特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

Challenge

2016-01-04 09:37:00 | Challenge
2016謹賀新年。
東京は晴天に恵まれ、気持ちのいい正月を過ごすことができた。
私は、大晦日は猫死骸の処理をして年を締め、元旦は事務所の電話番で年を始めた。
年越しの夜は、珍しく暴飲暴食をしてしまい、元旦の朝はなかなか辛いものがあった。
ま、それでも、今年も平和な年越しに恵まれ、若干の欝気はあるけど気分は落ち着いている。

さて、今年一年、どんな年になるのだろうか。
例年同様、小さな期待と大きな不安でいっぱいなのだが、今のところ、考えられるのは、これまでと同じように、働いて、食べて、寝て、たまに遊んでの平凡な毎日。
そして、その繰り返し。
でも、それで充分。
平凡は平凡なりに、ささやかな幸せがある。
そして、小さな幸せは、自分の心次第で大きな幸せに膨らむものだから。

しかし、何時、何が起きてもおかしくないのが人生。
「一寸先は闇」とまでは言わないけど、人が持つ未来の及ぼせる力は微々たるもの。
先のことを予測しきることは到底できない。
更には、人生をうまく生きるには、知らなくていいこと・知らないほうがいいこともある。
とにかく、事件、事故、病気、ケガ、天災etc・・・そういったものには遭遇しないよう願いながら生きるほかない。

そうは言っても、難を逃れることばかりに注力して守りの姿勢を固持していても面白みはない。
ときには、攻めの姿勢も持たないとつまらない。
ただ、残念ながら、私は、ものすご~く保守的な性格で、何事においても“従来通り”が大好き。
チャレンジ精神というものを持ち合わせた経験があまりなく、なまじ居心地がいいものだから、できるかぎり自分を狭い殻に閉じ込めている

そんな私でも、近年、新たに挑戦したことがある。
とりあえず書いてみようと思うけど、ここから、ただの自慢話が始まる。
まぁ、それでも、自慢できることが少ない中年男のしがない自己顕示欲と割り切って甘受してもらえれば幸いである。


最初は、ちょっとしたことがきっかけだった。
ちょうど今頃の時季、2009年から2010年にかけての冬だったと思うけど、会社の同僚が「仕事の幅を広げるため」と、とある国家資格試験の勉強を始めた。
うちの会社ではあまりない珍事に、私は、始め、他人事としてそれを傍観していた。
ただ、そのうち、「向上心」という、自分には縁のないものが輝いて見え始め、次第に妙な劣等感を抱くようになってきた。
そして、しばらくすると、今度は、落ちこぼれていくような惨めさを覚えるように。
自分が抱くその感覚に嫌悪感を覚えた私は、自分も向上心を持ちたくなってきた。
それで、何を思ったか、彼と同じ資格取得を目指すことを決意したのだった。

彼は通信講座を利用していたが、私はその方法を選ばず。
理由は、宣伝文句は大袈裟なのに中身は独学に毛がはえた程度のもののように見え、費用の割には付加価値が低いと思ったから。
そして、生活上の時間配分がかなり不規則な私には、通信講座のペースは合わないと考えたから。
結果、完全独学でやることにして、本屋でテキストと問題集を購入。
そこから、自分流のやり方を模索することにした。

しかし、この我流独学法を確立するのが、思っていたよりかなり大変なことだった。
なにせ、勉強らしい勉強をするのは約二十年ぶり。
勉強法の確立以前に勉強の感覚自体に強い違和感と拒否反応が発生。
また、仕事柄、休日も労働時間も極めて不規則で、時間が言うことをきかない。
しかも、難易度ランクは「普通」とされる資格ながら、テキストはチンプンカンプンで問題も難解。
「リズム」というか「コツ」というか、そういうものがなかなか掴めず、また、努力ができない性格と忍耐力のなさも災いし、試行錯誤と七転八倒がしばらく続いた。
と同時に、その道の素養があるわけでもない私が楽に学べるものではないことは至極当然なことなのに、何を勘違いしていたのか、それを受け入れることができず結構なストレスを抱えることになってしまった。

始めることは簡単。
難しいのは続けること・・・・・続けることが難しい。
実際、勉強のきっかけをくれた同僚は試験を受ける前に挫折したし、私も仕事に追われて勉強できない日が多々発生した。
また、時間は確保できても疲労や睡魔に負けて勉強しない日も多々あった。

誰かに勧められたわけでもなく、誰かに強制されているわけでもなく、途中でやめたって、誰にも迷惑はかからない。
また、褒めてくれる人がいるわけでもなければ、実入りが増えるわけでもない。
しかし、それは自らの決意で始めたこと。自分と約束したこと。
自分を裏切り続けてきた人生、イヤなことから逃げ続けてきた人生を振り返り、そして、“イヤなことから逃げてもいいことはない”ということを証明せざるを得なかった人生を振り返ると、中途半端なところで挫折するわけにはいかなかった。

その試験は2010年秋に行われた。
もう、5年余も前のことだけど、試験開始時、緊張しすぎて手が震えたのを憶えている。
その夜、心臓をバクバクさせながら自己採点したことを憶えている。
そして、合格基準点を充分に上回っていることが確認できると、
「こんな俺でも、やればできるんだ・・・」
と、それまで味わったことがない種類の達成感と満足感が涌いてきて、滅多に晴れることがない私の心が晴れやかになったことを憶えている。

