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特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

兄妹

2025-05-26 07:30:00 | 特殊清掃 消臭消毒
私は、三兄妹の次男。
一つ上の兄と、二つ下の妹がおり、もう皆50代。
兄は同じ首都圏に在住、妹は関西にいる。
子供の頃はよく一緒に遊んでいたが(ケンカもしたが)、成長するにつれ関係は希薄に。
何かトラブルがあったわけでもないのだが、電話やメールをはじめ、一年以上も連絡を取り合わないこともフツーにあった。
特段、仲がいいわけでも悪いわけでもない兄妹である。

近年は、平時なら数か月に一回くらい、用件によって日ごと週ごとに連絡を取り合っており、若い頃に比べると格段に多くなっている。
ネタで多いのは、やはり老親や実家のこと。
両親とも80代ながら健在で、持病や老い衰えと戦いながら、介護保険の世話にもならず自立して生活している。
ただ、さすがに寄る年波には勝てず、身体のことや生活のこと、そして亡くなった後のこと等、思案しなければならないことが山積。
一つ片づけば また一つ、課題や問題は次から次へと涌いている。
そして、我々兄妹は、“生老病死”には抗えないことがわかっていても悩んでしまう。
この高齢化社会にあって、私と同じような悩みを抱えている人は多いのではないだろうか。

子供の頃、私の母は、「兄妹は他人の始まり」という諺をよく口にしていた。
母が何を意図していたのか、今でもよくわからないけど、当時の私は、「兄妹で仲良くしても仕方がない」「いずれ他人になるのだから、そのつもりで付き合っていた方がいい」みたいに乾冷な捉え方をしていた。
ただ、その後、それぞれ自分の道を歩き出し、自立していくと、いつの間にか“他人”になっていたのが実情。
そうして、それぞれの人生を過ごして半世紀。
夫婦にとって「子は鎹(かすがい)」と言われるのと同じように、子供達にとって親は鎹。
“他人”だった我々兄妹が、親のことで再び“兄妹”になろうとしている。

ちなみに、私は、この歳になっても兄のことを「兄ちゃん」と呼んでいる(メールでは「〇兄」と表記)。
この呼称は、子供の頃からずっと変わっていない。
ただ、人に話すときは「私の兄・・・」とか「俺の兄貴・・・」と言っている。
さすがに、「私の兄ちゃん・・・」とは言わない。
服に“よそ行き”があるように、言葉にも“よそ行き”がある。
ある種のTPOだね。



訪れた現場は、街中に建つ古いアパート。
その二階の一室で、住人だった高齢の男性が孤独死。
故人は、無職の生活保護受給者で、社会とのつながりは希薄。
で、発見されるまで、しばらくの日数が経過。
季節的な高温多湿の影響もあって、遺体は相応に腐敗。
周囲を汚染しながら、悪臭やウジ・ハエも発生。
安否確認や生活状況の把握など、対象者(故人)と密に接していくのも役所担当者の仕事のうちだが、生活保護受給者をはじめ、相談者や申請者が増える一方の時世においては、そこまで手が回らないのが実状。
役所の怠慢でもなんでもなく、日常の生活を無難に送っている対象者は放っておかれやすい。
ともない、本件も、大家から連絡が入って、はじめて担当者が訪問したような状況だった。

間取りは1R、ごく一般的な造り。
玄関を入った左にキチンシンク、右にユニットバス、その奥隣に半間のクローゼット。
そして、部屋の突き当りに外光差し込む窓。
家財は極めて少量、家電は一式揃っていたが、どれも小型で古いモノばかり。
残されていた調理器具や食品・調味料もわずかで、「必要最低限のモノで生活していた」といった感じ。
同じ生活保護受給者でも、節操なく酒を飲みタバコを吸い、ギャンブルまでやる人も珍しくない。
しかし、故人はその類でなし。
“弱い者いじめ”のように思われるかもしれないが、それは、生活保護受給者として然るべき姿。
ささやかな楽しみはあったのかもしれなかったが、憲法保障の「健康で文化的な“最低限度の生活”」を地で行くような生活をしていたように思われた。
と同時に、生活保護を受給するに至った経緯を知る由もない中で、誰の人生にもドラマがあるのと同じで、故人の人生にも紆余曲折や苦悩があったことが想像された。

数年前、故人は、このアパートに地元区役所生活援護課からの紹介で入居。
その時点で妻子はなく独り身。
近しい身寄りとしては、少し離れたところに暮らす兄と妹がいた。
二人ともアパート賃貸借契約の連帯保証人にはなっておらず、相続も放棄。
行政主導で執り行われた火葬の費用負担と、遺骨の引き取りは承諾したものの、部屋の始末については関知せず。
血を分けた兄妹として「無責任」とか「薄情」と非難されても、その責を負うために必要な経済的余裕がないことが想像された。

発見のきっかけは、大家による役所への連絡。
大家宅はアパートの地続きにあり、買い物などで外出する故人の姿を見かけることが時々あった。
その際、視線が合えば「こんにちは」と短い挨拶と会釈を交わすくらいで、その他に言葉を交わすような間柄ではなかった。
そんな中、ある時から急に故人の姿が見かけられなくなった。
当初は、「たまたまのこと」と気に留めず。
しかし、しばらくの日が経つと妙に思うように。
そして、意識して観察してみると、夜になっても、故人の部屋には照明が灯らないことに気づいた。
また、下室の住人に訊いても、「しばらく前から足音や水が流れる音などの生活音がしなくなった」とのこと。
長い旅行ができるような経済力があるとは思えず、実家があるわけでもなく、さすがに大家は不審に思い、役所に連絡を入れたのだった。


