければならない。
となると、お互い、“いい人”でいるために一定の距離が必要になる。
とりわけ、相性の悪い相手だと、お互いで本音と建て前を使いわけ、愛想笑いの裏で腹を探り合いながら付き合っていくことが求められる。
そんな、必要最低限、上辺だけの社交辞令だけで付き合いきれなくなると、「親しき仲にも礼儀あり」といったルールが崩れ、“いい人”ばかりではいられなくなる。
相手の一挙手一投足にストレスを感じるようになり、そのうち、陰口を叩くようになってきて、それが態度や表情に表れはじめ、幼稚な争いに発展してしまうこともある。
それで絶交できればいいのだが、現実的にそれができない場合、最悪、自分を殺して付き合うしかなくなってしまう。

ちなみに、私の個人的な感覚なのだが・・・
耳障りがいいからか、意味が曖昧で使いやすいからか、一文字の字面がいいからか、東日本大震災が期だったように記憶しているが、「絆」という言葉がもてはやされるようになって久しい。
私が、人付き合いが苦手で下手なせいか、あちこちで多用されるこの言葉には、何とも言えないムズ痒さを覚える。
「詭弁」とまでは言わないけど、「言葉と現実が乖離している」というか、「人の都合で強弱が変わる」というか、大なり小なり、ある種の共喰いや同士討ちがやめられない性質を持つ人間にはシックリこないような気がするのだ。


人付き合いを好む好まざるを問わず、高齢化が著しい社会の中では、社会との関りや人との繋がりを失った独居老人が増えている。
また、経済事情の厳しさや価値観の変化から、結婚願望を持たない若者も。
つまり、「私生活は一人」という人は多く、また、増えていくということ。
となると、「孤独死」も増えていくということか。

「孤独死」というと、「淋しそう」「かわいそう」等といった否定的な感情や暗い印象を抱きやすい。
しかし、「一人でいる」って、明るい一面もある。
何より、気楽。
誰かに干渉されることもなく、誰かを干渉する気を持たずにも済む。
事実、淋しさや孤独感を覚えることなく、一人を楽しんでいる人も多いと思う。
一人で生きるのが淋しい人生とは限らないし、多くの人に囲まれて生きる人生が淋しいものであることがあるかもしれない。
もちろん、淋しさに耐えながら、仕方なく一人でいる人もいると思うけど、それでも、そういう人を一方的に憐れむのは、軽率なことのように思う。
最期が孤独死だったからといって「淋しい人生だったのではないか」と、浅慮な早合点をしてはいけない。

とにもかくにも、人が一人で死んでいくことは自然なこと。
そして、その身体が朽ち果てるのも。
ただ、人間は社会的動物なわけで、死後、放置されることは、世間から自然なこととは受け止められない。
時に、それは、過剰な悲哀や嫌悪感を誘う。
肉体の腐敗が進み、現場が凄惨なものになると尚更で、故人の何もかもが否定的に捉えられやすくなってしまう。

しかし、現実の孤独死の現場では、
「どんな人生でしたか?」
と、世間が否定しがちな人生を肯定的に受け止めようとする気持ちが湧いてくる。
また、自殺現場では、
「必死に戦ったんですよね・・・」
と、世間が否定しがちな人生を労う気持ちが湧いてくる。
生前からの汚部屋やゴミ部屋では、
「どうしてこんなことしちゃったかな・・・」
と、非難に近い疑問を覚えることはあるけど、それでも、その人生を蔑むことはない。


「愛」の対義は「無関心」とも言われる。
確かに、一理も二理もあると思う。
世界や社会の諸問題、弱者や困窮者に関心を寄せないのはよくないことだろう。
しかし、「無関心=非情」とは言い切れないとも思う。
無益なことを知らずに済み、余計なことを考えずに済むから。
無用な争いを引き起こさずに済み、誰かをキズつけないで済むから。
無関心が孤独死の発見を遅らせ、遺体を腐らせ、人々の嫌悪感を膨らませ色々なところに害を及ぼしてしまうという事実はあるが、人が平和に生まれ、平和に生き、平和に死んでいくため、世間が大らかに受け止めることも大切になってくるのではないかと思う。

「愛のある無関心」と「淋しさのない孤独」
これからの時代、今までにはなかった概念や観念が必要とされ、今までは持ち得なかった価値観や感性が重宝されていくのかもしれない。
“一人”は“一人”なりに、楽しく幸せに生きていくために。

今年も色々あった、色々なことがあり過ぎた。
「人生、悪いことばかりじゃない」と言い聞かせながらも、良いことを探しあぐねた一年。
そんな一年も今日で終わる。
明日からの2023年が、一人一人にとって、よい年になるよう願うばかりである。

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わけあり

2022-12-13 08:21:51 | 自殺 事故 片づけ
2022年も師走に突入。
忘年会やクリスマス、正月仕度で、何かと物入りな時季がやってきた。
しかし、そんなことおかまいなく、前回も書いたとおり、懐は寒々しいかぎり。
更に、昨今の物価高が、それに追い討ちをかけている。

色々な訳があることは理解できるけど、あちらこちらでモノの値段が上がりっぱなし。
とりわけ、庶民の財布を直撃する電気・ガス・食品については、頻繁にニュースになっている。
ガソリンも、一時期に比べれば下がりはしたものの、高止まりが続いている。
もともと使う金額が小さいから、これまであまり意識することはなかったが、ここにきて生活コストの高さを実感することが増えてきた。
私は、毎月、決めた予算内でやりくりしているのだが、以前に比べて、月末にかけての残金の少なさを痛感させられるようになってきたのだ。

予算を増やせない以上は、支出を抑えるしかない。
まずは、電気とガス。
もともと省エネ生活を心掛けている方だけど、今は、一層、それを強化。
エアコンはあるが、暖房で使うことはせず。
コンセントを抜いて休眠状態に。
コタツやホットカーペットは、そもそも持っておらず。
部屋にある暖房器具は、小さなガスストーブだけ。
どうしても寒いときにはこれを使い、あとは、厚着と靴下と膝掛でしのぐ。
また、どんなに寒い日でも、風呂は短いシャワーのみ。
浴槽に湯をためて温まるなんて贅沢なことは一切しない。

光熱費もさることながら、食費の節約効果は更に大きい。
その分、やり甲斐(?)はある。
ただ、単に「安ければいい」というのではなく、量・味・質が値段以上でなければならない。
それで、しばらく試行錯誤。
で、結局、色々と考えたり選んだりするのが面倒臭くなり、現在は、三食、ほとんど同じものを食べるようになっている。
魚はしばらく前から、今は、肉も食べなくなっている。
かつては庶民の味方だった鶏肉も、今は、例年にないくらいの品薄状態で、値段もかなり上がっている。
どうしても食べたければ買えばいいのだが、そこまでの食欲はないし、小さなことでも例外をつくると、せっかくの節約生活が総崩れを起こしかねないので、このところは、精肉コーナーには近寄らないようにしている。

しばらく前の暖かい季節の話だが、その鶏肉について、ちょっとした出来事があった。
ある日、私は、よく利用しているスーパーに食品の買い出しに出掛けた。
そのときは“肉気分”だったので、いつもの鶏肉を目当てに精肉売場へ。
すると、“半額”の割引シールが貼られた鶏肉が一パック出ていた。
消費期限は“当日”。
節約志向の強い・・・平たく言うと「ケチ」な私は、すかさず、それを手に。
その肉は、割引になっていない品と比べると明らかに色あせ、ドリップも多めに流出。
しかし、私は、「今日中に食べればいいんだろ?」「今夜は、これで一杯をやろう」と、冴えない見た目は気にせずカゴに入れた。

家に帰り、風呂に入ったりして、一通りの用を済ませ、肉のパックを開封。
すると、予期せぬ事態が・・・
異臭には慣れているはずの私でも動揺するくらいの、思いもしない異臭が鼻を突いてきたのだ。
それは硫黄のようなニオイで、「わずかに臭う」といったレベルではなく、ハッキリと感じられる濃度。
そう、その鶏肉は、腐りはじめていたわけ。
店側に悪意はなかったはずだから、「だまされた!」とまでは思わなかったけど、「勘弁してくれよぉ・・・」と、トホホな気分に。
さりとて、嘆いてばかりいても仕方がない。
私は、この肉をどうするか思案。
もう風呂にも入ってしまったし、片道数分の距離とはいえ、返品しに行くのは恐ろしく面倒臭い。
かと言って、そのまま捨ててしまうのも、極めて惜しいことだった。

元来、食べ物を粗末にするのが大嫌いなうえ、賞味期限や消費期限に無頓着な私は、「火を通せば食べられるかな?」「塩味を濃くすれば大丈夫かな?」等と、わけのわからないことを考えた。
しかし、加熱したところで鮮度が戻るわけはなく、また、塩をしたところで保存性が回復するわけでもない。そんなこと誰でもわかること。
また、明らかに腐っているわけだから、「もったいないから」と無理して食べて、その後、どうなるかは容易に想像できる。
嘔吐・下痢・腹痛、場合よっては仕事に行けなくなるかも。
結果的に無事であったとしても、食後しばらくはヒヤヒヤしながら過ごすことになるに決まっている。
ロシアンルーレットをやるようなもので、そこまでして食べるメリットはない。
で、相当悩んだ結果、泣く泣く廃棄した。

そしてまた、つい一か月くらい前、同じスーパーでのこと。
よく食べる安い冷蔵餃子を買うべく、いつもの陳列棚へ。
すると、その中の一パックに“二割引”のシールが。
それに気づいた私は、例によって、手に取った。
見ると、消費期限は翌日。
「同じ物なら安い方がいい」と、迷わず、それをカゴに入れた。

その後、私は、いつも買う商品を一通りカゴに入れ、レジを通過。
そして、詰め替えカウンターへ移り、商品をカゴからマイバッグへ移し替え。
その餃子を手にしたとき、ある異変が目に飛び込んできた。
それは、ラップ越しの餃子に浮かぶ緑の点々。
よくみると、それは一か所や二か所ではなく、結構な広範囲に。
「カビ!」とわかった私は、すぐレジに戻り、モノを見せながら店員に説明。
すると、状況を飲み込んだ店員は、売り場へダッシュ。
新しい商品を持ってきてくれ、割引シールが貼られていないのに、「差額は結構ですから」と、そのまま私に持たせてくれた。

“わけあり”だから割引シールが貼られているのは百も承知。
こういうことが起こると、いちいちSNSにアップするのが今流の“正義”なのかもしれないけど、私は、SNSの類は一切やらないし、もともと、そんな“善人”でもない。
また、いちいちクレームをつけるのは私の主義ではないので、一つも文句は言わなかった。
あと、地の利もあるので、今後も、このスーパーは利用するつもり。
ただ、割引で得しても、身体を壊してしまったら大損。
「この店では、パッケージの賞味・消費期限はアテにしない方がいいな・・・」ということは学習したので、よくよく品定めをしたうえでの買い物を心掛けようと思っている。



訪れたのは、郊外に建つアパートの一室。
軽量鉄骨構造で、古いながらもシッカリした建物。
間取りは1DK。
ごく一般的な建物だったが、そこで起こったことは一般に馴染まないこと。
そこで暮らしていた中年男性が自殺してしまったのだ。

依頼してきたのは、このアパート管理する不動産会社。
現場にきた担当者は、人が亡くなった現場に関わるのは苦手なよう(得意な人はいないか・・・)。
ましてや、それが自殺現場となると、本当にイヤなよう。
私は、神経が完全に麻痺しているので何ともないのだが、フツーの人にとって“自殺現場”というものは、気持ちのいいものではないことは察しがつく。
しかし、選り好みで仕事はできないし、会社組織で動いている以上、好き嫌いは言っていられない。
担当者は、罰ゲームでもやらされているかのような嫌悪感を滲ませながら玄関の鍵を開けた。

部屋は、故人が生活していたときのまま。
“中年男性の一人暮らし”にしては、きれい過ぎるくらい。
また、発見は早かったそうで、遺体による汚染や異臭も皆無。
特別な霊感でもあれば別だろうが、何の説明もなく そこで起こったことを察するのは不可能なくらい平和な状態だった。

ただ、台所は、フツーの家とは異なる様相。
「あるべきもの」というか、本来なら、どこの家にもあるものがない。
冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器、ガスコンロをはじめ、食器棚もなし。
どこからか越してきたのなら、TV・冷蔵庫・洗濯機などは、以前から使っているものがあるはず。
にも関わらず、それら生活必需品の姿はなかった。

その理由は一体・・・
「引っ越しを機に新調するつもりだった」とか、「前は食事付の社員寮に入っていた」とか。
社員寮に入っていたと仮定すると、故人は、何らかの事情が発生して、そこを出なければならなくなったのか。
とは言え、このアパートに入居できたということは、無職・無収入ではなかったはず。
転職を機に越してきたのかもしれなかったが、正規社員ではなくなり、契約社員とか、業務委託契約になったりした可能性もあった。

同一企業・同一業務における業務委託契約への変更は、従来の雇用契約と大差ないように思われがちだが、事実上は“体のいいリストラ”。
個人事業主となるわけで、これまで身を守ってくれていた労働基準法や会社の処遇を失い、仕事がハードになる反面、収入は不安定になりやすい。
極端な言い方をすれば、日雇労働者みたいな境遇に陥ってしまう可能性もある。
決めつけたような言い方になるけど、そんな未来に、「希望を持て」と言う方が無理。
部屋には、社名・氏名・血液型が記された作業用ヘルメットと汚れた作業服が。
無造作に転がるヘルメットと無造作に脱ぎ捨てられた作業服は、故人の心情を代弁しているようにも見えた。

どちらにしろ、冷蔵庫や洗濯機がないと不便な日常生活を送らなければならないことは目に見えているわけで、買い替えるつもりがあるなら、とっくに用意していたはず。
また、調理器具・食器類くらいはあってもいいはず。
しかし、割箸はあったものの、鍋やフライパン等の調理器具、皿やコップ等の食器類はなし。
食品も同様。
「食べる」ということは、生きることに直結した生き物の本能的な欲であり、命を維持するための本能的な営みなのに、カップ麺もレトルト食品も缶詰も、米や調味料類も一切なかった。

口に入れるもので置いてあったのは、四合瓶の泡盛が一本だけ。
言うまでもなく、そのアルコール度数はかなりのもの。
その泡盛、蓋は開けっぱなしで中身も空。
コップもない中でラッパ飲みしたのか・・・
“別れの盃”なんてつもりはなかっただろうけど・・・
下戸の故人が、決行を前に一気飲みしたのか・・・
到底、故人の想いを知ることはできなかったが、
「ここに越してきた端から、この世に長居するつもりはなかったのかな・・・」
「仕事も生活も、過去を悔やむのも未来を憂うのも、何もかもイヤになっちゃったのかな・・・」
あくまで、物見高い輩の野次馬根性、下衆の勘繰り、個人的な推察の域を越えないけど、自殺という現実を知っていた私の頭には、そういった向きの考えばかりが過っていき、重苦しい切なさが覆いかぶさってきた。

室内の調査を終え、私は、外で待つ担当者のもとへ。
担当者は、入室前に渡した私の名刺をマジマジ見つめながら、
「この仕事は、もう長いんですか?」
と、何かに同情するかのような暗い表情でそう訊いてきた。
キャリアを訊いてくる理由の一つは、「経験が豊富かどうかを確認することによって、その人物・会社・仕事の信頼度が計る」というものだろう。
決して珍しい質問ではないから、そういうときは、決まって応えるセリフがある。
「残念ながら、長くやってます・・・」
実際、ウソではないし、そう言って他人事みたいに笑うと、苦笑いながら相手も笑みを浮かべてくれ場が和む。
で、その後のコミュニケーションがうまくとれるようになるのである。

そんな質問をしてくる他の理由として、「この人は、なんでそんな仕事をしてるんだろう・・・」といった好奇心もなくはないだろう。
そういうことは、言葉にでなくても、肌で感じるもの。
実際、これまで出会ってきた中で、私のことを“わけあり”と思った人な少なくないはず。
また、私の仕事があまりに“珍業”なため我慢できなかったのか、その類の疑問をダイレクトにぶつけてきた人もいる。
ただ、一部の法人客を除き、当該の仕事が終われば、その内のほとんどの人とは縁がなくなるわけだから、余程の無礼がないかぎり、気を悪くするようなことはない。
“わけあり”な人間であることは間違いのない事実だし。


この仕事に就いたキッカケ・動機については、十数年前、このブログを書き始めた頃、「死体と向き合う」という表題で二編書いた憶えがある。
若かった、浅はかだった、就業当時、二十三。
著しい不幸感・絶望感に苛まれていた私は、「他人の不幸を見てやろう!」「その先は、どうなったってかまわない!」と自暴自棄になっていた。
喜んでいいのか、悲しむべきなのか、あれから三十年、よくもまぁ、ここまでやってきたものだ。

思い返せば、食っていくために必要だった。
言い換えれば、死なないために必死だった。
それでも尚、この人間は惨めなまま。
ただ、ポツンと生きている。
死人のように、ただ生きている。

何事も“始まり”があれば“終わり”がある。
いつ、どういうカタチで終わりがくるのかわからないけど、“終わり”は必ずくる。
それまでは、やり続けるしかない。
しかし、やるからには、「食うため」以外の“わけ”がほしい。
ただ“食うため”だけに時間を浪費し、ただ“食うため”だけに身体を酷使し、ただ“食うため”にだけに精神を削り、いつの間にか歳だけとっていく・・・
そんな生き方は、ホトホト疲れた。本当につまらない。
何か、「食うため」以外の働き甲斐がほしい。
苦労して生きるのだから、少しくらい生き甲斐がほしい。

「人助け?」「社会貢献?」「使命?」
残念ながら、その類は、私の生き甲斐にはならない。
「金?」「物?」「名誉?」
少しは響くものがあるけど、それはそれで虚し過ぎる。
結局、生き甲斐は見つけられずじまい・・・
悲しいかな、生き甲斐を探し続けて終わる人生のような気がする。

生まれてきたことには“わけ”があるはず。
こうして生かされていることにも、
そして、死んでいくことにも、
人知を超えたところに“わけ”がある。
例え、その意味が見つけられなくても、そこに“わけ”があることを知らなければならない。

生きることの惨めさをやり過ごすために。
生きることの虚しさを忘れるために。
生きることの苦しさに負けないために。

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