「早起きは三文の徳」
できるかぎり、私は、早起きを励行している。
夜明けが遅い冬場でも、起床はほとんど5時台。
夜明けが早い夏場だと、4時台。
不眠症のメリット?で、夜中には何度も目が醒めるし、自分が予定していた時間を過ぎて目を醒ますことは、ごくたまにあるけど、仕事に遅刻するくらいに寝坊してしまうことは皆無。
当然、目覚まし時計なんて、まったく必要がない。
それで何をするかというと、早朝のウォーキング。
それから、朝ご飯をしっかりと食べるのだ。
もちろん、仕事の予定によって変動はするけど、おおかた朝はこのパターン。
もちろん、早朝の起床はツラい。
特に、冬は暗いし寒いし。
しかも、ほとんど朝は「このまま夜が明けなければいいのに・・・」と思うような鬱状態。
だからこそ、そこで思い切って起きないと余計に苦しむことになる。
怠惰な欲望を振り切って自分を叩き起こさないと、その後が大変なことになるのだ。
楽ではないけど、早起きしていいこともある。
ウォーキングの時間帯は、ちょうど朝陽が上がるタイミングで、晴れた日には絶景がおがめるのだ。
澄みきった空気、オレンジに染まる空、日によっては輝く月星もみえる。
「人生は短い・・・絶景が見られるなら、見られるうちに見ておかないともったいない」と言っている人がいたけど、まったく同感!
感動や感激、そして感謝の念は、いくつになっても持ち続けることができる!
それこそ、“生きてる楽しみ”というもの!
ただ、そうなると、逆に夜は弱い。
何も用がないときの就寝時刻は、高齢者or小学校低学年レベル。
起きたまま0:00を越すなんてことは、年に一度の大晦日くらい(前の大晦日は0:00前に寝てしまったけど)。
でも、それもまたヨシ。
晩酌しても深酒にはならないし、遅い時間に食べて脂肪を蓄えることもない。
質はともかく、充分な睡眠時間が確保できるため、ゆったりとした気持ちで寝床につくことができる。
そして、そんな安息のひとときは、次へのエネルギーを養ってくれる。
そんな深夜、2月13日、枕元に置いているスマホがいきなり唸った。
昼間でもそこそこ驚くのに、夜中だとビックリ仰天!
そう、それは、緊急地震速報。
誰が考えたのか、あの警報音は、本当に不気味で恐怖心があおられる。
十年前の出来事が思い起こされ、今でもある種のトラウマみたいになっている。
また、心臓麻痺で亡くなる人もでてくるのではないかと心配にもなる。
その警報が、けたたましく鳴ったのだ。
そして、間髪入れずにグラグラ!っときた。
福島県を中心に最大震度6強の地震に見舞われたのだった。
いつものように浅い眠りについていた私は、すぐに目を醒ました。
首都直下、東南海、南海トラフ・・・今の日本は、いつ どこで、大きな地震がきてもおかしくない状態にあるのは承知のとおり。
いつもとは違う強い揺れ方に、私は「大地震がいよいよ来たか!?」と身構えながら身体を起こし、そのまま立ち上がった。
が、外で出るべきか室内にとどまるべきか、すぐに判断がつかず。
また、持って出るべきものも、すぐに思いつかず。
とっさに掴んだキーホルダーを手に、ギシギシと軋む音がする室内を右往左往するばかり。
心配性の私は、一般の人よりも強くコロナや地震に対する心構えをもっている自負していたけど、結局、戸惑うばかりで素早い判断と行動ができなかった。
揺れが治まってきた頃、NHKをつけると、早速、地震のニュースをやっていた。
「福島県で震度6強」「震源が海底の場合、津波が起こる可能性があるので注意」
と、アナウンサーがやや早口で情報を流していた。
私は、津波の心配がない土地に暮らしているので、その不安はなかったけど、脳裏には十年前の映像が蘇ってきていた。
そして、「大事にならなければいいけどな・・・」と、スウェット(パジャマ)の上に袢纏を羽織り、冷え冷えとした部屋の中で、しばらく繰り返されるニュースを注視した。
考える時間、迷っている時間が、結果的に命取りになる危険性もある。
頭ではわかっていても、実際に地震が起こったとき、すみやかに適切な行動ができないと意味がない。
今回、私は、コロナ同様に地震にも慣れてしまっていることに気づかされた。
あと、実際に大揺れすると、一時的に頭が真っ白になることも。
不意に地震が起こることは想定内のはずなのに、実際の感覚は想定外。
「想定外」を「想定内」にしておくこと・・・物理的な備えはもちろん、自分がとるべき行動もよくよく考え置いて、直感的に動けるようにしておくことが大切だと、つくづく思った。
訪れた現場は、郊外の閑静な住宅地に建つメゾネット式アパート。
オシャレな外観、凝った造りで、軽量鉄骨構造ながらも一般的な重量鉄骨マンションよりも高級感がある建物。
