特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

非難民

2021-05-12 08:15:57 | 猫屋敷
かつてなかったほどの最悪の事態になっているコロナ第四波。
うろたえる国・自治体、疲弊する医療体制、苦境にあえぐ民、他人事の民・・・混迷を極めている。
ただ、この災難は、「歴史」であり「摂理」である。
いつかは過去のものとなり、何かしらの意味を残すはず。
とはいえ、その真っ只中にいるうちは、そんな捉え方をする余裕はない。
苦境にある人は 日々をただ耐え、平和にある人は 日々を少しでも楽しもうとする。

人々の自制心はどこへ行ってしまったのか・・・
あれほど自粛が呼びかけられていたのに、先般のGWで見かけた光景は、自宅に避難するどころか、“コロナ前”を彷彿とさせるようなものが多かった。
各高速道路AMの下り、PMの上りは、軒並み大渋滞。
レジャー施設は、臨時駐車場が用意されるほど車が集まり、人気の飲食店の前には、客が列をつくっていた。
身近なところの大型ショッピング施設や商店街、公園や河川敷にも多くの人が繰り出していた。
ほとんどの人が、色々な言い訳を用意して「このくらいなら大丈夫だろう」と出かけているのだろうが、人と人との距離が近いのは明らか。
感染力は強いといわれる変異ウイルスも“我関せず”で、結構な密状態。
崩壊しつつある医療体制も、人が死んでいることも、どこか別世界の出来事のように捉えているように見える。
これじゃ、感染者が減るわけもなく、緊急事態宣言を解除しようもない。
そういった光景を眺める私も、もはや、以前ほどの憤りは覚えず、ただただ、諦めの気持ちで溜息をつくばかり。
「感染するのが先か、ワクチン接種が先か」といった瀬戸際に追いやられるのも、そう遠いことではないような気がする。

もともと、私の生活スタイルは地味なもので、自粛じみたもの。
だから、自粛疲れも自粛ストレスはほとんどないつもりでいるけど、はじけたくなるような、何ともいえない“ムシャクシャ感”に苛まれることはある。
何か、楽しいことをしたくなったり、この日常から離れて、遠くに出かけたくなったりする。
だから、宣言下でも出かけてしまう人達の気持ちもわからなくはない。
しかし、不要不急の外出は控えるのが昨今のマナー、社会の一人としての義務であり責任である。
で、結局、仕事以外で出かけるのは、地元のスーパーくらいにとどめている。

ただ、このストレスは、誰もが秘める“人間悪”として、思わぬかたちで、いらぬ方向に噴出することがある。
誰かを非難することも、その一例。
不要不急の外出をする人、営業自粛要請に従わない飲食店、路上飲みをする人、現実に目を向けずオリンピックをやろうとしている人、迷走する政治家etc・・・
そして、非難・偏見・差別・争い・暴力etc・・・そこから、色んな罪悪も生まれている。
自身を省みると、私も、常に、誰かを責め、誰かを悪者に仕立て上げようとしている。

かつて、コロナ禍は非日常だった。
しかし、現在、コロナ禍は日常になっている。
悪いのは誰でもなくコロナウイルスなわけで、ここまできたら、私のような一個人が、チマチマと誰かを責めたって、何の解決にもならない。
社会の秩序を乱す者やルールを守らない者は、正当な権限を有する者が取り締まればいい。
そして、「言論の自由」は、もっと正々堂々と行使すればいい。
もう、この不自由な世界を、現実として受け入れるしかない。
そして、この“日常”の上に、ありきたりの毎日を、平々凡々とした毎日を・・・平和な毎日をつくっていくしかない。
だから、私は、非難ばかりするのではなく、不安ばかり呷るのではなく、もっと建設的なスタンスをとるべきではないかと思い始めた。
それが、社会のためであり、ひいては、自分のためでもあると思うから。



訪れた現場は、住宅地に建つ木造二階一戸建。
案件は、いわゆる猫屋敷。
異臭は屋外にも漏洩。
それだけではなく、玄関ドアは、不自然に錆びついている状態で、家の中に入らずとも、ヤバい状態になっていることが十二分に伝わってきた。
案の定、室内の汚染は重症。
部屋の床、廊下、階段は猫の糞は散らばり、隅の方にはブ厚く堆積している部分も。
もう、家自体が猫トイレのような状態。
更に、異臭は強烈。
ネコ糞尿特有の刺激臭が高濃度に充満しており、単にクサいというレベルを超えて目に滲みるくらい。
とにかく、不衛生極まりない・・・異臭に関しては身の危険を感じるくらいの状況だった。