合否発表を待たずして合格を確信した私は、興奮冷めやらぬ翌日から別の資格勉強を開始。
せっかく身についた勉強習慣と軟らかくなった頭を失うのはもったいなかったし、もっと大きな満足感が欲しくなったから。
あと、職業が与える印象から「怪しい人間」と思われるのは仕方がないけど、「“頭が悪い”とは思われたくない」という思い・・・
仕事上、見下されることが多い者として、「世間一般を見返してやりたい」という幼稚な動機もあった。

目指したその資格のランクは「普通」の上の「難関」。
「独学では無理」と言われることが多いものだったが、育まれたチャレンジ精神に迷いはなかった。
学校に通う時間も金もないし、「通信でやれるレベルなら独学でもやれる」という考えが固まっていたし、また、前の勉強で苦戦も苦労も経験済みで予想と覚悟はできていたし、基本的なリズムやコツも習得済みで、それを応用すればいいだけだったから、我流独学のスタイルは崩さず。
とにかく、諦めず、続ける・・・・・それだけだった。

その後も、私は、自分が興味の持てる分野で、かつ、少しは仕事の役に立ちそうな資格を志した。
すべて、我流独学で。
ただ、怠け心は消えることなく常に現れ、そいつとの戦いは楽ではなかった。
だから、辛さや苦しさを味わうことも多かった。
キツいときは、
「“受かるか落ちるか”じゃない “受かるか諦めるか”だ」
と、どこかで聞き覚えた誰かの言葉を心の中で何度も呟いた。
そして、そうした日々を積み重ねていく中で、自分でも気づかないうちに、習得した知識や資格よりも価値があるもの・・・・・つまり、それまでの私が持ち合わせていなかった努力できる心・忍耐できる力・挑戦できる意欲が養われていったような気がする。

2010年秋「普通」合格
2011年秋「難関」合格
2013年夏「難関」不合格
2014年夏「難関」(再挑戦)合格
2015年春「やや易」合格
結局、私は、5年余かけて4種の国家資格を取得した。

そして、昨年の春、一つ一つをやり遂げて気をよくした私は、「難関」の上にある「超難関」の資格にも興味を持った。
それで、興味のある資格のテキストを書店で立ち読みしてみた。
が、さすがに「超難関」と言われるだけのことはある。
それまで私が取ってきたものと比べると、レベルもボリュームも桁違いに高く、仕事との両立は不可能。
また、我流独学なんて論外。
どこからどうみても学校に通って勉強しないと無理そうで、仕事を辞めるわけにはいかない私は挑戦せずして諦めるしかなかった。
もし、仮に、仕事をやめても生活が成り立ち、学校に通える環境に置かれるなら挑戦してみたい・・・
が、まぁ、これは夢の話・・・
ただ、そう思える自分が育っただけでもありがたいことだと思っている。


今現在、資格勉強はやっていない。
興味が持てて能力に合いそうな資格がないからだ。
ただ、何も挑戦しないで楽している自分がだらしなく思えて、ちょっとイラついている。
だから、資格勉強になるのか趣味みたいなものになるのかまったくわからないけど、興味が持てる分野で自分の能力が通用しそうなことを模索中である。

そんな中で、新たな試みとしてやっているのはウォーキング。
本来なら、山登りに出かけたいのだけど、なかなかその機会に恵まれないから、その代わりとして、昨年秋から、時間があるときはできるだけ歩くようにしているのだ。
ただ、ウォーキングなら昨季もやっていた。
が、それは気が向いたときだけ、たまのこと。
今季は、それを日課にしている。
距離の目安は一日6~7km、所要時間は早歩きで1時間15分程度。
仕事の前、仕事の合間、仕事の後、時間がとれるときに歩く。
大雨のときはやめるけど、小雨くらいなら笠をさしてでも歩く。
外は寒いしそれなりの体力を使うからかなり面倒臭いけど、とにかく歩いている。

その目的は、運動不足解消・体重維持・気分転換など色々ある。
一番の目的は、肉体疲労。
わざと肉体を疲労させるなんて愚行かもしれないけど、精神衛生を維持する上で必要なこと。
これは私ならではの特異な方法で、肉体を疲労させることによって、何かと疲弊しやすい精神とのバランスを保ち、精神の安定を図ろうとしているのだ。
あとは、精神修養の目的もある。
楽したがる自分は何時でもどこでも自分の中にいるもので、一日一回くらいはそいつと対峙する機会をもうけないと、自分が締まらない。
これ以上、だらしない人間にならないための一工夫でもあるのである。

私は、外も中もだらしない中年男。
どうしたって外見は磨けない。
ただ、いくつになっても中身を磨くことはできる。
何を使ってどう磨いていくかは人それぞれだけど、研磨法の代表格に“挑戦”がある。
この“挑戦”というヤツは、とても親切で便利。
「必ず」と言っていいほど努力と忍耐がついてくる。
つまり、一通りで同時にこの三点が自分を鍛えてくれるわけ。
こんな美味しい話は、他にないのではないだろうか。


始まったばかりの新しい年。
心を新たにしたくても、できあがった生活の中で、できる挑戦は限られているかもしれない。
社会の歯車としてうまく回ることだけで精一杯で、新たなことをやる余力はないように思えるかもしれない。
だけど、探せば、やれることはきっとある。
人間は不完全な生き物だから、ときには自分を疑うことも必要。
だけど、それ以上に、自分を信じることが大切。
些細なことでもいいから、「自分はできる」と信じてみるといい。
他の誰でもなく、自分自身のために。
苦難多き人生において、弱い自分に強く生きる力を授けるために。

私は、そうして、この人生に晴れの日を増やしていきたいと思っているのである。


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