フローリングの床には遺体汚染が発生。
そこには、警察が放っていった白髪交じりの頭髪や皮膚が残されていた。
ただ、私にとって、その汚れはライト級。
特掃に大した難しさはなく、粛々と作業。
床材には遺体のカタチを連想させるような変色が残ったが、悲惨さを感じてしまうような汚れは取り除くことができた。
また、何分にも家財は少量のため、遺品整理も軽易なものに。
財産らしい財産もなく、貴重品らしい貴重品もない遺品は、冷たく言うなら「ただのゴミ」。すべて処分するほかなく、それほどの神経を使って丁寧にやることは求められず、特掃と同じく作業は淡々とすすめられた。

そんな中、押入の布団の下から、ヘソクリを隠すかのようにしまい込まれた一枚のハガキがでてきた。
「文字を読む」ということは、「つい見てしまう」といったものに比べると、意識性が強い行為のような気がする。
しかし、走り始めた野次馬を止めることはできず・・・
他人のプライベートを覗き見するような気マズさを覚えながらも、私は、そこに記された文字に目をやった。

裏面に書かれた差出人は故人の妹、念のため確認した表面には、ここの住所と故人名。
故人の年齢から考えると妹は60代か。
すべて手書き、遠慮のない乱筆で、お世辞にも達筆とは言えず。
文章も“ですます調”ではなく、幼稚に思えるくらいの話し言葉。
また、歳はとっても兄妹の関係性は子供の頃から変わらぬままのよう。
故人のことも「お兄さん」「○○兄」とかではなく「兄ちゃん」と書いてあった。

コミュニケーションツールとして手っ取り早いのは、電話やメール。
今は、SNSか。
故人もSNSまではやらないにしても携帯電話くらいは持っていただろう。
しかし、何を意図してか、妹は、手間も時間も金もかかるハガキを利用。
ただ、手紙でしか伝えることができないこと、デジタルでは伝わらないことってある。
絵文字もイラストもない、単なる紙と文字だけなのに、そこからは、肉親の心温と情愛が滲み出ていた。
しかも、「兄ちゃん」という呼び方が自分と重なった私、故人と同じく三人兄妹の次男である私は、見ず知らずの兄妹に対して大きな親近感を抱いた。

内容は、時候の挨拶と亡母の墓参の予定を確認するもの。
故人達兄妹の母親が亡くなったのは三年前で、三回忌に合わせて墓参りすることは既に約束されていたよう。
「正式な法要はできないけど気持ちが大切」
「亡父・亡母も喜んでくれるはず」
「その後、一緒に食事でもしよう」
「話したいこと、聞きたいことがたくさんある」
「久しぶりに三人で会えることを楽しみにしている」
そういった旨のことが綴られていた。

ハガキに記されていた墓参の日は、私が特殊清掃に入った当日。
もちろん、その何日も前に故人は亡くなっている。
ただ、ハガキは、ポストに放置されていたのでははく布団の下にしまわれていたわけで、生前のうちに届いていたのは明らか。
そして、故人は墓参も予定していたに違いなかった。
兄妹に会えるのを楽しみにしていただろうに・・・
しかし、その日を迎えることなく逝ってしまった・・・
そのことを想うと、床の遺体痕に、まだ少しの命が残っているような気がして、
「人生って思い通りにならないことだらけですよね・・・お疲れ様でした・・・」
と、自らの愚痴をこぼすように心の中でつぶやいた。


故人の遺骨は亡父母と同じ墓に納められたか・・・
本来は兄妹三人で参るはずだった墓に手を合わせたのは兄妹二人だけ・・・
それとも、それぞれの家族も一緒に行ったか・・・
その後、二人で食事をしながら、静かに故人を偲んだか・・・
それとも、子や孫も含めて、家族大勢で賑やかに故人を偲んだか・・・
私は、墓参する側だったはずの故人が、墓参される側になったことに、現世の意地悪さ、皮肉のようなものを感じた。
と同時に、その淋しさと切なさに心が寒々としてしまった。

ただ、生と死は、人知を超えたところにある。
「一人は目に見えない存在になってしまったけど、ある意味、三人兄妹は集うことができたのかもしれないよな・・・」
そう想って、私は冷えた心をあたため直したのだった。



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夢の跡(後編)

2025-05-17 06:05:00 | 自殺腐乱死体
取り引きのある不動産会社から相談が入った。
その内容は、
「社有マンションで自殺が発生」
「発見が遅れたため、部屋は相当に汚れているはず」
「故人は大学生で、両親を交えて協議することになっている」
「事前に現地調査を済ませたうえで、その協議に加わってほしい」
といったもの。
自殺案件は話がスムーズにまとまらないことも少なくなく、依頼の内容は心情的にやや難儀なもの。
ただ、懇意にしている担当者からの頼みでもあり、無碍な対応はできない。
まずは依頼通りに動くことにし、“あとは、野となれ山となれ”と思考をチェンジ。
“野”でも“山”でも“ハイキング”の経験は豊富なので、「なんとかなる」と半分開き直って、「伺います」と返答した。


訪れた街は、「住みたい街ランキング」で常に上位にある東京の某市。
目的の現場は、人気駅の近くに建つ賃貸マンション。
かなりの好立地で、賃料が高額であることはヨソ者の私でも容易に察しがついた。
私は、1Fエントランスで待ち合わせた担当者から鍵を預かり、根回しの済んでいるマンション管理人に軽く挨拶をしてエレベーターへ。
目的の階につくと、周囲に人がいないことを確認しながら そそくさと現場の部屋へ向かい、自宅に戻って来た住人かのような淀みない動きで開錠。
素早く かつ最狭にドアを引き、スルリと身体を滑り込ませた。

