特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

仮想人間

2019-05-20 07:51:44 | 孤独死
春は短し・・・
例年、五月も後半になると、初夏のような陽気に包まれる。
もちろん、今年も 日によっては、夏を感じさせるくらい暑くなるときもあるけど、気のせいか、比較的 過ごしやすい日が続いている。
しかし、そう喜んでばかりもいられない。
いよいよ、この季節・・・もうじき現場作業が過酷になる季節に突入するわけで、体力の衰えをヒシヒシと感じている五十路の私は、そろそろ その心構え(覚悟)を整えて、チャンと仕事ができるよう体力も備えていかなければならないのである。

「人生100年時代」というけれど、長生きには長生きなりの問題がある。
老いや病気をはじめとする身体の衰え、気力の低下、そして、経済的な問題。
無食で生きられるはずはなく、生きていくためには、当然、相応のお金が必要。
にも関わらず、医療保険・年金条件は厳しくなる一方で、私達の世代になると年金だけで通常の生活は維持できない。
となると、生きているかぎり働いて、収入を得ていく必要がある。
「老後」なんて言葉は既に死語で、私を含む大半の庶民は、無職では生きていけないわけ。
つまり、働き続けることができる“能力”を持ち続けていく必要があるのだ。

“能力”とは、キャリアや経験・技能や技術だけではない。
大切なのは心身の健康。
これがすべての基礎、一番大切。
これがないと何も始まらない。
若い頃は、目先の楽しみを追いながら勢いで生きていられたけど、この歳になるとそうはいかない。
目先の楽しさより先々の生活(金)の方が、ファッション美容より生活習慣病の方が気になる。
だから、自分なりに健康管理に努めている。

で、食生活も意識している。
脂質・糖質・塩分を適度に抑え、三食腹八分を心がけ、間食(甘味)はできるだけ我慢し、体重は毎晩計測。
一昨年の秋から玄米食(無農薬玄米)に変え、不足しがちなたんぱく質を補うため、今年に入ってからは一日二個の玉子を食べ 嫌いな牛乳(無脂肪乳)を我慢して600mlくらい飲むようにしている。
体力を衰えさせないため、この一年で体重も5~6kg増やした(増やし過ぎたので、只今、プチ減量中)。
何年か前までは毎晩、それも結構な量を飲んでいた酒も、ここ数年はキチンと禁酒日を設けているし、飲む量も以前に比べ抑えている。
あとは、各種サプリメント。
健康食品やサプリメント類には否定的な見解が多いのも知ってはいるけど、私にとっては精神安定剤みたいなものだから財布と相談しながら飲用している。

適度な運動も心がけている。
やり始めて、もう、五年近くなるだろうか、ウォーキングもずっと続けている。
歩かないのは、多忙で時間がとれないときと荒天のときくらい。
小雨くらいなら傘をさして歩く、極寒の冬も酷暑の夏も
一日の目安は60分6.0㎞。
以前はもっと歩いていたけど、それで左股関節を傷めてしまい、“歩かないのもよくないけど、歩き過ぎもよくない”ことを痛感。
で、今は、その時間・その距離にしている
60分6.0㎞を一発で歩くこともあるし、時間がないときは、朝30分3.0㎞・夕30分3.0㎞に分けたりしている。

だいたい決まった時間に決まったコースを歩いているわけだが、そうすると、決まった人達に出会う。
健康寿命への意識が高くなってくる世代だからだろう、行きかう人々は高齢者が多い。
人づき合いが苦手で人見知りの私は、だからこそ、すれ違う人・追い抜く人に積極的に挨拶するようにしている。
朝なら「おはようございます」、夕なら「こんにちは」と、微笑みながら。
だいたいの人は、同じように返してくれるが、中には、私の声が聞こえているはずなのに目も合わさず無視する人もいる。
ただ、たまたま私の声が聞こえなかったのかもしれないから、別の日に同じ人に会っても挨拶の声をかけてみる。
でも、そういう人は何度やってもダメ。
数回やって無視されると、以降、同じ人には声をかけない。
「無視=他人と関わりたくない ありがた迷惑」といった意思表示なのだろうから。
しかし、無視されるのは、気分のいいものではないから、今後も私は人に対してそんなマネするつもりはない。