常識的に考えると、とても人間が生活できるとは思えない状態。
並みの人間なら数時間もいられない。
間違いなく身体を壊す。
しかし、人間の順応性というものはスゴい!
徐々に特有の耐性ができてくるのか、そんな状況にもかかわらず、依頼者は至極平然。
フツーに呼吸しているし、足や身体に糞がつくのも気にならない様子。
感心している場合ではなかったのだけど、私は、その不可解なたくましさに、「スゴイなぁ・・・」と、感心するばかりだった。

目はショボショボするし、とにかくフツーに呼吸することが困難。
少々の腐乱死体現場ならガスマスクは着けない私だけど、身体を壊したら元も子もない。依頼者に遠慮せず、専用マスクを着用することに。
しかし、愛用のマスクは、一流メーカーの国産品なのに、その刺激臭は、高性能フィルターでも完全には濾過しきれず。
かなり低減はしたものの、その刺激は、容赦なく、鼻から気管を経て肺へ入り込んできた。

悪臭は悪臭でも、健康を害するものとそうでないものがある。
本件は、明らかに前者。
私は、タバコを吸わないものだから、空気の一般的な汚れは別として、異物を肺に入れる習慣がない。耐性もない。
だからか、「身体によくないものを吸い込んでいる」という嫌悪感が強く、実際にも、強いミントガムを噛んだときのようなスースーする感覚を気管に感じた。

そんな状況に長く居続けるのは困難。
ただでさえ、専用マスクは呼吸がしづらい。
たいした動きをしなくても、息が上がる。
まさに、高地トレーニング状態(やったことないけど)。
メンタルの弱さも影響してか、少し呼吸しただけで息苦しくなり、外の空気を吸いたくなった。
しかし、近隣への影響を考えると、窓を解放するわけにもいかず。
また、その度に、いちいち外に出ていては仕事にならない。
私は、息つぎに水面に上がってくる亀のように、その都度、窓を開け、顔だけ外に出しては、貪るように空気を吸い、肺の換気を行った。

糞を除去したからといっても、それは悪臭を抑える決定打にはならず。
なにせ、長年の悪臭は、家屋自体に染みついている。
その上、内装建材や建具は、糞尿によってヒドく腐食。
つまり、家屋自体が糞同然の状態。
だから、糞尿本体を始末したくらいでは、原状回復は不可能。
効果としては、室内が、ほんのわずか衛生的になり、異臭を低減できるくらいのこと。
最大の目的は、近隣苦情を抑えることだから、まずは、そこを目指して作業を始めた。

当然、作業も、楽には進まなかった。
腐乱死体現場やゴミ部屋にはない労苦があった。
それは、まるで土木作業。
スコップで土を掘るように、山積になった糞を崩していった。
しかも、身体に悪い刺激臭を吸いながら、舞い上がる糞粉にまみれながらでは、自慢の?特掃魂も長続きせず。
いつもならサクサク片づけていくところ、「刺激臭」という見えない敵に苦戦し、作業は遅々として進まず。
それだけでなく、作業半ばで体調を崩しかけるような始末だった。


依頼者が、糞尿掃除に動くことになったキッカケは、近隣からの苦情。
そこは都会の住宅街で、家屋が密集している地域。
依頼者宅から発せられる異臭は屋外にも漏洩し、周辺の住宅にも侵入。
風向きによっては、少し離れた家にも到達。
天気がよくても窓を開けることもできず、ベランダに洗濯物を干すことも躊躇われるような状況。
あまりにクサイものだから、「悪いウイルスや有害物質が混入しているかも」といった憶測まで呼んだ。
しかも、こういう類の話は、人を介せば介すほど、人が集まれば集まるほど大きくなる。
結果、周辺住民から苦情が殺到することとなった。
一方の依頼者は依頼者で、「いちいちうるさい!」「ここは自分の家!」「どう生活しようが自分の勝手!」「干渉される筋合いはない!」と聞く耳をもたず。
結局、町会や行政を巻き込んでの揉め事に発展し、依頼者は重い腰を上げざるを得なくなったのだった。