ハエがうるさくしたりもせず、室内はシ~ンと静まり返っていた。
慣れきった私は不気味さこそ感じなかったものの、「自殺」という死因が、その静けさを一層際立たせているような気がした。
1LDKの奥へ歩みを進めると、部屋の床には不自然かつ見慣れた物体があった。
それは、腐乱した遺体が残していったもの、腐乱した遺体しか残していけないもの。
私にとってその汚染度はヘヴィー級に近いミドル級、異臭レベルも同じ。
容易く片付けられるものではないながら、大袈裟に溜め息をつくほどのものでもなかった。


両親の自宅は関西の某県で、今回の件を受けて上京。
指定された集合場所は、現場マンションから徒歩数分のところにある両親宿泊のホテルラウンジ。
ただ、そこは人目の多いスペースで、話す内容も内容だっただけに、「話し合いは別の場所に移動してから方がいいだろうな・・・」と思った。
しかし、マンションの管理人室は狭すぎるし、エントランスだと人(住人)の目を引きやすい。
外での立ち話で済ませられる事案でもなし。
よくよく考えれば、ラウンジを行き交う人達は、いちいち我々のことを気に留めたりはしないはず。
声を低くしたうえで、「自殺」とか「遺体」とか、非日常的なキーワードを使わないようにすれば問題ない。
結局、そのラウンジがそのまま協議の場となった。

両親・担当者・私の三者は、約束の時間を前に集合。
当然か、どの顔にも笑みはなし。
日常的によく用いられる社交辞令的な愛想笑いさえも。
そんな重苦しい空気の中、担当者の、
「何と申し上げていいかわかりませんが・・・この度は・・・どうも・・・」
という歯切れの悪い言葉から協議は始まった。
本来なら、「ご愁傷様です」というのがマナーなのかもしれないけど、今回のような事案において、管理会社は、いわば“被害者”。
担当者が口ごもってしまうのは仕方のないことだった。

賃貸借契約解除、原状回復、損害賠償等々、協議しなければならない課題はいくつもあった。
不動産会社の主張が正当とされることや、要求して当然と思われる事項もいくつかあった。
が、両親が、悲しみと戸惑いと不安のドン底にあるのは察するに余りあり、担当者は、何をどう話せばいいのか考えあぐねている様子。
また、それに対して、両親は理解を示すのか、はたまた情緒不安定に反論してくるのか読み切れず。
私は、主張の根拠や判断の基準になる法令・条例や国のガイドライン、裁判例などは、だいたい頭に入れている。
しかも、踏んできた場数は担当者よりはるかに多い。
更に、“屁理屈”や“減らず口”においても右に出る者はわずか。
イザとなったら、担当者に代わって、「不動産会社vs両親(故人)」それぞれの責任・義務・権利を説明し、協議を落着させる気構えを持っていた。

私の役目は、特殊清掃・遺品整理・消臭消毒・内装改修工事など、原状回復の物理面を説明すること。
できるだけ詳しく現状を説明し、かつ、それに対処する作業や工事も丁寧に説明する必要があった。
ただ、一般の人は、“掃除=原状回復”と考える人が多い。
あと、ニオイの問題はほとんど無理解。
回りくどい表現ではなかなか理解してもらえないのだが、実状をリアルに伝えようとすると凄惨さばかりが際立ってしまう。
場合によっては、両親を更に悲しませることになりかねない。
そこのところの言葉選びが悩ましいところだった。

遺族がどう思おうと どう感じようと事実は事実。
回りくどい表現や、耳障りのいいことばかり言っていては仕事にならない。
常識的な礼儀とマナーを守ったうえであれば事務的に流しても問題はない。
あと、真心の伴わない白々しい同情が、かえって遺族に不快感を与えることもある。
“余計な感情移入”と“深い心遣い”の区別もできない独善者にはなりたくなかった私は、言葉は丁寧に、口調はソフトに、内容はストレートに、それを心掛けて状況を説明。
片や両親は、「呆け顔」といったら語弊があるが、まるで知らない言語を聞いているかのような表情。
反応は薄く、私が発する言葉の端々に合わせて規則的に頷くのみ。
それは、私の言葉を嚙み砕いて消化するのではなく、丸呑みして消化不良を起こしているような状態にみえた。


故人は20代前半の男子大学生。
出身は、両親のいる関西の某県、出身高校も全国的に有名な難関進学校。
そして、通っていたのは誰もが見上げる一流大学の理系学部。
しかし、故人はその道に満足せず。
医師になる夢を追い、大学に在籍しながら医学部入試に挑戦することに。
ただ、故人が目指していたのは、「国内最難関」といわれる医学部。
ちょっとやそっとの努力や能力、人並みの脳力や経済力では手は出せないところ。
同じ医師になるにしても、もっと難易度の低い大学はいくらでもあったはず。
故人の能力を鑑みると、私大を含めたら“選び放題”だっただろうに、故人はその道には流れなかったようだった。

大学生と受験生、二足の草鞋を履いた生活を維持するには金も時間もいる。
しかも、目指すのは医学部。
更に、住居は、「学生の一人暮しには贅沢過ぎるんじゃない?」と思われるくらいの部屋。
平凡な額の金銭では済まされないはず。
ただ、両親は共に医師で医院を経営。
“超”がつくかどうはわからないながら富裕層に間違いなし。
多くの大学生が「奨学金」という名の借金を背負い、学業を圧してまでアルバイトに精を出さざるを得ない時代にあって、金の心配が要らず夢に向かって突っ走れる環境にあった故人は「恵まれている」としか言いようがなかった。