でも、これから、そういった類の人が増えていくような気がする。
コミュニケーション下手な人達が、コミュニケーションをとりたがらない人達が、人と関わりたがらない人達が。
そして、あちこちで危惧されているように、それを助長しそうなのがインターネット。
それにより、近年、人間同士のコミュニケーションのかたちが急激に変化している。
目を見張るほどの利便性がある反面、目に見えない弊害が生まれているそう。
ネットが仲介する匿名の世界ではデカい態度をとったり暴言を吐いたりするクセに、実社会は何の主張もできず、人を恐れて小さくなっている、ある種の卑怯者も多いらしい。
また、この世界特有の嫌がらせや陰湿なイジメもあるそうだ。

幸か不幸か、私は、時代遅れのアナログ人間。
SNSの類は一切やらない。
頭の体操にもなるだろうし、違った世界が広がるかもしれないから、少しはやった方がいいとは思うけど・・・必要も感じないし興味もないから。
周囲が楽しそうにしていても、誰かに勧められても、時流に取り残されても、“やってみようと”いう気持ちが湧いてこない。
だから、結局、主なコミュニケーションツールは“会話”。
あとは、時々のメールがあれば事足り、それで不便を感じることや困ったことはない。

私と違って時代に遅れていない人は、人の顔よりスマホ・PCの画面を見ている時間の方が長いのではないか。
口から発する言葉より、指で打つ文字数の方が多いのではないか。
自覚のない中で重症化しているスマホ依存症・・・
もちろん、それが「悪い」と言い切れる材料はないけど、無表情に冷たいスマホ顔と裏腹に、心をザワつかせてイヤな時間を過ごしている人、または無味・無意味な時間を浪費している人は多いのではないだろうか。
私には、それが、せっかくの時間を無駄に捨てているような愚行に見えてしまう。

そうは言っても、スマホは、ただ誰かと通信するだけのものではなく、調べものができたり、買い物ができたり、手続きができたりと、ホント、便利。
他にも、音楽・映像・読書・ゲーム等が楽しめるし、更に、次々と新しい娯楽を提供してくれる(私は ほとんど活用できていないけど)。
煩わしい人間関係にストレスを抱えなくても済むし、金も手間もかかるレジャーに出かけなくても、手軽に、そこそこ楽しい時間を手に入れることができる。
家族や友達がいなくても、スマホ一台が充分にその代わりを果たしてくれると錯覚しそうになるくらい・・・むしろ、人よりスマホの方が大切に思えるくらいに。



訪れた現場は、1Rの賃貸マンション。
亡くなったのは部屋の住人、30代前半の若さ。
死後約4カ月が経過。
「死後4カ月」と聞くと 凄惨な現場を思い浮かべて憂鬱になるところだけど、実際はそれほどでもなく、拍子抜けの後 安堵。
亡くなったのは晩秋で、遺体が一人過ごした時季は、低温・乾燥の冬。
生前、痩せていたうえ、暖房もついていなかったのだろう、遺体は腐敗溶解することなく乾燥収縮・・・いわゆるミイラ状態での発見だった。

というわけで、遺体が残した汚染は軽度。
部屋の床に薄っすらとした人型の変色が残留。
頭部があったところに大量の毛髪が付着していたくらいで、あとはライト級よりも軽いストロー級。
異臭も、「腐乱死体臭」というより尿臭を主にしたもの。
ウジ・ハエの発生もなく、私的には、落ち着いた静寂に包まれた孤独死現場だった。