そんな状況では、当然、依頼者は町内でも孤立。
“変人扱い”・・・もっと言えば“犯罪者扱い”。
近所に親しく付き合っている人がないことは、よそ者の私にもすぐわかった。
「火のないところに煙は立たず」というように、依頼者がつけた“火”は間違いなくあるわけで、こういうのを「偏見」「差別」というのかどうか、私にもわからなかったけど、とにかく、依頼者は、近隣から村八分にされていたことは明白。
事実、私が、外にでて休憩をとっていると、近所の人達が一人二人と集まってきた。
まるで、ウンコにたかるハエのように。
そして、仕事とはいえ痛い目に遭っている私も味方だと思ったのか、被害者ヅラで話しかけてきたかと思うと、依頼者の人柄や家の中の様子を探るように下世話な話をズラズラとしはじめた。

身勝手な生活スタイルで、近隣に迷惑をかけていた依頼者は悪い。
のけ者にされるにも、それなりの理由があったと思う。
しかし、“無勢に多勢”で寄ってたかって悪口雑言を吐くのもいかがなものか。
そこにいたのは、もはや、悪臭の被害者ではなく、ただの野次馬。
言いたいことはわかるけど、それは、決して耳触りのいいものではなく、“どっちもどっちだな”と思わせるものだった。


そもそも、人間という生き物は、自分より弱い者を探す(つくる)のが好き。
そして、それをいじめることが好きな動物。
自分が卑怯者になっていることにも気づかず、まるで、“我こそ正義”のごとく。
また、食い物を口に入れるだけでなく、自慢話と悪口を口から吐くことも大好きな動物。
聞く人の耳を汚すだけでなく、自分の口が汚れることにも気づかず。

例えば、有名人のスキャンダルに惹かれるのも、ある種の人間悪。
アカの他人の不倫や浮気なんか、どうでもいい話。
しかし、TVワイドショーは、政治経済や社会情勢のニュースはそっちのけで、重大ニュースのごとく大々的かつ詳細に報道する。
しかも、多くの時間を費やし、同じ内容を何度も何度も繰り返し。
そして、何故か、まったく害を被っていない人間達が、寄ってたかって当人を吊し上げる。
画面の向こう側にいる不特定多数に謝罪させられている姿を見かけることもあるが、それが「有名人の宿命」だとしても、当人からしたら、こんな理不尽な話はないだろう。

私を含め、多くの人は、自分を“常識人”だと思っている。
で、それに合わない人や意に沿わない人を「非常識!」と非難する。
SNS内で頻発している匿名での誹謗中傷が典型的だけど、自分は安全なところに避難したうえで特定の誰かを非難する。
曲げて解釈した「言論の自由」の傘に隠れ、表に顔を出さないままで。
残念で情けないことではあるが、この私も その類の人間の一人かもしれない。
SNSは一切やらないし、匿名での投稿もしない私だけど、本質的には“同じ穴のムジナ”かもしれない。

多分、気のせいではないだろう・・・
コロナ禍になって、誰かが誰かを非難する声を多く耳にするようになったような気がする。
そして、自分が誰かを非難する気持ちも大きくなったような気がする。
ただ、それでいいのかどうか考えなおすとき、明るい未来の扉が開くような気がするのである。


-1989年設立―
日本初の特殊清掃専門会社

お急ぎの方は
0120-74-4949
(365日24時間受付)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手遅れ

2021-05-06 09:05:52 | 吐血死現場
多くの人が自粛し、また、多くの人が自粛しなかったGWも終わった。
桜花の3月21日で緊急事態宣言(首都圏)が明け、少しは落ち着きを取り戻すかに見えたところ、期待されていた(誰も期待してなかった?)「まん延防止等重点措置」も、ほとんど意味をなさず、早々と第四波に襲われている。
で、再びの緊急事態宣言(東京)。
しかしながら、その緊張感はほとんど感じず。
人出は大きく減っていない模様で、街には人があふれ、通勤電車も満員。
一回目の宣言時とは、明らかに雰囲気が違う。
予定通り5月11日に宣言が解除された場合、第五波・第六波が次々にやってきて、緊急事態宣言も四回目・五回目と続くことが想定されているらしい。
残り、たったの数日で著しく減少していくとは思えず、どうしたって宣言は延長されるのだろう。