とは言え、故人にとっては大変なチャレンジだったはず。
同時に、充実した日々でもあっただろう。
そんな中、故人の中の何かが変わった・・・
故人の中で何かが起こった・・・
医師への道は、“親の夢”を“自分の夢”と錯覚して選んだものか・・・
一つだったはずの親子の夢が、ちょっとした行き違いをキッカケに乖離していったのか・・・
そして、結局、一流大学で医師を目指すことの意味を見失ったのか・・・
しかし、故人は、既に一流大学の学生。
医師になれなくても、明るい未来が見通せる境遇。
しかも、裕福な家庭で、言わば、「親ガチャに当たった勝ち組候補」。
そんな故人の自死について、俗人(私)の頭には「何故?」という疑念ばかりが巡った。


自死の衝撃・・・
息子を失った悲しみ・・・
どう責任をとるべきか、それは負いきれるものなのか・・・
不安・怒り・悲哀・苦悩・後悔・葛藤・絶望・・・それらが制御不能で殴り合っている・・・
そんな心模様が、両親の顔に色濃く表れていた。
一方の不動産会社の主張や要求は、私の解釈としても「正当」と見なせるもの。
両親は、それに対して抗弁する術を持たず。
そもそも、そんな気力もなさそう。
故人の後始末が両親にとって辛い道程になることは明らかだったが、平和的に進めることができそうな予感がして、少しだけホッとした。

「協議」といっても、実のところは、不動産会社と私が“言う側”、両親は“聞く側”という構図。
見解が対立したり、どちらかが言葉に窮したりする場面はなく、時間は静かに経過。
協議が終わって場がお開きになる際には、
「あとのことはお任せします・・・」
「よろしくお願いします・・・」
と、両親は、泣きそうな顔で担当者と私に深々と頭を下げた。
両親に、そこまでの罪悪感を抱かせ卑屈にさせた故人の死・・・
「故人は、両親のそんな姿をみたらどう思うだろう・・・」
考えても仕方のないこと・・・“考えてはいけないこと”と知りつつ、私の心にはそんな凡俗な不満が過った。


「自殺は蛮行」と、世間は簡単に否定する。
同意できる部分はありながらも、私は少し違う感覚を持っている。
この人生において何度か自殺願望や希死念慮に囚われたことがある身の私は、これまで、自殺者について「同志的な感情を覚える」「一方的に非難できない」といった旨の考えを示してきた。
更に今は、「戦線離脱」「敵前逃亡」のように受け止められがちな自死を、過激を承知で言わせてもらうならば「“戦死”としても不自然はない」と思っている(戦争や暴力を美化する意図はない)。
どんな憶病者でも、どんなに弱虫でも、何かに苦悩するということは、何かと戦っているということでもあるのだから。

目標・目的を持ち、夢を追う。
心を燃やし、時間や金を費やし、頭や身体を駆使する。
素晴らしい生き方だと思う。
ただ、人間は“考える葦”。
偉大な思考力を持つものでありながらも、“葦”のように弱いものでもある。
虚無感という曲者は、疑念や不安、絶望感など、ネガティブな感情を次々と造り出しては、弱みにつけ込むかのように煽り立ててくる。
そして、それに立ち向かおうとすればするほど返り討ちに遭うリスクが高まる。
懸命に生きようとすればするほど、死へ向かう反動が大きくなる。

世(人)の中には「考えても仕方がないこと」や「考えない方がいいこと」がある。
答が出ないことや正解が一つでないことなんてザラにある。
“生きる意味”なんて、その最たるもの。
「やっと見つけた!」と思った“正解”は、いとも簡単に姿を変え、自分を裏切る。
“生涯の道標”と過信したら、とんだしっぺ返しを食らう。

結局のところ、“答”はない。
逆に、あるとしたら無数にある。
“無答”にうろたえるか、“無数”にたじろぐか、どちらも似たり寄ったり。
だとしたら、その都度、自分の頭に馴染む答、自分の心にシックリくる答を“正解”にして都合よく生きればいいと思う。


半世紀近くが過ぎ・・・
野球選手になることを夢見ていた無邪気な少年は とっても有邪気な中年に。
その手には、バットではなくスクレーパーを持ち、ボールではなくブラシを握り、皮革グローブではなくラテックスグローブをはめている。
目の前に広がるのは、活気溢れるグラウンドではなく 精気失うグロウンド・・・
香ってくるのは、芳しい芝の匂いではなく 悍ましい死場の臭い・・・
聴こえてくるのは、観客の声援ではなく 心の悲鳴・・・
笑えるようで笑えないような、笑えないようで笑えるような、まったく、人生っておかしなもの。

「俺って、一体、何やってんだろうなぁ・・・」
汚物と格闘している中で、ふと そう憂うことがある。

ただ・・・ただ、まだ、こうして生きている。
意味のある人生を無意味に生きている。
無意味な人生に意味をもらって生きている。
振り返れば、夢の跡が遠くに見える。
そして、かすかに輝きも見える。

震えるほどの虚しさがやってきたときは、滑稽な我が道を“フッ”と鼻で笑って自分を慰めるのである。


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夢の跡(前編)

2025-05-12 06:38:12 | 自殺腐乱死体
渋滞を案じた無休GWが終わり、肌に夏の前味が感じられるようになってきた今日この頃。
雨のない土日祝日には、会社近く、江戸川の河川敷グラウンドでは少年野球や草野球の練習や試合が行われている。
で、私は、現場に行き来する車の窓から しばしば その光景を見かける。
そして、
「趣味がある(できる)っていいなぁ・・・」
「スポーツで汗をかくって気持ちよさそうだなぁ・・・」
と、少し羨ましく思う。

