特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

心花

2013-04-24 15:02:01 | 特殊清掃
春真っ盛り。
日によっては汗ばむような陽気に恵まれている。
肉体労働者の私は、あちこちの現場で充分に汗をかいている。
おかげで、普段のオヤジ臭に汗臭が加わり、更に、例の悪臭が重なったりすることもあって何ともいえないニオイを醸している。

先月からはじめた週休肝二日も、なんとか継続中。
なんと、週休肝四日を実現できた週もあった。
しかし、本番はこれから。
労苦の汗をただの水で埋めることができるかどうか・・・
弱さには定評のある?私の意志は、早々と散りそうになっている。

それにしても、今年の桜は早かった。
3月中旬には咲きはじめ、下旬には満開。
4月に入ると早々と散りはじめた。
葉桜の下で入学式や入社式を迎えた人達も多かったのではないだろうか。
それでも、出向いたあちこちの街で、車窓から桜を楽しんだ。


一年前、昨年の4月、私は一冊の本をだした。
タイトルは「特殊清掃」、サブタイトルは「死体と向き合った男の20年の記録」、筆者は「特掃隊長」となっている。
きっかけは、とある出版社からの企画提案。
それ以前は、ブログ書籍化の話が舞い込んできても、ほとんど興味を覚えなかったのだが、そのときはなんとなく「おもしろいかもな」「いい思い出になるかもな」と思ったのである。
結果、出版社におんぶされるかたちで、出版するに至ったのだった。

主導は出版社。
“まえがき”と“あとがき”だけは、私が本書用に書いたものの、掲載記事は出版社が選別。
過去のブログ記事のいくつかをまとめただけのもの。
本書用に未公開記事を書けばよかったのかもしれないけど、当時の私にそんな余力はなし。
日々の業務に追われる私は、消極的に参画するのが精一杯だった。
だから、正直いうとあまり新鮮味がない。
価格は1600円。
これもまた出版社が決めたものだけど、ちと高いような気がしている。
同じものがお金を払わなくてもHPで読めるわけだし。

当初、出版社には「本ブログや当社ホームページ等では告知宣伝しない」と伝えていた。
黙っててどれくらい売れるものか興味があったのと、積極的に宣伝するほどの価値を見出せなかったためである。
また、舞い上がって宣伝するよりも大人しくしていた方が品があるような気もした。
(結局、品のないことになってしまっているのだが・・・)
たくさん売れてほしいような、あまり売れてほしくないような複雑な心境もあった。
そのせいでもないのだろうが、実際に発売されてみると・・・見事に売れず。
一年たった今でも、芽さえでていない状況である。

では、今、なぜ宣伝しているかというと・・・
少しはカッコつけたいからである。寂しい思い出にしたくないからである。
(ちなみに、印税は私の懐には入らないことになっている。)
あと、受け身での出版とはいえ、出版社に対して申し訳ないような気がするからである。もともと多く売れることを予想していたわけではないのだが、さすがにもう少しは売れてほしいと思っている。



訪れたのは、とある街のマンション。
遺品処理の依頼だった。
出迎えてくれたのは、70代くらいの男性。
部屋は小さめの2LDK。
住人の死後、ある程度男性が片付けたようで、全体的にガランとしていて家財も少なく見えた。

亡くなったのは男性の息子、働き盛りの40代前半。
IT企業の中間管理職として、精力的に仕事をこなしていた。
そんな故人は、会社やその業界でもっと活躍できるように、資格取得の勉強をしていた。
男性の話の他に、紐で束ねられ部屋の隅に積まれた書籍もそれを語っていた。
「仕事も勉強も頑張ってたのに・・・」
「こんなに早く死んじゃって・・・報われなかったな・・・」
男性は、愚痴るように、また、不条理を嘆くかのようにつぶやいた。

ある朝、故人は意識を失ってトイレの前で倒れた。
一人暮らしだったものだから、そのとき異変に気づく者はおらず。
最初に不審に思ったのは職場の同僚達。
無断欠勤はもちろん、自己都合の遅刻さえしたことがなかった故人。
また前日に変わったことがあったわけでもなく、そんな故人が何の連絡もなく出社してこないのだから、不審の念は自ずと沸いてきた。
しかも、携帯電話を何度鳴らしても応答なし。
結果、実家の両親へ連絡が入れられたのだった。