単身者用の賃貸マンションはどこも似たようなものだと思うけど、近隣住人とも付き合いはなし。
また、仕事はIT系のフリーランスで、現場マンションは自宅兼オフィス。
PCデスクに置かれた大型のモニターと大容量のサーバー、整えられた周辺機器がそれを暗示。
で、決まって出勤する会社もなければ、上司・部下・同僚といった間柄の人もおらず。
両親や兄弟も遠方で、家族と顔を会わせるのは実家に帰省したときくらい、年に一度あるかないか。
交友関係は不明だったが、仕事柄、ネット上の知人は少なからずいたはず。
しかし、4カ月も放置されたところから考えると、特に親しい友人はいなかったものと思われた。

ある程度の貯えがあったらしく、家賃や光熱費は、亡くなった後も故人の銀行口座からキチンと振り替え。
また、肉体は大人しく(当り前か)乾いていっただけで、通常(?)なら異変を知らせてくれるはずの異臭やハエも発生せず。
今どきの人が新聞をとるわけもなく、ポストにたまるのは時々のチラシくらい。
しかも、世の風潮は、他人と関わらないことを平和とする個人主義を尊重。
結果、誰にも気づかれないまま一冬を越したのだった。

体調の急変は、救急車を呼ぶためスマホを手にとることさえ阻んだのか・・・
それとも、そんな時間もなくアッという間に逝ってしまったのか・・・
どちらにしろ、若かった故人は、自分が部屋で急死するなんて、微塵にも考えていなかっただろう。
ましてや、そんな一大事に誰も気づいてくれないことも。
しかし、“死”が人の意を介さないのは日常茶飯事。
非情・無情であり、厳格・冷酷であり、絶対的なもの。
家族や友人の愛をもってしても、どうすることもできない。
しかし、それがあれば、愛ある意味を持たせることができる・・・
あたたかな幸せにも似た意味を持たせることができるのである。


人づき合いが苦手で、人見知りの私。
浅はかにも、「人間嫌い」を自称していた時期もある。
しかも、友人らしい友人がいない私に人のことをどうこう言う資格はないかもしれないけど、自分にとってスマホが“仮想人間”になっていないかどうか、また、家族や友人より大切なものになっていないか、今一度、省みた方がいいかもしれない。

スマホという“仮想人間”は、自己都合上は、よき家族、よき友かもしれない。
直の人間と付き合うより楽で楽しいかもしれない。
しかし、人生における 最良の友は他にいるはず、最良の家族は他にいるはず。

やがてくる死と それまでの寿命を意識して、心身の健康に留意することは大切。
しかし、それだけではなく、“社会的健康”・・・つまり、真の社会性を育てることに留意することも大切なこと。

人間は社会的動物。
人が大切にしなければならないのは、やはり人なんだと思う。
家族であり、友であり、命であり、人生であり・・・
すべての活動は そこから派生し、すべての目的は そこに集約されるのではないかと思う。

人の想いは行動によって人に伝わる。
うつむき加減でスマホの画面にばかり向けている自分の顔・・・たまには、その顔を上げて人に向けてみるといい。
そして、つくり笑顔でもいいから、微笑んでみるといい。

そこには、仮想人間が生みだす乾いた幸せの比ではない、人間らしいあたたかな幸せが生まれるのだから。



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図々しいヤツ

2019-05-06 08:53:32 | 遺品整理
今日で大型連休もおしまい。
十連休となると、ただの大型連休じゃなく“超大型連休”だ。
とはいえ、やはり私には関係なかった。
特に多忙だったわけではないけど、何だかんだと仕事があり休んでいるヒマはなかった。
結局、この十日間、一日も休みをとらないまま終わってしまった。
やるべき仕事があるのに休暇をとるなんて図々しいマネはできない小心者なのである。

でも、なかなか楽しい十日間だった。
世の中の のんびりした雰囲気は格別だった。
繁華街や行楽地付近では人々が休暇を楽しむ姿が多く見受けられ、心が和んだ。
また、郊外に行けば、車通りや人通りが少なく、慌ただしい日常にはない静けさがあって、これにも心が癒された。
連日、高速道路のレジャー渋滞もスゴいことになっていたけど、これもまた社会が平和であることの証でもあり、ほのぼのするものがあった。