“期待の星”ワクチン接種も かなりのスローペースで、目に見えた効果がでるのは、どうも来年以降のよう。
しかも、追い討ちをかけるように、変異ウイルスが頭角を現してきている。
クルーズ船のニュースを傍観していた頃のことを思うと、まさに、悪夢が現実になってしまっている。
2021年も、三分の一が過ぎたわけで、残念ながら、年内で収束する見込みはなく、今年もまたコロナ対策に明け暮れる年となるのだろう。

それでも、まだ、オリンピックは開催するつもりらしい。
昨年の今頃より、今年の方が悲惨な状態なのに、それでも中止を決断しないなんて理屈に合わない。
また、臭いモノにフタをしているのか、“さわらぬ神に祟りなし”と思っているのか、どのメディアにおいても、「オリンピック中止」を主張するメディアもない。
某TV局は、風前の灯になっている聖火リレーが盛り上がっている体をつくろうとしてか、しきりに肯定的なニュースを流している。
関係者は楽しそうだけど、無理矢理感は否めず、コロナ禍で苦しめられている“外野”との温度差も著しい。
「もはや茶番だな・・・」と、私も、冷めた目でしか見れなくなっている。

国や自治体のリーダー達だって、ただの人間。
今まで経験したことがないことに戸惑うのは仕方がない。
だから、“奔走”が“迷走”に見えてしまうのもやむを得ない。
ただ、それがわかっていても、やはり、手遅れ感は拭えない。
無責任に批判する野党議員や評論家のようにはなりたくないけど、批判する気持ちがどうしても湧いてくる。

コロナのニュースが流れない日はないが、併せて、生活困窮者を取り上げたニュースも時々流れる。
職を失って路上生活に陥る人が増えているそう。
これまでは、ホームレスの多くは中高年男性だったところ、このところは、若者や女性が激増しているらしい。
本当に気の毒なことである。
一方で、冷たい言い方かもしれないけど、「失業→路上生活」という安直な構図には、やや疑問がある。
「職を失ったからといって、そんなにあっさりと路上生活に転落するものか?」と。
もちろん、メディアは視聴者の目を引きやすい顕著な例(人物)を探して取材するのだろうけど、それにしても、易々と落ちすぎるような気がする。
また、「選ばなければ仕事はあるんじゃないの?」「好き嫌い言ってるから仕事にありつけないんじゃないの?」とも思ってしまう。

常々、税金や社会保険料をキチンと納めていれば、それなりに身は守れるはず。
雇用保険や各種助成金制度を利用すれば、数か月~一年くらいはもちそうなもの。
しかし、それが叶わないということは、つまり、「平時から、きわどい生活を続けていた」、つまり、「社会的責任をキチンと果たしてきていなかったのでは?」ということになる。
よく、「非正規だから」「派遣だから」と、人々の同情を買おうとするような口調を耳にするけど、そうなるにはそれなりの原因があったはず。
もちろん、非正規になりたくてなったわけではないだろう。
自分の力ではどうすることもできない不可能力的な事情があったかもしれない。
しかし、しかしだ、そこに、努力や忍耐が足りなくはなかったか?
社会に対する責任を果たし、社会に貢献してきたか?
それをなくして、社会が守ってくれないことを批難するのはスジ筋違い。
極論すれば「自業自得」。
「非正規だから」「派遣だから」という声も、ただただ、独りよがりの言い訳にしか聞こえない。

随分前に、某有名企業の敏腕経営者が、
「派遣労働者や非正規雇用の労働者は被害者意識が強すぎる!」
「税金や社会保険料をキチンと納めないでおいて、どういうつもりか!」
と叱責するような意見を言っていたことがあった。
この意見に批判が多かったかどうか定かではないけど、私個人は、大いに賛同した。
自分の無能さ、根性のなさを棚に上げて、何でもかんでも社会や他人のせいばかりにする。
若い頃(特に高校生の頃)の私が、まさにそんな人間だったのだが、そんな考えの人間に未来が開けるわけがない。
そして、そういったモノの考え方をしているうちは、いつまでたっても這い上がれないだろう。