元来、私はスポーツへの興味は薄く、縁もない。
かろうじて、中二・中三のときに陸上部に所属していたものの、もちろん、好きでやっていたわけではなく、学校の方針で“帰宅部”は認められなかったため、仕方なくやっていただけ。
他のメンバーも似たようなもので、教師を含めて真剣にやっている者はおらず、個々人も学校も地域で最弱レベルだった。
(ちなみに、中一のときは美術部だったが、中二になるタイミングで廃部になってしまった。)
高校は“帰宅部”、大学はサークルには入らずアルバイト&遊興三昧。
その嗜好は今でも変わらず、オリンピックやワールドカップ等、ビッグイベントもほとんど興味がない。

しいて言えば、プロ野球には興味がある。
生まれて初めて抱いた将来の夢も「プロ野球選手」。
後にも先にも、職業に夢らしい夢を持ったのはその一度だけ。
ま、それも10歳に満たない頃のこと。
現実の冷淡さも知らない男児で、今思えば無邪気な戯言。
小学校の高学年になる頃には、自然と消えていた。
ただ、ウキウキするようなワクワクするような、いい気分だったのは間違いない。
ささやかながら、あの時の自分は輝いていた。

熱狂的なファンではないけど、好きなのは広島カープ。
2016年~2018年、リーグ三連覇したときは気分がかなり揚がり、反面、昨夏の大失速には気分が一気に沈んだ。
応援したくなる要素は色々ある。
設立の経緯、市民球団という組織体、
かつては、「セリーグのお荷物」と言われていた程の弱小球団、
樽で募金を集めて球団を維持した歴史もある貧乏球団、
今でも金満ではなく、何億も稼ぐようなスター選手は雇えず、
活躍する選手はFAで軒並み他球団にさらわれ、逆にFAでやって来る選手はおらず、
また、本拠地は地方の田舎街、他球団ほどの隆盛感はない。
オンボロだった「広島市民球場」(1957年~2008年)もいい味を出していた。
今の球場建設にあたってもドームにはせず(できず?)、市民からも募金が集められたそう。
そんなチームでも、他球団と互角に戦っているわけで、そんなところに親近感というか愛着というか、共感・好感が持てるのである。

これまで、東京ドーム・横浜スタジアム・QVCマリンフィールド(現・ZOZOマリンスタジアム)に行ったことはある(所沢と神宮には行ったことがない)。
あぁ~・・・でも、いつか、マツダスタジアムに行ってカープの試合を観てみたい。
のんびりと、美味いモノを食べたり、ビール飲んだりしながらね。
海外の秘境に行くわけでなし、他人から見れば容易に叶いそうな夢かもしれないけど、私を取り巻く現実を考えると実現性は極めて低い。
悲しいかな、儚く遠い夢である。



出向いた現場は、1Rの賃貸マンション。
そこで不慮の死が発生。
亡くなったのは部屋の居住者、30代前半の男性。
死因は自殺。
暑い季節だったこともあるうえ発見にも時間がかかり、遺体は相応に腐敗。
床を深刻に汚しながら、高濃度の悪臭とウジ・ハエが量産されていた。

依頼者は、マンションの管理会社。
賃貸借契約の連帯保証人は故人の父親。
ただ、特殊清掃や遺品整理を進めるにあたっては、故人や家族のプライベートな部分について、他人(業者)に見られたくないものを見られ、知られなくないことを知られることになる。
また、深い事情を業者に話さなければ事がうまく運ばない局面に遭遇することもある。
そうなると、プライド・世間体・羞恥心・・・そんなものがキズついたり、刺激されたりすることになる。
既に負いきれないほどの悲哀に襲われているのに、更に、心の傷口に自分で塩を塗るようなことにもなりかねない。
であれば、現場とは一定の距離を空けておくのが無難。
そんな事情があってか、父親は、得体の知れない特掃屋である私とは直接的には関わらず。
見積書や契約書のやりとりや、報告・連絡・相談も、すべて管理会社を介して行われた。

汚染も異臭も重症。
しかも、真夏の猛暑で部屋はサウナ状態。
そんな特殊清掃は、慣れたものであってもキツイものはキツイ!
効率よく合理的にやれる自信はあるけど、ツライものはツライ!
ただ、私には、「故人と二人になる」という特異な秘策がある。
同情や悲哀をよそにして、まだ生きているかのような感覚で故人の人生を想うと、無駄な力が抜けて、逆に必要なところに力が入る。
そうしてメンタルが支えられることによって、どんなに悲惨で凄惨な現場であっても過酷さは随分と和らぐのである。


アルバイト応募のために何枚も用意したのだろうか、書き損じたまま放られていた履歴書には、これまで歩いてきた故人の道程があった。
故人は、北陸某県の出身。
高校を卒業し地元の芸術系専門学校を経て上京。
志望動機の欄には、「将来は音楽関係の仕事に就きたいので、そのために一生懸命働きたい」といったことが書かれていた。
それを裏付けるかのように、部屋には、楽器や音楽系の機材、楽譜やCD等、熱心に音楽活動をしていたことを伺わせる物品がたくさんあった。
とはいえ、やはり、それで食べていけていたような形跡はなし。
主な収入源は飲食店でのアルバイトで、乱暴に破られた給与明細書の金額からは、故人が親のスネをかじり続けていたことが伺えた。

