日常生活に、携帯電話は欠かせない存在になっている。
ケータイがなくても普通に過ごせていた、若かりし日々がウソのよう。
今や、車や服と同様、生活必需品になっている。
ただ、なにもこれは、私に限ったことではあるまい。
今の世の中、多くの人が同じではないだろうか。
そんな携帯電話だが、その機能はスゴイことになっている。
“電話”の域をとっくに超えている。
しかし、そんな機能に縁のない“デジタル弱者”の私は、電話とメールが主な用途。
あと使うのは、時計・カレンダー・電卓、たまに写真を撮るくらい。
インターネットは、渋滞情報と天気予報をみる程度。
まったくもって使いこなせていない。
先日、そんな携帯電話を会社に忘れて現場にでたことがあった。
ケータイを持っていないことに気づいたのは、出発後しばらくたってからの移動中。
あって当り前のモノ・身体の一部みたいになっているモノが、なくなってしまうと焦るもの。
「どこかに落とした?」と不安が過ぎり、心臓が急にバクバクしてきた。
しかし、動揺してばかりもいられない。
その在処を突き止める必要に迫られた私は、出社時から事務所を出るまでの動きを脳裏に追った。
しばらく考えたところ、私の頭には、ケータイを事務所に置き忘れた様が浮上。
「どこかに落としでもしてたら大変!!」と、焦りに焦っていただけに、それを思い出して大きな安堵感に包まれた。
次に、思考は、“この事態をどう収拾するか”に移行。
私は、取りに帰ろうかどうしようか迷った。
Uターンすると、依頼者との約束に間違いなく遅刻してしまう。
しかし、ケータイがないと、何かと不便。
私は、その日に予定していたことを順に並べて、それがケータイがなくてもしのげるものか、それとも、ケータイがないとダメなものか比較考量した。
「ま、今日一日くらいは大丈夫かな・・・」
現場に遅刻していくことの気マズさや、取りに帰ることの面倒くささも手伝って、私はそこに着地。
結局、その日は、ケータイなしで過ごすことを覚悟。
大きな不安と小さなチャレンジ精神、ほんのちょっとの遊び心で、一日を乗り切ってみることにした。
幸いなことに、その日は、大きな問題は発生せず。
ただ、その不便さを痛感した。
更に、滑稽な振る舞いを連発。
「今日はケータイを持ってないことを皆に知らせとかなきゃ!」
と、ケータイを持っていないことを忘れて電話をかけようとしたり、時刻を見ようとしたり、渋滞情報を見ようとしたり・・・幾度となくケータイを手で探った。
そして、その度に、ケータイがないことに気づくような始末で、自分の頭の悪さに苦笑いした。
とにもかくにも、アナログ人間を自認している私でも、自分が思っている以上にケータイに対する依存度が高いことを思い知らされたのだった。
亡くなったのは、50代の男性。
病気による、急死だった。
依頼者は、その兄。
突然の出来事に、遠方から駆けつけていた。
現場は、片田舎に建つ一般的なアパート。
同じ敷地内には、同じ造りのアパートが何棟か建ち、大家宅も隣接したところにあった。
部屋は、一般的な2DK。
その雰囲気は、“中年男性の独り暮らし”そのもの。
室内は結構な散らかりようで、台所の隅には、酒の空瓶や空缶が山と積まれていた。
汚染は、ベッドの上に残留。
発見が早かったとみえて、死痕は人型を形成せず。
そのほとんどは、「腐敗液」と言うよりも大量の血液だった。
私は、念のため、血液がベッドを貫通していないかどうかを観察。
遺体液の床への付着の有無は、その後の復旧に大きく影響することなので、それを事前に確認しておくためだった。
遺体液汚染は、ベッドだけではなかった。
ベッドから台所にかけての床には、血痕が点々・・・
そして、それはトイレにつながっていた。
扉を開けた先の便器と床は、濃淡のあるワインレッド染まり・・・
気分を悪くした故人は、トイレに駆け込み吐血・・・
それから、ベッドに倒れ込み、大量の血を吐きながらそのまま亡くなったものと思われた。
室内の見分を終えた私は、外で待つ依頼者のもとへ。
すると、その傍らには、依頼者と親しげに話す男性が一人。
それは、アパートの大家だった。
私と依頼者の話は、部屋の原状回復にも関係することなので、依頼者が呼んだようだった。
故人は、無類の酒好きだった。
それは、依頼者も大家も認識。
ただ、故人は飲んだくれてばかりいたわけではなかったよう。
一つの会社にながく勤め、仕事も真面目にしていた。
また、家賃の滞納や近隣住民とのトラブルもなかった。
そして、故人は、大酒飲みではあったが、酒癖は悪くはなかったよう。
どちらかというと、酒癖はいい方。
酔うと陽気になり、上機嫌に。
「宵越しの銭は持たない!」とばかりに、店に居合わせた見ず知らずの人にも気前よくおごっていた。
実際、故人は大家を誘い出し、地元の居酒屋で御馳走したことが何度もあった。
しかし、そんな故人も歳には勝てず。
肝臓を悪くし、通院療養を余儀なくされた。
しかし、それでも、酒をやめず