私は、「非正規」ではないけど、吹けば飛ぶような零細企業の珍業で、なかなかの労苦の下で生きている。
ただ、この苦境を社会や他人のせいにしたことはない。
そんな考えも、まったくない。
ヘソの曲がった言い訳ばかりして、イヤなことから逃げてばかり、たいした能力もなく、ろくに努力もせず、ちょっとしたことにも忍耐もできず、自分に負荷がかかることに挑戦する勇気もなかった結果がこれ。
親のせいでも、境遇のせいでも、社会のせいでもない。
自分で撒いた種を自分で刈り取っているだけ、100%自分の責任!
「諦め」という名の「達観」か、「達観」という名の「諦め」か、
「後悔」という名の「納得」か、「納得」という名の「後悔」か、
私は、自分でそう思っている。



出向いた現場は、高級マンションの一室。
1Fロビーのカウンターにはコンセルジュがおり、まるでホテルのよう。
当然、セキィリティーシステムも万全。
ただ、私の身の丈に合わないのだろう、そういった場所はどうも落ち着かず。
正規に鍵を預かっていた私は、そのままカウンターを素通りすることはできたけど、作業服姿の風貌は明らかに部外者で、キョロキョロとした挙動は明らかに不審。
だから、私は、あえて受付カウンターに寄り、訪問者リストに、訪問先の部屋番号と、社名・氏名・連絡先を記入。
すると、そこで起こったことを知っていたようで、部屋番号を見た女性コンセルジュは、「こんにちは」と言いながら、きれいに整った顔をやや引きつらせた。

目的の部屋は、眺望のいい上の階。
そこで、住人が吐血死。
「部屋中、血だらけになっている!」
ここに来る前、電話で話した管理会社の担当者は、画像でしか見たことがないような凄惨な光景を目の当たりにしてか、かなり興奮していた。
確かに、血だらけの現場には、独特の寒々しさ・痛々しさがある。
その“赤いインパクト”は、視覚や臭覚だけでなく、精神面にも衝撃を与える。
ただ、自刃自殺現場や刺殺現場など、凄惨な現場を何度も経験していた私は、“そこまでのことじゃないだろう・・・”と、わりと軽く考えながら部屋の鍵を開けた。

部屋に入ると、そこには、一般社会ではなかなか目にすることがない、凄惨な光景が広がっていた。
床や壁のあちこちには血痕が付着し、手や足のかたちを残す痕も残留。
水廻りを中心に深刻な汚染が発生していたけど、ただ、大騒ぎするほどの状況でもなく、ありがちな、血生臭いニオイもほとんどなし。
腐乱死体現場とは違い、ウジやハエの発生もなし。
ひたすら、光景が生々しいだけ。
私は、それで気持ちを凹ませるほど優しい人間ではないし、気持ちを凹ませずにいられるほど強靭な人間でもない。
とにかく、好き嫌い言わず、お金がもらえる仕事をがんばるしかなく、気合の溜息をついた。

血痕清掃は、そんなに難しいものではない。
簡単に言えば、固形物を削り取り、拭き取るだけのこと。
対象が“人間の血”で、“本人死亡”ということと、“自分の手も血だらけになる”ということ以外、特別なことはない。
ただ、とにかく、手間がかかるし根気がいる。
小さなことをコツコツと積み上げていくことが苦手な私には、一種の修行みたいな作業。
あと、汚染が生々しい分、“死”というものが、結構、重く圧しかかったりする。
故人の“生”がリアルに感じられて、色々と考えさせられるから、別に それがイヤなわけではないけど、何とも言えない重苦しさは感じる。
ただ、一つの命が不慮の死に遭遇したわけで、私にもその可能性は充分にあるわけだから、重苦しく感じるくらいでないといけないのではないかとも思っている。

大量の血液は、プルプルのゼリー状になる。
それを放っておくと、カチカチの板状になる。
それを思慮なく削ると、パチパチと弾け飛んで、周囲を汚すのみならず、自分の腕や顔にピチピチと当たってくる(眼にだけは入らないように気をつける)。
血みどろになった自分の両手を持ち上げて、「何じゃ!こりゃ~!」とジョークを飛ばしてみても、ウケる者は誰もおらず虚しいだけ。
とにもかくにも、終わりの見えない作業を、一人、黙々とこなしていくのである。