亡くなったのは50代男性、自室で孤独死。
仕事は個人事業で、亡くなったことをすぐに察知されるような人付き合いもなく、発見されたのは亡くなってから数日後。
ただ、寒冷な季節でもあり、その肉体は、腐敗らしい腐敗はしておらず。
寝室のベッドに、薄いシミが発生している程度。
わずかにアンモニア系の異臭があったものの、一般的な生活臭の方が強く、“そこで人が亡くなっていた”ということは言われなければわからないくらいだった。
また、長年の一人暮らしで家事には慣れていたのだろう、中年男性の一人暮らしの割に部屋はきれいで、汚くなりやすい水廻りもきれいに保たれていた。
故人は独身独居、親兄弟はなく、もっとも近い血縁者は叔父・叔母。
ただ、叔父・叔母は遠方の田舎に暮らし、また、かなりの高齢。
一族の文化か、田舎の風習か、親族は“血のつながり”というものを重く考えているよう。
遠戚とはいえ、借り物の家で身内が孤独死したことに少なからずに責任?負い目?みたいなものを感じているようで、深刻な表情。
その様子から、故人の後始末を引き受けるつもりがあることは充分に伺い知ることができた。
大家は、代々、この地域の地主。
先祖は、この地域に田畑をもって汗を流していた農家だったのだろうが、時代の移り変わりとともに農地は商業地や宅地となり、資産価値は上昇。
汗水流していたのは先祖、その末裔である大家は、ハッキリ言ってしまえば“棚ぼた”で資産を手に入れた身。
もちろん、相応の労苦はあるのだろうけど、一般庶民に比べれば、経済には余裕があり、生活は優雅。
何の資産も持たない貧乏人(私)からみると、羨ましく思える身分。
ただ、同じ資産家でも色んな人がいて、寛容な人もいれば強欲な人もいる。
自分のことを棚に上げて言わせてもらえば、残念ながら、本件の大家は後者だった。
大家、親族、業者(私)、三者協議のテーブルでのこと。
親族に対して大家は、家財生活用品の処分と、そこで亡くなっていたことを理由に、ある程度の消臭消毒を要求。
もともとそのつもりはあったようで、これは、親族も承諾。
しかし、ことはそれだけにはとどまらず。
“世間知らずの田舎者”“お人よしのお年寄り”といった体の親族が黙って頷いていることに気を大きくしたのか、大家は、全面的な内装改修工事や設備の入れ替えまで打診。
「新築にする気か?」「そこまでする必要ないだろ?」と思うようなことまで、当然のように要求しはじめた。
そして、用意周到なことに、親族の前に、「原状回復に関する全責任を負う」といった旨の覚書を差し出し、署名押印するよう促した。
対する親族は、戸惑いの表情。
家財処分や消毒、一部の内装改修や清掃を強いられるのは仕方がないと思っていたようだったが、大家の要求はそれをはるかに超越した想定外のもの。
故人の部屋は、何も言わなければフツーの部屋、特段の汚損も異臭もない。
いくら、親族が孤独死現場の後始末に関して素人といっても、そのくらいの分別はつく。
三者の中では若輩だった私の目からみても大家の下心はみえみえで、親族も大家の言うことを黙って聞いてはいたものの、それは“=納得”でないことは明らかだった。
不動産にかぎったことではなく、物の貸借契約において借主は「善良な管理者としての注意義務」、つまり、「借りたものは良識をもって大切に使用しなければならない」という責任・義務を負う。
通常の生活を送るなかで傷んでしまうものや、経年による劣化は免責されるのが通例だけど、「内装建材・建具設備を通常使用外で損傷させてはならない」という責任を負うわけ。
具体的には、「禁煙の部屋でタバコを吸ったり、ペット不可の部屋で動物を飼ったり、大量のゴミを溜めたり、常識的な清掃を怠ってヒドく汚したりしてはいけない」ということ。
不可抗力ながら、孤独死して腐乱した場合も、汚損が顕著に表れるので、なかなか抗弁しにくい。
自殺となれば尚更で、「不可抗力」ではなく「故意」とみなされるので、借主側の責任は大きなものとなる。
話を一般の案件に戻すと、通常損耗・経年劣化の判断基準にはグレーなところがあり、借主・貸主の間で争いになることも少なくない。
私自身も、三年暮らした部屋で原状回復代が全額免除されて嬉しかったこともあれば、一年しか暮らさなかった部屋で少なくない額の修繕費をとられて不満に思ったこともある。
が、本物件は、上記の借主義務を逸脱しておらず。
家賃の滞納をはじめ、迷惑行為もトラブルもなし。
所々に通常の生活汚れがあるのは当然ながら、全体的に部屋はきれいで経年劣化も軽症。
居住年数を考えると、原状回復費用のほとんどは貸主(大家)が負担するべきものと考えるのが自然だった。