部屋には、地元の求人情報、就職ガイドのパンフレット、就職支援のリーフレット等々、就職に関するものもたくさんあった。
ただ、それらは、本人が収集したものではなく、大半は両親が送ってきたもののよう。
一連の情報は紙で集めるよりネットで探した方が合理的なはずだったが、故人は、自らの意志でそれをすることはなかったのだろう。
書類の間に挟まれたメモ、端々に貼られた付箋・・・両親のメッセージからそれがわかった。

言葉を変えながらも、書いてある内容は ほぼ一辺倒。
「音楽の道は諦めて、正規の仕事に就きなさい」
「親の方が先に逝くわけだから、いつまでも面倒みてやることはできない」
「支援に尽力するから、故郷に戻って一からやり直したらどうか」
なだめたりすかしたり、諭したり叱ったり、父親と母親が、それぞれに、それぞれの言葉(文字)で そういった旨のことを綴っていた。
そして、故人が逝っても尚、そこからは、不安、焦り、ジレンマ・・・悩める親心が、涙のように滲み出ていた。

人生は思い通りになることより思い通りにならないことの方が多い。
自分自身でさえ思い通りに生きることができない、ましてや、別の人間(息子)を思い通りに生きさせることなんてできるわけがない。
理屈では、それがわかっていても、欲望ともとれる感情がそれを許さない・・・
両親の中にも大きな葛藤があっただろう・・・
ひょっとしたら、故人が決行してしまった最悪のシナリオも、生前から頭に浮かんでは消え、消えては浮かんでいたかもしれず・・・
そして、「そんなことあってたまるか!」「そんなこと絶対にさせない!」と、必死に、懸命に息子の生きる道を整えてやろうとしていたのかもしれなかった。


故人が上京したのは、おそらく二十歳頃。
行年は30代前半なので、音楽活動をしながらのアルバイト生活は十年余か。
故人は、夢を叶えたかっただろう。
両親は、不本意ではありながらも息子の夢は応援したのだろう。
しかし、「現実」という名の強敵は、誰の人生にもいる。
吉とでるか凶とでるか、やってみないとわからない。
挑戦しなければ成功も失敗もない。
二つを天秤にかけ、心の重心がどちらにかかるか、自分で量るしかない。

ただ、時間は、ときに優しく ときに厳しく、ときに温かく ときに冷たく、人の都合を無視して流れていく。
「〇才までやってダメなら諦める」
“夢の終着点”を自分で定め、また、親子で約束していたのかも。
両親もそれを条件に、息子(故人)の意志を尊重し、できるかぎりのサポートをしていたのかもしれなかった
しかし、“夢追人”が夢を諦めることは容易いことではない。
その時がきても諦めきれず、「もう少し・・・」「もうちょっとだけ・・・」と、ズルズル先延ばしにしてきたのかもしれなかった。
そうして故人は歳を重ね、唯一の味方だった“若さ”も いつの間にかなくなり、もう“若気の至り”では済まされない年齢になっていた。


世間からみたら故人はただのフリーター。
夢を追っていることは、表向きは評価されても本音のところでは評価されにくい。
「半人前」「無謀者」と、世間は冷ややかに傍観する。
そして、「いい歳をしても親の仕送りがないと生活できないダメ人間」と、自分が自分を見下すようになる。
故人は、そんな現状に限界を感じる中で、「生き方を変えよう」ともがき始めていたのかも。
しかし、音楽の道を諦めることができても、次の目的を持つのは簡単なことではない。
音楽以外にやりたい仕事、興味のある仕事があったかどうかは定かではないけど、往々にして、「やりたいこと」と「できること」は異なるもの。
どこかで、妥協や迎合、場合によっては慣れない忍耐を強いられることになる。
それを受け入れることができるかどうか、割り切れるかどうか、開き直れるかどうか・・・
新たな活路を見出せるかどうかはそこにかかっている。

生きるために不本意な仕事をしている人間は世界中にごまんといる(私も代表格の一人?)。
教育された感性や価値観のせいなのか、集団心理の一種なのか、本質的に、それが万民にとって正しい生き方なのかどうかはわからない中で、その様に生きる人間があまりに多すぎるため ほとんどの人は疑問に思うことも違和感を覚えることもない。
しかし、中には、「正常」とされるそんな生き方に疑問を抱き違和感を覚える人・・・勇気と希望を持って、挑戦的に人生を冒険できる人もいる。

故人は、冷たい現実に耐え得る熱量を持つことができなかったのか・・・
返ってくるのは“お祈りメール”ばかりで心が折れてしまったのか・・・
どんな生き方が正常で どんな生き方が異常なのか、どんな生き様が自然で どんな生き様が不自然なのか・・・
ホトホト疲れ、何もかもに嫌気がさすようになり、そんな日々が故人を深い闇に沈めていき、最終的に、「絶望」という名の刺客がトドメを刺したのかもしれなかった。



また別の案件。
付き合いのある不動産会社から、
「自社物件で自殺が発生」
「遺族と協議するので、そこに参画してもらえないか」
といった旨の相談が入った。

悲しみの種類、責任の度合、世間の目・・・自死というのは、多くの意味で“特別”な亡くなり方。
現場の処理は慣れたものながら、遺族との交渉・協議は、単なる孤独死とは一線を画すもの。
画一的な“慣れ”は通用しない。
心情はもちろん、協議に波風が立つことが多く、私は、ちょっと憂鬱な気分に。
ただ、悩ましい案件に挑むときは、開き直ることも必要。
私は、余計なことを考えるのは後回しにして、担当者に「Yes」と返答。