結果、重症の肝硬変で、人生を終えたのだった。
「○○さん(故人)は、酒が好きだったからねぇ・・・」
「給料日には、よく誘ってくれましたよ・・・」
と、大家は、懐かしげに溜息をついた。
「好きな酒を好きなだけ飲んで、本人は本望かもしれませんけど・・・」
「後の迷惑も考えてほしかったですよ・・・」
と、依頼者は、寂しげな溜息をついた。
「苦しかったんじゃないだろうか・・・」
「遠のく意識の中で、何を思っただろうか・・・」
と、私は、黙って小さな溜息をついた。
そこには、死に対する悲しみの雰囲気も、“大家VS遺族”の険悪な雰囲気もなかった。
ただ、一人の人間がいなくなった事実を示す神妙な空気・・・そこには、決して冷たいわけではない、温かみのある淡々とした空気が流れていた。
誰の言葉か知らないけど、よく「人は、一人では生きていけない」と言われる。
なるほど、そう思う。
人は、常に、誰かに・何かに依存しながら生きているものだと思う。
私も、人やお金、その他諸々に依存して生きている。
そしてまた、“死”にだって依存している。
私は、死に依存することによって、苦悩を薄めたり、幸福感を濃くしたりするのである。
しかし・・・はたして、これは正しい観念だろうか・・・
常々、私は“死”を意識して生きることの大切さを訴えている。
しかし、それは、プラスに作用するとは限らない。
短絡的な思考を助長したり、空虚感を大きくしたりすることがある。
また、目を逸らしてはいけないものから目を逸らすことを正当化したり、誤魔化してはいけないものを誤魔化すことを促したりする。
時々、思う・・・
結局のところ、「死を意識する」なんて上段構えをみせていても、単に、真実から目を背け、自分を誤魔化しているに過ぎないのではないかと・・・
単に、自分は、“死依存症”に罹っているだけなのかもしれないと・・・
・・・そうだとしたら、自分がもの凄く恐くなる。
苦悩からの救済と幸福への到達は、そんな“依存”からは導き出されないような気がする。
“依存”ではなく、“対峙”すること・・・死に依存するのではなく、死に対することから、導かれるのではないかと思う。
従うべき死に対するとき、人生は輝くのではないか・・・心の闇は消え失せるのではないか・・・
そしてまた、死に対して生きることの大切さを知るために、直向きに生きなければならないとあらためて思うのである。
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ケータイがなくても普通に過ごせていた、若かりし日々がウソのよう。
今や、車や服と同様、生活必需品になっている。
ただ、なにもこれは、私に限ったことではあるまい。
今の世の中、多くの人が同じではないだろうか。
そんな携帯電話だが、その機能はスゴイことになっている。
“電話”の域をとっくに超えている。
しかし、そんな機能に縁のない“デジタル弱者”の私は、電話とメールが主な用途。
あと使うのは、時計・カレンダー・電卓、たまに写真を撮るくらい。
インターネットは、渋滞情報と天気予報をみる程度。
まったくもって使いこなせていない。
先日、そんな携帯電話を会社に忘れて現場にでたことがあった。
ケータイを持っていないことに気づいたのは、出発後しばらくたってからの移動中。
あって当り前のモノ・身体の一部みたいになっているモノが、なくなってしまうと焦るもの。
「どこかに落とした?」と不安が過ぎり、心臓が急にバクバクしてきた。
しかし、動揺してばかりもいられない。
その在処を突き止める必要に迫られた私は、出社時から事務所を出るまでの動きを脳裏に追った。
しばらく考えたところ、私の頭には、ケータイを事務所に置き忘れた様が浮上。
「どこかに落としでもしてたら大変!!」と、焦りに焦っていただけに、それを思い出して大きな安堵感に包まれた。
次に、思考は、“この事態をどう収拾するか”に移行。
私は、取りに帰ろうかどうしようか迷った。
Uターンすると、依頼者との約束に間違いなく遅刻してしまう。
しかし、ケータイがないと、何かと不便。
私は、その日に予定していたことを順に並べて、それがケータイがなくてもしのげるものか、それとも、ケータイがないとダメなものか比較考量した。
「ま、今日一日くらいは大丈夫かな・・・」
現場に遅刻していくことの気マズさや、取りに帰ることの面倒くささも手伝って、私はそこに着地。
結局、その日は、ケータイなしで過ごすことを覚悟。
大きな不安と小さなチャレンジ精神、ほんのちょっとの遊び心で、一日を乗り切ってみることにした。
幸いなことに、その日は、大きな問題は発生せず。
ただ、その不便さを痛感した。
更に、滑稽な振る舞いを連発。
「今日はケータイを持ってないことを皆に知らせとかなきゃ!」
と、ケータイを持っていないことを忘れて電話をかけようとしたり、時刻を見ようとしたり、渋滞情報を見ようとしたり・・・幾度となくケータイを手で探った。