しかし、“孤独死”というところが借主(故人)側の急所となっていた。
で、大家は、被害者色を前面に押し出して、その一点を突いてきた。
ただ、それは、法的拘束力をもっているものではなく、あくまで情に訴えるもの。
親族は、故人と生前の付き合いも浅く、賃貸借契約の連帯保証人や身元保証人にもなっておらず。
しかも、「血縁者」とはいえ、親子・兄弟でもない遠戚。
ただただ、一族の倫理観・・・つまり、血はつながった者としての善意で後始末をしようとしていたわけで、放り投げよう思えば、容易に放り投げられる立場にあった。
大家は、話が進むにつれ、それまで従順だった親族の空気が不穏なものに変わってきたのを察知したよう。
それを警戒してだろう、そしてまた、専門業者の意見だったら説得力があると思ったのだろう、大家は、私にも意見を求めてきた。
大家の主張は業者の私にも利があるため、当然、大家は、自分側に立った“援護射撃”を期待していたはず。
しかし、一つ間違えば悪質な押し売り、もっと言えば詐欺にもなりかねない。
私だって、仕事=商売をするためにやってきたわけで、一儲けも二儲けもしたかったけど、大家とグルだと思われるのは不本意だし、犯罪者みたいな後ろめたさを味わうのはもっとイヤ。
そうは言っても、大家を敵に回したら、仕事を獲たとしてもやりにくくなるに決まっている。
業者の立場としては、大家側につくのが得策・・・
個人の立場としては、親族側につきたい・・・
私は、大家側につくべきか、親族側につくべきか、ない頭をめいっぱい捻って打算を働かせた。
で、いつでも都合よく自分の立ち位置を変えられるようにしておくため、
「業者である私も利害関係者の一人ですから、ここでの意見は差し控えます」
と言って、結局、どちら側にもつかず。
その結果、大家の思惑は外れ、決着には至らず。
親族の、「この案件は持ち帰って検討する」という回答をもって、その場はお開きとなった。
数日後、親族は、
「弁護士に相談したところ、“負うべき責任はない”と言われた」
「ある程度は負担するつもりだったけど、もう一切の後始末から手を引く」
と大家に通達してきた。
肉親の情に厚い田舎者だと思っていたら、いきなり手のひらを反してきたわけで、これは大家も想定外。
慌てて腰を低くしても、もう手遅れ、後の祭り。
結局、親族の善意につけ込んで欲をかいたばかりに、大家は、本来なら得られるはずだったものまですべて逸してしまった。
一方の私は、親族に悪者扱いされることもなく、仕事の規模は縮小したものの大家との請負契約で一仕事を獲ることができ、このときは、どちら側にもつかない優柔不断なスタンスが「吉」とでたのだった。
とにもかくにも、人の善意に乗っかって一儲けしようとするのはよろしくない。
詐欺や窃盗を筆頭に、このコロナ禍に、そういった輩が横行しているのは、承知の通り。
そんな卑怯者は、あえて善良な高齢者や弱っている店を狙う。
「コロナなんか関係ない」と我が物顔で店をハシゴしイキがっている連中より、更に性質が悪い。
関連するニュースを見聞きすると、「くたばってしまえ」と、過剰な思いが湧きあがってくる。
そうは言っても、我を顧みれば、
「オマエだって、他人の不幸で飯を喰ってるんじゃないの?」
「似たようなもんじゃない?」
と、どこからかそんな声が聞こえてきそう。
これまでも、たまに、内から外から、そんな声が聞こえてきた。
ただ、私は、人生の半分以上をこうやって生きてきた。
もう、他の生き方は忘れてしまったし、今更、他の生き方なんてできっこない。
人生は、想定外のことが起こるから楽じゃない。
それで、どれだけ泣かされてきたことか・・・
しかし、想定外のことが起こるから面白くもある。
それで、いくらか笑いもした・・・
想定内の死に向かう中で、想定外の死期と死に方を覚悟しつつ、これからも、私は、こうやって生きていくしかない。
狭苦しく冷暗な地ベタを、ひたすら這いずり回っているような人生。
若かりし頃の自分にとっては、まったく想定外の人生。
そんな想いに、気分を沈ませてばかりの日々・・・
くたびれた男になってしまった自分に、ここから這い出るチャンスは、まだあるのか・・・もうないのか・・・
ただ、泣いても笑っても、残りの人生が刻一刻と短くなっていることだけは間違いない。
「だったら、全力で地ベタを這い回ってやろうじゃないか!」
そんな覚悟も根性もないくせに、生きてる楽しみを少しでも味わおうと、時々、私は自分にそう言って朝陽に向かっているのである。
特殊清掃についてのお問い合わせは
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