その後、故人の死に表面的な疑問を持ってしまう自分と、“生きる意味”というものをあらためて自問する自分が現れることを、この時の私は知る由もなかった。
つづく


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腐乱ダースの犬

2025-05-05 06:26:15 | 特殊清掃
腐乱ダースの犬

GWも終盤、季節は夏に向かってまっしぐら。
で、これからは、何もかも腐りやすくなってくる。
食品業界の人をはじめ、戦々恐々としてくるのは私だけではないだろう。
ただ、この仕事は、凄惨性が高いほど生産性も上がる。
とは言え、そんな現場が生じることを望んでいるわけではない。
酷ければ酷いほど、特掃隊長自身がツラい思いをすることになるわけだから。

それはさておき、今年のGWは「最大11連休」と言われながらも赤日は二分割されて、実際は大型連休にしにくかったよう。
また、物価高も相まって、アンケート上では「家で過ごす」「外食するくらい」といった人が多かったそう。
ま、それでも、休暇がとれるだけいい。
連休なんて、余程のことがないかぎり無理。
ただ、こんな暮らしを長年やっていても、楽しいことがないわけではない。
ささやかながら、“笑顔の想い出”はある。

もう、十数年も前のこと。
とある自殺現場に置き去りにされていた小型犬を引き取ったことがあった。
飼主亡きあと引き取り手がなく、物件を管理していた不動産会社は役所に投げるつもりでいた。
となると、ゆくゆくは殺処分。
さすがに不憫に思った私は、もらい手を探すつもりで家に連れ帰った。
が、一緒に暮らすうちに情愛が芽生え、結局、家族になった。
このBlogでも「チビ犬」として何度か登場させたその犬、昨年11月11日が十回目の命日だった。
今でも一緒にいた頃を想い出すことは多く、懐かしさと可愛さに、一人微笑んでいる。


当方が担う業務の多くは特別汚損処理なのだが、その中身は多種多様。
人の死にまつわる案件が多い中、動物の死も少なくない。
ケースとして多いのは野良猫。
床下や植木の茂み中、車のエンジンルームなど、人目につかないところで死に絶え、腐敗してしまうのだ。
公道での轢死体など、現場が公地であれば行政(委託業者)が処理してくれるが私有地ではそういうわけにはいかない。
死骸自体は行政が回収してくれるものの、ゴミ袋に梱包して表に出すところまでは自分でやらなければならない。
しかし、腐敗が進んでいた場合は特に、それができる人は限られている。
で、当社の出番となるのである(もちろん有料で)(無料と勘違いする人が時々いる)。

問題になるケースで多いのは“ネコの多頭飼い”。
目に滲みるレベルの糞尿臭で近所からクレームがきていた家、
糞が大量で、特掃が土木工事のようになった家、
飼育放棄で餓死し、共喰いの末、最後の一匹だけを捕獲したマンション、
飼主が自殺し、数十匹の猫が餓死腐乱していた家etc・・・
これまで、色々な動物案件と遭遇してきた中で、犬の多頭飼いに遭遇したことも何度かあった。



出向いた現場は、閑静な住宅地に建つ一戸建。
まだ築数年か、きれいな建物。
土地はそれほど広くなく、建物もそれほど大きくはなかったものの、注文住宅のようで、なかなかオシャレな造り。
また、街から近いエリアでもあり、生活するにも飲食を楽しむにも至便の場所。
土地も建物も、結構な金額のはすだった。
が、主を失った家の庭は荒れ放題。
庭や外周には雑草が生い茂り、ポストからは郵便物があふれ、空き家になっていることは誰の目にも明らかな状態となっていた。

依頼者は、故人の両親で遠方に居住。
家族関係は良好だったが、お互い、頻繁に連絡をとり合うほどの用はなし。
何か用事があるときに電話やメールをするくらいで、何週間・何か月も連絡をとり合わないこともザラ。
しかも、故人は勤め人ではなく個人事業主。
普通の会社員なら無断欠勤をすれば不審に思われるのだが、そんなこともなし。
結果、亡くなってからも遺体はしばらく放置されたままに。
30代前半の若々しい肉体も自然の摂理には逆らえず、季節の暑さと湿気に追い討ちをかけられながら、その姿を著しく変えていった。

発見のキッカケは音信不通。
ちょっとした用があって母親が故人に電話をしたのだが出ず。
その時は、さして気にもしていなかったが、いつもなら当日のうち、遅くとも翌日には折り返しかかってくる電話がかかってこない。
再びかけても同じで、メールの返信もなし。
仕事の関係先は把握しておらず、他から情報を得ることもできず。
警察に相談しようかとも思ったが、息子(故人)は人里離れた限界集落に暮らしているわけでもないわけで、安否確認のためだけに警察に動いてもらうのは躊躇われた。
結局、「何かのときのために」と預かっていた家の鍵を携えて、はるばる故人宅を訪問。
たまった郵便物と静かすぎる佇まいに恐怖感に近い違和感を覚えながら玄関を開錠。
開けたドアの奥から漂ってくる異臭に鼓動を大きくしながら室内を進んでいったのだった。

現地調査は、それから二週間余り後となった。
警察による死因と身元の確認に時間がかかったためだ。
家の鍵は事前に送ってもらっていた。
「遺体があったのは二階の洋室」
「汚れもニオイもかなりヒドい」
「隣の部屋に動物の死骸らしきものがたくさんある」
その情報を持って、私は現地へ。
何の自慢にもならないけど、百戦錬磨の私はどんなに凄惨であっても大して緊張することはない(結局、自慢してる)。
しかし、“動物死骸、しかも“たくさん”というところが大きな引っかかりがあった。
それまでにも、動物死骸系の特殊清掃は何度もやってきていたが、経験数が少ないせいか人間の場合より耐性が低い。
人間の場合、当方が出向くのは遺体が搬出された後になるのだが、動物の場合は死骸本体と遭遇することになるため、そのネガティブインパクトにメンタルがやられるせいもあるだろう。
私は、大きくなってくる心臓の鼓動を小刻みな呼吸で整えつつ、ゆっくりと二階へ上がっていった。