そして、その度に、ケータイがないことに気づくような始末で、自分の頭の悪さに苦笑いした。
とにもかくにも、アナログ人間を自認している私でも、自分が思っている以上にケータイに対する依存度が高いことを思い知らされたのだった。
亡くなったのは、50代の男性。
病気による、急死だった。
依頼者は、その兄。
突然の出来事に、遠方から駆けつけていた。
現場は、片田舎に建つ一般的なアパート。
同じ敷地内には、同じ造りのアパートが何棟か建ち、大家宅も隣接したところにあった。
部屋は、一般的な2DK。
その雰囲気は、“中年男性の独り暮らし”そのもの。
室内は結構な散らかりようで、台所の隅には、酒の空瓶や空缶が山と積まれていた。
汚染は、ベッドの上に残留。
発見が早かったとみえて、死痕は人型を形成せず。
そのほとんどは、「腐敗液」と言うよりも大量の血液だった。
私は、念のため、血液がベッドを貫通していないかどうかを観察。
遺体液の床への付着の有無は、その後の復旧に大きく影響することなので、それを事前に確認しておくためだった。
遺体液汚染は、ベッドだけではなかった。
ベッドから台所にかけての床には、血痕が点々・・・
そして、それはトイレにつながっていた。
扉を開けた先の便器と床は、濃淡のあるワインレッド染まり・・・
気分を悪くした故人は、トイレに駆け込み吐血・・・
それから、ベッドに倒れ込み、大量の血を吐きながらそのまま亡くなったものと思われた。
室内の見分を終えた私は、外で待つ依頼者のもとへ。
すると、その傍らには、依頼者と親しげに話す男性が一人。
それは、アパートの大家だった。
私と依頼者の話は、部屋の原状回復にも関係することなので、依頼者が呼んだようだった。
故人は、無類の酒好きだった。
それは、依頼者も大家も認識。
ただ、故人は飲んだくれてばかりいたわけではなかったよう。
一つの会社にながく勤め、仕事も真面目にしていた。
また、家賃の滞納や近隣住民とのトラブルもなかった。
そして、故人は、大酒飲みではあったが、酒癖は悪くはなかったよう。
どちらかというと、酒癖はいい方。
酔うと陽気になり、上機嫌に。
「宵越しの銭は持たない!」とばかりに、店に居合わせた見ず知らずの人にも気前よくおごっていた。
実際、故人は大家を誘い出し、地元の居酒屋で御馳走したことが何度もあった。
しかし、そんな故人も歳には勝てず。
肝臓を悪くし、通院療養を余儀なくされた。
しかし、それでも、酒をやめず
結果、重症の肝硬変で、人生を終えたのだった。
「○○さん(故人)は、酒が好きだったからねぇ・・・」
「給料日には、よく誘ってくれましたよ・・・」
と、大家は、懐かしげに溜息をついた。
「好きな酒を好きなだけ飲んで、本人は本望かもしれませんけど・・・」
「後の迷惑も考えてほしかったですよ・・・」
と、依頼者は、寂しげな溜息をついた。
「苦しかったんじゃないだろうか・・・」
「遠のく意識の中で、何を思っただろうか・・・」
と、私は、黙って小さな溜息をついた。
そこには、死に対する悲しみの雰囲気も、“大家VS遺族”の険悪な雰囲気もなかった。
ただ、一人の人間がいなくなった事実を示す神妙な空気・・・そこには、決して冷たいわけではない、温かみのある淡々とした空気が流れていた。
誰の言葉か知らないけど、よく「人は、一人では生きていけない」と言われる。
なるほど、そう思う。
人は、常に、誰かに・何かに依存しながら生きているものだと思う。
私も、人やお金、その他諸々に依存して生きている。
そしてまた、“死”にだって依存している。
私は、死に依存することによって、苦悩を薄めたり、幸福感を濃くしたりするのである。
しかし・・・はたして、これは正しい観念だろうか・・・
常々、私は“死”を意識して生きることの大切さを訴えている。
しかし、それは、プラスに作用するとは限らない。
短絡的な思考を助長したり、空虚感を大きくしたりすることがある。
また、目を逸らしてはいけないものから目を逸らすことを正当化したり、誤魔化してはいけないものを誤魔化すことを促したりする。
時々、思う・・・
結局のところ、「死を意識する」なんて上段構えをみせていても、単に、真実から目を背け、自分を誤魔化しているに過ぎないのではないかと・・・
単に、自分は、“死依存症”に罹っているだけなのかもしれないと・・・
・・・そうだとしたら、自分がもの凄く恐くなる。
苦悩からの救済と幸福への到達は、そんな“依存”からは導き出されないような気がする。
“依存”ではなく、“対峙”すること・・・死に依存するのではなく、死に対することから、導かれるのではないかと思う。
従うべき死に対するとき、人生は輝くのではないか・・・心の闇は消え失せるのではないか・・・
そしてまた、死に対して生きることの大切さを知るために、直向きに生きなければならないとあらためて思うのである。
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