ともあれ、やはり十連休は長い。
ひと月の三分の一なわけで、週休二日の場合、通常勤務日数の半分近い日数。
暑くなりはじめた気温も手伝って、休み明けで出勤する際の倦怠感はハンパなさそうだ。
気の合う者同士で笑顔の想い出がたくさんつくれた反面、楽しみにしていた休暇が終わった寂しさと、懐の寂しさが重なって、ちょっと元気をなくしている人も少なくないではないか。
想像すると、十連休できた人のことが羨ましくもあり、少し気の毒にも思える。


もう一つのニュースといえば、言わずと知れた“改元”。
4月30日に“平成”が終わり、5月1日に“令和”が始まった。
で、世の中は“令和フィーバー”。
ただ、もともと、私は、和暦より西暦を用いることが多い。
以前から、自分でつくる書類等はほとんど西暦をつかう。
「西暦主義」と言っても過言ではない。
そのせいか、改元に対する興味や高揚感も世間ほど高くない。
幸福感に飢えた民衆(?)が気の合う者同士でお祭り騒ぎしている映像が多々流れたが、
「そこまでテンションを上げることか?」
と冷ややかな目で見ていたくらい。
元号が変わることが そんなにめでたいことなのかどうか・・・私にはわからない。
まったく幸せな気分も湧いてこないし、楽しい気持ちにもなれない。
そのクセ、“昭和生まれの俺にとっては三つ目の元号・・・四つ目の元号まで生きていたいな・・・”なんて図々しい考えを持ったりして、お粗末な頭である。
ま、そういう輩は、大人しく日常生活を送っていればいいのだろう。


何はともあれ、超大型連休も改元フィーバーもじきに終わる。
いやがおうでも日常に戻らなければならない。
気の合う仲間や家族だけで過ごせた日々も終わり、会社や学校、そうでない人と関わらなければならない日々に戻らなければならない。
人間は十人十色、ウマが合う人もいれば合わない人もいる。
肌が合う人もいれば合わない人もいる。
世の中に趣味嗜好や価値観が異なる人がいるのは当然のこと。
で、合わない人と関わらなければ安全、付き合わなければ平和である。
しかし、残念なことに、現実にはそうもいかないことが多い。
関わりたくない人と関わらなければならず、付き合いたくない人とも付き合わなければならない。

私も、仕事上で色んなタイプの人と出会う。
大半の人は、良識をもった常識人なのだが、中には苦手なタイプの人もいる。
礼儀やマナーをわきまえない人はもちろん、物事に細かい人、神経質な人・・・そういったタイプの人が苦手である(“細かい”と“神経質”の部分は、自分のことを棚に上げるけど)。
あとは、図々しい人も苦手。
たまに、契約外のことを無料で求めてくる人に遭遇することがある。
で、相手は“お客”につき 波風立つのが嫌なため、少々のことなら泣き寝入る。
そして、仕事が終わった後で陰口を叩く。
「契約に含まれていませんから」と毅然と断れない代わりに、後で、悪口を言うわけ。
そうして、自分で自分の人格を下げているのである。



遺品処理の依頼が入った。
現場は公営団地の一室。
間取りは2DK。
一人で暮らすには充分なスペース。
亡くなったのは、そこで一人暮らしをしていた高齢の女性。
晩年は、施設と病院を往復するような生活だったらしく、家財生活用品の量もさほど多くはなかった。
依頼者は、隣接する街に暮らす故人の娘(以後「依頼者女性」)。
「娘」といっても初老。
数年前に大病を患って以降 体調が優れず、更に、晩年の故人の世話が結構な負担になっていたよう。
また、亡くなった後も他に死後処理を頼める身内はいないらしく、ヒドく疲れている様子だった。