「うわ・・・これは・・・ヒドイな・・・」
遺体痕もそれなりに凄惨だったが、そんなの可愛いもの。
強烈に目を引いたのは格子の柵が設けられた隣の部屋。
聞いてきた通り、そこには、何匹もの動物死骸が・・・
発見されるまでに要した期間に死因・身元判明にかかった二週間余を足すと、死骸は三週間ととっくに越えた期間 放置されたことになる。
しかも、高温多湿の時季に日当り良好の密閉空間で。
これでは重度に腐乱するのは当り前、もう、こっちが腐りたくなるくらい凄惨な状況だった。

眼がブッ壊れそうになっても、キチンとモノを見ないと仕事にならない。
そうは言っても、マジマジ見るのは恐い。
私の本能は目を背けたがったけど、特掃隊長の本能がそれを拒否。
そうこう葛藤しているうちに、
「犬?・・・犬だ・・・な・・・」
と、それらが犬であることが判明。
更に、サイズは小型~中型で大型犬はいなことも確認。
ひしめき合うように横たわる腐乱死骸と それらが溶解して生じた腐敗汚物が床を覆い尽くしている様は、もう、筆舌尽くしがたいくらい悲惨なもの。
腐敗汚物と同化してしまった小型犬は個体としてのカウントが困難で、実際はそれより少なくても「ワンダースはいるんじゃないか!?」と錯覚させるくらいのインパクトがあった。

「この仕事、断ろうかなぁ・・・んなことできるわけないかぁ(トホホ・・・)」
もともと、仕事に意地もプライドもない。
ビジネスライクをベースとしたちょっとした使命感と、頼られる(うまく使われる?)と漢気を出してしまう単細胞と、褒められる(おだてられる?)と ついカッコつけてしまう自己顕示欲があるのみ。
あまりに現場が衝撃的すぎるため、私はテキトーな理由をつけて、会社にも遺族にも“作業不能”を申告しようかと一瞬思った。
が、頼られていることを思い出し、辞退の考えは取り消し「やる!」という方向だけにだけ頭を働かせることにあらためた。

「はてさて、どうやって片付けるかな・・・」
技術は並で済むが、根性は並では無理(根性なしだけど)。
かかる負荷を考えると、やる前から気分は重々、意気は消沈。
少しでも効率的にやるため、少しでも合理的に終えるため、ない頭で色々と思案。
とにかく、自分が大変な思いをしないように、自分がキズつかないように、自分が恐ろしい目に遭わないようにしたかった。
もう、故人の死を悼む気持ちや遺族の期待に対する責任感は失せていた。
臆病者の心には、生前はどれも可愛かったであろう犬達を不憫に思う気持ちがかすかに残っているだけだった。

まずは、死骸を取り除かなければならない。
何と表現すればいいのだろう・・・
不気味な硬さと軟らかさをもったヌルヌルの物体が粘度の高い泥に半分埋まっているような状態で、「持ち上げる」という単純な動作だけでなく「掘り出す」「剥がし取る」といった複雑な動作も要する作業。
しかも、この手で。
ラテックスグローブの上に丈夫なビニール手袋をつけるとはいえ、心情と感触は素手も同然。
代わりにやってくれる機械、もしくは、もっと効率的・合理的な術でもあればありがたいのだが、流行りのAIでも、そんな機械を作ることも術を編み出すこともできないだろう(将来、AIに仕事を奪われることもないだろうけど、もう奪われてもいいかも)。
私は、「手足がちぎれる?」「頭が落ちる?」「腹が割れる?」「皮が剥がれる?」、そんな不安に怯えながら、見たくもないモノを見ながら、触りたくもないモノを触りながら、作業を進めた。


故人は独身で妻子がなかったため、家屋をはじめとする遺産は両親が相続。
そのうえで、家は売却処分されることに。
事故物件であるうえ、二階には人と犬の汚損痕も残っているということで、常識的なマイナス査定を越えて買い叩かれる可能性は充分にあった。
しかし、故人の死を悼むばかりの遺族は、それで儲けるつもりはなし。
「スッキリ清算したい」という気持ちが強いのだろう、「二束三文でもいいから、さっさと手放したい」とのこと。
しかし、私としては、身を粉にして掃除した成果(貢献)として「建て替えは免れない」といった買手都合の理由に押されて、法外な安値で買い叩かれないようにしてほしかった。
で、求めに応じて不動産会社を一社 紹介したうえで、「少なくとも二社、できたら三社くらいは相談した方がいい」とアドバイスして この仕事を終えた。


どんな職種であれ「仕事」というものは たいがい大変。
肉体・精神、そして頭脳、色々なところが疲れる。
察してもらえるだろうか、私の仕事も相応に大変で相当に疲れる。
それでも、帰宅して、さっさと風呂に入って、さっさと晩飯食べて、さっさと寝る、ということにはならない。
眠い目をショボショボさせながらでも、規定量(1.5ℓ)の酒(ハイボール)は飲む。
その後は、いつの間にか気絶することもあれば、ウトウトしながら就寝の支度をして床につくこともある。

「僕も疲れたんだ・・・なんだかとっても眠いんだ・・・」
希有な仕事をしたその日の夜も、そんな感じで更けていったのだった。


コメント (4)
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