両親が住む故人の実家は、当マンションから目と鼻の先のところ。
故人(息子)の会社から連絡を受けた男性(父親)は、合鍵をもって息子宅へ。
玄関を開けて目に飛び込んできたのは、トイレから這い出すような格好で廊下に倒れている息子の姿。
仰天した男性はすぐさま駆け寄り、大声で叫びながら息子を揺り動かした。
しかし、反応はまったくなし。
動揺した男性は、慌てて119番。
そうして、故人は、救急車で運ばれていったのだった。

病院に搬送されたとき、故人にはまだ呼吸があった。
ただ、相変わらず意識はなし。
多くの人の手によって懸命の治療が施されたが、結局、意識が戻ることはなかった。
「延命処置を続けるか?」、男性は医師から訊ねられた。
「それで意識が戻る可能性があるのか?」、男性は医師に訊ねた。
「多分、植物状態のまま」、医師の回答は残酷なものだった。
男性は悩んだ。悩みながら考えた。
「本人も、そんな状態で生き続けたいとは思わないだろう・・・」
男性はそう考え、息子に余計な延命処置をしないことを決意した。

すると、その決意を固くする間もなく、別の話が持ち上がった。
それは、臓器提供。
「本人の同意がなくても親の同意があれば大丈夫」
男性のもとには、病院側から色々な専門家がやってきて、臓器提供をすすめてきた。
男性は悩んだ。悩みながら考えた。
「本人も、誰かの役に立ちたいと思うだろう・・・」
男性はそう考え、息子からの臓器提供を承諾した。

男性は、臓器提供をおこなうことによって息子が生き返るような気がした。
だから、決意のあとに迷いはでてこなかった。
早速、故人には、詳細な身体検査が行われた。
特に、目的の器官は慎重に検査された。
しかし、当初の目論見に反して、故人の臓器は健康ではなかった。
結果、臓器移植には不適当との判断が下されてしまった。

息子の死に気を落としていた男性は、更に気落ち。
無理もない・・・命はなくなっても身体の一部だけは生き残るかもしれないという希望を持ったのだから。
「息子が二度も死んだような気がしました・・・」
「何のために命を延ばされたんだか・・・」
男性は、愚痴るように、また、不条理を怒るかのようにつぶやいた。



人生は、好きなことばかりやって幸せがつかめるほど甘くない。
人生に、努力と忍耐は必要。
しかし、それが報われるとはかぎらない。
また、努力と忍耐は楽ではない。
それでも、多くの人は、幸せがその向こうにあることを知っている。
目先に小さな幸せがあることも知っているが、努力と忍耐に向こうにもっと大きな幸せがあることを知っている。
だから、人は頑張る。頑張れる。

では、死はすべてを無駄にするのか。
死を前にしては、努力も忍耐も虚しいものなのか・・・
どうせ死ぬんだから、辛い思いをしてまで努力したって仕方がない?
どうせ死ぬんだから、苦しい思いをしてまで耐えたって仕方がない?
どうせ死ぬんながら、頑張って生きたって仕方がない?
そうではない・・・私が言うまでもなく、これも、ほとんどの人が知っている。

苦しいことが多い人生。
悲しいことが少なくない人生。
「俺は変われる」と自分を騙すように生きている人生。
「いいこともある」と自分を諭すように生きている人生。
「人生とはそういうもの」と自分を納得させて生きている人生。
それでも、人生にはたくさんの花がある。
少しでも健全であろうとして、少しでも善良であろうとして、少しでも幸せになろうとして、何かと闘っているときに花は咲く。
楽しい汗や喜びの涙だけではなく、労苦の汗も苦悩の涙も花は吸い上げる。

「俺の人生には花がない」
私は、すぐにそう思ってしまう。
この仕事が社会の陰にあり、社会の底辺にあるのも事実。
花々しさとは縁がない。
だけど、自分の中に花が与えられることがある。
私は、自分自身を咲かせることはできないけど、自分の中に花を咲かせてもらえることがある。
そして、くたびれた中年男に似合わない、従事する汚仕事にも似合わない大きな花束を抱えている。

たまに、その花を文字に植えかえている私。
その花が枯れないように同じような内容を繰り返し、たくさんの花が咲くように書き続けている私。
そしてまた、「これも花になるかな?」と、売れない本を片手に苦笑いを浮かべている私である。




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