依頼者女性から色々な話を聞きながら、室内の見分を進めていると、ほどなくして、初老の女性が四人(以後「近隣女性」)、部屋に入ってきた。
インターフォンも鳴らさず、ノックもせず、遠慮したような素振りもなく、挨拶らしい挨拶もせず、自分の家のような顔をして。
その物腰を見た私は、“依頼者女性の姉妹?従姉妹?”“それとも故人の妹達?”“近しい身内はいないって言ってたはずだけどな・・・”と、少し妙に思った。
すると、依頼者女性は、
「欲しいものがあったら、遠慮なく持って行って下さい」
「使えるモノを捨てるのはもったいないですし、母もそれを望むと思いますから」
と、近隣女性達に声をかけた。

四人の近隣女性は、同じ団地に暮らす住人。
残された家財のうち、欲しいモノがあれば近所の人達に進呈するために呼び寄せたよう。
確かに、処分する家財の量が減ればそれだけ料金も安く済むし、何より、再利用できるものを捨てるのはもったいない。
再利用できる家財の譲渡や持ち帰りは どこの現場でも よくあることなので、私は、特に不自然さを感じることなく、黙って自分の仕事を進めた。

しかし、近隣女性達の行動は、私や依頼者女性の想像を超えていた。
タンスの引き出しや押入れを次々に開け、中のモノを引っ張り出し、気に入ったモノや欲しいモノが目に入ると、「早い者勝ち」と言わんばかりに、それらを抜き取っていった。
少しは罪悪感を覚えたのか、四人は、言い訳をするように「生前の故人とは親しい間柄だった」としきりにアピール。
それでも、誰に遠慮することもなく、洋服・靴・アクセサリー・バッグ・生活消耗品・調理器具・食器・調度品etc・・・次から次へと部屋にあるありとあらゆるモノに手をつけていった。
挙句の果てに、バーゲンセールで商品を奪い合うかのごとく、一つの品をめぐって小競り合いを起こすような始末。
値段が高い品だからだろう、家具・家電に至っては ほとんどケンカ状態。
故人の死を悼む気持ちや、体調が悪い中 死後処理に奔走する依頼者女性をねぎらう気持ちは微塵もないようで・・・言葉は悪いが、まるで、四人の女泥棒が大暴れしているような光景だった。

その後の部屋がどんな状態になるかは、容易に想像できるだろう。
ガチャガチャのグチャグチャ・・・まるでゴミ部屋。
本物の泥棒だって、そんなには散らかさないはず。
草葉の陰から故人の怒号がきこえてきそうなくらいの状態になってしまっていた。

公営団地は、比較的 所得が低い人達が生活しているところであることは承知していたけど、餓鬼のごとく家財を漁る近隣女性達の姿は、唖然とするのを通り越して、こちらは恥ずかしくなるくらいの、また、背筋に寒気が走りそうになるくらいの浅ましい光景だった。
その感覚は、依頼者女性も同じこと。
始めは、疲れた表情にも穏やかさを滲ませ 黙ってみていた依頼者女性だったが、近隣女性達の振る舞いを見ているうちに、どんどんと表情を曇らせていった。
そして、そのうち その表情は怒りに満ちたものに変わっていった。

あまりにヒドい振る舞いを前に、私は、“こんなことされていいんですか?”との思いを込めて、依頼者女性の目をジッと見つめた。
すぐに、その意を汲んだ依頼者女性は、
「今だけのことですから・・・この人達とは、もう関わることはありませんから、好きにさせておきましょう」
「文句を言っても疲れるだけですから・・・」
と、怒りで爆発しそうな自分自身をなだめるように、私にそっと耳打ちしてきた。

近隣女性達のあまりの無礼さを不愉快に思いつつも、依頼者女性の意思を尊重するしかない私は、依頼者女性と台所の小さなテーブルを挟んで座り、遺品処理の見積書を作成。
依頼者女性の前に置き、作業内容と費用の内訳を説明した。
すると、一通りの遺品チェックが終わったのだろう、一人の近隣女性が我々のところに寄ってきて、依頼者女性の前に置かれた見積書を覗き込んできた。
そして、
「これ、高いんじゃない? 私の息子がゴミ処分の仕事をしているから、そこに頼んだ方がいいわよ!」
と、私と依頼者女性の話に割り込んできた。

遺品処理作業を誰に頼むのかは依頼者女性の自由だし、費用が安く済むに越したことはない依頼者女性にとって選択肢は多い方がいい。
しかし、それをするにも、適正な順序やマナーは必要。
それを無視して割り込んできた近隣女性に、私は、強い不快感を覚えた。

その意を察してかどうか、依頼者女性は、
「いえ、その必要なないです・・・こちらにお願いしますから・・・」
と、近隣女性の提案を断った。
しかし、近隣女性の図々しさは、そんなヤワなものじゃない。
「息子だったら、もっと安くやってあげられると思うよ!」
と、引き下がらない。
それが、あまりにしつこいものだから、とうとう依頼者女性はキレた。
怒り心頭の恐ろしい形相で、
「貴女には関係ないでしょ!! 必要ないったら必要ないのよ!!」
と一喝。
そして、一度切れた堪忍袋の尾が再び結ばれることはなく、堰を切ったように
「“欲しいモノがあったら差し上げます”って、こっちは好意で言ったのに、人の家のズカズカ上がり込んで、まさか、こんな泥棒みたいなマネされるとは思ってなかったわよ!」
「貴女達にあげるくらいなら捨てたほうがマシ!あげるモノは何もないから、今 手に持ってるもの置いて、さっさと出てってちょうだい!!」
「早く!早く!!出てって!!!」
と、まくし立てた。

もともと、近隣女性達は相当な図々しさを持っているわけで、普段なら言い返してきただろう。
しかし、依頼者女性の怒りと威勢は、それを凌駕しており、近隣女性達は顔を引きつらせ、無言で立ち尽くすのみ。
突然の出来事を受け止めきれなかったのだろう、四人は慰め合うようにキョロキョロとお互いに引きつった顔を見合わせながら、スゴスゴと玄関へ引き下がり、これまた何の挨拶もなく消えていった。


作業の日。
依頼者女性は現地に呼ばず、鍵だけ預かって作業に臨んだ。
“嫌がらせをされるかも”といった警戒感をもって。
ただ、こちら側には、後ろめたいことや落ち度はない。
何かされたら堂々と対抗する意思をもって、粛々と作業を進めた。
が、結局、何も起こらず 作業はスムーズに終わった。
さすがに、そこまでの図々しさは持ち合わせていなかったよう。
近隣女性達は物陰からこちらを伺っていたのかもしれなかったけど、良心の呵責というものを少しは味わったのか、誰一人出てくることはなかった。

ただ、近隣女性達は、依頼者女性の悪口に花を咲かせたに違いない。
「親しい間柄」と言っていた故人のことまで悪く言ったかもしれない。
自分で自分の人格を下げていることにも気づかずに。
ただ、それは、もはや 依頼者女性にも故人にも関係のないこと。
取るに足らない「勝手に言わせとけ!」の類の話だ。

しかし、近隣女性達に嫌悪感を抱くだけに終始してしまっては、私も同類。
彼女達を反面教師にして学ぶべきことはあると思う。
本音と建前を駆使し、上手に人と接しているつもりの私でも、自分の気づかないところで悪評をかい、意外な人に嫌われているかもしれないのだから。


好感をもたれる人間になるためには、自分に自信を持たなければならない。
しかし、過信してはならない。
良好な人間関係をつくるには、自分なりの正義を持たなければならない。
しかし、それを過信してはならない。
“自分が正しいとはかぎらない”という謙虚さと“自分は正しい”という図々しさ、その両方を組み立てて自分に厳しく人に優しい自分をつくり上げることが大切。

幸せになることに図々しくあろう。
しかし、自分だけの幸せのために図々しくあってはいけない。
生きることに図々しくあろう。
しかし、自分だけが生きることに図々しくあってはいけない。
「自分さえよければいい」という価値観に、人と人との間に生まれるはずの愛・情・絆は生まれない。
そして、それらがなければ、生まれてきたことの目的、生きることの意味、死んでいくことの理由・・・・・つまり、人がつかめるはずの栄光が現れてこないのだから。



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