楽なところから片づけるか、キツいところから片づけるか、やらなければならない作業に変わりはないのだが、順番によって作業効率は変わる。
メンタルへの影響も少なくない。
ただ、イヤなことを後回しにしてロクなことはない。
だけど、イヤなことを後回しにするのが、私の悪い癖。
また、身体と精神を、軽いところから徐々に慣らしていくことも一つのやり方。
しかし、作業にも飽き、身体も疲れてきた先にへヴィー級の汚染が待っていることを想像するとゾッとするものがあったので、一番キツいところから着手することに。
私は、そう意を決し、広すぎるくらいのトイレに入り込んだ。

そう、最も酷かったのはトイレ。
自分で気づいていたのかどうか、故人は内臓を患っていたのだろう。
吐き気をもよおした故人は、まず、トイレに駆け込んだよう。
そして、そこで嘔吐。
ただ、吐瀉物が真っ赤な血だったものだから、仰天したはず。
これで吐き気は収束すると思ったのか、動揺する自分を落ち着かせようとしたのか、汚してしまった便器や床を、トイレットペーパーで途中まで拭いたような痕があった。

次に酷かったのは、洗面所。
吐き気がある程度治まって口を洗おうとしたのだろうか。
ただ、そこでもまた嘔吐。
純白の洗面台は赤黒く染まり、大理石の床にまで飛散。
しかし、そこでは、掃除するような余裕はなく、洗浄した形跡も血を拭いたような痕もまったくなく、血痕は 無残なかたちでそのまま放置されていた。

その次は、キッチンシンク。
口をゆすごうとしたのだろうか、水を飲もうとしたのか、故人は、キッチンに足を踏み入れたよう。
また、血痕は、キッチンから部屋の方へも拡散。
延々とおさまらない吐血によって、気は動転するばかり。
そして、動揺と貧血でフラフラだったのではないかとも思う。
救急車を呼ぶためにスマホを探し歩いたのか、パニックに陥って一所に止まっていられなかったのか、口から流れ出る血を手で受け止めながら、床に垂れた血を踏み広げながら、部屋中を右往左往したものと思われた。

しかし、こうなると、もう時間の問題。
救急車の到着が先か、失血死するのが先か・・・
口から血が噴き出たときは、心臓が止まりそうになるくらいの恐怖感を覚えたことだろう。
「病院で診てもらっておくべきだった・・・」と、取り返しのつかない後悔に、嘆き悲しむ瞬間があったかもしれない。
血で汚れゆく高価な部屋に、この世の虚しさを覚えた瞬間があったかもしれない。
そして、薄れゆく意識の中で、「あぁ・・・もう・・・これで、死んじゃうのかな・・・」と覚悟を決めたかもしれない。
結局、救急車を呼ぶこともできず、故人は気を失い、そのまま逝ってしまったのだった。


「生きていれば、いつ 何が起こるかわからない」
「人は、いつ死ぬことになるかわからない」
理屈では、それがわかっていても、私のような凡人は、いつも楽な方へ流される。
本当に自分のためになることをことごとくやらず、実のところは自分のためにならない道ばかりを選んでしまう。
で、いつの時点で手遅れになってしまうのかわからないまま、「人生、志と心がけ次第で、いつでもやり直すことができる」なんていう絵空事で自分をごまかしながら、いつの間にか、人生を右往左往するようになる。

ただ、そうは言っても、人生の意味は、生きているプロセスに練り込まれている。
しばしば不本意な人生を嘆き、疲労感や虚無感に襲われることも多いけど、それでも、食べていけるだけの仕事があり、それを続けることができ、また、贅沢な暮らしではないけど、雨風しのげる家があり、それを守ることができている。
労苦が続く中にも、充実感はある。
苦悩が尽きない中にも、感謝すべきことはたくさんある。

謙虚になることと自分を否定することは違う。
自分を責めすぎてはいけない。
高慢になることと自分を肯定することは違う。
自分を褒めてやることも、ときには必要。
手遅れの人生だって、まだ、やれることはたくさんある。
今、心の持ちようを変えることはできる。

初めて会ったときは、既に“手遅れ”だった“K子さん”。
春の風のあたたかさを肌身に感じつつ、冬の風と共に去った彼女が教えてくれた、自分を責めないことの大切さと その優しさを、私は、毎日のように想い出し、噛みしめているのである。



-1989年設立―
日本初の特殊清掃専門会社

お急ぎの方は
0120-74-4949
(365日24時間受付)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする